2005/03/20 - 2005/04/07
86位(同エリア270件中)
次郎さんさん
楼蘭は普通のシルクロードの旅・旅行ではない。これは探検旅行なのだ。体力も必要であり、何分にも健康でなければならない。タクマラカン砂漠を取り巻く周囲の道も道路事情が良くなり、随分と楽にはなったが、楼蘭となるとまた話は異なり違った意味での困難が伴う。ありきたりのツアーとは違うようだ。医師の先生も同行されていて安心なようだが、この先生、テントでマッサージもやってくれるらしい。いわゆる裸足の医者かもしれないようだ。本隊の隊長さんは地質学者ということだったが、専門的な話をお聞きできなかったのは残念なことだった。如何にもプロレスラーのような、エネルギーの有り余ったような体格の持ち主だった。歴史学者という何さんには約半日、一緒に行動する機会もあったが、その方面の話をお伺い出来なかったのは心残りに違いなかった。
車は六輪駆動の大型トラックをはじめ四駆のランドクルザー(トヨタ)の3台で構成されていた(敦煌よりトルファンまで)。ランクルは運転手と客3名の計4人の乗車であった。トヨタのランクルは新車と聞いていたがすべて40万キロに達する年代物ばかりであった。でも、砂漠の中では最新のITばかりのコンピュター制御の車では、ものの役にたたないことが立証された。修理の聞かないITより構造が単純な方がよい。
厳しい砂漠の中の途中、第1号車のランクルのファンが粉々に砕け(ロブノールに入る前 砂漠の第2日目)、ラジエイターに穴が空いたが中国側スタッフは約2時間で修理してしまった。中国人ドライバーの応急処理能力はすばらしい。日本人ドライバーとは桁外れに立派だ。ファンのないランクルはボンネットをはずし(空冷式)、使用には耐えなかったが、どうにか最後までついてきたようだ。途中、場所によっては中国側案内人(保安)がトラックにやってきて(楼蘭故城や楼蘭墳墓)、はみ出した添乗員がわれわれの車にやってきたので5人の乗車になったときは非常に狭く、これで長距離はしんど過ぎると思われた。
楼蘭をはじめて発見したのは誰だろうか。ヘディン(エルデック)あるいはスタインか。ある日、王国が忽然として砂漠の中に消えた。そんなことほんとかいな、まるでイタリアのボンベイのようではないか。また湖が北から南へ、南から北へとさまよい歩くという(ヘディンの1600年周期説)。その王国の名は楼蘭、彷徨える湖の名はロプ・ノール(彷徨える湖なんてありえないし、この件に関して次郎の新しい学説を発表する予定)。そんなことホンマかいな。いづれにしても、謎がなぞを呼び、大きなロマンを掻きたてる。
-
上に飛鳥なく、下に走獣無しといわれる砂漠地帯(空に飛鳥無く、地上に走獣無し、ただ死人の枯骨を以て道しるべとなすのみ)といわれているが、実際には野生のラクダが生息しており、われわれも実際遭遇した。また、獣(狼やトラ?)にやられたラクダの屍骸も発見したし、天山越えのコルでは大きな鹿の死体も見かけた。天山の山麓(南側)には猟師小屋も見かけたものだ。コガネムシのような昆虫も糞ころがしも確認できた。この枯れ切った砂漠の中にも、結構生き物の痕跡を認めることができた。道も車の轍の痕もしっかり付いており、河床もあり、シュプールを辿って行けばどこかにつけるようだった。しかし、ヤルダンとメサはその姿は変貌し、あるいは茸のようでもあり、島となったり、妖怪であったり自由自在に変化してその姿を留め、全く起伏のない砂漠や集団墓地のように饅頭の小山が無数に存在したり、葦だけがタマリスクだけがその上に生えているといった奇形もあり、よくもまあ自然のなす造型の業をこれでもか、これでもかと見せ付けられた。砂沙漠はますます深く雲母の含んだパウダーで軽く舞いあがり、車をも飲み込んでしまうと言う妖怪の世界でもあった。
唐の詩人王維はクチャ(庫車)に赴任するとき
渭城朝雨軽塵潤(渭城の朝雨軽塵を潤し)
客舎青青柳色新(客舎青青柳色新たなり)
君勧更尽一杯酒(君に勧更に尽くせ一杯の酒)
西陽関出故人無(西のかなた陽関出れば故人無らん)
と歌った。唐代でも陽関を出て、砂漠(タクマラカン)に入った者は2度と帰ってこないだろうと、現代では水杯を交わしての出発の思いを込めているのだろう。もともとタクマラカンという意味は一度入ったら二度と出られないという意味だそうだ。古より張騫、甘英、法顕、宋雲、玄奘、悟空、慧超、耶律楚材、長春真人等がここ玉門関(陽関)から熱砂の地獄の砂漠へと旅して行ったのであるが、そのほか商人、遊牧民、兵士、捕虜等が行き来していたに違いないようだ。玄奘三蔵の旅はことに日本人には親しみのあるものだ。玄奘の17年間にも及ぶ旅、インドよりの帰路、再度訪れた高昌国では、もう以前の賑わいが無くツワモノどもの夢の後の廃墟だった。なんと儚いことだったろう。
楼蘭故城址への道は、ロブノール西提からの、約35Kmが大変で、途中数度のスタッグや悪路に泣かされ、この間7〜8時間を要した。途中我われの車2台はスタッグを起こし、他の車と連絡が取れず、一時はビバークも覚悟したほどだった。枯れた胡桐樹を集め焚き火を始めた時、救援のトラックがやって来た。GPSやトランシーバ・携帯電話等の連絡網が完備されているはずが、われわれ2号車・3号車にはその設備がなく、ホントに往生した。簡易GPSの測定では楼蘭故城址まで10Km足らず、一時は徒歩で連絡しようと提案する者もいた。ヤルダンの間の道は車の轍がハッキリしており、まあ軽い砂の道ということで、人間の足で10数センチぐらい食い込むが方向を見失うということは無いと思った。まるで新雪の上をラッセルして進む如くであった。帰路の天山越えでもわれわれ3号車はグループから外れて、他車は数時間探し回ったとのことで、翌日には捜索の為へリコプーターをチャーターしようと思っていたとのことであった。梧桐溝の天山のコル(1450m)で待つこと数時間、やっと合流できたが、一つ間違えれば事故につながりかねず、落陽の奇麗な割には、峠の風は冷たく、峠から少し先え下った風当たりの少ないところに野営のテントを張った。夕食は午後12時を回っていた。やはり最低限各車の連絡だけの取れる手段(トランシーバー)が欲しかった。結果的には事故もなく満足したものだったが、これは中国側旅行社(新疆中信国際旅行社)の怠慢であり、日本側旅行社(日本旅行)の連絡不十分だった。
ロブから楼蘭まで約35Kmはヤルダンの中、昔河が流れていたのか、川筋(河床)がはっきりと認識され、巻貝が多数見受けられた。砂漠の道なんてこんなものだろうか。4駆のランクルでもすぐに砂に埋まってしまう。車の轍だけが道筋に違いないが、細かい流沙が車輪を空回りさせ、4駆輪のタイヤをスリップさせ、進まない。押そうが引こうが、車輪が砂にめりこんでしまう。アリ地獄のようにもがけばもがくほど深みに嵌ってしまう。激しい起伏で、車の振動が激しく、頭を天井に打ち付けるや窓ガラスにぶち当たるや、それこそ大変だった。帽子(スキー帽)のなかにタオルを入れて頭蓋内出血の予防にせいを出さねばならないし、瘤の数は数えきれない。ランクルの車内もち手(つり革)にしがみついているのが、せい一杯で両手とも豆だらけで、水泡が綺麗に何重にも何列にも出来ていた。ホントに凄いの一言に尽きるようだ。今年平山郁夫先生が3度目の楼蘭に行かれるようだが、やはり前2回と同様、ヘリを利用されるに違いないようだ。ご老体ではこのような陸路の訪問は無理だろう。 -
-
-
胡楊の柱。はっきりと人工の細工痕が見て取れる。2000年前の昔此処に大きな甍でもあったのだろうか?
-
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
5