2008/06/05 - 2008/06/05
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井上@打浦橋@上海さん
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私のプロフィールの写真の一番右に写ってるウル姐さんから、
昔、実習飯店というところに泊まったんだけど、どこにあったのか・・・
なんか懐かしいので、探ってみてきて、と依頼がありました。
私は、こういった依頼は大歓迎なのです。
彼女から提示された写真には「教育街」という住居表示が小さく見えます。
コレが分かれば、探すのは簡単。
地図から、その教育街を探し出し、出かけたという訳です。
行けば行ったで、やはり新たな発見があるもんです。
この日の新発見は、立派なカトリック教会の南堂と魯迅中学でした。
では、その宣武門、教育街と新文化街の様子をご覧ください。
-
コレがこの日のコース案内図です。
我が家からは特2路バスで宣武門まで来ました。
そして以下のコースで周りました。
南堂⇒宣武門内大街⇒教育街⇒参政胡同⇒
新文化街⇒閙市口大街⇒宣武門西大街
そして、長椿街路口東のバス停で特2路バスに乗り帰途。 -
特2路バスは我が家の前のバス停が始発バス停となる2階建てバスです。
ですから、私が乗り込む時は客は1人もいません。
2階の最前部の席を確保しましたら、若い女性軍団が私の後ろの席を占領しました。
ただ今、1時35分です。 -
東二環路です。
東四十条と朝陽門の間です。
渋滞が酷いです。
今は、正式には二環路とは言わないようですね。
正式には、この道は、朝陽門北大街ということです。 -
建国門南のバス停です。
北京駅には、ココで降ります。
ただ今、2時7分です。 -
前門東大街です。
街路樹の枝が窓をこすって行きます。 -
天安門広場まで来ました。
広場の南端ですね。
左に移ってるのは正陽門です。
右には毛主席祈念堂が見えます。 -
正陽門の裏なのか、表なのか、何しろ南面です。
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前門西のバス停です。
ただ今、2時22分です。 -
宣武門東のバス停で降り、乗ってきた特2路バスを撮りました。
ただ今、2時29分です。 -
宣武門の旅游バスの発着場です。
今でも、ココから観光バスが出てるのかどうか・・・・
午後2時半での状況ですと、なんか、もうやってないかもという雰囲気でしたが、
時間が、時間ですから・・・それはなんともいえません。
バスが出発する朝方は賑わってるのかもしれません。 -
この宣武門の旅游バスの発着場には、何度か来ています。
しかし、そのそばに、こんな門構えを抱えた一画があるというのは初めて知りました。
何だろう、と中に入り込みました。 -
そうしましたら、中華風の門構えとは、違った空間が広がっていまして、こんな銅像が建っています。
そこへ、欧米人が後ろから、この銅像を見てマテオ・リッチと口にしたのです。
いや、実は、この欧米人には、バスを降りたときに会ってるんです。
この辺に「なんたら、かんたらは、ないか、それはどこか?」と聞かれたんです。
いや、知らないと答えたんですが、彼の探していたのは、はあ、ココだったんだと、納得した次第です。
マテオ・リッチね・・・フムフム、なるへそ・・・・
台座には利瑪竇の浮き文字があります。
リ・マトゥと読みマテオ・リッチの中国名なんでしょう。
いや、中国に食い込むために、当時自分で、そう名乗っていたそうです。
彼はフランシスコ・サビエルが志し半ば倒れた(1552)後を受けて、1583年中国に入りし、1601年北京に滞在を許されたそうです。
北京では宣教に努めそれに成功し、西洋の諸学問・技術の伝授にも力を注いだため明朝宮廷においても認められたそうです。彼は北京で1610年に58才で亡くなり、当時の皇帝・万暦帝によってその墓が作られたそうです。その墓は阜成門にあるそうです。
当時、彼の布教に協力したのが、当時の高官・徐光啓だそうです。
そうです、上海の徐家匯の「徐」さんのことです。 -
マテオ・リッチの銅像があるところから東に行きますと、また広場があり、そこの北側の敷地に立派な教会が立っていました。
その教会の前にある銅像が、コレです。
フランシスコ・ザビエルだそうです。 -
そして、その教会がこれです。
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入り口上部の凝った造りです。
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中に入れるのかなと、中を覗きましたら、テーブルの前に信者さんらしき女性が3人坐っていましてニコッとされましたので、入っていきました。
そして、「南堂週刊・SouthCathedral Weekly」という小冊子を手渡されました。
入って見ましたら、それはそれは立派な・・・・・ -
祭壇まで行き振り返りました。
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ステンド・グラスも素晴らしい。
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教会の前にある広場です。
ベンチが幾つか置いてあり、木陰もあり、静かなひと時を過ごせそうです。 -
教会を離れて全体を撮りました。
この教会は南堂と呼ばれてるらしいですね。
王府井にも教会がありますが、そちらは東堂らしいです。
あの東堂も長い間、王府井を歩いても、見えないように隠されていましたが、この南堂も、こうやって、目に付くようになったのは最近のことなのかもしれません。
なお、マテオ・リッチと南堂の関係は・・・
この天主堂は中国で最初に創建されたもので現在も全中国で第一の格式を誇っているそうです。
そして、その前身がマテオ・リッチ神父が1605年に建てた小聖堂だそうです。
その45年後に同じイエズス会のアダム・シャール神父によって現在のような南堂が建てられたということです。
その後二度の火災で焼失したんですが、1905年に再建されたのが現存のものらしいです。 -
教会を後にして宣武門内大街に出ました。
そしてチョイ北へ行きましたら、こんな喫茶店が・・・・・
MIKASA COFFEEという看板が掛かっています。
MIKASAはどう見ても「みかさ」ですが・・・・日本と関係があるのか・・・ -
宣武門内大街の西側の歩道に移り、北へ行きます。
左へ行く道が新文化街ですね。 -
これが新文化街の東端です。
-
更に北へ行き、教育街手前まで来ました。
右に見えてきた大きなガラス張りの建物が首都時代広場というショッピングセンターなんでしょう。 -
では教育街を行きます。
右に見てきたのが目指す実習飯店のようです。 -
やはりそうでしたね。
住所表示は教育街1号です。
コテコテ中華風の門構えです。
しかし、なんで教育街などという名が付いたんでしょうね。
どうも、昔からの呼び名ではないような・・・・ -
実習飯店の構内の様子です。
-
構内から道を眺めました。
さてこの実習飯店ですが・・・
ココは、清代のお偉いさんのお屋敷・庄王府の一部だそうです。
この実習飯店の西隣にある武装警察の招待所も、庄王府の一部を利用してるようです。
そのお偉いさんというのは、清の太祖・努爾哈亦(ヌルハチ)の長男の第三子の尼堪のことのようです。
彼は名将でして、戦死した時に「庄」という称号が与えられ、その後このお屋敷も「庄王府」と呼ぶようになったそうです。
1900年以降は、イロイロな教育設備に利用されたそうで、辛亥革命後はここは教育部という名が付いたそうです。
ということで教育街という道の名は、この「教育部」に由来するんでしょう。 -
これが実習飯店の西隣にある武装警察部隊の招待所です。
いかにもお偉いさんのお屋敷といった門構えです。 -
教育街は短い道でして、参政胡同にぶつかって終わりです。
この道は参政胡同です。
この「参政」ってのも、昔からの呼び名で無いような・・・・。
この参政胡同の由来に関しては、t さんと言う方に調べていただきました。
袁世凱政権で参政院参政を務めた王揖唐という人がこの辺に住んでいたので、この名前が付いたとか・・・。
そして参政胡同は、生存する人の名前(正確には職位名ですが…)が地名に使われた北京で唯一の例であると「北京地名志」と言う本に書かれてるそうです。
この「北京地名志」というのが優れものらしいです。
多田貞一さんという方が1944年に日本で出版したものでして、北京の三千だか四千ある胡同の名前の由来を事細かに調べ上げ、纏め上げた本らしいです。日本人らしい丁寧で親切で極め細やかな内容の本だったんでしょう。ですから、現在、北京で出版されてる数多くの胡同関係の本の原典になってるとか・・・。 -
新文化街に出ました。
街路樹がイイ雰囲気出しています。
この道を西へ行きます。 -
魯迅中学です。
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奥のほうに魯迅の胸像が見えます。
何故、魯迅中学かといいますと、もともとココは北京女子師範大学だったそうで、魯迅は当時この教壇に立ち学生運動を支持し、激しく政府当局と批判したとか・・・そのことがあり現在は魯迅中学と改名されたらしいです。また、当時、魯迅は、この近くにあった教育部に執務していたそうです・・・その教育部があったところは、先ほどの武装警察隊招待所の中だったそうです。
以下はt さん情報ですが・・・
魯迅がここで教えていたのは「阿Q正伝」を発表した後の1923〜26年というわずかな期間だったようです。
そして、魯迅中学に改名されたのは1996年だったそうです。 -
魯迅中学を後にして新文化街を、また西へ行きます。
このあたりは金融街街道の新文化街社区というようです。
社区というのは、市・区・街道に続く一番小さな行政単位です。
その新文化街社区の役所なんでしょう、ココは・・・・
私の上海での住家は上海市・盧湾区・打浦橋街道・錦海社区となります。 -
新文化街をまた西へ行きますと、なにやら向こうに人だかりが・・・・
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やはり幼稚園か小学校の出迎えの人たちでした。
でも、まあ凄い門構えですね。 -
コレが中の様子です。
幼稚園のようです。
どうやら、ここは克勤群王府という昔のお偉いさんのお屋敷のようです。 -
迎えに来てる人はお婆さん、お母さん、お爺さんが多いです。
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もうすぐ南北に走る道と交わります。
その道は、柊麟閣路と言う道です。
「柊」はホントは木偏でなく人偏です。
さて、なんで新文化街というのでしょうか・・・・
よく分かりませんでしたが、文化的な街を目指したからか、あるいは、もともと文化施設が多かったので、そういう名を付けたのか・・・。この新文化街の旧名は石駙馬大街と鮑家街だそうです。
何故、「新文化街」なのか・・・以下も、t さん情報ですが・・・
「新文化運動」を唱えた魯迅が、かつてこの道沿いにあった北京女子師範大学で教鞭を取っていたからだそうです。
つまり、先ほどの魯迅中学ですね。それまでの石駙馬大街から新教育街に改名したのは文革の最中・1969年らしいです。 -
柊麟閣路の手前では粽を作っていました。
6月8日が、端午の節句なので、その準備なんでしょう。
それを下校途中の生徒が見ています。 -
柊麟閣路を渡りましたら北京第二実験小学校というのが見えてきました。
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ココも出迎えの人でごった返し、それの為の車もズラーッと駐車していまして、新文化街は、どうしようもない渋滞です。
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そしてそばにある売店は、学校から解放された生徒達で賑わっています。
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コチラは北京第一実験小学校です。
第二の西側にあります。 -
新文化街を更に西へ行きます。
このあたりの歩道は広くて木陰も多いので絶好の老人の憩いの場のようです。
そのためのベンチも置いてあります。 -
更に西へ行きますと、そこには健康器具が並んでいます。
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途中にありました四合院への入り口です。
門の両脇の石の置物は立派ですね。
丸タイプですから・・・これは太鼓を表わしていて・・・昔は武人の家だったのか・・・ -
新文化街は、もう終わりです。
西端まで来て振り返りました。
渋滞の車の列が長く続いています。 -
新文化街は、この広い通り・閙市口大街にぶつかって終わりです。
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閙市口大街に出て、南に行きます。
この店はロバ肉の料理屋ですね。
驢肉火焼・CHINESE HAMBERGERという看板が掛かっています。 -
宣武門西大街が近づいてきました。
その手前にある胡同です。
一段高いところにあり階段であがっていくという胡同は珍しいです。
ということで、上がってみました。
左の壁には東智義胡同と書かれています。 -
コレがその胡同の様子です。
このあとは、宣武門西大街に出て、長椿街口東というバス停から特2路バスで帰りました。
コレで、「北京・宣武門から教育街と新文化街へ」は終わりです。
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この旅行記へのコメント (3)
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- 鸚鵡さん 2011/05/08 08:16:40
- 多田貞一さんのこと。
- 井上さん、おはようございます
今日は日曜日で朝から井上さんの旅行記を拝見しています。
横浜駅西口の狸小路の店(ときどき行きました。)とか、三春台(ここに故あって妻子がしばらく住んでいた。息子は最初はこの町の市立小学校に入学。)とか、鶴ヶ峰(ここに兄が家を買って住んでいました。今は町田市)とかまあ横浜はそう大きな町ではありませんが、井上さんとはずいぶんと接点がありそうで。私は井上さんより少々年配のようですが、息子はまだ10歳です。
そこでまたまた知ったかぶりをしますが、井上さんが触れておられる、多田貞一さんのことです。私は地名に興味を持ってるので、多田さんの本が中国語に訳されて出版されたことを、東京の中国関連の書店の目録で知りました。
「北京地名志」などという本の名前を聞いたことがなかったので、驚いてその中国語版を求めたのです。するとこの本は北京の師範大学の先生が内容がいいということで、中国語に翻訳し出版されたもので、原本は昭和19年に出されたものであることを知りました。そのころ(1980年代)は、まだ
東京や香港にいましたので、出張の際、時間を見つけて北京の出版社からようやく日本語の原本のコピーを入手し、中身の確認と多田さんという人について調べました。多田さんは戦前戦中に北京で日本語を教えていた人で、北京の民俗学のグループに属していたそうです。翻訳者の張先生(中国では有名な民俗学者。亡くなられた。)もそのころ数回日本に行く機会があったので、日本の学者に多田さんのことを尋ねたそうですが、終戦前に北京で多田さんと知り合いであった人も、戦後の多田さんのことは知らないとのことでした。私は著書に書いてある多田さんの経歴から、神戸の中学の漢文の先生をしていたことをしり、その学校(今の長田高校)の同窓会経由で何人かの卒業生と連絡をとったのですが、多田さんのことを覚えている人はいても、先生の消息をだれもしらないのです。学校には爆撃で先生の資料はないとのことでした。ここまでが、15年ほどまでの「探索」です。ご存知の方もおられるでしょうが、新潟県に在住の方で、シベリア抑留者の名簿を丹念に作成され賞を取られたかたがおられますが、私は多田さんは戦争の末期に北京で現地召集された可能性があると前から思っていたので、そのデータベースで多田貞一の名前を探したのです。そうしたら一人ヒットしたのです。バイカル湖近くに埋葬されたようです。私は多田貞一というお名前はそう多い名前ではないのでこの方であろうと思っています。井上さんご指摘のように、北京の地名関係の本(中国語)には、多田さんの著書が参考文献としてあげられることが多いです。亡くなって(たぶん)から、数十年もたって中国語に翻訳されるような本の著者のことが知られていないなんて、ある意味で不思議なことでもあり、有名人ではなく北京で出版された日本語の本だったので、日本ではあまり知られなかったという状況がこういう結果を生んだのでしょうね。日本語の原本は、その後、琉璃廠の書籍のオークションで競り落としました。中国語版は中国の古書店ネットでも買えますね。
なお日本語の原本の序文は周作人(魯迅の弟)が書いているのです。中国語版ではカットされています。北京に教師としての職を求め、次第にそこで知った町歩きの楽しさが民俗学や地名に目をむけさせたものの、時代が急転して、不幸にもシベリア抑留や、人知れずバイカル湖のそばの凍土に自らの屍をさらすことになり、その1冊しかない著者が中国で翻訳されたことなどご本人はもちろん、ご家族もおそらくご存知ないだろうと思います。
まあある意味で、多田さんは私や井上さんの大先輩といえるのではないのでしょうか。
- 井上@打浦橋@上海さん からの返信 2011/05/08 12:16:35
- RE: 多田貞一さんのこと。
- 鸚鵡さん、またまた、どうも。
上海の私の部屋は6階にあるんですが、
その部屋のベランダの向こう30mくらい先には体育館があります。
日曜日の、この時間は、いつも、剣道らしきことをやってるような音が聞こえてきます。
竹刀がぶつかり合う音や、コテーッとメーンと叫んでるような声も聞こえてくるのです。
鸚鵡さんとは、そうですか、イロイロと接点があるようですね。
西口の狸小路に三春台に鶴ヶ峰と・・・・
多田貞一さんのことは、検索しているうちに出てきたお名前でして、
私は全く、詳しくありません。
しかし、鸚鵡さんの話を伺いますと、
そういう方だったんだと、またまた、この多田さんにも注目したくなってきました。
しかし、まあ、鸚鵡さんの、そういう方面に関する、熱の入れようと言いますか、
奥の奥まで知らべて行こうとする姿は、ひょっとすると、お仕事も、
そういう関連なのかなと、推理されてきます。
はい、余計なことでしたね・・・邪推と言うことでしょう。
鸚鵡さんの多田さんに関する記事を読みますと、
多田さん、十分、ノンフィクション小説の主役を張れそうですね。
- 鸚鵡さん からの返信 2011/05/08 21:39:24
- RE: RE: 多田貞一さんのこと。
- > 多田貞一さんのことは、検索しているうちに出てきたお名前でして、
> 私は全く、詳しくありません。
> しかし、鸚鵡さんの話を伺いますと、
> そういう方だったんだと、またまた、この多田さんにも注目したくなってきました。
私は前から多田さんのご家族と連絡を取りたいと思いつつこの十数年サボっています。方法が分からない。{旧)厚生省は戦没者のデータを家族以外には出さないだろうと思うことなどがネックでした。もちろん探すとなくと
自分で地方にまで行かねばならないでしょう。多田さんは教師の資格を検定で取っているので、大学や師範学校の同窓会もだめです。
明治39年生まれですから生きておられれば105歳です。兵庫県出身としか分かりません。なお村山さんのデータによると、ロシアのチタ州のハラグンというところの第515大隊の埋葬地に葬られているそうで、生年は1905年となっていますが、明治39年は1906年と1年ずれがありますが、恐らく同一人物でしょう。亡くなったのは1945年の10月4日です。階級は「兵」です。もちろん多田さんの本を活用する中国の人たちはこんなことは全く知らないでしょう。
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