2003/05/15 - 2003/06/14
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keithforestさん
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調べ物があってオーストラリアに出かけたのが、もう4年も前の話だ。この時調べたことをそれからちっとも書き物にしていない。いったい何をしにいったのか、役に立っていない。
この時期に出かけたのには意味があって、カンタスの21日前に予約すると安くなる切符の値段が一番安い時期なのである。虎ノ門にあったクァンタスの事務所に行って自分で申し込んだ。確か6.5万円ほどであったと思う。レンタカーはネットで予約していった。ホバートでのカローラは一日50ドルほどであったような記憶である。
あとはメルボルンの空港でBudgetのカウンターで借りた。最初はバスで行くつもりだったのだけれど、レンタカーして本当に良かった。先に行っても何もできないところだった。とにかく車がないとどうにもならない。シドニーやメルボルンじゃないんだから。
シドニーでは友人のお宅に2泊もご厄介になってしまったのだけれども、それからはCityからハーバーブリッジを北に渡った次の駅(Milsons Point)のすぐ近所にあるビジネス・コンドミニアムとでもいうような部屋に泊まり、毎日州立図書館に通った。
日本人クラブの総会にも遭遇し、大学の先輩に甘えてご一緒させて頂いた。そこで、キャンベラに暮らしておいでの女性にお会いし、後ほどキャンベラまでお尋ねしてお話をお伺いした。
州立図書館では各新聞のマイクロ・フィルムがフリーで棚から取りだしてみることができる。何日か通うと大体そこにしょっちゅう通ってくる高齢の方は顔がわかる。そのままマイクロフィルムからコピーを取ることはできるのだけれども、そのコピー代が貧乏学生から見るとむちゃくちゃ高くて、こっちは時間があるのだからとパソコンを持ち込んでぱちゃぱちゃたたき出してしまう。それでも写真のあるものはコピーを取らざるをえなくて、泣き泣きコピーする。
アジア太平洋戦争では日本はオーストラリアのダーウィンに64回の爆撃を実行したし、シドニー湾には三隻の特殊潜行艇が侵入して魚雷を撃ち、接岸していた英国艦に命中してこれを撃沈。英国兵が犠牲になっている。
勿論日本、イタリア、ドイツの捕虜もオーストラリアには収容所があって滞在していた。1944年にはそのうちのひとつである「カウラ」の捕虜収容所から日本兵が大脱走を試み、多くの日本人捕虜と4人のオーストラリア人兵士が死んだ。この事件についてはこれまで日豪双方で何冊もの本になって出版されている。
戦争中には日本人は捕虜と同じように収容所に移されており、戦争が終わると原則的にほぼ全員が日本に帰還させられた。残った日本人はオーストラリア人と結婚していた数少ない人びとであったとクイーンズランド大学の永田先生が書かれた「オーストラリア日系人強制収容の記録」に詳しい。
戦後に日本からオーストラリアにやってきたのは1950年代に入って日本が国際社会に復帰してからようやく許可になった豪州人と結婚した女性で、その第一号といわれているのがチェリー・パーカーとして知られていた桜元信子さんである。
彼女を主人公とした遠藤雅子の「チェリー・パーカーの熱い冬」(1989 新潮社)はよく知られている。いわゆる戦争花嫁の皆さんはキャンベラの戦争博物館で働く田村恵子(ANUで博士号取得)によるとおおよそ600名の方が豪州に来られたといわれている。
米国のみなさんと国際結婚の会の集まりにも皆さんが加わって日本で何回も集まりが開かれている。しかし、徐々に高齢に達し、少しずつ消息が知られなくなりつつある。
1952年になって日本籍商船が戦後初めてオーストラリアにやってきている。
メルボルン、シドニーにも寄港し、各地の新聞にその様子が報じられている。まさに敵対し、多くのオーストラリア人が日本軍の捕虜となって泰緬鉄道やアンボンの収容所で多くの犠牲を出したことを忘れて日豪関係を語ることはできない。
フィリッピンを日本軍に追われたマッカーサーは一旦ブリスベンに後退して策を練った。この時にマッカーサーは「I shall return」といって捲土重来を期したのである。
ブリスベンでも日本軍が進駐してきた時にどうするかという策が真剣に語られ途中の道路には戦車避けの杭を埋め込んだり、ブリスベン・ラインといって最終的に死守するべきラインを設定したりしていた。
パースの沖に浮かぶロットネスト島に今も残る砲台は日本軍に備えて設置されたものである。ダーウィンの戦争博物館に行くと日本軍による空襲が1970年代の超大型台風の襲来と並ぶダーウィンの二大災難として展示されている。
戦後オーストラリア人の方と結婚して豪州に来られた方からお話をお伺いしたいと思ってホバートにも行ったのだけれど、戦後1950年代に豪州に来られた方にはとうとうあって頂けなかった。
しかし、ホバートにお住まいのオーストラリア人と結婚しておられる日本人の女性の方とはお知り合いになることができてホバート生活の一端を見せて頂くことができた。
ホバートではNorth Hobartのモーテルを拠点にしてカローラをレンタカーしてあっちに行ったりこっちに行ったりしていたが、北はリッチモンドまで、南はTaroona位までしか行っていない。
TAS Uniでは日本語を教えておられる先生にお会いし、Book Storeで何冊かのSocial Work系の本を入手。オーストラリアの学生たちは言語が英語なのだから、米国や英国の文献を使いこなすことができるのだから有利だと思った。
メルボルンから西へ120kmほどいった、ゴールドラッシュの街、バララットに高齢者ケア施設を訪問した。ここには日本人の方がおられると紹介されたのである。日本の施設からいえば多角的経営といえる施設で、国内外からの介護者の研修まで受け入れている。メルボルンの街でのMeals on the wheel(食事の宅配サービス)のセントラルキッチンの役割も果たしているというし、障害のある人のための補助具製作も行っている。
エスニックに対する高齢者介護サービスはオーストラリアでもやさしい問題ではないが、移民で成り立つ国家となってきたオーストラリアにとって全ての点でエスニックへのケアはついて回る問題。日本にとっても研究するにはとても参考になるフィールドであることは明確である。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 航空会社
- カンタス航空
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ホバートの街中にある有名なビール「カスケード」の昔からのビル。上にビールのラッテルに書いてある「タスマニアン・タイガー」が乗っている。
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North Hobartのモーテルから見えた虹。このモーテルから少し先に行くとウールワースがあるので、カップスープだとかお菓子だとか、そんなものを買ってくる。
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西の空に夕陽が沈むんだけれども、西の方だけが晴れていて、あとはしっかり雲、という状況になってしまうとこうなっちゃう。
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右の小さな林檎はクァンタスの国内便で箱に入って提供された林檎。左の普通にスーパーで売っているものも小さいのだけれど、それよりもっと小さい。下に敷いた新聞は地元のタブロイド判の新聞で、これに比べると如何に小さいかよく分かる。しかし、とても小さいと思うのだけれども、これだともてあまさないサイズである。
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キャンベラの戦争博物館前から見た景色。この通りの両脇にはオーストラリアが参画してきた各戦争の記念碑が並んでいる。ここの博物館にはかつてシドニー湾で沈んだ特殊潜行艇2隻をばらして1隻にまとめたものが展示されていたのだけれど、1998年頃には軍需会社の構内に移されていた。今時、あの特殊潜行艇はどこにあるのだろうか。今年の初めか昨年の終わりに残りの一隻も海底に沈んでいるのが見つかったと報じられている。
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