2004/05/03 - 2004/05/05
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dapuqiaoさん
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中国文化の発祥の地であり、その後も永らく歴史の中心であった黄河中流、いわゆる、中原を2泊3日で旅しました。
その(1)は、洛陽市です。
今回訪れた洛陽市にしろ開封市にしろ、現在は空港がないため鄭州市の空港を利用する事になる。鄭州からは、両市共に高速道路で繋がっており、車で2時間前後で移動可能。バスを使うのが経済的だか、時間節約で今回はタクシーを利用した。
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(宿泊した鄭州の長城飯店)
5月3日の夕方鄭州空港へ到着、タクシーでホテルへ。空港からは35Km、40分。 -
(鄭州長城飯店)
ホテルの部屋 -
(鄭州長城飯店)
ホテルからの鄭州市内の眺め -
(嵩山辺り)
5月4日鄭州からタクシーで少林寺、龍門石窟経由で洛陽へ向かう。
鄭州・洛陽間は、約120Km高速道路で結ばれているので直行すれば2時間足らずだが、少林寺、龍門石窟、白馬寺と見学しながらの一日行程です。 -
(少林寺の武術学校)
少林寺の近くには多くの武術学校があって、生徒たちが路上で習練している姿が散見される。 -
(少林寺)
少林寺に到着 -
(少林寺入場券)
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(少林寺内)
赤い帽子の団体旅行の一行。中国あっちこっちでこのような風景が見られる。 -
(少林寺)
塔林。少林寺の代々の僧侶の墓。 -
(龍門石窟)
龍門石窟は、洛陽市の南12キロの所に位置し、敦煌の莫高窟、大同の雲岡石窟と並ぶ、中国三大石窟の一つです。 -
(龍門石窟入場券)
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(龍門石窟)
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(龍門石窟、奉先寺石窟)
龍門石窟は主に、北魏時代と唐代に切り開かれ、そのうち規模が最大で、一番の見所は、唐代、則天武后の統治時期に作られた奉先寺石窟である。その中央に位置する廬舎那大仏像は、中国では唯一女帝となった則天武后をモデルにした、と言われている。 -
(対岸の香山寺)
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(香山寺)
白楽天が晩年をすごし、その墓も残っている香山寺 -
(白馬寺)
洛陽はかつて後漢、北魏、武周などの時代、都として栄えた場所で、後漢の時代、仏教が中国に伝わり中国初の仏教寺が建てられた。インドの二人の僧が、白馬に乗り経典を携えて、都の洛陽を訪れたという説話に因んで、白馬寺と名づけられた。 -
(白馬寺入場券)
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(白馬寺)
牡丹は洛陽の花として、また、毎年4月の「牡丹花祭り」は世界的にも有名だとか。
花を愛した唐の則天武皇は、長安の都で真冬だというのに花々に開花を命じたところ、牡丹だけは命令を拒否したので激怒した女帝は牡丹を当時の副都心だった洛陽に追放しました。都落ちした牡丹の花は、それから洛陽を故郷として、毎年の春に、色とりどりの花を咲かせ、観光客を集めるようになったと云われているようです。 -
(白馬寺)
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(洛陽大酒店)
市内の西の端にある洛陽大酒店が今夜の宿。
洛陽はBC770年に周の都が置かれて以来、北魏、隋、唐など9王朝の都が置かれ、「九朝古都」とも呼ばれる。 -
(黄河)
5月5日洛陽から開封に向けて出発。途中、黄河を渡る。 -
(後漢の光武帝陵)
漢の時代、歴代の皇帝や貴族たちは河南省洛陽県の東北にある「邙山(ぼうざん)」で永久の眠りにつくことを望んだが、王莽(おうもう)を滅ぼし、紀元25年に漢王朝を再興した後漢の初代皇帝光武帝は、なぜか黄河河岸近くに葬られている。所在地は洛陽の市街地から東北45kmにある孟津県の鉄謝村漢陵台区である。 -
(後漢の光武帝陵)
霊験あらたかなのか参拝者がさわって黒く変色した光武帝陵の前に立てられた碑 -
(後漢の光武帝陵)
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(後漢の光武帝陵)
人民軍も見学 -
(孟津県の観光案内図)
商の紂王を討つため周の武王は孟津まで進み、800の諸侯を集め、盟約を交わすも、この時は時期早尚として引き上げる。二年後に再度諸侯を集め、牧野(河南省新郷市、孟津から北東100Km)の戦いで商を滅ぼす。
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