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旧街道「中山道」を荒川土手・戸田より大宮宿・氷川神社までウォーキングした。<br />都心に近いだけに、道中に昔の面影は有る訳もありませんが、ぽつりぽつりとある記念史跡を辿りながらの歩みです。<br /><br />普段歩くこともない地区ですので、拙い歴史知識をかき出しながらお勉強がてらの観光です。<br /><br />

中山道NO-2 蕨宿、浦和宿、大宮宿へ  

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2008/03/28 - 2008/03/28

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ムッシュ

ムッシュさん

旧街道「中山道」を荒川土手・戸田より大宮宿・氷川神社までウォーキングした。
都心に近いだけに、道中に昔の面影は有る訳もありませんが、ぽつりぽつりとある記念史跡を辿りながらの歩みです。

普段歩くこともない地区ですので、拙い歴史知識をかき出しながらお勉強がてらの観光です。

同行者
その他
交通手段
観光バス 徒歩
旅行の手配内容
その他
  • ここは荒川大橋の都心側です。<br />【戸田の渡し】がありました。荒川(戸田川)を渡ると東京都から埼玉県に入ります、往時、戸田川の川幅は55間(約100m)でした。<br />【戸田川(荒川)】<br />甲斐國(山梨県)、武蔵國(埼玉県)、信濃國(長野県)の三國が跨る甲武信ケ岳(こぶしがたけ)に源を発し、秩父山地の水を集め、江戸湾(東京湾)に注いでいる。<br /><br />江戸防衛上戸田川に架橋されることはなく、舟渡しでした。

    ここは荒川大橋の都心側です。
    【戸田の渡し】がありました。荒川(戸田川)を渡ると東京都から埼玉県に入ります、往時、戸田川の川幅は55間(約100m)でした。
    【戸田川(荒川)】
    甲斐國(山梨県)、武蔵國(埼玉県)、信濃國(長野県)の三國が跨る甲武信ケ岳(こぶしがたけ)に源を発し、秩父山地の水を集め、江戸湾(東京湾)に注いでいる。

    江戸防衛上戸田川に架橋されることはなく、舟渡しでした。

  • 【戸田の渡し】解説掲示板より<br />荒川は江戸を出る所。江戸防衛の意から橋が架けられず、越えるには船による渡しに頼った。これが中山道「戸田の渡し」です。江戸日本橋を出て最初の宿駅である板橋宿と、次ぎの蕨宿の間にあり、交通の要所でありました。<br />  この渡しは、資料によると天正年中(1573~91)よりあったとされ、その重要性は近世を通じて変わらなかった。渡船場の管理は下戸田村が行っており、天保13年(1842)では家数46軒、人口226人でした。そのなかには、組頭(渡船場の支配人)1人、船頭8人、小揚人足31人がいました。船の数は、寛保2年(1742)に3艘だったものが、中山道の交通量の増加にともなって、天保13年には13艘と増えています。 <br />  また、渡船場は荒川を利用した舟運の一大拠点としての機能も有し、戸田河岸場として安永元年(1772)には幕府公認の河岸となっています。天保3年(1832)には5軒の河岸問屋があり、近在の商人と手広く取引を行っていました。これらの渡船場の風景は、渓斎英泉の「木曽街道六拾九次」の錦絵に描かれ、当時の様子を偲ぶことができます。

    【戸田の渡し】解説掲示板より
    荒川は江戸を出る所。江戸防衛の意から橋が架けられず、越えるには船による渡しに頼った。これが中山道「戸田の渡し」です。江戸日本橋を出て最初の宿駅である板橋宿と、次ぎの蕨宿の間にあり、交通の要所でありました。
      この渡しは、資料によると天正年中(1573~91)よりあったとされ、その重要性は近世を通じて変わらなかった。渡船場の管理は下戸田村が行っており、天保13年(1842)では家数46軒、人口226人でした。そのなかには、組頭(渡船場の支配人)1人、船頭8人、小揚人足31人がいました。船の数は、寛保2年(1742)に3艘だったものが、中山道の交通量の増加にともなって、天保13年には13艘と増えています。 
      また、渡船場は荒川を利用した舟運の一大拠点としての機能も有し、戸田河岸場として安永元年(1772)には幕府公認の河岸となっています。天保3年(1832)には5軒の河岸問屋があり、近在の商人と手広く取引を行っていました。これらの渡船場の風景は、渓斎英泉の「木曽街道六拾九次」の錦絵に描かれ、当時の様子を偲ぶことができます。

  • 埼玉県側の堤防の上に【中山道戸田渡船場跡】の碑。戸田市川岸一丁目<br />荒川は江戸防衛の意から橋が架けられず、舟による渡しに頼らざるを得なかった。<br />渡船場は荒川を利用する舟運の一大拠点としての機能も有し、戸田河岸場として幕府公認の河岸となった。明治8年(1875)に木橋の戸田橋が完成し、戸田の渡しは廃止された。<br /><br />【戸田の渡し】<br /> 中山道は木曽街道・木曽路と呼ばれ、山々の間を縫う街道として、京と江戸を結んでいました。街道として整備されたのは、慶長7年(1602)のことです。宿駅は六十七、越える川は大小十以上を数え、荒川は江戸を出るところにありました。この荒川には江戸防衛の意から橋が架けられず、人々はここを越えるには船による渡しに頼らざるを得ませんでした。これが中山道戸田の渡しです。江戸日本橋を出て最初の宿駅である板橋宿と、次ぎの蕨宿の間にあり、交通の要所でありました。<br /><br /> この渡しは、資料によると天正年中(1573~91)よりあったとされ、その重要性は近世を通じて変わらなかったといいます。渡船場の管理は下戸田村が行っており、天保13年(1842)では家数46軒、人口226人でした。そのなかには、組頭(渡船場の支配人)1人、船頭8人、小揚人足31人がいました。船の数は、寛保2年に3艘だったものが、中山道の交通量の増加にともなって、天保13年には13艘と増えています。 <br /><br /> また、渡船場は荒川を利用した舟運の一大拠点としての機能も有し、戸田河岸場として安永元年(1772)には幕府公認の河岸となっています。天保3年(1832)には5軒の河岸問屋があり、近在の商人と手広く取引を行っていました。これらの渡船場の風景は、渓斎英泉の「木曽街道六拾九次」の錦絵に描かれ、当時の様子を偲ぶことができます。<br />  やがて、明治になり中山道の交通量も増え、明治8年(1875)5月に木橋の戸田橋がついに完成。ここに長い歴史をもつ「戸田の渡し」が廃止となりました。

    埼玉県側の堤防の上に【中山道戸田渡船場跡】の碑。戸田市川岸一丁目
    荒川は江戸防衛の意から橋が架けられず、舟による渡しに頼らざるを得なかった。
    渡船場は荒川を利用する舟運の一大拠点としての機能も有し、戸田河岸場として幕府公認の河岸となった。明治8年(1875)に木橋の戸田橋が完成し、戸田の渡しは廃止された。

    【戸田の渡し】
     中山道は木曽街道・木曽路と呼ばれ、山々の間を縫う街道として、京と江戸を結んでいました。街道として整備されたのは、慶長7年(1602)のことです。宿駅は六十七、越える川は大小十以上を数え、荒川は江戸を出るところにありました。この荒川には江戸防衛の意から橋が架けられず、人々はここを越えるには船による渡しに頼らざるを得ませんでした。これが中山道戸田の渡しです。江戸日本橋を出て最初の宿駅である板橋宿と、次ぎの蕨宿の間にあり、交通の要所でありました。

     この渡しは、資料によると天正年中(1573~91)よりあったとされ、その重要性は近世を通じて変わらなかったといいます。渡船場の管理は下戸田村が行っており、天保13年(1842)では家数46軒、人口226人でした。そのなかには、組頭(渡船場の支配人)1人、船頭8人、小揚人足31人がいました。船の数は、寛保2年に3艘だったものが、中山道の交通量の増加にともなって、天保13年には13艘と増えています。 

     また、渡船場は荒川を利用した舟運の一大拠点としての機能も有し、戸田河岸場として安永元年(1772)には幕府公認の河岸となっています。天保3年(1832)には5軒の河岸問屋があり、近在の商人と手広く取引を行っていました。これらの渡船場の風景は、渓斎英泉の「木曽街道六拾九次」の錦絵に描かれ、当時の様子を偲ぶことができます。
      やがて、明治になり中山道の交通量も増え、明治8年(1875)5月に木橋の戸田橋がついに完成。ここに長い歴史をもつ「戸田の渡し」が廃止となりました。

  • 著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています<br />『木曾街道 蕨之驛 戸田川渡場 英泉』天保6- 8年(1835-1837年)<br />蕨宿の近隣にあって一帯の水運を担う戸田の渡しが描かれている。人馬の別無く舟に乗り合い、白鷺が舞う戸田川を往く、天保の頃の人々ののどかな様子である。対岸の渡し場に続く道の左右には戸田村の家々が見える。渡船権はこの村が握っていた。(ウイッキメディアより)<br />英泉は蕨宿としてこの戸田の渡し風景を描いています、志村村から戸田村に向う渡し舟を中央に、そして対岸の戸田村の渡し場には葭簀張(よしずばり)の船頭小屋を描いています、舟には旅人に混じって馬子と馬が乗っています。<br /><br />荒川は江戸を出るところに位置していたので,江戸防衛の意味から橋が架けられず,人々は舟による「渡し」に頼らざるを得なかった。渡船場の管理は下戸田村でした。<br /><br />歌川広重と合作した「木曾街道六十九次」72図のうち始めの24図を英泉が描いている。

    著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています
    『木曾街道 蕨之驛 戸田川渡場 英泉』天保6- 8年(1835-1837年)
    蕨宿の近隣にあって一帯の水運を担う戸田の渡しが描かれている。人馬の別無く舟に乗り合い、白鷺が舞う戸田川を往く、天保の頃の人々ののどかな様子である。対岸の渡し場に続く道の左右には戸田村の家々が見える。渡船権はこの村が握っていた。(ウイッキメディアより)
    英泉は蕨宿としてこの戸田の渡し風景を描いています、志村村から戸田村に向う渡し舟を中央に、そして対岸の戸田村の渡し場には葭簀張(よしずばり)の船頭小屋を描いています、舟には旅人に混じって馬子と馬が乗っています。

    荒川は江戸を出るところに位置していたので,江戸防衛の意味から橋が架けられず,人々は舟による「渡し」に頼らざるを得なかった。渡船場の管理は下戸田村でした。

    歌川広重と合作した「木曾街道六十九次」72図のうち始めの24図を英泉が描いている。

  • 戸田渡し舟場からのびる旧中山道です

    戸田渡し舟場からのびる旧中山道です

  • まっすぐに国道17号線。熊谷・さいたま方向。

    まっすぐに国道17号線。熊谷・さいたま方向。

  • 蕨の宿に入って来ました。≪歴史民族資料館の展示資料より≫ <br />【蕨宿碑わらび】日本橋から4里28町(18.8Km)、京へ131里6町(515.1Km)<br />  江戸時代の蕨宿は町並みが南北10町(約1,090m)で、周囲は用水堀で囲まれていた。天保14年(1843)の人口は2,223人、家数は430軒、本陣2軒、脇本陣1軒、それに問屋場と高札場が1ヶ所ずつ あった。また旅籠が23軒あるほか、豆腐屋・煙草屋・髪結など様々な職業の人々が暮らしていた。<br /><br /> 蕨宿では、問屋3人・年寄3人・帳付4人・馬指4人の宿役人がおかれ、交代で問屋場に勤務して、人馬の継立や物資の輸送などの業務を行っていまた。また、旅人の休泊のための旅籠や、大名・公家などの身分の高い人々の休泊施設である本陣・脇本陣が あった。<br /><br /> 蕨宿の成立の時期には、慶長11年(1606)、同17年(1612)、同19年(1614)、元和年間(1615~1624)などの諸説があるが、現存の史料からみると、慶長17年成立説が有力と考えられている。           ≪歴史民族資料館の展示資料より≫ 

    蕨の宿に入って来ました。≪歴史民族資料館の展示資料より≫ 
    【蕨宿碑わらび】日本橋から4里28町(18.8Km)、京へ131里6町(515.1Km)
      江戸時代の蕨宿は町並みが南北10町(約1,090m)で、周囲は用水堀で囲まれていた。天保14年(1843)の人口は2,223人、家数は430軒、本陣2軒、脇本陣1軒、それに問屋場と高札場が1ヶ所ずつ あった。また旅籠が23軒あるほか、豆腐屋・煙草屋・髪結など様々な職業の人々が暮らしていた。

     蕨宿では、問屋3人・年寄3人・帳付4人・馬指4人の宿役人がおかれ、交代で問屋場に勤務して、人馬の継立や物資の輸送などの業務を行っていまた。また、旅人の休泊のための旅籠や、大名・公家などの身分の高い人々の休泊施設である本陣・脇本陣が あった。

     蕨宿の成立の時期には、慶長11年(1606)、同17年(1612)、同19年(1614)、元和年間(1615~1624)などの諸説があるが、現存の史料からみると、慶長17年成立説が有力と考えられている。           ≪歴史民族資料館の展示資料より≫ 

  • な、な、なんとこの”うなぎ”屋さん、創業二百数十年だそうです。<br /><br />十分、江戸時代でした。今後も頑張って下さい。

    な、な、なんとこの”うなぎ”屋さん、創業二百数十年だそうです。

    十分、江戸時代でした。今後も頑張って下さい。

  • 【蕨市歴史民族資料館】<br />ここは「本陣跡」利用です。<br />館内には、実物大の旅籠や、商家、本陣上段の間を再現。<br />分館は明治時代に織物の買継商であった家屋をそのまま利用しています。<br /><br />二軒在った本陣の一つで,「岡田加兵衛本陣」跡。ここの本陣は「孝女和宮」の休憩場所のもなり,明治元年には明治天皇の御小休所としても使われたと言う。

    【蕨市歴史民族資料館】
    ここは「本陣跡」利用です。
    館内には、実物大の旅籠や、商家、本陣上段の間を再現。
    分館は明治時代に織物の買継商であった家屋をそのまま利用しています。

    二軒在った本陣の一つで,「岡田加兵衛本陣」跡。ここの本陣は「孝女和宮」の休憩場所のもなり,明治元年には明治天皇の御小休所としても使われたと言う。

  • 美しい江戸扇子の図案。<br />「日本文化の美術品」<br />江戸扇子は、元禄年間に、福島金兵衛が京都から江戸に出て浅草境内で扇を売ったのが始まり。<br />一人で全て手書きで作られる絵心あふれる匠の技術芸術品。

    美しい江戸扇子の図案。
    「日本文化の美術品」
    江戸扇子は、元禄年間に、福島金兵衛が京都から江戸に出て浅草境内で扇を売ったのが始まり。
    一人で全て手書きで作られる絵心あふれる匠の技術芸術品。

  • 蕨宿の資料館で見た、当時の宿場・街道の様子です。<br />1/200の町並み模型。江戸時代の蕨宿の姿が展示されている。<br /><br />【蕨宿】蕨宿の資料館資料より<br />江戸時代に中山道第二の宿駅として栄えたところである。<br />  慶長11年(1606)蕨城主渋川公の将佐渡守岡田正信の子息正吉が初めて蕨宿本陣・問屋・名主の三役を兼ねたと伝えられる。 <br />  その後、その役は子孫にうけつがれ明治維新まで続いた。<br />  蕨本陣の建物は、今は同家にのこる本陣絵図面などによって知る外はないが公家大名などが休泊し、文久元年(1861)皇女和宮が御降嫁の折には御休息の場となり、ついで明治元年(1868)同3年には明治天皇の大宮氷川神社御親拝の際の御小休所となった。<br />  現在、岡田家には古文書・古記録・歴史的遺品などわが国近世交通史の研究に重要な資料が多数保存されている。岡田家は、この資料館の隣です。

    蕨宿の資料館で見た、当時の宿場・街道の様子です。
    1/200の町並み模型。江戸時代の蕨宿の姿が展示されている。

    【蕨宿】蕨宿の資料館資料より
    江戸時代に中山道第二の宿駅として栄えたところである。
      慶長11年(1606)蕨城主渋川公の将佐渡守岡田正信の子息正吉が初めて蕨宿本陣・問屋・名主の三役を兼ねたと伝えられる。 
      その後、その役は子孫にうけつがれ明治維新まで続いた。
      蕨本陣の建物は、今は同家にのこる本陣絵図面などによって知る外はないが公家大名などが休泊し、文久元年(1861)皇女和宮が御降嫁の折には御休息の場となり、ついで明治元年(1868)同3年には明治天皇の大宮氷川神社御親拝の際の御小休所となった。
      現在、岡田家には古文書・古記録・歴史的遺品などわが国近世交通史の研究に重要な資料が多数保存されている。岡田家は、この資料館の隣です。

  • 鈴木薬局があります、重厚な蔵造りの旧商家の構え。

    鈴木薬局があります、重厚な蔵造りの旧商家の構え。

  • 【辻の一里塚跡】辻一里塚公園(さいたま市南区辻7丁目)<br />石碑解説より<br />江戸日本橋より数えて5里目です<br />昔この辻地区は湿地が多く村人達は大変難儀をした。この水難を守る為、水の神弁財天を安置し地区の守り神とすると共に中山道を旅する人々の安泰を願った。<br />由来伝記の為、有志相計り保存会を結成し祠を再建してふる里の道しるべとする

    【辻の一里塚跡】辻一里塚公園(さいたま市南区辻7丁目)
    石碑解説より
    江戸日本橋より数えて5里目です
    昔この辻地区は湿地が多く村人達は大変難儀をした。この水難を守る為、水の神弁財天を安置し地区の守り神とすると共に中山道を旅する人々の安泰を願った。
    由来伝記の為、有志相計り保存会を結成し祠を再建してふる里の道しるべとする

  • 【調神社(つきじんじゃ)】<br />権現造りの社殿は安政6年(1859年)に建立。<br />調(つき)神社、開化天皇3年(156)の創建で、延喜式神名帳に記載された古社。調(つき)は租庸調の調(みつぎ)物を意味し、武蔵国の調はここに集積され東海道、中山道経由で京都に運ばれた。この神社には調物の搬入搬出の邪魔になる鳥居がありません。<br />

    【調神社(つきじんじゃ)】
    権現造りの社殿は安政6年(1859年)に建立。
    調(つき)神社、開化天皇3年(156)の創建で、延喜式神名帳に記載された古社。調(つき)は租庸調の調(みつぎ)物を意味し、武蔵国の調はここに集積され東海道、中山道経由で京都に運ばれた。この神社には調物の搬入搬出の邪魔になる鳥居がありません。

  • 【浦和 調神社】神社解説資料より<br />延喜式内に列する古社、「調(つき)神社」。<br />社記によれば第9代開化天皇(156)の御代に創始、紀元前からあることになる。<br />天照大神が宿る八咫の鏡を伊勢神宮に祭った倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が、後にこの地を訪れ、伊勢神宮への貢ぎ物(調)を関東一円から集めるために、ここに倉を作った。<br />倭姫命が足を運んだ場所は、いずれも清らかな水に接したところだったから、ここにもそのような水辺があったに違いない。<br />ここは、都まで続く街道があったこと、産物の集積地として適していたから。<br />その形跡は、この調神社がある地名から推測できる。調神社の現在地は、さいたま市浦和区岸町。<br />「浦和」の地名の由来は「浦曲(うらわ)」で、大河の流路の屈曲しているところを意味する。そして、「岸町」という水運を利用して貢ぎ物を集めるにはうってつけの場所だった。この神社には、鳥居が無く、狛犬のかわりにうさぎの石像が置かれてる。<br />

    【浦和 調神社】神社解説資料より
    延喜式内に列する古社、「調(つき)神社」。
    社記によれば第9代開化天皇(156)の御代に創始、紀元前からあることになる。
    天照大神が宿る八咫の鏡を伊勢神宮に祭った倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が、後にこの地を訪れ、伊勢神宮への貢ぎ物(調)を関東一円から集めるために、ここに倉を作った。
    倭姫命が足を運んだ場所は、いずれも清らかな水に接したところだったから、ここにもそのような水辺があったに違いない。
    ここは、都まで続く街道があったこと、産物の集積地として適していたから。
    その形跡は、この調神社がある地名から推測できる。調神社の現在地は、さいたま市浦和区岸町。
    「浦和」の地名の由来は「浦曲(うらわ)」で、大河の流路の屈曲しているところを意味する。そして、「岸町」という水運を利用して貢ぎ物を集めるにはうってつけの場所だった。この神社には、鳥居が無く、狛犬のかわりにうさぎの石像が置かれてる。

  • 割烹千代田 / ご昼食&quot;麦とろ”コースがお勧めです。<br /><br />http://www.urawa-chiyoda.jp/chiyoda01.html<br />ご飯はお代わり自由。<br />ほんに、美味しゅうございました。<br /><br /><br />ここは、浦和の老舗料亭・旅館で、旅館/割烹/酒膳の三拍子揃った素敵なところ。<br />和風建築と庭もgoodでした。

    割烹千代田 / ご昼食"麦とろ”コースがお勧めです。

    http://www.urawa-chiyoda.jp/chiyoda01.html
    ご飯はお代わり自由。
    ほんに、美味しゅうございました。


    ここは、浦和の老舗料亭・旅館で、旅館/割烹/酒膳の三拍子揃った素敵なところ。
    和風建築と庭もgoodでした。

  • 著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています<br />『支蘇路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望 英泉 画』天保6年(1835年)<br />浦和宿へ向かう途中にあって名物の焼き米の立場茶屋。用川路に架かった板張りの太鼓橋があり、その奥に遠く小さく建ち並ぶ浦和宿の家々が望める。左手遠方に描かれた浅間山は噴煙をたなびかせている。その手前、近景に、荷駄を運ぶ馬子と、後ろに付いて馬糞を掻き集める子供がいる。

    著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています
    『支蘇路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望 英泉 画』天保6年(1835年)
    浦和宿へ向かう途中にあって名物の焼き米の立場茶屋。用川路に架かった板張りの太鼓橋があり、その奥に遠く小さく建ち並ぶ浦和宿の家々が望める。左手遠方に描かれた浅間山は噴煙をたなびかせている。その手前、近景に、荷駄を運ぶ馬子と、後ろに付いて馬糞を掻き集める子供がいる。

  • 【中山道浦和宿碑】があります、浦和宿に到着です!<br /><br />天保14年(1843年頃)浦和宿の宿内家数は273軒、うち本陣1、脇本陣3、旅籠15、問屋場1、高札場1、自身番所1軒で、宿内人口は約1200人でした。<br />宿長は10町42間(約1.2km)で、下宿(高砂)、中宿(仲町)、上宿(常盤)で構成され、天領でした。<br />

    【中山道浦和宿碑】があります、浦和宿に到着です!

    天保14年(1843年頃)浦和宿の宿内家数は273軒、うち本陣1、脇本陣3、旅籠15、問屋場1、高札場1、自身番所1軒で、宿内人口は約1200人でした。
    宿長は10町42間(約1.2km)で、下宿(高砂)、中宿(仲町)、上宿(常盤)で構成され、天領でした。

  • 【浦和本陣跡】さいたま市浦和区仲町2丁目の仲町公園内<br />石碑右の解説板より<br />明治元年に明治天皇の行在所になったことを示す碑<br />星野本陣跡です、星野家は問屋と名主を兼ね、敷地は222坪。星野権兵衛は天正18年(1590)豊臣勢の岩槻攻めの際、道案内を勤め、この功により苗字帯刀が許された。<br />*皇女和宮は星野本陣にて昼食を摂り、宿場総出で、赤飯の炊き出しを行った。<br />*明治元年(1868)及び3年(1871)の明治天皇の大宮氷川神社行幸に際して、星野家が行在所となりました

    【浦和本陣跡】さいたま市浦和区仲町2丁目の仲町公園内
    石碑右の解説板より
    明治元年に明治天皇の行在所になったことを示す碑
    星野本陣跡です、星野家は問屋と名主を兼ね、敷地は222坪。星野権兵衛は天正18年(1590)豊臣勢の岩槻攻めの際、道案内を勤め、この功により苗字帯刀が許された。
    *皇女和宮は星野本陣にて昼食を摂り、宿場総出で、赤飯の炊き出しを行った。
    *明治元年(1868)及び3年(1871)の明治天皇の大宮氷川神社行幸に際して、星野家が行在所となりました

  • 【浦和宿の本陣跡地】<br />本陣は大名などの宿泊や休憩にあてられる家です。浦和宿では星野権兵衛家が代々勤めていた。ここには222坪(732.6m2)の母屋をはじめ、表門・土蔵などがありましたが、明治時代になって家は絶え、全ての建物が取り払われました(表門は市内大間木の大熊家に移築され、現存しています)。<br /><br />星野家が問屋と名主を兼ねて代々勤めた。天正18年(1591)の岩槻攻めで,星野権太兵衛は,道案内を勤め豊臣方を有利にみちびいた功績で,苗字帯刀を許されている。明治元年(1868)と3年(1870)に明治天皇が氷川神社行幸参詣した際の浦和行在所となった(中町公園内に記念碑がある)。<br /> 本陣は約4000㎡(1200坪)の屋敷に約700㎡700㎡(210坪)の母屋をはじめ表門・土蔵・物置・番所などがあった。表門(市指定有形文化財)だけが明治に入り市内緑区大間木の大熊家に移築されて当時の姿を偲ぶことが出来る。本陣星野家は,明治になって衰退し,やがて家は途絶えてしまった。<br /><br /> 

    【浦和宿の本陣跡地】
    本陣は大名などの宿泊や休憩にあてられる家です。浦和宿では星野権兵衛家が代々勤めていた。ここには222坪(732.6m2)の母屋をはじめ、表門・土蔵などがありましたが、明治時代になって家は絶え、全ての建物が取り払われました(表門は市内大間木の大熊家に移築され、現存しています)。

    星野家が問屋と名主を兼ねて代々勤めた。天正18年(1591)の岩槻攻めで,星野権太兵衛は,道案内を勤め豊臣方を有利にみちびいた功績で,苗字帯刀を許されている。明治元年(1868)と3年(1870)に明治天皇が氷川神社行幸参詣した際の浦和行在所となった(中町公園内に記念碑がある)。
     本陣は約4000㎡(1200坪)の屋敷に約700㎡700㎡(210坪)の母屋をはじめ表門・土蔵・物置・番所などがあった。表門(市指定有形文化財)だけが明治に入り市内緑区大間木の大熊家に移築されて当時の姿を偲ぶことが出来る。本陣星野家は,明治になって衰退し,やがて家は途絶えてしまった。

     

  • さいたま新都心駅の高架歩道。

    さいたま新都心駅の高架歩道。

  • さいたまスーパーアリーナーの横を歩いてます。<br /><br />以前、松山千春のコンサートにココまで来たことありますが、それ以来です。

    さいたまスーパーアリーナーの横を歩いてます。

    以前、松山千春のコンサートにココまで来たことありますが、それ以来です。

  • 【氷川神社参道入口である一の鳥居】<br />参道はこれより本殿まで2kmの道程。さすが「武蔵野国一ノ宮」だけのことはある。<br />*当初は参道(黄色矢印)が古中仙道でしたが、寛永5年(1628)関東郡代伊那忠次は氷川神社の神域を通行するのは不敬と、一の鳥居前から直進する新道を開設した。それにともない宿民を移動させて新しい大宮宿を作ったとのこと。

    【氷川神社参道入口である一の鳥居】
    参道はこれより本殿まで2kmの道程。さすが「武蔵野国一ノ宮」だけのことはある。
    *当初は参道(黄色矢印)が古中仙道でしたが、寛永5年(1628)関東郡代伊那忠次は氷川神社の神域を通行するのは不敬と、一の鳥居前から直進する新道を開設した。それにともない宿民を移動させて新しい大宮宿を作ったとのこと。

  • 【氷川神社参道入口である一の鳥居】<br />かつての中山道は、この参道を通り、神社の前で折れて迂回していたが、寛永5年(1628年)に、大宮宿の人々が西の原野に新道を開き、宿場をそこに移した。<br />参道を通りながらも、拝殿にお参りせずに通過するズボラな旅人が多かったらしく、「神に対して恐れ多い」ということが理由のひとつだったようだ。<br />大宮宿は、日本橋から数えて4番目の宿場町で、もともとは、先にできていた浦和宿と上尾宿の間に、もうひとつ宿場を作った方が便利だということでできた。<br />当時、江戸から1日で歩く距離としては、大宮までが限界だと言われていたようだ。<br /><br />

    【氷川神社参道入口である一の鳥居】
    かつての中山道は、この参道を通り、神社の前で折れて迂回していたが、寛永5年(1628年)に、大宮宿の人々が西の原野に新道を開き、宿場をそこに移した。
    参道を通りながらも、拝殿にお参りせずに通過するズボラな旅人が多かったらしく、「神に対して恐れ多い」ということが理由のひとつだったようだ。
    大宮宿は、日本橋から数えて4番目の宿場町で、もともとは、先にできていた浦和宿と上尾宿の間に、もうひとつ宿場を作った方が便利だということでできた。
    当時、江戸から1日で歩く距離としては、大宮までが限界だと言われていたようだ。

  • その昔、昔、この辺りは海沿いだったらしい。

    その昔、昔、この辺りは海沿いだったらしい。

  • 大宮宿の有った場所。<br />現在も宿屋。<br /><br />この辺り、日本橋?31kmです。<br />大宮宿は本陣1、脇本陣がなんと9軒もあった、脇本陣9軒は、江戸時代の五街道の中で最大であった旅籠は29軒である

    大宮宿の有った場所。
    現在も宿屋。

    この辺り、日本橋?31kmです。
    大宮宿は本陣1、脇本陣がなんと9軒もあった、脇本陣9軒は、江戸時代の五街道の中で最大であった旅籠は29軒である

  • 大宮の本陣跡は、現在レストラン”旅籠や次郎”。

    大宮の本陣跡は、現在レストラン”旅籠や次郎”。

  • 著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています<br />『木曾街道 大宮宿 冨士遠景 英泉画』天保6- 8年(1835-1837年)<br /><br />水ぬるみ、田畑は地色を覗かせ、桜が花をつける早春の郷(さと)。<br />左手には、青面金剛像の彫られた庚申塔と近在の農民の暮らしが描かれる。木鍬を携えて道を行く年老いた農夫と、大きな竹籠を背に付き従って歩く幼子。右手には大宮宿を後にしてなだらかに続く土手を上方(京)へと向かう旅人の様子が描かれている。旅人の往く手には丹沢山地と富士の眺望がひらけている。

    著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています
    『木曾街道 大宮宿 冨士遠景 英泉画』天保6- 8年(1835-1837年)

    水ぬるみ、田畑は地色を覗かせ、桜が花をつける早春の郷(さと)。
    左手には、青面金剛像の彫られた庚申塔と近在の農民の暮らしが描かれる。木鍬を携えて道を行く年老いた農夫と、大きな竹籠を背に付き従って歩く幼子。右手には大宮宿を後にしてなだらかに続く土手を上方(京)へと向かう旅人の様子が描かれている。旅人の往く手には丹沢山地と富士の眺望がひらけている。

  • Jリーグサッカーチーム”大宮Ardija”の公式ショップ。

    Jリーグサッカーチーム”大宮Ardija”の公式ショップ。

  • 【氷川神社入り口の碑】<br />当地は武蔵国一宮である氷川明神社(現在の氷川神社)の門前町として繁栄した。 その地名「大宮」は、神社の雅名としての「大宮」、すなわち「大いなる宮居の意に由来する。 また、今日の中山道から右手に分岐して氷川神社へ向かって18町(約2km)ほど続く欅(けやき)並木の参道(「氷川神社参道」)は、寛永5年(1628年)に一の鳥居から左手に延びて北進する道が新たに造られるまでは中山道であった。<br />関東には、この大宮を中心に、200以上の氷川神社が存在する。

    【氷川神社入り口の碑】
    当地は武蔵国一宮である氷川明神社(現在の氷川神社)の門前町として繁栄した。 その地名「大宮」は、神社の雅名としての「大宮」、すなわち「大いなる宮居の意に由来する。 また、今日の中山道から右手に分岐して氷川神社へ向かって18町(約2km)ほど続く欅(けやき)並木の参道(「氷川神社参道」)は、寛永5年(1628年)に一の鳥居から左手に延びて北進する道が新たに造られるまでは中山道であった。
    関東には、この大宮を中心に、200以上の氷川神社が存在する。

  • 氷川神社入口参道の中間あたりの三の鳥居です。<br />この参道は古中山道と言われてる。その昔、街道として利用された参道からは、一の鳥居、二の鳥居、楼門、本殿、舞殿など、約3万坪の広大な境内が広がる<br /><br />

    氷川神社入口参道の中間あたりの三の鳥居です。
    この参道は古中山道と言われてる。その昔、街道として利用された参道からは、一の鳥居、二の鳥居、楼門、本殿、舞殿など、約3万坪の広大な境内が広がる

  • 氷川神社参道に数軒しかない、団子やさん。<br /><br />思わず買って戴きました。<br /><br />美味しい!!(疲れた体に効果あり)

    氷川神社参道に数軒しかない、団子やさん。

    思わず買って戴きました。

    美味しい!!(疲れた体に効果あり)

  • 【氷川神社】<br />「氷川きよし」とは全く関係ありませんが、立派な神社です。<br />第五代孝昭天皇の創建による。日本武尊が東征の折に、戦勝祈願をした古社で、その後、聖武天皇(724~49年)のとき武蔵國一の宮と定められました。<br /><br />【氷川神社】<br />創建は、今から2400年有余年の昔、第5代孝昭天皇の御代三年四月の創立、聖武天皇の御代各国に一の宮の制が定められたとき、武蔵一の宮となった。氷川神社の分社、あるいは関連社は武蔵全域に多く、特に埼玉県には、氷川神社が160社以上存在する。

    【氷川神社】
    「氷川きよし」とは全く関係ありませんが、立派な神社です。
    第五代孝昭天皇の創建による。日本武尊が東征の折に、戦勝祈願をした古社で、その後、聖武天皇(724~49年)のとき武蔵國一の宮と定められました。

    【氷川神社】
    創建は、今から2400年有余年の昔、第5代孝昭天皇の御代三年四月の創立、聖武天皇の御代各国に一の宮の制が定められたとき、武蔵一の宮となった。氷川神社の分社、あるいは関連社は武蔵全域に多く、特に埼玉県には、氷川神社が160社以上存在する。

  • 神社境内の庭から、今入ってきた楼門を見る。<br />【氷川神社由緒】<br />当社は、古くから歴朝や武将の尊崇を集めた由緒ある大社としてその歴史を誇っており、「大宮」の地名もこの氷川神社に由来することは衆知のとおりである。<br />  古くは景行天皇のとき、日本武尊が東征のおり当地に足をとめて祈願され、また成務天皇のとき、武蔵国造となった兄多毛比命が出雲族を引き連れてこの地に移住し、氷川神社を奉崇したと伝えられる。その後、聖武天皇(724~49年)のとき【武蔵国一の宮』)には、朝廷から武蔵国では当社だけに封戸(三戸)が寄進された。さらに醍醐天皇の延喜5年(927)の「延期式神明帳」には、名神大社として破格の月次新嘗の社格が与えられている。このほか、鎌倉時代には、治承4年(1180)に源頼朝によって社殿の再建と社領三千貫が寄進されたといわれ、足利、北条氏も相次いで尊仰した。その後、江戸時代の慶長9年(1604)には、徳川氏より社領三千石が寄進され、また、文禄5年(1596)と寛文7年(1667)には社頭の整備と社殿の造営が行われている。<br />  その後、明治元年(1868)東京遷都に際し、当社を武蔵国の総鎮守「勅祭の社」と定められ、明治天皇みずから親拝になった。同4年に官幣大社となり、同15年に本殿・拝殿などを改造し、さらに、昭和15年に本殿・拝殿・回廊などを造り変え、現在の景観となっている。

    神社境内の庭から、今入ってきた楼門を見る。
    【氷川神社由緒】
    当社は、古くから歴朝や武将の尊崇を集めた由緒ある大社としてその歴史を誇っており、「大宮」の地名もこの氷川神社に由来することは衆知のとおりである。
      古くは景行天皇のとき、日本武尊が東征のおり当地に足をとめて祈願され、また成務天皇のとき、武蔵国造となった兄多毛比命が出雲族を引き連れてこの地に移住し、氷川神社を奉崇したと伝えられる。その後、聖武天皇(724~49年)のとき【武蔵国一の宮』)には、朝廷から武蔵国では当社だけに封戸(三戸)が寄進された。さらに醍醐天皇の延喜5年(927)の「延期式神明帳」には、名神大社として破格の月次新嘗の社格が与えられている。このほか、鎌倉時代には、治承4年(1180)に源頼朝によって社殿の再建と社領三千貫が寄進されたといわれ、足利、北条氏も相次いで尊仰した。その後、江戸時代の慶長9年(1604)には、徳川氏より社領三千石が寄進され、また、文禄5年(1596)と寛文7年(1667)には社頭の整備と社殿の造営が行われている。
      その後、明治元年(1868)東京遷都に際し、当社を武蔵国の総鎮守「勅祭の社」と定められ、明治天皇みずから親拝になった。同4年に官幣大社となり、同15年に本殿・拝殿などを改造し、さらに、昭和15年に本殿・拝殿・回廊などを造り変え、現在の景観となっている。

  • こちらの大屋根が、お参りする本堂です。<br /><br />2拝2拍手1拝でお願いします。<br />かっての大宮市は”武蔵国一の宮”である氷川神社の門前町として栄えたところで、その地名は、この神社が「おおいなる宮居」であったことに由来する。

    こちらの大屋根が、お参りする本堂です。

    2拝2拍手1拝でお願いします。
    かっての大宮市は”武蔵国一の宮”である氷川神社の門前町として栄えたところで、その地名は、この神社が「おおいなる宮居」であったことに由来する。

  • 著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています<br />【木曽街道 桶川宿 英泉】<br /><br />次へ  中山道NO-3大宮宿から桶川宿へ  <br />https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10237194/

    著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています
    【木曽街道 桶川宿 英泉】

    次へ  中山道NO-3大宮宿から桶川宿へ  
    https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10237194/

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