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鳥取城を訪ねた。<br /><br />鳥取城は、16世紀半ばに標高263mの久松山に築城したのがその起源とされ、時の築城者は山名誠道という。隣国美作津山城を最初に築城した主・山名忠政と同じ一族である。<br /><br />山全体が城郭。 頂上にあった本丸は江戸時代の城主・池田長吉によって廃され、その後落雷などもあって、跡形もなくなったという。<br /><br />戦国時代には難航不落の要害とされ、秀吉も2度にわたって城を攻めた記録が残っている。史上名高い秀吉の中国攻めであり、足利幕府最後の将軍、足利義昭が信長打倒をもくろんで、中国の毛利氏を頼った為、これを追撃する目的で信長によって差遣された軍である。毛利を服従させることは信長にとって、天下統一に向けた最後の大仕事でもあった。<br /><br /> このとき行く手の妨げとなる鳥取城を攻撃した秀吉は、城主の山名豊国を降参させることに成功したが家臣はこれを認めず、ついには豊国を追放してしまう。<br /><br />これを受けて、毛利家からは一族でもある吉川経家を鳥取城主に据え、秀吉は再びこれを攻撃する。このため、城内はこの世のものとは思えないほどの飢餓地獄を生み出したと伝えられている。鳥はもちろん、犬を食し、食べつくすと馬をも食し、ついには死者の肉まで食べたという。<br /><br />この惨劇で吉川経家は和睦の手続きをとった上で、自身は責任をとって自害して果てた。秀吉は兵を連れて芸州へ帰るように勧めたが、餓えのために多くの将兵を死なせたことを悔やみ、城内の大広間で自害したという。このことは毛利・織田の両家から賞賛された経家は今日、銅像となって鳥取城址に建てられている。<br /><br />そして江戸時代。関が原の合戦が終わると徳川家康によって諸国の配分が行われた。<br /><br />鳥取城を拝領したのは池田長吉。このときはまだ6万石程度の大名であったが、長吉は山頂にあった本丸機能を廃して久松山中腹の二の丸三の丸に移し、そこを藩主の御殿とした。<br /><br /> 森家の家書によれば、長吉の跡を継いだ長幸は隣国の津山にも来訪した記録があり、長幸の来訪を喜んだ森忠政は、津山城内に長幸のための櫓を建てさせたほど。<br /><br />忠政の長女於松が長幸の正室として迎えらることになったからであり、櫓の名を長幸の官名・備中守からとって、備中櫓と名づけられた。於松は長幸と婚姻したのち僅か2年で死去してしまうが、その後忠政の4女於宮が長幸の妻となって再嫁した。1人の男に2人の娘を送り込んだのは、徳川将軍家の縁戚でもある池田家との血縁を大事にしようとした所以だろう。<br /><br />ちなみに津山の備中櫓は、近年復元されて津山城のシンボルとなっている。鶴丸紋の瓦で葺かれた津山城のなかで、この櫓だけは池田家の定紋、揚羽蝶の瓦が置かれていた。他家の家紋を自身の城に用いた例は非常に珍しいのではないだろうか。<br /><br />話を戻し、長吉・長幸と親子2代で治めたこの城は、元和3年(1617)、長幸の備中松山城転封に伴い、播磨姫路から池田光政が32万5千石を領して入城し、以後幕末に至るまで連綿と統治されてきた。

鳥取城址

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2007/04/20 - 2007/04/20

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正雅堂

正雅堂さん

鳥取城を訪ねた。

鳥取城は、16世紀半ばに標高263mの久松山に築城したのがその起源とされ、時の築城者は山名誠道という。隣国美作津山城を最初に築城した主・山名忠政と同じ一族である。

山全体が城郭。 頂上にあった本丸は江戸時代の城主・池田長吉によって廃され、その後落雷などもあって、跡形もなくなったという。

戦国時代には難航不落の要害とされ、秀吉も2度にわたって城を攻めた記録が残っている。史上名高い秀吉の中国攻めであり、足利幕府最後の将軍、足利義昭が信長打倒をもくろんで、中国の毛利氏を頼った為、これを追撃する目的で信長によって差遣された軍である。毛利を服従させることは信長にとって、天下統一に向けた最後の大仕事でもあった。

 このとき行く手の妨げとなる鳥取城を攻撃した秀吉は、城主の山名豊国を降参させることに成功したが家臣はこれを認めず、ついには豊国を追放してしまう。

これを受けて、毛利家からは一族でもある吉川経家を鳥取城主に据え、秀吉は再びこれを攻撃する。このため、城内はこの世のものとは思えないほどの飢餓地獄を生み出したと伝えられている。鳥はもちろん、犬を食し、食べつくすと馬をも食し、ついには死者の肉まで食べたという。

この惨劇で吉川経家は和睦の手続きをとった上で、自身は責任をとって自害して果てた。秀吉は兵を連れて芸州へ帰るように勧めたが、餓えのために多くの将兵を死なせたことを悔やみ、城内の大広間で自害したという。このことは毛利・織田の両家から賞賛された経家は今日、銅像となって鳥取城址に建てられている。

そして江戸時代。関が原の合戦が終わると徳川家康によって諸国の配分が行われた。

鳥取城を拝領したのは池田長吉。このときはまだ6万石程度の大名であったが、長吉は山頂にあった本丸機能を廃して久松山中腹の二の丸三の丸に移し、そこを藩主の御殿とした。

 森家の家書によれば、長吉の跡を継いだ長幸は隣国の津山にも来訪した記録があり、長幸の来訪を喜んだ森忠政は、津山城内に長幸のための櫓を建てさせたほど。

忠政の長女於松が長幸の正室として迎えらることになったからであり、櫓の名を長幸の官名・備中守からとって、備中櫓と名づけられた。於松は長幸と婚姻したのち僅か2年で死去してしまうが、その後忠政の4女於宮が長幸の妻となって再嫁した。1人の男に2人の娘を送り込んだのは、徳川将軍家の縁戚でもある池田家との血縁を大事にしようとした所以だろう。

ちなみに津山の備中櫓は、近年復元されて津山城のシンボルとなっている。鶴丸紋の瓦で葺かれた津山城のなかで、この櫓だけは池田家の定紋、揚羽蝶の瓦が置かれていた。他家の家紋を自身の城に用いた例は非常に珍しいのではないだろうか。

話を戻し、長吉・長幸と親子2代で治めたこの城は、元和3年(1617)、長幸の備中松山城転封に伴い、播磨姫路から池田光政が32万5千石を領して入城し、以後幕末に至るまで連綿と統治されてきた。

  • 鳥取城址

    鳥取城址

  • 鳥取城址

    鳥取城址

  • 鳥取城址・吉川経家像

    鳥取城址・吉川経家像

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  • 吉備津彦さん 2009/10/30 10:11:05
    池田光政は鳥取から岡山に転封
     池田光政は元和2年(1616年)父・利隆の死により姫路藩42万石の藩主となり、当初は幸隆(よしたか)と名乗った。翌元和3年(1617年)幼少を理由に鳥取藩32万5000石に転封となる。元和9年(1623年)3代将軍徳川家光の偏諱を拝受し光政と名乗る。

     寛永9年(1632年)岡山藩主・池田忠雄(光政の叔父)が死去し、従兄弟で忠雄の嫡男・池田光仲が幼少のため山陽道の要所岡山を治め難いとし、光政が岡山藩31万5000石へ、光仲が鳥取藩32万5000石に国替えとなった。

     鳥取池田藩として幕末まで因幡・伯耆二国を治めたのは輝政と家康の娘・富子の子であり将軍家の外戚で親藩格である忠継・忠雄の家系の光仲です。

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