2007/03/07 - 2007/03/08
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aminaさん
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2002年4月、イスラエル軍は1平方キロメートルしかないパレスチナ自治区ジェニンの難民キャンプを30台あまりの戦車で包囲一斉砲撃し続け、数週間に渡って救急車やメディアを一切通ることを許さず、証拠隠滅のためにブルドーザーで瓦礫を土砂にするまで破壊し尽くしました。
いわば子ども達が7割の難民キャンプを集団砲撃した虐殺です。
ブルドーザーで子ども達やお年寄り、障害者が中にいるまま家を壊し続けたのです。
イスラエル兵は子ども達に瓦礫となった自分達の家屋を壊させ、遅い!と怒鳴りながら破壊させ、最後には皆銃殺してしまったそうです。
ありとあらゆる残虐行為が行われました。
やっと封鎖が解かれた直後、危険なイスラエル兵士の目をくぐり抜け、街の様子と証言を集めた“Jenin・Jenin”というドキュメンタリーがあります。
その監督はその後イスラエル兵に「ちょっと来い」と言われ、射殺されてしまいました。
イスラエルはジェニンに虐殺はなかったと広報し、イスラエル人はこれはパレスチナ人のプロパガンダで仕組まれた映画だとして、公開されていません。
でも映画を見れば、どう見ても造られたものではないことが明らかです。だからこそ見せないわけです。
こちらにその映画の内容が書かれていました・・。
http://www.breast.co.jp/cgi-bin/soulflower/nakagawa/cinema/cineji.pl?phase=view&id=162_jeninJenin
虐殺後、国連が調査団を派遣するとして、緒方貞子さんが本当は現地に赴こうとしたのですが、イスラエルは国連に強い影響力を持っていて調査すら実現しなかったのです。
子供達は来てくれてありがとう!ウェルカム・・・!と寄ってきて、人々は本当に温かく、困窮している生活なのに、食べ物屋さんでは子供達に手渡してただでくれようとするのです・・・。
ここで説明すべき詳細は山のようにあるのですが、一度に書ききれないので少しずつ付け加えようと思います・・・。
☆★そして、私の訪れた体験なのですが☆★
このように、ジェニンのイメージは私にとって、壮絶な、瓦礫、土砂を経験した場所というものでした。
ところが、ジェニンの人々は最高に親切で、心温かい人々のおかげで、家に泊めてもらったりして、ここが私の長い旅の中の最高の思い出の場所となったのです。
さらに、ジェニンはパレスチナで最も北部にあり、他の地域よりも一番緑が豊かで水の溢れ出る、本当に美しいのどかな場所だったのです。
イスラエルが分離壁を造ったりユダヤ人入植地として奪う土地は全て地下水が流れるところであるわけだけど、この虐殺作戦も緑豊かなジェニンであったからこそかもしれません。
今に至るまで、よく、最高に美しい穏やかな曲を聴くと、ふと自然に、ジェニンの自然とそこに一緒にいた温かい家族が目に浮かんでくるんです・・・。
そしてこの家族から、ジェニンとは、アラビア語で「天国、自然の恵みそのもの」という言葉だと知らされなるほど、と思いました。
このジェニンの自然、そして何といっても人々の魅力、ありのままのジェニンを紹介したいと思い旅行記を載せていこうと思います。
(まだ途中なのでまだまだ続きますよ〜)
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Part2の続き・・・
家の前着くと、従兄弟の家の子ども達、お母さんが大喜びで待っていて、大歓迎でした。 -
この子は一番年下の男の子で、ズィクリヤという名前で、ジコと呼ばれて本当に可愛がられて愛されていました。
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この2人目の女の子はファルドゥースと言って、大学生で英語が専門なので一番よく会話が出来て一緒にいました。
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夕食をふるまってくれ、親戚一同私と一緒に食べてくれたのです。
ここで採れた自然の食品ばかりです。
イスラエル軍の経済封鎖によってお金がぜんぜんなくなる中、お店には滅多なことがない限りほとんど行かないけれどここの土地の自然で食べていけるのだそうです。 -
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このお父さん、本当にすごく嬉しそうに私を携帯で撮ろうとしていたんです。
息子ちゃんも、楽しそう・・・☆
なのに、「はいっ撮るよー」と言って私がちょうど撮られる瞬間、そのタイミングで、電気が切れてしまったのです。真っ暗闇です。
この地域は虐殺以来、抵抗したがる人が増え、イスラエルに目を付けられて電気が通らなくさせられているんです。
この家の周りだけは運良く自分達でお金を集めてジェネレーターを作り、夕方5時から10時まで使えるようにしました。
こんな寒い中、電気なしで生活していけるなんて、想像が出来ないです。
まだ9時55分だったのに、このお父さん、こんな嬉しそうだったのに、かわいそうー。 -
でも、ろうそくがあらかじめ灯してあることで安心感が多少生まれ、この生活に慣れていることが分かりました。
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私が撮ったカメラのフラッシュで、まるで明るい電気の中のような写真になりました・・!
この写真で、闇にされても、明るい光を再現出来たことに、「やった!」って一人ひそかに喜んでる感じになってました。
真っ暗闇のまま、その日はファルドゥースと一緒に寝ました。
エルサレム滞在以来、(イスラエル政府はアラブ系国民を追い出し続け、ユダヤ人用の住宅地の建設ラッシュで酷い砂埃、悪い空気だったため)喉を思いっきり痛めていて、酷い咳で中に起きてしまいました。
カバンの中にシロップ薬があるので、すぐ飲みたいと取り出そうとしたんだけど、ほんの少し電気をつける、ということが出来ないがために、咳に苦しみながら探していると、占領による彼らの受けている被害の数百万分の一が理解出来たと思いました。
ファルドゥースがものすごく気遣ってくれ、薬を飲み、たくさん毛布をくれたので、エルサレムの宿にいた時よりずっと温かく眠れました。 -
次の日の朝・・・。
家の屋上から外を見ていると、地元の子ども達がこっちを見ようと集まってきていました。 -
家の女の子、ファルドゥースは私に、村中の子ども達が私の事を知っていて、みんな私に会いたがって来ているんだそうです・・・!
すごーーい。 -
皆、こっちに降りてきて!と言っているのだそう。
本当、可愛いから嬉しいーー☆ -
ファルドゥースはちょっと嫉妬して、「やーだよっ。こっちへ行こう。」
と中へ私を促しました。
アラブ人は愛情が深く、友達でも嫉妬深いんです。なんか、可愛い・・・!! -
親戚の人達と、屋外で朝ごはんをごちそうになりました。
これも、側にある山で採れたザータルという草を摘んだハーブがかけられています。 -
いとこ達とおばあさんと一緒です。
本当、自分も親戚の一人のようで、本当に落ち着いて、幸せでしたーー☆ -
男の子たちも、私をすごく気遣ってくれて、一緒にいて嬉しそうでした。
本当に良い子達なんですよー! -
お友達の子ども達も一緒です。
会いたくて入ってきてしまいました。 -
まだ私に会いたい村の子ども達が来ています。
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まだ集まってきてるー。
なんだか嬉しいですね。 -
向こうを向くと、Hi! Welcome・・・!
と言い続けてます。 -
可愛い子ども達・・・。
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この家のおばあさんも来てくれました。
彼女はまだパレスチナが平和でイスラエル建国の前から生きてきたはず・・・。 -
彼女が生き延びてきたから、この子達全員がいるんです。おかげで私がここにいるのです。
すごくお話を聞いてみたくなりました。 -
おばあさんと、可愛い可愛いお孫ちゃん・・・!
-
パレスチナの人達は、本当に、穏やかで、決して目の前に見えていてもイスラエル軍やユダヤ人入植者による暴力を私に説明したりしないんです。
むしろ明るく振舞います。
このおばあさんに、過去にあったことを聞いたのですが、始終穏やかに笑っていて、私があえて突っ込んでお話を聞かせて頂いて初めて簡略に教えてくれました。
彼女がどうやってここに来たのか聞きました。
彼女の名前はサライヤさん。76歳です。
現在はイスラエル領とされている何番目かの都市、ハイファに生まれます。地中海に面した良い場所です。
イギリスが撤退する際、ユダヤ教徒だけに大量に銃、武器、戦闘機を渡し、ユダヤ教徒はどんどんパレスチナ人(イスラム教徒とキリスト教徒)の住居を銃撃、爆撃、子ども達が逃げても執拗に走って追いかけては銃殺することで追放に成功しました。
彼女の父親も2人のおじも殺されました。
彼女の母親と一緒に15歳の時に、ここに逃れてきました。
二度と住んでいた家に戻って来られないよう、大量の地雷を仕掛けられたので、道には馬車で荷車を引いて逃げていたパレスチナの少女の遺体などがあちこちに転がっていたのを見たのだそうです。
逃げても逃げてもその先々で同じような目に4回遭ったそうで、このような地獄の光景を人生で4回も見なくてはいけなかったことに、息をのむような悲惨な思いがします。
彼女は、この様な状態を全く知らされていず、伝えて欲しいと言っていました。
つらい経験をお話させてしまいました。伝えなくては意味がないと思い、この旅行記に書きました。 -
私は、パレスチナの人々は、当初すぐ戻って来れると思って家具も着る物も持たずに出て行き、家の鍵をまだ持っている人達がいることを知っていました。
イスラエルは建国当初、ユダヤ教徒以外の人口を減らすため、パレスチナ人を組織的に減らすためにありとあらゆることをしたことが最近明らかになっています。(現在でも分離壁や入植地建設、東エルサレムのパレスチナ系イスラエル人の追放、家屋破壊等、同じことが続いています。)
その一例が、残ったパレスチナ人の住民に、「今すぐ出ていけ、2週間だけの間、ここは危険だから来るな」、などと嘘の命令を出し、家財や財産、着る物も一切持って行くなと命じ、追放しました。
そして、戻ってきた時には全てが破壊され、財産はイスラエルに略奪され、戻ることはイスラエル軍により不可能となったのです。
私はおばあさんに、鍵はあるか聞くと、持っていると言ってくれたので、持ってきてくれました。
そして、この写真を撮らせてもらいました。
その時でも、顔は穏やかで、私は少し深刻そうな写真が欲しいと思ってしまい、彼女は察したのか笑顔でなくなった瞬間を撮りました。
でも実際は本当に穏やかにいつも笑顔なおばあさんだったことをやっぱり伝えたくなりました。 -
もう、お別れかと思い、もともと泊まるつもりがなかったので荷物もエルサレムの宿に置いていたので、あげるものがなく、折り紙で平和の願いを込めて、折鶴を折りました。
ヒロシマに小学校の時行ったときのように、中に平和、サラームと日本語とアラビア語や英語で書いてから折りました。
そしたら、本当に大喜びしてくれました・・! -
とっても喜んでくれる本当に良い人達です。
-
ついでに小物入れも作ってあげました。
そしたら、こんなものでも本当に心から嬉しそうに喜んでくれました。
本当に良い子達でしょう?? -
お部屋では一番年下のジクリヤがお昼寝していました。
本当に、のどかで平和なパレスチナ人の暮らしです・・・。
イスラエルの軍事侵攻さえなければ、本当に良いところです。 -
再び屋上へ上がると、妹ちゃんはおままごとをしていました(^▽^)
本格的なお料理してるねー☆ -
なんと、この屋上には蜂蜜が採れるミツバチ養蜂まであるんです。
イスラエルはこの地域の電気を送電出来なくし、(この家の周りだけは自分達でお金を集め1日5時間だけ動くジェネレーターを使っている)それ以外にも検問所で分断し、全く経済を成り立たせなくしています。
お金は全然使えないようで、ほとんど完全に自給自足をしています。 -
ここにはザータルというパレスチナ特産のハーブが鉢植えしてありました。
ザータルは、パレスチナのフェアトレード商品でよく購入していたので、感動しました。
「近くの山で採れるから、今度一緒に採りに行こうっ☆」って言われました。 -
「イスラエルは私たちを飢えさせたがっているけど、この自然がある限り、それは不可能よ」と言っていました。
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