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 ブカレスト、シナイア、ブラン村、ブラショフ、スチャバトゥルチャ<br /><br /><br /> 朝8時前に出発して一路ルーマニアの首都ブカレストを目指した。<br /> 道中窓外に広がる街道筋の民家を座高の高いバスから庭の中までつぶさに観察することができた。農村地帯なので一様に二階建ての母屋を囲んで庭があり、庭には必ずと言っていいぐらい数羽の鶏が放されて長閑に草や地虫をついばんでいる。傍らにはプルンの木が数本植えられ白い花が満開である。<br /><br /><br /> どの家にも井戸が掘ってあり井戸には屋根が設けられている。水道はまだ敷設されておらず井戸水に頼っているようである。赤茶色の瓦葺きの屋根の軒下の壁面には薪木が積み重ねられている家が多く、ガスもまだ使用されていないことを窺わせる。<br /><br /> 道路には馬車の荷車に干し草などの荷を満載して往来している。時に二頭立ての馬車もあり、農場へ作業にでかけるのであろうか空の荷車の上には2〜3人の農夫や農婦が所在なげに乗っており、すれ違う我々のバスを興味深そうに見つめている。行き交う自動車の数もそう多くはない。<br /><br /> <br /><br /> こうした長閑な田園風景は日本の社会から消えて久しいので一際旅情をそそってあまりある。<br /> そして不思議なことに13日間のブルガリア、ルーマニア滞在中にモーターバイクが走行しているのを一度も目撃したことがなかった。<br /><br /><br /> 長い道中、ガイドから聞いたブルガリア人の生活水準について纏めておくと、自由化以降貧富の格差は大きくなっているが、平均的な月収は150$〜200$であるという。<br /><br /><br /> ブルガリアのソフィア市内で感じたことの一つに多分社会主義の時代に建てられたと思われる無粋なデザインのアパート群の壁面の剥落や傷が目につくことであった。傷むに任せて補修が全然できていないのである。このことはアパートだけに限らず、多くの建築物が薄汚れているか壁面の剥落が目立ち補修したり化粧直しをした形跡が窺われないのである。キューバ、ドレスデン、プラハ、ブタペスト等旧社会主義国家の都市で感じたことと同じことがここにもあったのである。言ってみれば社会主義が残した負の遺産がいまだに払拭されずに醜い姿を晒しているのである。生活に追われて補修にまで金が廻らないということなのであろうか。<br /><br /> ドナウ川畔の国境の街ルセには10時50分に到着した。川を超えると向かいはルーマニアである。ブルガリア側とルーマニア側でそれぞれ出国と入国の審査を受けて越境した。<br /><br /><br /> ルーマニアに入ったところで待機していたルーマニアのバスに乗り換え、3日間同行した現地ガイドともお別れである。<br /><br /> ルーマニアのガイドはアリーナさんという若い女性で日本語を目下勉強中であるという。歓迎の挨拶は日本語であったが、細部にわたってのガイドを日本語ですることはまだできないようで添乗員に英語で説明しこれを日本語に通訳する形をとらざるを得ない。<br /><br /> ルーマニアに入ったとたん、今まで一様に瓦葺きの屋根であったのが一様にトタン葺きの屋根に変わった。家の造りや佇まいはブルガリアのときと変化がないのでこの屋根の変化は異様に思えた。ガイドに何か理由があるのか説明を求めたが判らなかった。今でも不思議に思っている。<br /><br /> ブカレストで最初に訪問したのは「国民の館」である。かの悪名高いチャウシェスク大統領が一国の威信をかけて1983年に着工し1,989に失脚するまで建設に執着した宮殿である。素材は大理石を初め全てルーマニア産のものを使い、1ケ年間の国家予算にも匹敵する程の巨費を投じた。日本円で約1500億円に相当するという。その規模たるやアメリカ国防省のペンタゴンに次いで世界第二位、ヨーロッパでは第一位になるという巨大な建物である。遂にこの建物の完成を待たずして彼は失脚してしまったが、贅を尽くした宮殿内部の装飾には天井から壁に至るまで純金が用いられていて目を見張らせるものがある。内部を見学してみると「国民の館」とは名ばかりで私欲を満たし権力を誇示するためだけの目的でつくられたものであることがよく判る。自由化後は無用の長物となってしまったが、巨費を投じた建物だけに野晒しにしておくわけにもいかず、ルーマニアの素材と技術で作り上げた建築物であるということから「国民の館」という名称はそのまま引き継ぎ、貸し事務所、貸し室として利用されることとなり、現在では国会議事堂が内部にあり、各政党の事務所が入居している。国際会議やコンサートにも利用され、また観光物件として運用されているのである。部屋数は3107室もあるという巨大な建物である。<br /><br /><br /><br />  国民の館を起点として約4kmにわたってブカレスト市内を走り抜ける大通りが「統一大通り」である。パリのシャンゼリゼ通りと寸分違わぬ幅と長さにしようとしてチャウシェスクが計画したもので通りには豪華な、かつての政府高官用のマンションが建ち並んでいる。現在では転用されて裕福な一般市民が住んでいるが、この大通りを建設するためにブカレストで最も古い旧市街は破壊されてしまい多くの史跡や歴史的建造物が消滅してしまった。<br /><br /><br /> チャウシェスクという政治家について調べてみると、1918年生まれで1936年に共産党に入党。1965年以降書記長、1967年以来国家評議会議長(74年以来大統領) を兼任した。国家・党・軍の実権を掌握して独裁権力を振るい、ソ連とは一線を画した自主路線をたどり、71年の米中接近では「橋渡し外交」さえ展開した。しかしながら国内では一族約20人による高位高官独占支配を行い厳格な警察国家体制を敷いた。経済的には70年代後半に急増した対外債務返済のため、国内の産出物は農産物を初め目ぼしいものは全て輸出に向け国民には耐乏生活を強制した。更に農業不振は基本的な食料確保すら危うくした。こうした中、彼は国民の不満をそらせるため西部のトランシルバニア地区に住むマジャール系少数民族に対する抑圧を強化してハンガリー及び西側諸国との間に摩擦を引き起し政権基盤を揺すぶられることとなった。こうした中、89年の東欧での一連の変革の波を受け、西部のティミショアラでの反政府のデモ隊と治安部隊との衝突が起き、全国的な規模に発展していった。やがて兵士が市民に合流し89年12月22日、チャウシェスク夫妻が逮捕され24年間の独裁政権は崩壊した。12月25日には非公開の軍事法廷で夫妻は死刑の判決を受け即刻銃殺された。<br /><br /><br /> チャウシェスクの統治方法を仔細に調べてみると現在の北朝鮮の金正日政権と似通っており、金政権は近い将来ルーマニア型の革命で崩壊するであろうことが予見される。国民を飢餓線上におき言論の自由を統制する秘密警察国家は必ず破綻をきたすのは歴史の鉄則だからである。<br /><br /><br /> ブカレストでは大司教教会、旧国会議事堂、革命広場、旧共産党本部、歴史博物館(旧王宮)、大学図書館等の建物を外から外観だけ見学してブカレスト市内の観光を終えた。<br /><br /> 旧共産党本部にはチャウシェスクが群衆を前に最後の演説を行い、はじめてブーイングが起こって反政府の大合唱となったといわれるバルコニーはそのまま形で残っていた。劇的な終焉で消え去った独裁者の生涯を想うと感慨一入であった。因みにチャウシェスクはこの場での演説中に群衆の怒りを抑えられなくなり、ヘリコプターで一時急場を脱出したのである。<br /><br /> ブルガリア市内を朝出発して次の目的地シナイアへ向かった。シナイアへ向かう道中、田畑の中に石油採掘の小さな油井にポンプが設置されて石油を汲み上げているのを何カ所かで目撃した。それはそれは小規模の装置であったが、ルーマニアで石油が採取できるとは小さな驚きであった。<br /><br /><br /> シナイアはカルパチア山脈の南端の山麓に開けた「カルパチアの真珠」と別称されるレゾート地である。ここにはシナイア修道院とペレシュ城がある。 最初ペレス城を見学した。この城はルーマニアでは初めてのドイツ系の国王カロル1世(1866〜1914)が夏の離宮として19世紀に建設した優雅な城である。折から雪がちらついており、城へ到着した時には雪に覆われた森の中に尖塔が望見され、その佇まいは優雅で一瞬ドイツのノイシュバンシュテイン城に似た造りだなと感じた。雪道を城の構内まで行き、近くから城を色々な角度から鑑賞しかつ撮影した。雪化粧をした森を背景に佇立する城を仔細に観察するとノイシュバンシュタイン城とはまた趣を異にする格別の光景であった。雪が城を引き立てていた。この城ができてからブカレストの貴族達は競ってこの地に別荘を建てたので爾来この地は別荘地として発展した この城から近い場所にシナイアの修道院がある。シナイア修道院は17世紀にワラキアの王侯ミハイル・カンタクジーノがエジプトのシナイア山へ巡礼をし、感激して帰国後この地に修道院を建てシナイア山の名を貰って命名した修道院であり、以後この地の地名となったという謂われが残されている。<br /><br /><br /> 次いでトランシルバニアアルプス山中のブラン村にある通称「ドラキュラ城」を見学した。この城はワラキア公ブラド・ツエペシュ(在位1456〜146 2)の祖父が居城とした城で後にルーマニア王室の離宮として使われたこともある。ドラキュラ伯爵と通称されるツェペシュは実際には子供の頃一度だけこの城を訪れたことがあるだけであるという。<br /><br /><br />  ツェペシュはシギショアラの町に1431年に生まれ、コンスタンチノープルに留学中にビザンチン帝国が1453年に滅亡し,支配者となったオスマントルコのメフメト2 世の捕虜となった。やがて許されて帰国し、ワラキァ公国の支配者となるが、約束であったトルコへの貢納金の支払いを拒否し、スルタンから派遣されてきた兵士を捕らえ生きたまま串刺しにしたことから「串刺し公」と綽名された。歴史上は敵国のトルコと勇敢に戦った名君として評価が高い。ドラキュラの名は彼の父が神聖ローマ帝国皇帝から受けた「龍( ドラゴン) が彫られたメダル」に由来する。彼の父はドラゴンのメダルを授与されたことからドラクル又はドラキュラと呼ばれ、その名が子孫の家名となったのである。また「ドラク」はルーマニア語で「悪魔」を意味している。<br /><br /><br />「吸血鬼ドラキュラ」は彼の行状を年代記で読んだアイルランドの作家ブラム・ストーカーがヨーロッパに古くから伝わる吸血鬼伝説を組み合わせて怪奇小説に仕立てあげたもので、この作品の影響を受けてこのブラン城もいつしかドラキュラの城として一人歩きを始めたのである。<br /><br /><br /> ブラン城を見学後再びバスで今夜の宿泊地ブラショフへ向かった。<br /> ブラショフはルーマニア第二の都市で中世の町並みを残した美しい古都である。町は12世紀にドイツの商人によって建設され、ルーマニア人、ハンガリー人の3民族によって発展してきた。閑静な佇まいのどことなく心の落ち着く感じがする町である ここでは夕闇せまりかけた頃徒歩でスケイ門、黒の教会、聖ニコラエ教会等の外観見学をした。<br /><br /><br /> ルーマニアの最北部、ブコヴィナ地方の中心都市スチャバへ向けて出発した。スチャバは1388年にモルドヴァ公国の首都がおかれ1565年にヤシに遷都するまで大きく発展した古都である。<br /><br />  カルパチァ山脈の山間を谷越え山越えの延々4時間に及ぶ長丁場のドライブであった。このあたりでは一面雪景色で戸外は肌を突き刺すような寒気である。道中、庭先に大きな木樽に重石を乗せてキャベツの漬け物を作っている光景を目撃することができた。また入り口の門と庭の中にある井戸には豪華な屋根が作られており、事情を知らなければ井戸は宗教的な施設ではないかと勘違いしそうな趣のある独特の飾りつけである。<br /><br /><br /> 夕方早い時間にスチャバに到着し大城砦を遠望してからホテルに投宿した。大城砦はモルドヴァ公国の初代のペトゥル1世が1388年にゴシック様式の城砦を築き、ステファン大公の時代に円形の見張塔が増設され難攻不落の堅固な城に完成したのである とても寒い日であったが五つの修道院の見学に終始した。アルボーレ修道院、スチェヴイッツァ修道院、モルドヴイッツァ修道院、フモール修道院、ボロネッツ修道院の順に見て廻った。<br /><br /><br /> これらの修道院は16世紀初頭にモルドヴァ公国のシュテファン大公、ボグダン2世、ペトゥル・ラレシュ公等の歴代名君の治世下に建設されたもので外壁を埋め尽くす鮮やかなフレスコ画が見物である。オスマントルコとの戦争の場面や聖書の場面が描かれている。雨風に晒され太陽の光をあびながら色褪せることもなくよく保存されたものだと不思議な気持ちがした。勿論長い年月の間に落書きされたり剥落したりして傷んでいる個所も沢山あるが、色鮮やかに中世文化の様相をよく現在に伝えている。これらの壁画は文字の読めない中世の農民達に聖書の内容を判りやすく説明するために描かれたものであり、中世の農民達の敬虔な信仰生活を偲ばせてあまりある。<br /><br /><br /> 出発までの待ち時間にホテルの前にある小さな教会へ入ってみた。すると人一人いない薄暗い室内の一段と高い台の上に舟形の柩が設置されていて中には男の老人の遺体が仰臥の状態で安置されていたので一瞬ドキリとした。土気色の顔は蝋人形のような感じであったが、両手は胸の上で組み合わされていた。遺体の顔を常時むき出しにして参会者に別れを告げさせるのがルーマニア正教の葬祭儀礼であるというが,異教徒の我々には異様な感じを与える風習である。あまり気持ちがよいものではないので黙礼してから早々に退散した。それを追いかけるように教会の鐘が大きな音で十数回も高らかに打ち鳴らされた。時を知らせる鐘なのか葬儀が始まるという合図なのか定かではない。<br /><br /><br /> バスは本日の宿泊地ドブロジャ地方のトゥルチャへ向けて出発した。途中、1565年にモルドヴァ公国の首都が置かれ、文教都市として近世ルーマニアを代表する都市として栄えたヤシの街へ途中立ち寄るものの、終日をバスの中で過ごす移動日である。<br /><br /> 一昨日から昨日までに駆け抜けてきた環境条件の厳しいトランシルバニア地方やブコヴィナ地方に比べ現在走行しているモルドヴァ地方は平地が多く、土地も肥沃なようで地平線の彼方まで広大な田畑が広がっている。羊や牛、馬等の家畜が放牧されてのんびりと草を食んでいる風景はニュージーランドの牧羊地帯を連想させる。また起伏の多い丘陵地帯のよく手入れされた小麦畑は北海道の美瑛地区の光景とも重なるものがある。一面に葡萄が植えられている田畑はフランスの田園風景を連想させる。<br /><br /><br /> 今まで世界各地を訪問して農村地帯はずいぶん見てきたが、知らず知らず歴訪地の光景と比較しながら見ている自分がいるのに気が付いて驚いたりする道中であった。 単調な光景に見飽きたのか居眠りをしている同行者が多い中で移り行く景色を飽かずに眺めている自分は少し他人とはずれているのかな等と思いながらも眠たくないのだから景色を眺めているしか術がない。それはともあれ、この地方の農家の佇まいや田畑の様相は豊かに見える。<br /><br /><br /> やがてヤシの市内へ到着し、チャウシェスク大統領がそのベランダで演説したこともあるという統一広場に面したトレインホテルで昼食を摂った。<br /><br /><br /> ここでは文化宮殿までバスで運んで貰い、目抜きの大通りをトレインホテルまで約1時間散策した。静かな佇まいで中世の由緒ありげな建物が建ち並び美しい街である三聖人の教会、メテロポリタン教会、貴族の館等では立ち止まり外観見学をしてヤシ市街の観光を終え再びバスでトゥルチャを目指して長丁場の移動が始まった。<br /><br /><br /> 途中、ゲオルゲ公が三兄弟教会をもデルにして創建したといわれる要塞僧院に立ち寄りこれを見学した。男子修道院である。ここにある公衆便所はひどい代物で中国の山村を思い出し、密かに裏へ周り込み青空トイレを満喫した。<br /><br /> ドゥルチャへ行くためにはドナウ川を渡るために短時間フェリーボートに乗らなければならない。フェリーボートは1時間毎の運航なので17時のフェリーに乗船する計画で本日の旅程は組まれている。道路渋滞に巻き込まれたり、小休止で時間をロスしたりすることもなかった。バスは快適に走行していた。<br /><br /><br /> ところが市街地の中でもないのにバスが突然急停車してしまった。時計は5時に40分程前である。フェリー乗り場の近くまできている時間帯である。すわ何事かと運転手の方へ視線を転じると黄色いジャケットを装着したポリスが二人バスの前に立ちはだかっている。パトロールカーは道端に駐車してある。どうやらスピード違反を犯してしまったらしい。<br /><br /><br /> 運転手が降りていき警察官にしきりに談じ込んでいたが、パトカーのところまで連れて行かれて調書を取られている。時間はあっという間に飛んで行き20分程がまたたくまに過ぎてしまった。どうも五時のフェリーには間に合いそうもない。<br /><br /> やがて運転手が解放されて帰ってきて慌ただしくバスを発進させた。乗り合わせた一同はそれぞれにひそひそ話で一時間船着き場で過ごす方法を相談している模様である。<br /><br /><br /> 丁度時計の針が5時を示したところで船着き場に到着した。フエリーボートにはまだ乗用車が何台か乗り込んでいる最中であった。船内には車がぎっしり詰め込まれて大型バスの入りこむ余地はなさそうに見える。運転手は現地ガイドと一緒にフェリーまで交渉にでかけた。一同が固唾を飲んで見守る中を運転手が笑顔で帰ってきるのが見えた。乗せて貰えるらしい。期せずして一斉に拍手が沸き上がった。フェリーでは車が少しずつ移動してバスの乗り入れられる場所の確保に動き出したようである。出来上がった空間にバスが滑り込んでフェリーは所定時間に約10分遅れて出航した。15分程の航海で対岸に着いてしまった。<br /><br /><br /> 船着場のすぐ近くのホテルに投宿した。顛末を聞いてみるとフェリーには先着順に乗船するので積み残されないように一刻も早く船着場に到着したくて運転手はスピードをあげたらしい。そこを運悪くパトカーに捕まってしまい罰金を10ドル個人負担で払わされることになったということであった。<br /><br /><br /> ホテル専用の船着場から専用船に乗り込み、ドナウ川の一支流であるドゥルチャ支流のクルーズが始まった。ドナウ川と黒海に挟まれた湿地帯はヨーロッパ最後の秘境といわれ、野生動物の宝庫といわれるところである。運がよければペリカン等を見ることもできるということであったが、実際には鳥を少々見ることができただけでマングローブのように生い茂る原生林の中を静かに航行するクルーズは単調極まりないものであった。その中にあって漁師達が粗末な苫屋を建てて仮住まいをしている近くに放し飼いされている飼い犬が対岸の岸を船の進行方向へどこまでもついて来るのが僅かに無聊を慰めてくれた。パンを投げてやると川の中へ飛び込んで取りに泳いでくる姿はいじらしくさえ思えた。また環境条件の厳しい湿地に芦葺きの粗末な苫屋に仮住まいして漁に勤しむ彼等の貧しい生活のことを考えていた。<br /><br /> <br /><br /> このクルーズ中、ハーモニカの上手な人が居て演奏し、船旅の抒情を慰め、かつ高めて下さった。リクエストに応じて、軍歌やら懐かしのメロディーやらしきりに熱演をして下さったが、そのうち帽子を持って御祝儀を集めようとする女性が現れた。<br /> 彼女は運転手がスピード違反で罰金を個人負担するのは可哀そうだし、我々としても彼の熱意に対して感謝の意を具体的に表したいから心ある方はご協力戴きたいとの口上で聴衆の間を廻り出したのである。この善意の行為に一同異論のある人もなく進んでなにがしかの札やら銭が競うように投じられた。<br /><br /><br /> 運転手の罰金はカバーしてあまりある金員が集められ、添乗員から運転手に手渡して貰い大変喜ばれた。国境を越えて心と心がつうじあう心温まる出来事であった。<br /><br /><br /> かくして今回の旅行は終盤を迎えた。<br /> 朝はゆっくり起き出してブカレストまでの長い移動の一日であった。<br /> 道端で道路脇に若者が座って通りかかる車に対して両手を広げて大きさを示しているのを目撃した。ガイドの説明ではその大きさの魚を持っているが買わないかというアピールだということであった。そして道路には荷馬車が相変わらずのんびりと往来していた。<br /> 途中スローボーズヤという町のレストランで昼食を摂ったときデザートのアイスクリームに線香花火が仕掛けられていたのは一興であり旅の締めくくりとして印象に残るもてなしであった。<br /><br /><br /> ブカレストでは余裕時間を消化するため、自由市場を見学した。自分で作った野菜類を並べて売っている農民達の姿にも心なしか自由化した経済社会の中で豊かな生活を築いていこうという意気込みのようなものが感じられ、享受している自由のありがたさを噛みしめているように見えた。野菜類が多く並べられていたが、何故か大根だけは姿が見られなかった。そして今回の旅行期間を通じて40回程の食事でもついぞ大根の姿を見かけなかった。<br /><br /><br />

荷馬車が往来する長閑な田園風景 

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2002/04/08 - 2002/04/13

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早島 潮

早島 潮さん

 ブカレスト、シナイア、ブラン村、ブラショフ、スチャバトゥルチャ


 朝8時前に出発して一路ルーマニアの首都ブカレストを目指した。
 道中窓外に広がる街道筋の民家を座高の高いバスから庭の中までつぶさに観察することができた。農村地帯なので一様に二階建ての母屋を囲んで庭があり、庭には必ずと言っていいぐらい数羽の鶏が放されて長閑に草や地虫をついばんでいる。傍らにはプルンの木が数本植えられ白い花が満開である。


 どの家にも井戸が掘ってあり井戸には屋根が設けられている。水道はまだ敷設されておらず井戸水に頼っているようである。赤茶色の瓦葺きの屋根の軒下の壁面には薪木が積み重ねられている家が多く、ガスもまだ使用されていないことを窺わせる。

 道路には馬車の荷車に干し草などの荷を満載して往来している。時に二頭立ての馬車もあり、農場へ作業にでかけるのであろうか空の荷車の上には2〜3人の農夫や農婦が所在なげに乗っており、すれ違う我々のバスを興味深そうに見つめている。行き交う自動車の数もそう多くはない。



 こうした長閑な田園風景は日本の社会から消えて久しいので一際旅情をそそってあまりある。
 そして不思議なことに13日間のブルガリア、ルーマニア滞在中にモーターバイクが走行しているのを一度も目撃したことがなかった。


 長い道中、ガイドから聞いたブルガリア人の生活水準について纏めておくと、自由化以降貧富の格差は大きくなっているが、平均的な月収は150$〜200$であるという。


 ブルガリアのソフィア市内で感じたことの一つに多分社会主義の時代に建てられたと思われる無粋なデザインのアパート群の壁面の剥落や傷が目につくことであった。傷むに任せて補修が全然できていないのである。このことはアパートだけに限らず、多くの建築物が薄汚れているか壁面の剥落が目立ち補修したり化粧直しをした形跡が窺われないのである。キューバ、ドレスデン、プラハ、ブタペスト等旧社会主義国家の都市で感じたことと同じことがここにもあったのである。言ってみれば社会主義が残した負の遺産がいまだに払拭されずに醜い姿を晒しているのである。生活に追われて補修にまで金が廻らないということなのであろうか。

 ドナウ川畔の国境の街ルセには10時50分に到着した。川を超えると向かいはルーマニアである。ブルガリア側とルーマニア側でそれぞれ出国と入国の審査を受けて越境した。


 ルーマニアに入ったところで待機していたルーマニアのバスに乗り換え、3日間同行した現地ガイドともお別れである。

 ルーマニアのガイドはアリーナさんという若い女性で日本語を目下勉強中であるという。歓迎の挨拶は日本語であったが、細部にわたってのガイドを日本語ですることはまだできないようで添乗員に英語で説明しこれを日本語に通訳する形をとらざるを得ない。

 ルーマニアに入ったとたん、今まで一様に瓦葺きの屋根であったのが一様にトタン葺きの屋根に変わった。家の造りや佇まいはブルガリアのときと変化がないのでこの屋根の変化は異様に思えた。ガイドに何か理由があるのか説明を求めたが判らなかった。今でも不思議に思っている。

 ブカレストで最初に訪問したのは「国民の館」である。かの悪名高いチャウシェスク大統領が一国の威信をかけて1983年に着工し1,989に失脚するまで建設に執着した宮殿である。素材は大理石を初め全てルーマニア産のものを使い、1ケ年間の国家予算にも匹敵する程の巨費を投じた。日本円で約1500億円に相当するという。その規模たるやアメリカ国防省のペンタゴンに次いで世界第二位、ヨーロッパでは第一位になるという巨大な建物である。遂にこの建物の完成を待たずして彼は失脚してしまったが、贅を尽くした宮殿内部の装飾には天井から壁に至るまで純金が用いられていて目を見張らせるものがある。内部を見学してみると「国民の館」とは名ばかりで私欲を満たし権力を誇示するためだけの目的でつくられたものであることがよく判る。自由化後は無用の長物となってしまったが、巨費を投じた建物だけに野晒しにしておくわけにもいかず、ルーマニアの素材と技術で作り上げた建築物であるということから「国民の館」という名称はそのまま引き継ぎ、貸し事務所、貸し室として利用されることとなり、現在では国会議事堂が内部にあり、各政党の事務所が入居している。国際会議やコンサートにも利用され、また観光物件として運用されているのである。部屋数は3107室もあるという巨大な建物である。



国民の館を起点として約4kmにわたってブカレスト市内を走り抜ける大通りが「統一大通り」である。パリのシャンゼリゼ通りと寸分違わぬ幅と長さにしようとしてチャウシェスクが計画したもので通りには豪華な、かつての政府高官用のマンションが建ち並んでいる。現在では転用されて裕福な一般市民が住んでいるが、この大通りを建設するためにブカレストで最も古い旧市街は破壊されてしまい多くの史跡や歴史的建造物が消滅してしまった。


 チャウシェスクという政治家について調べてみると、1918年生まれで1936年に共産党に入党。1965年以降書記長、1967年以来国家評議会議長(74年以来大統領) を兼任した。国家・党・軍の実権を掌握して独裁権力を振るい、ソ連とは一線を画した自主路線をたどり、71年の米中接近では「橋渡し外交」さえ展開した。しかしながら国内では一族約20人による高位高官独占支配を行い厳格な警察国家体制を敷いた。経済的には70年代後半に急増した対外債務返済のため、国内の産出物は農産物を初め目ぼしいものは全て輸出に向け国民には耐乏生活を強制した。更に農業不振は基本的な食料確保すら危うくした。こうした中、彼は国民の不満をそらせるため西部のトランシルバニア地区に住むマジャール系少数民族に対する抑圧を強化してハンガリー及び西側諸国との間に摩擦を引き起し政権基盤を揺すぶられることとなった。こうした中、89年の東欧での一連の変革の波を受け、西部のティミショアラでの反政府のデモ隊と治安部隊との衝突が起き、全国的な規模に発展していった。やがて兵士が市民に合流し89年12月22日、チャウシェスク夫妻が逮捕され24年間の独裁政権は崩壊した。12月25日には非公開の軍事法廷で夫妻は死刑の判決を受け即刻銃殺された。


 チャウシェスクの統治方法を仔細に調べてみると現在の北朝鮮の金正日政権と似通っており、金政権は近い将来ルーマニア型の革命で崩壊するであろうことが予見される。国民を飢餓線上におき言論の自由を統制する秘密警察国家は必ず破綻をきたすのは歴史の鉄則だからである。


 ブカレストでは大司教教会、旧国会議事堂、革命広場、旧共産党本部、歴史博物館(旧王宮)、大学図書館等の建物を外から外観だけ見学してブカレスト市内の観光を終えた。

 旧共産党本部にはチャウシェスクが群衆を前に最後の演説を行い、はじめてブーイングが起こって反政府の大合唱となったといわれるバルコニーはそのまま形で残っていた。劇的な終焉で消え去った独裁者の生涯を想うと感慨一入であった。因みにチャウシェスクはこの場での演説中に群衆の怒りを抑えられなくなり、ヘリコプターで一時急場を脱出したのである。

 ブルガリア市内を朝出発して次の目的地シナイアへ向かった。シナイアへ向かう道中、田畑の中に石油採掘の小さな油井にポンプが設置されて石油を汲み上げているのを何カ所かで目撃した。それはそれは小規模の装置であったが、ルーマニアで石油が採取できるとは小さな驚きであった。


 シナイアはカルパチア山脈の南端の山麓に開けた「カルパチアの真珠」と別称されるレゾート地である。ここにはシナイア修道院とペレシュ城がある。 最初ペレス城を見学した。この城はルーマニアでは初めてのドイツ系の国王カロル1世(1866〜1914)が夏の離宮として19世紀に建設した優雅な城である。折から雪がちらついており、城へ到着した時には雪に覆われた森の中に尖塔が望見され、その佇まいは優雅で一瞬ドイツのノイシュバンシュテイン城に似た造りだなと感じた。雪道を城の構内まで行き、近くから城を色々な角度から鑑賞しかつ撮影した。雪化粧をした森を背景に佇立する城を仔細に観察するとノイシュバンシュタイン城とはまた趣を異にする格別の光景であった。雪が城を引き立てていた。この城ができてからブカレストの貴族達は競ってこの地に別荘を建てたので爾来この地は別荘地として発展した この城から近い場所にシナイアの修道院がある。シナイア修道院は17世紀にワラキアの王侯ミハイル・カンタクジーノがエジプトのシナイア山へ巡礼をし、感激して帰国後この地に修道院を建てシナイア山の名を貰って命名した修道院であり、以後この地の地名となったという謂われが残されている。


 次いでトランシルバニアアルプス山中のブラン村にある通称「ドラキュラ城」を見学した。この城はワラキア公ブラド・ツエペシュ(在位1456〜146 2)の祖父が居城とした城で後にルーマニア王室の離宮として使われたこともある。ドラキュラ伯爵と通称されるツェペシュは実際には子供の頃一度だけこの城を訪れたことがあるだけであるという。


ツェペシュはシギショアラの町に1431年に生まれ、コンスタンチノープルに留学中にビザンチン帝国が1453年に滅亡し,支配者となったオスマントルコのメフメト2 世の捕虜となった。やがて許されて帰国し、ワラキァ公国の支配者となるが、約束であったトルコへの貢納金の支払いを拒否し、スルタンから派遣されてきた兵士を捕らえ生きたまま串刺しにしたことから「串刺し公」と綽名された。歴史上は敵国のトルコと勇敢に戦った名君として評価が高い。ドラキュラの名は彼の父が神聖ローマ帝国皇帝から受けた「龍( ドラゴン) が彫られたメダル」に由来する。彼の父はドラゴンのメダルを授与されたことからドラクル又はドラキュラと呼ばれ、その名が子孫の家名となったのである。また「ドラク」はルーマニア語で「悪魔」を意味している。


「吸血鬼ドラキュラ」は彼の行状を年代記で読んだアイルランドの作家ブラム・ストーカーがヨーロッパに古くから伝わる吸血鬼伝説を組み合わせて怪奇小説に仕立てあげたもので、この作品の影響を受けてこのブラン城もいつしかドラキュラの城として一人歩きを始めたのである。


 ブラン城を見学後再びバスで今夜の宿泊地ブラショフへ向かった。
 ブラショフはルーマニア第二の都市で中世の町並みを残した美しい古都である。町は12世紀にドイツの商人によって建設され、ルーマニア人、ハンガリー人の3民族によって発展してきた。閑静な佇まいのどことなく心の落ち着く感じがする町である ここでは夕闇せまりかけた頃徒歩でスケイ門、黒の教会、聖ニコラエ教会等の外観見学をした。


 ルーマニアの最北部、ブコヴィナ地方の中心都市スチャバへ向けて出発した。スチャバは1388年にモルドヴァ公国の首都がおかれ1565年にヤシに遷都するまで大きく発展した古都である。

カルパチァ山脈の山間を谷越え山越えの延々4時間に及ぶ長丁場のドライブであった。このあたりでは一面雪景色で戸外は肌を突き刺すような寒気である。道中、庭先に大きな木樽に重石を乗せてキャベツの漬け物を作っている光景を目撃することができた。また入り口の門と庭の中にある井戸には豪華な屋根が作られており、事情を知らなければ井戸は宗教的な施設ではないかと勘違いしそうな趣のある独特の飾りつけである。


 夕方早い時間にスチャバに到着し大城砦を遠望してからホテルに投宿した。大城砦はモルドヴァ公国の初代のペトゥル1世が1388年にゴシック様式の城砦を築き、ステファン大公の時代に円形の見張塔が増設され難攻不落の堅固な城に完成したのである とても寒い日であったが五つの修道院の見学に終始した。アルボーレ修道院、スチェヴイッツァ修道院、モルドヴイッツァ修道院、フモール修道院、ボロネッツ修道院の順に見て廻った。


 これらの修道院は16世紀初頭にモルドヴァ公国のシュテファン大公、ボグダン2世、ペトゥル・ラレシュ公等の歴代名君の治世下に建設されたもので外壁を埋め尽くす鮮やかなフレスコ画が見物である。オスマントルコとの戦争の場面や聖書の場面が描かれている。雨風に晒され太陽の光をあびながら色褪せることもなくよく保存されたものだと不思議な気持ちがした。勿論長い年月の間に落書きされたり剥落したりして傷んでいる個所も沢山あるが、色鮮やかに中世文化の様相をよく現在に伝えている。これらの壁画は文字の読めない中世の農民達に聖書の内容を判りやすく説明するために描かれたものであり、中世の農民達の敬虔な信仰生活を偲ばせてあまりある。


 出発までの待ち時間にホテルの前にある小さな教会へ入ってみた。すると人一人いない薄暗い室内の一段と高い台の上に舟形の柩が設置されていて中には男の老人の遺体が仰臥の状態で安置されていたので一瞬ドキリとした。土気色の顔は蝋人形のような感じであったが、両手は胸の上で組み合わされていた。遺体の顔を常時むき出しにして参会者に別れを告げさせるのがルーマニア正教の葬祭儀礼であるというが,異教徒の我々には異様な感じを与える風習である。あまり気持ちがよいものではないので黙礼してから早々に退散した。それを追いかけるように教会の鐘が大きな音で十数回も高らかに打ち鳴らされた。時を知らせる鐘なのか葬儀が始まるという合図なのか定かではない。


 バスは本日の宿泊地ドブロジャ地方のトゥルチャへ向けて出発した。途中、1565年にモルドヴァ公国の首都が置かれ、文教都市として近世ルーマニアを代表する都市として栄えたヤシの街へ途中立ち寄るものの、終日をバスの中で過ごす移動日である。

 一昨日から昨日までに駆け抜けてきた環境条件の厳しいトランシルバニア地方やブコヴィナ地方に比べ現在走行しているモルドヴァ地方は平地が多く、土地も肥沃なようで地平線の彼方まで広大な田畑が広がっている。羊や牛、馬等の家畜が放牧されてのんびりと草を食んでいる風景はニュージーランドの牧羊地帯を連想させる。また起伏の多い丘陵地帯のよく手入れされた小麦畑は北海道の美瑛地区の光景とも重なるものがある。一面に葡萄が植えられている田畑はフランスの田園風景を連想させる。


 今まで世界各地を訪問して農村地帯はずいぶん見てきたが、知らず知らず歴訪地の光景と比較しながら見ている自分がいるのに気が付いて驚いたりする道中であった。 単調な光景に見飽きたのか居眠りをしている同行者が多い中で移り行く景色を飽かずに眺めている自分は少し他人とはずれているのかな等と思いながらも眠たくないのだから景色を眺めているしか術がない。それはともあれ、この地方の農家の佇まいや田畑の様相は豊かに見える。


 やがてヤシの市内へ到着し、チャウシェスク大統領がそのベランダで演説したこともあるという統一広場に面したトレインホテルで昼食を摂った。


 ここでは文化宮殿までバスで運んで貰い、目抜きの大通りをトレインホテルまで約1時間散策した。静かな佇まいで中世の由緒ありげな建物が建ち並び美しい街である三聖人の教会、メテロポリタン教会、貴族の館等では立ち止まり外観見学をしてヤシ市街の観光を終え再びバスでトゥルチャを目指して長丁場の移動が始まった。


 途中、ゲオルゲ公が三兄弟教会をもデルにして創建したといわれる要塞僧院に立ち寄りこれを見学した。男子修道院である。ここにある公衆便所はひどい代物で中国の山村を思い出し、密かに裏へ周り込み青空トイレを満喫した。

 ドゥルチャへ行くためにはドナウ川を渡るために短時間フェリーボートに乗らなければならない。フェリーボートは1時間毎の運航なので17時のフェリーに乗船する計画で本日の旅程は組まれている。道路渋滞に巻き込まれたり、小休止で時間をロスしたりすることもなかった。バスは快適に走行していた。


 ところが市街地の中でもないのにバスが突然急停車してしまった。時計は5時に40分程前である。フェリー乗り場の近くまできている時間帯である。すわ何事かと運転手の方へ視線を転じると黄色いジャケットを装着したポリスが二人バスの前に立ちはだかっている。パトロールカーは道端に駐車してある。どうやらスピード違反を犯してしまったらしい。


 運転手が降りていき警察官にしきりに談じ込んでいたが、パトカーのところまで連れて行かれて調書を取られている。時間はあっという間に飛んで行き20分程がまたたくまに過ぎてしまった。どうも五時のフェリーには間に合いそうもない。

 やがて運転手が解放されて帰ってきて慌ただしくバスを発進させた。乗り合わせた一同はそれぞれにひそひそ話で一時間船着き場で過ごす方法を相談している模様である。


 丁度時計の針が5時を示したところで船着き場に到着した。フエリーボートにはまだ乗用車が何台か乗り込んでいる最中であった。船内には車がぎっしり詰め込まれて大型バスの入りこむ余地はなさそうに見える。運転手は現地ガイドと一緒にフェリーまで交渉にでかけた。一同が固唾を飲んで見守る中を運転手が笑顔で帰ってきるのが見えた。乗せて貰えるらしい。期せずして一斉に拍手が沸き上がった。フェリーでは車が少しずつ移動してバスの乗り入れられる場所の確保に動き出したようである。出来上がった空間にバスが滑り込んでフェリーは所定時間に約10分遅れて出航した。15分程の航海で対岸に着いてしまった。


 船着場のすぐ近くのホテルに投宿した。顛末を聞いてみるとフェリーには先着順に乗船するので積み残されないように一刻も早く船着場に到着したくて運転手はスピードをあげたらしい。そこを運悪くパトカーに捕まってしまい罰金を10ドル個人負担で払わされることになったということであった。


 ホテル専用の船着場から専用船に乗り込み、ドナウ川の一支流であるドゥルチャ支流のクルーズが始まった。ドナウ川と黒海に挟まれた湿地帯はヨーロッパ最後の秘境といわれ、野生動物の宝庫といわれるところである。運がよければペリカン等を見ることもできるということであったが、実際には鳥を少々見ることができただけでマングローブのように生い茂る原生林の中を静かに航行するクルーズは単調極まりないものであった。その中にあって漁師達が粗末な苫屋を建てて仮住まいをしている近くに放し飼いされている飼い犬が対岸の岸を船の進行方向へどこまでもついて来るのが僅かに無聊を慰めてくれた。パンを投げてやると川の中へ飛び込んで取りに泳いでくる姿はいじらしくさえ思えた。また環境条件の厳しい湿地に芦葺きの粗末な苫屋に仮住まいして漁に勤しむ彼等の貧しい生活のことを考えていた。



 このクルーズ中、ハーモニカの上手な人が居て演奏し、船旅の抒情を慰め、かつ高めて下さった。リクエストに応じて、軍歌やら懐かしのメロディーやらしきりに熱演をして下さったが、そのうち帽子を持って御祝儀を集めようとする女性が現れた。
 彼女は運転手がスピード違反で罰金を個人負担するのは可哀そうだし、我々としても彼の熱意に対して感謝の意を具体的に表したいから心ある方はご協力戴きたいとの口上で聴衆の間を廻り出したのである。この善意の行為に一同異論のある人もなく進んでなにがしかの札やら銭が競うように投じられた。


 運転手の罰金はカバーしてあまりある金員が集められ、添乗員から運転手に手渡して貰い大変喜ばれた。国境を越えて心と心がつうじあう心温まる出来事であった。


 かくして今回の旅行は終盤を迎えた。
 朝はゆっくり起き出してブカレストまでの長い移動の一日であった。
 道端で道路脇に若者が座って通りかかる車に対して両手を広げて大きさを示しているのを目撃した。ガイドの説明ではその大きさの魚を持っているが買わないかというアピールだということであった。そして道路には荷馬車が相変わらずのんびりと往来していた。
 途中スローボーズヤという町のレストランで昼食を摂ったときデザートのアイスクリームに線香花火が仕掛けられていたのは一興であり旅の締めくくりとして印象に残るもてなしであった。


 ブカレストでは余裕時間を消化するため、自由市場を見学した。自分で作った野菜類を並べて売っている農民達の姿にも心なしか自由化した経済社会の中で豊かな生活を築いていこうという意気込みのようなものが感じられ、享受している自由のありがたさを噛みしめているように見えた。野菜類が多く並べられていたが、何故か大根だけは姿が見られなかった。そして今回の旅行期間を通じて40回程の食事でもついぞ大根の姿を見かけなかった。


  • 長閑な荷馬車

    長閑な荷馬車

  • ブカレスト。国民の館

    ブカレスト。国民の館

  • ブカレスト。共産党本部

    ブカレスト。共産党本部

  • ブカレスト。凱旋門

    ブカレスト。凱旋門

  • ブカレスト。大主教教会

    ブカレスト。大主教教会

  • フォークローアの踊り

    フォークローアの踊り

  • ブルガリアとルーマニアの国境

    ブルガリアとルーマニアの国境

  • シナイアのペレス城

    シナイアのペレス城

  • シナイアのペレス城

    シナイアのペレス城

  • シナイアのペレス城

    シナイアのペレス城

  • シナイアのペレス城

    シナイアのペレス城

  • シナイア修道院

    シナイア修道院

  • シナイアの別荘地

    シナイアの別荘地

  • ドラキュラ城

    ドラキュラ城

  • ドラキュラ城

    ドラキュラ城

  • ミカズ渓谷

    ミカズ渓谷

  • ミカズ渓谷

    ミカズ渓谷

  • スチャバ。大城砦

    スチャバ。大城砦

  • アルボーレ僧院

    アルボーレ僧院

  • アルボーレ僧院の壁画

    アルボーレ僧院の壁画

  • 門の飾り

    門の飾り

  • スチェビッツァ寺院

    スチェビッツァ寺院

  • スチェビッツァ寺院

    スチェビッツァ寺院

  • モルドヴィッツア僧院

    モルドヴィッツア僧院

  • モルドヴィッツア僧院の壁画

    モルドヴィッツア僧院の壁画

  • モルドヴィッツア僧院の壁画

    モルドヴィッツア僧院の壁画

  • フモール僧院

    フモール僧院

  • 子供の売り子

    子供の売り子

  • ボロネッツ僧院

    ボロネッツ僧院

  • ボロネッツ僧院の壁画

    ボロネッツ僧院の壁画

  • ヤシ。三聖人教会

    ヤシ。三聖人教会

  • ヤシ。文化宮殿

    ヤシ。文化宮殿

  • ヤシ。メトロポリタン教会

    ヤシ。メトロポリタン教会

  • 要塞僧院

    要塞僧院

  • ドナウクルーズ

    ドナウクルーズ

  • ドナウ川

    ドナウ川

  • ドナウ川

    ドナウ川

  • ドナウ川

    ドナウ川

  • ブカレストの市場

    ブカレストの市場

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