2006/05 - 2006/05
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seidouさん
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クロアチア写真紀行として第1集から続けてきた珠玉の町めぐり最終の第4集で、アドリア海ダルマチア地方の古都トロギールとスプリットを取り上げて、やや詳細に写真とコメントをアップロードしていきます。
写真・コメントの視点については、第1集から変わりませんので省略します。
アドリア海に面し、古くからダルマチア地方といわれ、対岸のイタリアからの影響が大きかった両都市ですが、世界遺産を抱えたアドリア海でも珠玉の町として、これからあまたの観光的資源も復旧整備されていくと思います。小都市における世界遺産の維持保存への努力の現況をつぶさに見ていきたいとの思いで訪れました。
トロギールは、小さな島にギリシャ〜ローマの名残がぎっしりと詰まったせまいせまい街ですから、街中はやたらと新しく整備される余地も少ないと思いますが、港などはやや近代化しそうな気配があります。
スプリットは逆に、世界遺産の中に現代市民生活がどんどん入り込んで、原型をとどめているのがほんの僅かで、少々拍子抜けしたところです。これをどのように復旧して、かっての姿を取り戻すか観光局の手腕が問われるところです。
今後訪問される方々によく見届けていただきたく思います。
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トロギールへのアドリア海海岸の景観
朝の光線はアドリア海をいろいろな色に変化させながら動き回る。くねくねと道が入り江や小岬を回り込むごとに色が変わり、あい対する海岸の家の赤い屋根と糸杉の黒々とした姿がコントラストを際立たせていた。
疾走する車からの撮影はシャッター速度優先で500分の1〜1000分の1秒で取り捲ったが、なかなかいいフレームに収まるのが少ないものだ。それでも撮っているのが楽しい朝のドライブである -
トロギール旧市街(島)の俯瞰図
トロギールはもと小さな島であったが、歴史は古く紀元前のギリシャ時代からその植民地Tragurionとして築かれた記録があり、その名の由来は、ギリシャ語のtgarosとoros(羊と丘)で近くの丘に羊の群れがいたことら来たらしい。
実際今の市庁舎広場などは当時のアゴラ(ギリシャ語の集会広場)と同じサイズだし、街中の小路や島の周回路と城壁のレイアウトも同様の名残という。
島にはこの写真(案内所のポスター)のように今は狭い運河のような海峡を本土と短い橋で結び反対側のチヴォ島とも橋で結ばれている。島の北と東西に緑地があって、東側に大聖堂と行政部西側に防衛要塞を持ち、南側はチヴォ島間の入り江のような波静かな船着場となっている。古代では、船をつけるにも守るにも都合がいい小島であったろう。
トロギールをめぐり数多くの支配者が交替した。東西ローマ時代は西ローマに属していたが、東ローマの勢力が強まり、西暦437年に西ローマ帝国の皇女ガラ・プラキディアは東ローマ皇帝に輿入れする際のウェディングギフトとしてダルマチアを差し入れたあとは東ローマ・ビザンチン皇帝と出所のラヴェンナからの支配下となった。その後、フランクのカール大帝支配があって、7世紀ここ地方に新しく殖民・人口が増えそれがクロアチアとしての歴史の新しい1頁が書き込まれた。その後ハンガリア・クロアチ時代、ヴェネツィア時代、19世紀初頭のナポレオン冶世のフランス時代〜オーストリア時代、第1〜2次大戦を経てユーゴスラビア時代と支配者が変わり、やっと今日のクロアチアの
時代となったが、その間トロギールの名は変わることがなかった。 -
トロギール旧市街へ渡る橋
本土側から旧市街であるトロギール島を見るとその間はこのような運河並みの狭い海峡であり、一本の石橋でつながっている。その日は本土側で市場が開かれていた。 -
橋上で野菜を売る行商のおばさんたち
買う人がいるのかいないのか、のんびりした商売だが、聞いてみると実は橋の向こう(本土側)で市が開かれていて、大勢人が集まるが、このおばさんたちは、市場にだす権利がない。旧市街の中では商売は禁止されていてるから、その中間位置の軒端ならぬ橋端で自家生産品を持ってきて市場より安く売り、小遣い稼ぎをしているらしい。未亡人なのか、なんとみんな黒装束であるから、あたかも舞台の黒子の様でそれが面白い。 -
トロギール正門と大聖堂鐘楼
橋を渡ってすぐ北の城壁に開いた北門を潜って、城郭内の旧市街に入る。この門は17世紀のもので、門の上には市の守護聖人イワン・ウルジニの彫像が立っている。(像はミラノのボニーナ作で15世紀のものを継承)
後方にそびえる尖塔は聖ロヴロ(セントローレンス)大聖堂の鐘楼である。 -
聖ロヴロ大聖堂(世界遺産)の鐘楼
今回の見学で最大の痛恨事はこの大聖堂が修復工事中で内部が見学できなかったことである。
この教会は1200年から1700年までかかって建設され、その後も数次の改修により、歴史の長さもさることながら建築様式がロマネスクからバロックまで混交して見られることで建築史上でも著名な存在であり、世界遺産に登録されている。
内部には入れなかったが外観から、鐘楼尖塔の建築状況に200年の跡が覗え、世界遺産の幾分かが見られたことで多少の気休めとしよう。
例えば、2階が15世紀のヴェネツィア時代の建築でゴシック様式となっている。4階は16世紀後半の完成とあるから、トリフォリュームがルネッサンス様式の装飾になっている。先端のピラミッド部分につけられた彫像4体は1605年ニアレッサンドロヴィットリオ作の逸品である。などなど。 -
市庁舎広場と時計台
この広場というよりも、スクエアといううか、いやそれより、古いギリシャの村のアゴラが残ったような場所である。この広場の周りを見渡すと、まさに中世が生きている、そんな雰囲気をトロギールが持っているのを肌で感じる格好の場所である。石灰岩で敷き詰めた地面と壁、中世の時計台、ロジャ、教会堂、と道具立てが揃っている。 -
市庁舎とインフォメーション
もとは貴族のプリンス館だったものを公共用にしたもので、現在は市長オフィスとなっている。建物は13世紀からだが19世紀の修復でルネッサンス様式にかえったが、中庭はゴシック様式が残っている。(次の写真) -
市庁舎の中庭
中庭に入ると、階段や、井戸があり、ぐっと古い様式が見られ、やはり中世が残っている街という感じがする。もと1階は獄舎に使われたり、2階は17世紀〜19世紀は劇場に使われたという話であった。 -
ロッジャの天秤を持つ聖母のレリーフ
市庁舎広場のロッジャで貿易商品の看貫なども行われそれに税金をかけた。ロッジャの壁(東側)上部には、公正を期するための聖母の天秤を持つ像のレリーフが東壁に掲げれていた。
もう一方の南壁面には、トルコとの戦争で戦死を遂げたペリスラヴィッチ提督の像が残っている。 -
トロギール市庁舎広場のロッジア
時計台の隣に2方を柱列で囲った露台がある。広場での集会などでステージの役割をはたしたり、貿易商人の集会所や、税関の役割も果たしたようだ。 -
Cipicoパレスの15世紀トリフォリュームとバルコニー
ここから、広場の人々に向かって演説をしたのであろうか。広場を取り巻く建物の一つだが、これが当時としては一番立派なゴシック様式の建物であった。 -
トロギール旧市街の中世の石畳小路
旧市街の中はこのような小路が迷路のようにつながっていて、それが微妙に曲がっているから地図を見ていてもつい曲がり角を間違え、迷子になってしまう。迷路歩きを楽しむ向きには絶好の場所。
石畳に敷き方も時代が感じられる。道を凸面にして、雨水を両壁側に側溝に流すものと、中央をへこませた中央溝スタイルがある。
石材は、硬いホルンフェルスやチャート類が多い。 -
トロギールらしい中世小路と生活臭
実に味のある小路が続く。道を間違えてもこれらの窓やバルコニーが目印となる。こんな石造りの家の中はどうなっているか、見たかったがチョット入りつらい雰囲気であった。 -
南門を出て海岸へ
迷路のような小路から南門に至ると、すっと視界が開け海岸に出る。昔は港門と言われていた。いまだにオリジナルの木板を釘で打ちつけた扉がついている。北の正門同様、夜間はゲイトを閉め城郭内を守った。 -
南門付近の修道尼院とシェルター
南門の周囲は修道尼院やその他の建物で城壁をかねているが、そのそばに赤屋根で小さな囲いの建物がある。(写真左端)これは、ヴェネツィア時代は対岸イタリア半島からの貿易船が入港し、税関受付であったり、門が閉まったあとで港に着いた旅人が一時の仮宿とか雨などの避難所に使われた。 -
旧ドミニコ会修道院・教会
海岸の広い道路を要塞に向かって歩いていくと、賑やかな子供の声が上から聞こえてきた。旧教会・修道院が学校になっていて、休み時間なのか窓から子供たちが手を振っている。アドリア海を見下ろすいい環境で学べる子たちがうらやましいと思った。彼らには見慣れた景色でなんとも思わぬかも知れぬが。 -
海岸波止場から対岸のチボ島風景
波止場には、レジャーボートも多数留まっていた。スプリットのような大型のフェリーや島巡り船はないが、ここは個人のボート基地になっている。対岸のtヴォ島はさらに規模の大きいヨットやボートの桟橋が多数突き出しているから、ここはアドリア海の海洋レジャーの一大基地であることがうかがえる。 -
カメルレンゴの砦
島の南西端にいかつい要塞が建っている。15世紀前半に建設されたもので、最初は見張り塔だったものをヴェネツィアがトルコの侵入を防ぐための要塞として周りを囲って強固にした。カメルレンゴとはラテン語でcamerarius,意味は財務官で大公の金庫番。内部は町のミニチュア版のように住居や礼拝堂、井戸など備えていた。北西端の塔にはゼットという小石で盛った土手をめぐらし、近づく敵のガレー船やボートを攻撃したという。 -
古い石壁から咲き出たピンクの花
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旧市街(島)と本土間の運河に並ぶボート群
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アドリア海岸Doi手前の入り江の景観
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アドリア海沿岸から島風景
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アドリア海沿岸別荘建設ラッシュ
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アドリア海沿岸ヨットハーバー風景
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アドリア海Primosten付近の景観
スプリットの周辺の海岸線を走行していると、フヴァル島やコルチュラ島などの観光地ばかりでなく、その他の小島も教会を中心にして家が立ち並ぶ美しい景観が次々に現れる。島へは遊覧フェリーが通っていて、地元人に混じって観光客も多くなったらしい。次回にはぜひ島巡りをしたいものである。 -
スプリット港と市街眺望
スプリットはダルマチア沿岸最大の町で、さすがに港湾はよく整備され、大型船や、フェリーボート、海洋レジャーのヨットやボートがぎっしりと並んでいる。 -
スプリット港護岸通りから島巡りのフェリーボート
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ディオクレティアヌス宮殿周囲のマップ
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ディオクレチアヌス宮殿の復元オリジナル俯瞰図
この復元図面を見てもわかるようにこの宮殿は海から直接船付けして中へ入るようになっていた。したがって、現在の道路下が水路の入り口であった。 -
世界遺産の宮殿一部が商店街
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世界遺産ディオクレティアヌス宮殿正面入り口
見学者はこの入り口から入るが、宮殿が出来た頃の昔の入り口は海から直接船が宮殿に入れるようになっていたようで、宮殿は1段下のレベルからある。観光客はまず道路面より下、すなわち地下から見学を始める。 -
ディオクレティアヌス宮殿地下玄関ホール
宮殿は四角いエリアに広がっているが、皇帝の住居は南面(海側)にあり北側は主に兵士たちの住居いきであった。この写真は皇帝住居への玄関ホールであり天井が大きく開けられて採光十分のホールとなっている。 -
ディオクレチアンウス宮殿地下の倉庫や衛兵控え室
宮殿は1階と地下の構造で地下は海から直接出入り出来る、物資貯蔵庫や兵員の溜まり場となっていた。
巨大な柱と梁で上階を支えていたが、水没や破壊などで現在はほとんど見るところが少ない。 -
ディオクレチアヌス宮殿グランドフロアーホール
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ディオクレチアヌス像
ディオクラチアヌスはローマ帝国の皇帝(在位:284年 - 305年)である。軍人皇帝時代を収拾し、ドミナートゥス(Dominatus、専制君主制)を創始し、テトラルキア(四分割統治、四分治制)を導入した。
当時、広大なローマ帝国の統治と防衛を単独で行うのは困難だと考えられた。そこで、軍の同僚だったマクシミアヌスを共同皇帝として西方を担当させ、自身はニコメディアを拠点に東方を治めた。彼らは国境防衛に便利なように前線にほど近い都市に宮廷を置いたため、既に荒廃していたローマの重要性はますます低下し、ローマ帝国の重心は東方におかれるようになった。ディオクレティアヌス以降のローマ帝国は、慢性的な財政難に陥った。増強された軍隊と肥大化した官僚制の維持に膨大な費用がかかった上、外敵との抗争があいついだ結果であった
危機に瀕したローマ帝国の統一を回復・維持するため、ディオクレティアヌスは自らの皇帝権力を宗教により神聖化させようとし、皇帝崇拝などを含む伝統宗教の再興を図った。こうした姿勢や政策は皇帝崇拝を拒んだキリスト教徒との対立を招き、彼らの。キリスト教史を編纂する側からは「大迫害」と呼ばれる弾圧が行われたとされるている。キリスト教史上最も多くの信者が彼の弾圧によって殉教したとされる。
305年、彼は健康を崩したこともあって退位し、アドリア海に臨むサロナ(現スプリト)に離宮「ディオクラチアヌス宮殿」を作って隠棲し、数年後にそこで亡くなった。古代の歴代ローマ皇帝の中で、引退した例は彼のほかにはほとんど存在しない -
宮殿ペリスティール(柱廊で囲まれた中庭)
地下の宮殿施設から上階に出ると、ペリスティーと呼ばれる中庭に出る。この中庭周辺が唯一世界遺産らしいたたずまいである。(あとの宮殿域内は、公共施設やショップや一般住民の住居が入りみだれてごちゃ混ぜの状態でこれで世界遺産と言えるのかと疑うほどのものばかり。)
宮殿の南北軸上で最も大きく開けたスペースであり、皇帝住居と東のお后住居や神殿および西の神殿、寺院等に通じるコミュニケーション広場であった。写真正面(南側)の三角破風と半円アーチの柱廊は皇帝が南の皇帝住居から出てきて、住民や訪問者の挨拶を受けた玄関ポーチの役割の場所。中庭の石床は住民たちが皇帝の拝謁や宗教儀式の際に平伏す場所でもあった。ポーチの両側柱廊は6つの円柱が立ち。花輪で飾ったアーチがつけられている。両サイドの柱廊ドアから東のお后住居と西の寺院へ通じる。
夏の野外歌劇でアイーダなどがこのポーチを舞台にして演じられ、なかなか好評とのことである。 -
中庭北面
中庭ポーチから見た北側への広がり。中庭を通り北門への道はショップが並び賑やか。中庭北東部にインフォメーションがある。 -
中庭西面の柱廊
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スプリット大聖堂と鐘楼
この大聖堂は、もと神殿でディオクレチアヌスが自分の墓を収めた霊廟にするために建立したものが、後世になって、彼が徹底的に弾圧したキリスト教の聖堂に衣替えしたものである。歴史の皮肉というべきか。したがって、内部の礼拝室の構造も普通の教会風でなく八角形のクーポラでホール式聖堂スタイルである。 -
スプリット大聖堂
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スプリット大聖堂内部礼拝室
向かって左は石造の説教壇で、後期ロマネスクスタイルの装飾彫刻がふんだんに施されている。6角形の説教壇枠の飾りは二重円柱つなげたブラインドアーケードで、福音記者のシンボル彫像が添えてある凝った造りである。中央の祭壇はセント・ドムニウスを祭ったものでバロック様式である。 -
スプリット大聖堂内部柱頭拡大
もともとギリシャ風神殿造りであったものを利用した教会聖堂であるから、クーポラやそれを支える柱頭飾りは豪華な大理石造のイオニア式である。それら柱間のニッチに祭壇がもけられ、堂内がおびただしい装飾でゴテゴテした感じである。 -
スプリット大聖堂セントドミニュウスのバロック祭壇
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大聖堂後陣外部周辺
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宮殿北側の城郭が住宅化している現状
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スプリットニンのグレゴリービショップの記念碑
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スプリット守護聖人の足にタッチ
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西北隅の城壁跡
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城壁から道端に落ちる噴水にご用心
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スプリットのクロアチア国立劇場
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