2007/12 - 2007/12
23位(同エリア49件中)
yokoさん
カイロからアスワンまでの1000kmを、バスで移動するという少々ハードなツアーに参加しました。
今日は中部エジプト(カイロとルクソールの間)のエル・ミニアの街、ベニ・ハッサン岩窟墓、10年だけの王都テル・エル・アマルナの観光をしてきました。
カイロ&ギザ&メイドゥム→ベニ・ハッサン遺跡&テル・エル・アマルナ遺跡→アビドス&デンデラ→ルクソール→アスワン→アブシンベル→カイロ&メンフィス&サッカラ&ダハシュール、と旅行しました。
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 観光バス
- 航空会社
- エジプト航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
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バスの中から見たエジプトの夕日です。エジプトの夕日は本当に美しい。太陽がとっても大きく見えます。古代の人たちが太陽神ラーを崇めたのがわかる気がします。
メイドゥームからエル・ミニアへ、エジプト中部(カイロからルクソールの間)をバスでひたすら移動します。エジプト中部は過激派の拠点があるところなので、観光バスの前後には警察の車両が付いています。 -
やっとエル・ミニアのホテルに到着です。
メイドゥームから300km以上はバスで走ったでしょうか?エル・ミニアは中部エジプトの観光の拠点地ですが、ホテルはあまりありません。最高は三ツ星ホテルで、2件あります。私達はそのひとつの"アトン・ホテル"に2泊しました。 -
"アトン・ホテル"は思っていたより良いホテルでした。部屋は広く清潔で、エジプトのホテルには珍しくしっかりした暖房もあります。(エル・ミニアの夜はルクソールやアブシンベルよりも冷えます。)
辛かったのは、シャワーのみでお湯が小さいタンク式だったことです。2人でシャワーを浴びるとあっという間にお湯がなくなってしまいます。暖かい季節だったらいいのですが、12月だったので冷たい水でシャワーを浴びるのは辛かったです。 -
エル・ミニヤにはあまりレストランがないということで、夕食はアトン・ホテル内のレストランで頂きました。
まずは、サラダとシーフードスープです。サラダは野菜の味が濃くておいしかったです。 -
メインはシーバス(白身魚)のピカタ(トンカツ風に揚げたもの)でした。最初は生臭いんじゃないかと思いましたが、なかなか美味しかったです。
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エル・ミニアの街は、エジプトでは珍しく、ナイル川の西側にあります。(太陽が昇る東が現世、太陽が沈む西にあの世があるという死生観から、通常の街はナイル川の東側にあります。)
そのため、エル・ミニアではナイル川沿いの美しい朝焼けを見ることができると聞いたので、早起きして寒さに震えながらも、朝焼けを鑑賞しました。 -
朝焼けがナイル川の水面にも写って、神秘的な美しさです。
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朝の暗いうちから、ナイル川で漁をしている漁師さん達。
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今日の午前中は、エル・ミニアからベニ・ハッサン岩窟墳墓群へ行きます。
相変わらずバスの前後は警察官付です。バスからエジプトの人たちの生活が垣間見ることができるので、楽しいです。 -
ボコボコとした丸いものは、現在のエジプトの人たちのお墓だそうです。
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ベニ・ハッサン岩窟墳墓群の入り口に着きました。これから遠くに見える石灰質の岩山まで上ります。
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上るといってもちゃんと階段があるんですが、昨日、クフ王のピラミッドや崩れピラミッドの中を探索したので、足が筋肉痛・・・。日ごろ運動不足なので、頂上まで行くのがちょっと辛かったです・・・。
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もうちょっとで、中王国時代の遺跡、ベニ・ハッサン岩窟墓へ。
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振り返ると絶景です!
ナイル川の周辺だけに畑や緑が広がっています。 -
エジプトが混乱していた中王国時代、中部エジプトはこのように緑が多く、農作物が充実していたため、この地の豪族は大きな力を持っていたそうです。
その代表的な豪族がこの地に遺跡を残している、ベニ・ハッサン=ハッサン部族です。 -
ハッサン部族の岩窟墓は、南北一列に並んで39基あります。
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39基のうち12の墓にのみ内部に装飾が施されています。そのうち公開されている4基を見学しました。
残念ながら墓内部は写真撮影禁止でした。 -
こちらは州侯のケティの墓です(紀元前2050年頃)。
この墓の壁画には有名な"レスリングの図"が描かれています。レスリングの様々な技が何種類も何種類も書かれています。この古来のレスリングは足の裏以外の体の一部が地面に付いたら負けというルールで、日本の相撲のルーツなのではないかと言われています。 -
こちらはクヌムヘテプの墓です。
この墓では"ナイル川沿いの沼地での狩りの風景"等が描かれています。ナイル河畔に茂るパピルスや水鳥の描写が見事でした。 -
アメンエムハトの墓です。
この墓では"聖地アビドスへの巡礼の図"が描かれています。アビドスは冥界の神オシリスの聖地で、古代エジプト人にとって、アビドスへ巡礼することはとても大事なことだったそうです。日本で言うと伊勢参りみたいなものでしょうか。 -
こちらはバケト3世の墓、先ほどのケティの父だそうです。この墓では"砂漠の猟の風景"等が描かれています。
どの岩窟墓も壁画が大変見事できれいに色が残っていました。葡萄酒を作ったり、パンを焼いたりと、当時の人々の生活も描かれていて、とても見ごたえがありました。 -
ベニ・ハッサンよりさらに南のテル・エル・アマルナ遺跡に向かいます。
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ここからは観光バスを降りて、地元の人たちも乗る渡し舟で、ナイル川を横断します。
遠くに見える小さな船が渡し舟です。 -
地元の人達と一緒に乗る渡し舟、気持ちがいいです。
ナイル川がの水面が青く見えます。 -
短い時間ですが、ナイル川の上は涼しく、心地よい風が吹くので、クルーズ気分です。
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ナイル川を渡り終えると、小さいミニバンに乗り換えて、テル・エル・アマルナ遺跡へ出発します。
この観光用のミニバンを見ると、地元の子供達は「ハロー!ハロー!」と言いながら手を振ってきます。中にはミニバンを追いかけてくる子供もいます。外国人への興味とバクシーシ欲しさとの半々の気持ちなんでしょうね。中には「ハロー、ワンダラー!」と手を振る子供もいましたから(笑)。 -
長い道のりでしたが、10年間だけの王都”アケト・アテン”(テル・エル・アマルナ遺跡)に、とうとうやってきました。
ここは20世紀初頭に発見され、長年放置されていた都ですが、王宮も墓も神殿も造られていました。この台地には一見何もないように見えますが、たくさんの歴史のミステリーが眠っている場所です。ツタンカーメンが幼少時代を過ごした場所ですから! -
アケト・アテンの都を造ったのはアクエンアテン王(改名前はアメンホテプ4世)。アメンホテプ3世の息子で、ツタンカーメンの父親だと有力視されているファラオです。
これからアクエンアテンの王墓を見学に行きます。広大な敷地なので、古都内を車で行き来します。 -
ここは、アクエンアテン王墓への入り口です。
アクエンアテン王は、強大な力を持つようになったルクソールの神官団に立ち向かうために、大胆な宗教改革を行いました。
当時のエジプトはアメン神を中心とした多神教でしたが、アクエンアテン王はそれらを廃し、太陽の神の一つであるアテン神のみを信じる一神教に変えました。アテン信仰は、太陽円盤をシンボルとする他は、偶像崇拝が禁じられました。一神教、偶像崇拝禁止という点から、このアテン信仰がモーセに影響を与えたのでは?と考える人もいるそうです。 -
この階段を下って王墓へ。
しかし実際にここに葬られたのは、早くに亡くなった次女メキトアテンだけで、アクエンアテン王は葬られた形跡がないと言われています。
アクエンアテン王とエジプトの三大美女の一人と言われる正妃ネフェルティティには、6人の娘がいたそうです。 -
写真撮影はここまで・・・残念。
中にはこんな感じ↓の壁画がありますが、壁画の顔はほとんど削られています。王の死後、アメン信者に復讐されたのだと考えられています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%974%E4%B8%96
この王墓の壁画には、次女のメキトアテンがお産で亡くなり、王と正妃ネフェルティティ、長女メリトアテン、三女アンケセナーメンが嘆き悲しむ様子が描かれています。このように人間味溢れる王族の姿が描かれるのは珍しいことで、アクエンアテン王が目指した"ありのままを描く"という写実的なアマルナ芸術の表れでもあります。
三女アンケセナーメンはツタンカーメンの正妃になります。現在のところ、ツタンカーメンはアクエンアテン王と側室のキヤとの息子なのでないかと考えられています。 -
階段を昇ると、都の端に置かれた"境界碑"があります。
境界碑は、現在、西岸に3基、東岸に14基見つかっており、アケト・アテンの都を囲んで建てられているそうです。 -
こちらは比較的保存状態の良い"境界碑U"です。
上部中央にアテン神、その下にアテン神に捧げ物を捧げるアクエンアテン王とネフェルティティ王妃と子供達が描かれています。その下にはヒエログリフで"王の宣言"が刻み込まれています。境界碑の横には、王と王妃の像が掘り込まれています。 -
"境界碑U"の近くの高台から、西のナイル川の方向を眺めてみました。
もし都が残っていたら、この位置から、アテン大神殿、アテン小神殿、王宮、庭園などが見えたと思います。
アクエンアテン王の死後、神殿や宮殿は破壊され、石材は他の神殿建築に再利用され、アケトアテンの都は廃虚となりました。 -
アケト・アテンの都には、貴族や高官のために、北の岩窟墓群と南の岩窟墓群があります。
北の墓には、"王家のハレムの長フヤ"、"王の右手の羽根扇持ちアハメス"、"大神官メリラー"などの墓があります。今回は見られなかったのですが、フヤの墓でアテン賛歌のレリーフが有名だそうです。
南の墓は、"警察長官マフ"、ルクソールにも墓がある"ラモーゼ"、ツタンカーメンの後ファラオになった"アイ"の墓などがあります。多くが未完成です。アケトアテンの都の繁栄が短かったからでしょう。 -
今回は北の岩窟墓群の"パネヘシ"の墓を見学しました。
"パネヘシ"は、アテン神殿の司祭であり、穀物や家畜の長官であり、法務大臣だったようです。
壁画には"パネヘシ"が馬車に乗っている様子等がありました。 -
"パネヘシ"の墓の近くにあった、まだ発掘が進んでいない岩窟墓です。
どんなミステリーが隠されているのか、創造するのも楽しいです。 -
岩山を降り、王宮のあった場所へやってきました。
カイロ博物館にある、アマルナの王宮の床壁画がここにあったのかと思うとわくわくします。 -
こちらはアテン小神殿の柱跡です。柱はレプリカです。
この柱は真東を向いています。柱の間を良く見ると、山がV字に凹んでいるところがあります。実はそこが先ほど訪れた、アクエンアテンの王墓なんだそうです。アクエンアテン王は神殿から見て、太陽が昇る真東に墓を作ったのだそうです。 -
北宮殿跡に積み上げられている日干し煉瓦です。
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この辺りは古そうな土器やら石やらがたくさん転がっています。
色が付いている物は、発掘隊が持ち帰って研究しているそうです。 -
この辺りを幼少のツタンカーメンが歩いたのでしょうか?
当時、神官だったアイや将軍だったホルエムヘブも歩いたのでしょうね。 -
このあたりに記録庫があり、アマルナ文書が発見されたと聞いたのですが、うろ覚えです・・・。
アマルナ文書は、当時の外交文字のアッカド語で書かれた粘土板の文書で、350通も発見されました。紀元前1300年頃のオリエント世界の外交関係を知る上で、重要な史料となっています。
アクエンアテン王はこの新しい都を造るのに忙しかったせいか、友好諸国が助けを求める文書を送っても、あまり返事を出さなかったようです。 -
少し変わった日干し煉瓦です。間に木材のような物が入っています。
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また地元の人と一緒にナイル川を横断し、エル・ミニヤのホテルへと向かいます。
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今日一日で、ベニ・ハッサン岩窟墓とテル・エル・アマルナ遺跡へ行きました。
山を登ったり、下ったり、移動したりと、超〜疲れましたが、手付かずの遺跡を探検する気分が味わえました♪貴重な体験でした。
最後まで見ていただいてありがとうございます。
次の日は、アビドスとデンデラを観光します。
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