2001/10/12 - 2001/10/20
3370位(同エリア3997件中)
早島 潮さん
平成13年10月12日(金)
空港へは40分程早く到着した。掲示板に受け付けが何番の窓口で行われるのか何度も確かめに行ったがなかなか掲示がでない。予定の時間になってもまだ掲示がでないので、予想される窓口を覗きにいくと近畿日本ツーリスト、ポーランドという張り紙が見えた。確かめようと中へ入りかけると係員の制止にあって行列に並んでくれという。荷物は後にして確かめるつもりであったがそれも断られてしまった。同時多発テロの影響である。
見渡すといつもと違って旅客も少ないようでむせ返るような熱気がなく閑散とした感じである。
やっと順番がきて中へ入ると中村正一氏がでっぷりした体で待っていた。我々が最後の受け付けになったらしい。掲示がでるまで馬鹿正直にまっていたのが最後になった原因である。もっと厚かましく振る舞わなければという反省しきりである。
預ける荷物の検査で荷物を開けさせられた。飲料水と蚊取り線香の容器が不審に思われたらしい。初めての経験である。添乗員の中村氏は自由化前のポーランドに何回も行ったことがあるらしく、自由化後の社会の変化の模様を聴取するには好都合である。受け付けが遅れたために手待ちの時間もなく流れるように出国手続きを終えて旅行中の飲料としてブランデーとウイスキーを1本づつ求めた。
現地時間15時にアムステルダムのスキポール空港へ着陸した。時差が7時間なので日本ではもう寝ている時間である。一日31時間の長い日である。仮眠室で4時間の待機である。持参した碁盤で一戦交えたが負けてしまった。
ようやく出発時間がきてアムステルダム20時8分に離陸しワルシャワへ向かった。 ワルシャワへの直行便はないのでコペンハーゲン、モスコウ、フランクフルト等を経由することになる。4時間の待機時間は短いほうらしい。まだポーランドは気軽に出掛けるには遠い国である。
ワルシャワには21時36分に着陸した。出迎えの現地ガイドはマギーさんという若い女性である。ワルシャワ大学卒の才媛で熊本に一年間住んだことがあるらしい。旦那が熊本だという。それにしてはなまりのない綺麗な日本語をしゃべる。
ワルシャワ市内の中心地へ入ってすぐ目に入るのは文化科学宮殿である。これはスターリン様式といわれ現地の人達にはすこぶる評判が悪い。バルト三国訪問のときにもスターリン様式は評判が悪かった。現地の人達はスターリンの作った建物は壊そうとしても壊れないがフルシチョフの建てたものはすぐ壊れるという表現があるという。
平成13年10月13日(土)
文化科学宮殿にほど近いメルキュールホテルを朝9時に出発してワジエンキ公園へ行った。この公園は別名浴場公園とも呼ばれている。公園の入り口に大きな銅像が立っていた。ポーランド建国の父といわれるビレウスーツキである。ピウスーツキはリトアニア貴族の出身で医学生時代から独立運動に参加しロシア皇帝アレキサンドル2世の暗殺計画に関与した嫌疑でシベリアに流刑された。帰国後の1892年にポーランド社会党に入党し、党機関紙の編集中に再度流刑されたが脱出した。1904年には来日して独立運動の援助を要請した。当時日本は日露戦争を戦っていた。
彼は第一次世界大戦ではオーストラリア軍所属のポーランド軍団を指揮してロシアと対戦した。1917年10月のロシア革命により同年11月ソビエット政府はポーランドの独立と主権を認めた。第一次大戦でオーストリアとドイツが敗れたため1918年11月ポーランドは共和国として蘇った。このとき彼は国家元首に選出され司令官も兼任し1920年の対ソ連戦では大いに活躍した。彼は右派との対立から一時公職を離れたが1926年クーデターに成功した。その直後の選挙で大統領に選出されたが象徴的な地位の大統領への就任を辞退して実権を掌握した。彼が1932年に死去すると政局は混迷の一途をたどり1939年のナチスの侵略を受けることとなった。彼が国家元首の時日本の軍人8人が招聘されている。また第一次大戦後、日本に預けられたドイツ、オーストリアの捕虜の内でボーランド出身の者達との交流もあった。
彼の兄がサハリンに在住中、ユーカリをエジソン式の蓄音機に録音しており,没後その原盤が発見された。この原盤から音を再生して北海道在住のアイヌの古老に聞かせたところ意味が聞き取れたという裏話もあった。いろんな意味でピウスツーツキは日本に関係の深い人物であった。
公園に入っていくと秋色を帯びた林をバックにして広い池があり池を囲むようにして緑の芝生か植えられている。その芝生の一角に銅像があり人々が群れて写真等を撮っている。ショパンの銅像である。 銅像は柳の木の根元に腰掛けて憂いを含んだ眼差しを下方に投げかけている若いショパンの像である。頭上には柳の枝葉が慰めるように垂れ下がっていた。
公園の中を散策すると豊かに繁った樹木は黄葉しており地上には金色の落ち葉が敷物を広げたように重なっており静かな時間が長閑に流れている。落ち葉の上には孔雀が二羽ゆったりと歩いていた。その傍らには栗鼠がせわしなく餌を漁って走り回っていた。とても印象に残る光景であった。
秋色濃い樹下道を散策しながら「白い家」の前を通り暫く行くと「水上宮」に至る。公園内を流れる川の上に営まれた宮殿である。これらの建物はポーランド最後の王であるスタニスフ・アウグストポーニャ・トーフスキーが18世紀後期に建てたネオ・クラシック様式の建造物である。水に生えてとても美しい。
公園の出口にはヤン3世ソビエフスキーの騎乗の像がある。馬はトルコ兵士を脚で踏みつけている。これは1683年にトルコ軍がウイーンを包囲したときヤン3世ソビエスキーがこれを撃破した姿を表現している。ポーランドの英雄の一人である。
公園を後にして王宮広場へ行って旧王宮と周囲の美しい町並みを見学した。旧王宮は現在は博物館になっている。 第二次世界大戦でワルシャワ市内はその85バーセントが破壊されたが、ワルシャワ市民は根気よく瓦礫を片づけて元の姿に復元したのである。 日本であれば区画整理を行い機能本位の姿に街は変貌するのであろうが、彼らはこの街が栄えた時代の古き良きものを大切にする心を持っていたのである。これはドイツのドレスデンでも感じたことである。
折りから旧宮殿に隣接した空き地に大がかりな舞台が設置されており若者達がエレキの楽器を演奏しながら歌を歌っていた。古い町並みにその光景が何故か一つのアクセントとなって溶け込んでいた。
旧市街のバルバカンを通り抜けて行くとキューリー夫人の生家があって博物館になっている。ここにはキューリー夫人の使用した調度品等ゆかりの品々が陳列されている。
ショパンの心臓が埋葬されていることで有名な聖十字架教会 、戴冠式等の行われた聖ヨハネ大聖堂等を見学してビラヌフ宮殿を見学した。
この宮殿はボーランドのヴェルサイユ宮殿ともいわれ、ヤン3世ソビエスキー王が建立した建物である。室内には豪華なタベストリーや絵画装身具、調度品が展示されていた。天井に描かれたフレスコ画が印象に残った。
最後にユダヤ人達が集められて生活したゲットーの記念碑を見学して本日の観光を終了した。ポーランドにはユダヤ人が比較的多く住んでいたがナチスのホロコーストで400万人もの罪なき人々が虐殺された場所だけに感慨深いものがあった。今では記念碑が立っているだけだが、絵はがきを売っているおじさんが展示している写真の中に一枚考え込まされるものがあった。それは西ドイツのブラント首相がポーランドを訪れて、ゲットー跡でひざまづきポーランドの群衆が環視する中で真剣な表情で犠牲者に謝罪し祈りを捧げている姿であった。この姿をみてポーランド人達はドイツと和解する気持ちになったと伝えられている。1970年ドイツとポーランドの国交が回復した年のことである。
平成13年10月14日(日)
ジェラゾヴァ・ヴォラはワルシャワから約50kmの地点にあるウトラタ川に沿った村でショパンの生誕地である。ここに1931年にショパンの生家が復元され、1949年にはその生家が博物館になった。
この博物館を訪問しショパンの生家の一室でピアニストのカタルツィーナ・モスシーシカ女史の演奏するショパンの下記のピアノ曲を鑑賞した。
Nocturne E flat Major Op.55 no2
5 Preludes Op.28
no20.C Minor
no21.B flat Major
no22.G Minor
no23.F Major
no24.D Minor
Bacarolle sharp Major Op.60
Scherro E Major Op.54
音楽には門外漢であるから居眠りをしても目立たないように一番後ろの席に腰掛けて名曲に耳を傾けた。意味は皆目判らないが快い音色が時には強く時には弱く耳に響き楽しい小一時間の時を過ごすことができた。
案内書を見てみるとショパンの父はフランス人で家庭教師としてこの地へ赴き、フレデリック・スカルべク伯爵の子供達の指導にあたった。伯爵の邸宅には遠縁にあたり将来ショパンの母となるユスティナ・テクラ・クシジャノスカが住んでいたのである。ショパンは生まれて8カ月後に両親とともにワルシャワに移り住むが、成長してからもしばしばここを訪れていて心の故郷になっている。
ショパンの生まれた部屋や家族が使っていた調度品、ピアノ、ショパンの楽譜、幼少期の手紙等も展示されていてショパンの生育した環境を偲ぶことができる。博物館の周囲は公園になっており豊かに樹木が生い茂っていて訪れる者に暫しの憩いを与えてくれる。
ジェラゾヴァ・ヴォラを後にして次の宿泊地ガドヴィッジへ向かった。途中音楽家リュビンシュタインの生家のあるウチェ市で昼食を摂った。リュビンシュタインの生家の前にはピアノを弾くリュビンシュタインの銅像が安置されており、通りには彼の名前がつけられていた。
昼食を摂った後チェンストホーヴァーに立ち寄って「黒い聖母」の安置されているヤナス・グラ僧院を訪問した。ここはポーランド人の聖地になっており、沢山の善男善女がお参りに訪れていた。僧院の中には修道僧達が寄進した宝石や装身具の類や厨子、肖像画等が所狭しと飾られていた。僧院ではミサを、また付設された教会では結婚式を目撃するチャンスに恵まれた。ポーランドの宗教は圧倒的にローマンカトリックであるが、信者達の篤い宗教心のなせるせいか神父の後に続いて信者達が唱和する聖書の一節の音読にも異様な熱気と厳粛さがあり、傍らで参観している異邦人にも身の引き締まるものを感じさせる雰囲気が漂っていた。流石ポーランドにはローマ法王を生み出す宗教的な土壌があるなと感じたものである。
評判の「黒いマドンナ」は祭壇の上部に飾られていたが画面全体が金色の衣服や装身具で覆われ、僅かに顔だけが金色の中に仄かに覗いているだけで絵画として鑑賞することはできなかった。
平成13年10月15日(月)
宿泊したガドヴイッチの町はポーランドの産業地帯の一角にあり、ここでは石炭を産出する。周辺の建物の中には既に暖をとるために暖炉の煙突から石炭の煙を排出しているものもあり、心なしか蒸気機関車で懐かしい石炭の臭いが漂っているように感じた。
オフイシェンチムへ間もなく到着した。ドイツ語ではアウスシュビッツである。先ず目に入るのはポブラ並木のある構内に立ち並んでいる重厚な感じのする煉瓦造りの建物群である。何も予備知識なしに眺めれば軍隊の兵舎が立ち並んでいると思うかもしれない。しかし建物群と敷地を取り巻いて巡らされた高圧電線網を見ると異様な感じがあり、やはり収容所だなと了解するであろうか。
入り口には高圧電線網が張りめぐらされた扉の上に「ARBEIT MACHT FREI 」というドイツ語の文字盤が並んでいる。働けば自由になれるという意味である。ここが悪名高いアウシュビッツ強制収容所である。
ここで日本人ガイドの中谷氏からこれから先は墓参りをする時の気持ちで行動して下さいとの注意と何かテーマを持って観察すれば、自ずから見えてくるものがある筈ですとのコメントがあった。
建物の中を順次見学して回ったが、刈り取った頭髪が夥しい程の量展示されている部屋、様々な大きさと種類の靴が山をなして集積されている部屋、革製の大きなトランクには白いペンキで住所氏名が記入されて沢山集積され展示されている部屋もある。移住させるからと騙されて自分の財産を判別しやすいようにとの指示のもとに記入したと思われる白色のペンキの文字が哀れさをそそる。眼鏡だけ集めて展示してある部屋もある。その量は夥しいとしか言いようのない程である。これらの遺品を前にするとその背後にある意味が自ずから察知できるレイアウトになっていて身の毛がよだつ思いで眺めた。
毒ガスとして使われたチクロンBという薬品の入っていた空き缶の山や、人間の頭髪を混ぜて織られた織物も展示されている。 寝室には蚕棚式の狭いベッドが設けられていて、干し草の屑が敷かれているだけで、家畜の部屋よりも条件は悪いとさえ思える。
共同便所の建物の中には幅1m程のコンクリート製の細長い箱が設置されており、その上には直径25cm位の丸い穴が交互に配置されていた。穴と穴との隔たりは殆ど設けられていない。監視付きでこんな場所で大勢の囚人達が並んで排便している光景を想像するだけでも吐き気を催してきそうな光景であった。
天井から毒ガスを注入されたというガス室も残されているし、死体処理のために設けられた焼却炉も展示されていて人間の魔性もよくぞここまで至れるものだとの思いで一杯であった。
建物の外には処刑のために首を締めて吊るす鉄製の架台や銃殺するために設けられたコンクリート製の壁も残されていてその前には見学者の備えた供花が沢山並んでいた。
建物内の牢獄部屋には立ち尽くしの刑に処する部屋もあった。僅か畳半畳程の狭いコンクリート製の閉ざされた部屋へ4人の囚人が立たたされたまま死ぬまで収監されたという。
建物の中には生体実験のために使われたものもあるという。更にこの収容所の所長夫人は入れ墨のある囚人の革でランプの傘を作らせてコレクションとすることを趣味としていたという事実もあったし、その夫に至っては死体焼却炉の側に風呂を設置して死体が焼けていくのを眺めながら入浴することを楽しみにしていたとも伝えられている。ここまで行くと人間の心は完全に消滅して悪魔そのものである。
収容所の側には鉄道の引き込み線が設けられていて、各地から移住させるからと騙されて列車で連れてこられたユダヤ人やジプシーはここで全員降ろされた。シャワーで汗を流すようにと言われて裸になったところをそのままガス室へ送られて毒殺されたという。そしてこれらの死体を処理すにための労働力として、顔色や体格だけで健康状態を判定され元気そうな者だけが残されて収容所へ収容されたのである。
殺された人達の中には財産を没収されることを警戒して宝石や貴金属類を飲み込んだ者も多数あったらしいが、ナチスは死体を割いてこれら隠された財宝を回収したと言われており、腹を割くためのコンクリート製の処理台も設置されていたという。
アウスシュビッツの収容所から車で5分程走った場所にビルケナウの収容所がある。 40ヘクタールもある広大な敷地が高圧電線で囲まれており構内には木造平屋建ての収容所が何棟か当時の姿のままで残されている。そしてこの収容所構内を監視するための見張り塔が一定の間隔で立ち並んでいる。この収容所では全体の配置を見張り塔の上から外観しただけであったが、ポーランド国内に50箇所近くあった強制収容所の中ではここが最大規模であったという。
ニュールンベルグ裁判のときヘス元所長は収容所で約250万人が殺害されたと証言した。犠牲者はポーランド系をはじめとする各国のユダヤ人、反ナチ活動家、共産主義者、捕虜、ジプシー等世界28カ国400万人にのぼるともいわれている。
アウシュビッツとビルケナウの強制収容所は人間が屑のように扱われ、その死体が資源として利用されたことを証明する場所である。
これらの収容所はゲルマン民族の優秀性を誇り民族浄化政策を掲げるナチスによって人間性の尊厳に対するおぞましい破壊行為が密かに行われ人類史に汚点を残した場所であった。しかし、同時に人間の尊厳を守り、お互いに助け合う場でもあった。他人の身代わりとなって自分の命を犠牲にしたポーランドのコルベ神父はその最たる聖人であった。
アウスシュビッツとビルケナウの強制収容所を見学した後の衝撃はあまりにも大きく、ユダヤ問題について多少詳しく調べてみた。
ユダヤ人は起源前15世紀頃メソポタミア地方からパレスチナに移住したヘブライ人の一部族である。セム族に属し旧約聖書のヤコブの第4子ユダよりその名称がでたといわれる。広義にはヘブライ人の別名であるが、狭義にはイスラエル王国の分裂後南に建国したユダ王国に属した民族。
ユダ王国はヘロデ大王の死後徐々に独立を失い44年には全領域がローマ総督の直轄下に置かれた。これと前後して祖国の独立を求めるゼロット運動(狂信的ユダヤ民族主義者の運動でゼローテスはギリシャ語で神に対して熱心な者の意)が活発化して、総督の失政はユダヤ人を反抗に追いやった。
暴君として悪名の残るネロ皇帝の治世下で遂に反乱となり、一時はユダヤ全域を掌握したが、将軍ヴェスパシアヌスと戦って敗れ、エルサレムは70年に陥落し反乱は失敗に終わった。この時の死者110万人、奴隷として売却された者9万7千人という(第一時ユダヤ戦争)。
ハドリニアヌス帝の治世下で132年バル・コクバの指導のもとに再び反乱が起こったが失敗に終わった。一時逃れていたダキア地方からも追い払われて流浪化(ディアスポラ)が決定的となった。135年のことである。この時の死亡者は50万人に及んだ(第二次ユダヤ戦争)。
分散移住し漂白し、キリスト教を否認してユダヤ教に留まったため特殊な民族とみられ迫害を受けることが多かった。キリスト教全盛の中世ヨーロッパにあっては異教徒であるため活動分野が限定され、商業、金融業に従事せざるを得ず、巨富を築いたことがまた反感を呼んだ。近代に入ってからも経済、学術、芸術等に才能を示す者が多く、各民族の間に混じって活動した。結集力が強く、そのため排他的,独善的であると見做されることが多い。19世紀以降シオニズム運動が起こり、第二次大戦中ナチスによる大量殺戮の悲運に見舞われたが、念願のイスラエル共和国を建国した。
シオニズムはイスラエルの建国運動のことでシオンとはエルサレム近郊の丘の名前でエルサレム市を象徴的にさす。パレスティナに安住の地を建国しようという運動の具体化は1897年のヘルツルによるシオニスト団の結成以後のことになる。しかしこの運動もその方法を巡って数派に分裂して抗争し、パレスチナ在住のアラブ人との紛争もあり、運動は容易に進まなかった。
イギリスは東方政策の立場からこれに関心を持っていたが、第一次世界大戦を遂行する必要上、1917年11月にパルフォア宣言(イギリス外相バルフォアがパレスチナにユダヤ人の民族的母国の建設を認めることをシオニストに約束し宣言)を発し、この運動を支持すると同時にアラブ人支持も約し(フサイン・マクマオン条約)現在の紛争の種を作った。
1920年のサン・レモ会議でパレスティナはイギリスの委任統治領となったが、相反する二つの公約を巡ってアラブ民族とユダヤ人の大紛争がしばしば起こるようになった。そこで1937年イギリスはパレスティナ分割案を発表したが、双方の反対で実現しなかった。
第二次世界大戦後、イギリスは解決を国連に求め、国連総会でイギリスの委任統治廃止、パレスティナのアラブ、ユダヤ両国への分割が決議された。この決定により、1948年5月14日イギリスの委任統治期限の満了とともにイスラエル共和国が誕生した。一方のアラブ諸国は国連の決議を不服としてこれを受け入れなかった。
しかし、イスラエルは建国したものの、エルサレム奪回をめざすアラブ人の諸国に取り囲まれて、紛争の絶えることがなくソ連、イギリスアメリカ等大国の利害の対立を背景にパレスティナ戦争、スエズ紛争等アラブ人との対立が続いている。ユダヤ人はアメリカ合衆国の支援をうけつつアラブ側と争い中東緊張の原点となっている。
バルフォア宣言は中東イギリス軍の対トルコ作戦基地パレスティナ守備のためユダヤ人住民の協力を得る必要から発したものであるが、他方でイギリス政府はフサインマクマオン条約によりオスマン帝国内のアラブ民族の独立を認めていたためこの二つの条約は衝突してアラブ民族とユダヤ民族のパレスティナ獲得紛争を引き起こす原因となったのである。大国のエゴイズムが残した負の遺産である。
9月11日に発生した前代未聞のアメリカ国内での同時多発テロの根も煎じ詰めればこのパレスチナ問題に行き当たる。
9月11日の同時多発テロに対しては国際的な協力のもとに絶滅宣言が発せられタリバン包囲網が結成された。タリバン政権の崩壊も旬日の問題となってきたが、多種類の民族が平和に共存していたところへイギリス、ロシア、アメリカの利害が絡んで混乱を増してしまったというのが実態であろう。ロシアの南進政策がソ連軍のアフガニスタン侵攻をもたらしカスピ海沿岸の天然ガス利権が米英の利権と絡んで大国のエゴイズムが問題を複雑にしている面があるのを否定できない。同時多発テロが契機となってアフガニスタンの貧困と難民問題に漸く世界の耳目が集まり初め真剣に考えようという機運が出始めているのが今回の事件がもたらした皮肉な効果である。人道という名のもとに爆弾の投下と同時に食料品や医薬品の投下される図は21世紀の漫画以外のなにものでもない。
オフィシエンチムで深刻に考え込まされた後、ポーランドの軽井沢といわれるザコパネへ向かった。ザコパネのホテルの側クバロフカ山はスキー場になっており、付設されているリフトに乗ってザコパネ市内を望見したのち市内の木造の古い教会やザコパネ様式による建物を暗い中で見学した。
平成13年10月16日(火)
ザコパネのホテルを出発してヴィエリチカへ向かった。ヴィエリチカの岩塩坑はクラクフから南東10kmの地点に位置するヨーロッパ最古の岩塩採掘場である。700年前から採掘作業が続けられていて、現在も営業採掘が続けられている。ショパン、ゲーテ、ロシア皇帝アレキサンドルI世、オーストリア皇帝フランツヨセフI世等もこの岩塩坑を見学して感動したと伝えられている。
14世紀にカジミシェ大王が街を囲む壁を築き塩の採掘と販売を王が管理することになった。塩からの収入は王室財源の三分の一を占めたこともあり、クラクフ繁栄の基礎であった。坑道の深さは64mから327m、9層、長さは200kmに及ぶ。現在はその上部3層のみが塩の宮殿として一般公開されている。
長い板張りの階段を降りていって目に入る光景は鍾乳洞の特殊なものだと思わせる洞窟である。鍾乳洞と異なっているのは天井から垂れ下がるつららが見当たらないことである。幾つかある広い窟にはそれぞれに岩塩を素材としたキリストや聖母マリア等の彫像が飾られている。これらの彫像は概ね灰色をしていて大理石を思わせる質感である。
伝説によれば当時のポーランドの首都クラクフの近くで白い宝物(岩塩)が発見された頃のポーランド王ポレスワフ・フスティドリヴィはハンガリー王ベラII世の娘キンガ王女と結婚した。この時岩塩坑がハンガリーからポーランドへ移動してきたと信じられている。この伝説を表現したのが「大伝説の間」の岩塩の彫刻である。またこのキンガ王女のお土産に感謝の意を表すために作られたのが地下101mに作られた「キンガ礼拝堂」である。このキンガ礼拝堂は500人を収容できるといわれる地下の大洞窟である。この礼拝堂には岩塩で作られた祭壇があり、岩塩の結晶から作られた大きなシャンデリアが幾つも飾られている。 地下の岩塩坑には病気を治療する効果が早くから発見されていて現在でも採掘跡の空気が自然薬として高く評価されている。
次いで古都クラクフへ向かった。クラクフは日本の京都に例えられる古都である。 クラクフのヴァヴェル丘には9世紀頃からスラブ族の住む部族国家があったと伝えられている。
1320年にヴワディスワフ王がポーランドを統一して首都をクラクフに移した。 その後カジミェシ大王の治世の1364年にクラクフに大学を設立し、ヤギュオ王朝のとき、大学の改革がなされヤギュオ大学と名を変えた。この王は西ヨーロッパで圧迫を受けていたさまよえるユダヤ人を商業振興のために多数この国へ導入し都は栄えた。ヤギュオ王朝(リトアニアとポーランドの連合王国)の時侵略者のドイツ騎士団を1410年グルンヴェルトの戦いで撃破し領土は北はバルト海から南は黒海に至るヨーロッパ最大の国に拡大し大いに栄えた。この頃クラクフはプラハ、ウイーンとともに東ヨーロッパの一大中心地として栄えていた。此の頃のクラクフではヨーロッパ諸国王の会議が開かれヨーロッパ最強の王達が集まってきた。また全ヨーロッパの学者、思想家、芸術家達が集まりクラクフで活動していた。コペルニクスはこの頃の学者である。その頃の名残をとどめるのがヴァヴェル城である。色々な建築様式が混ざりあっているがルネッサンス様式の優れた例として挙げられる城である。
クラクフの街の中央広場は中世ヨーロッパで最大の広場といわれ、周囲を取り囲んで建つギルドハウス等当時の面影をとどめる建物が立ち並んでいる。
平成13年10月17日(水)
クラクフのホテルを出発してザモシティーへ向かう途中、ワニーツートー市で昼食を摂った。昼食を摂ったレストランは16世紀に宮殿として使われた建物でカシミュス大王が1629年に城として築いたものを後に宮殿に改造したものである。建物の中の部屋はドイツ騎士団の館のような趣のあるところであった。庭に生い茂っている大きなプラタナスの木が印象に残った。裏庭の銀杏の紅葉も美しかった。
途中ズーブェジーニァツーの街ではパウロ二世ローマ法王の生まれた教会を外から瞥見しロストチェ地方のローストチャーニーネ国立公園の近くの教会まで林の中を散策したり、林の中へ入って茸狩りをした。茸は毒茸ばかりであったが自然と戯れた貴重な時間であった。
夕方ザモシティに到着し旧ザモイスキ宮殿、大聖堂等を見学した。この街は五角形の形に作られた城郭都市である。ザモイスキーによって1594年に開かれたこじんまりとした中世の都市であった。ここにも街の中央には広場があり、周囲を取り巻くようにギルドハウスが町並みを作っていた。30分もあれば町中を一回りできるほどの小さく纏まった街であった。この街の裏通りを歩いてみると壁がはげ落ちた建物が幾つか見られた。補修に手が回らないという感じで社会主義時代の負の遺産がまだ残っていた。
平成13年10月18日(木)
朝10時半の出発ということで朝のうち大聖堂の内部を見学しているときガイドのマギーさんが階段を踏み外し足首を捻挫してしまうというハプニングが発生し、救急車の出動を要請することになってしまった。骨折はなく捻挫だけであったが、一時は大騒ぎになってしまった。
ルブリンへ向かう途中マイダネックの強制収容所の記念碑と幾つか残されている監視塔をカメラに収めた。ここでは25万人の犠牲者がでたということであった。
ルブリンの街へ到着しお城と旧市街の中を一回りガイドなしに散策してポーランドの観光は終局となった。楕円形の広場が印象的であった。ガイドの案内があるのと無いのとでは同じ場所を見ても受け取り方に大きな差のできることを実感した。ルブリンの街は13世紀に貿易都市として栄えた所である。市内にはキューリー夫人の大きな銅像が飾られていた。
平成13年10月19日(金)
朝4時半にホテルを出発してワルシャワ空港から帰路についた。経由地のアムステルダムで6時間ばかり余裕時間があるので、市内観光をすることになっている。離陸が約1時間ばかり遅れてやっと離陸した。この間朝の睡眠不足を取り戻そうとして終始眠っていたので離陸したときもう着いたのかとの錯覚にとらわれて目が覚めたが着陸ではなくて離陸したのであった。
アムステルダムに到着したのは予定より1時間半程の遅れである。従って市内観光も約2時間だけになってしまい、慌ただしい観光になってしまった。
ゴッホ美術館を中心とする美術館巡りと中央駅を起点とする市内散策グループを途中で下ろして観光船乗り場へ急いだ。29名中18名が観光船に乗り込んだ。
アムステルダム市内は今年4月に橋田さんと訪問した折概略のところは見ているので馴染み深い景色が目に入ってくる。乗船場の目の前には赤煉瓦作りの中央駅がその重厚な姿を誇らしげに見せて建っている。東京駅の丸の内側の駅舎に似通っている。 東京駅の設計はこのアムステルダム中央駅がモデルになっているというからもっともなことである。因みに八重洲という地名は家康に愛顧されたヤン・ヨーステンが日本人妻と住んでいた町名が八重洲町と訛った地名であると伝えられている。ヤン・ヨーステンらは東インド向けのオランダ船リーフデ号の乗り組み員で、豊後へ漂着したウイリアム・アダムス等27人のうちの一人で、このときからオランダと日本の関わりあいができたのである。
運河の中から見上げるアムステルダムの景観もまた一興であった。四通八達した運河は長い年月をかけて営々として町作りをしたオランダ人の汗の結晶でもある。「この世は神が造り、オランダはオランダ人が作った」と彼らは言う。
アムステルダム市の市旗には×印が3個ついているがこれには、三つの災厄から逃れたいという願いが込められている。疫病、火災、水害のことである。
運河の周辺に立ち並ぶ建物は概して間口が狭く奥行きの長い造りになっている。これは当時の税制がしからしめた産物である。つまり商人に課せられる税金は間口の大きさで決められたから税負担を軽減しようと考え出された商人の智慧であった。アムステルダムの建物を特徴付けているもののもう一つは建物の最上階に張り出された腕木とその先に取り付けられたフックである。これは間口を狭くしたため階段も狭くなり、大きな家具を搬入することができないのでつり上げて窓から出し入れしたのである。さすがに最近建てられた近代的なビルにはこのような腕木はつけられていないが古い建物には必ずこの腕木がつけられているところが面白い。
運河に掛けられた橋や撥ね橋は美しい町並みとあいまってアムステルダムの都市美をつくり出している。また運河にはボートハウスが沢山浮かんでいるのも他の都市ではみかけられない景観の一つである。
更にオランダは「自己責任の原則を大切にし大幅な自由が認められている国」である。安楽死が認められている世界唯一の国で、売春禁止法もなく、ソフトドラッグも違法ではなく且つ同性愛者同志の結婚も認めている。こうした自由を大幅に認めるため結果についての責任は全て自己に帰属させるため自分で処理しなければならない。 港に近い運河に沿って建てられた建物の一階部分には「飾り窓」の中で商売をする女性もいて世界的に有名であり各国のその種の女性が集まってきているが自己責任の原則が貫かれるので紐付きのやくざ者が介在しないという特色があるという。
アンネフランクの隠れ家の前の運河も通ったが相変わらず観光客の長蛇の行列が出来ていた。
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ワジェンスキー公園。ピウレスキー像
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ワジェンスキー公園。ショパン像
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ワジェンスキー公園
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ワジェンスキー公園。ウイーンでトルコ軍を撃破したソビエンスキー像
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王宮広場の旧王宮
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聖十字架教会
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ヴィラヌス宮殿
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ヴィラヌス宮殿の庭
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ショパンの生家でピアノコンサート
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アウシュビッツ。チクロガスの空き缶
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アウシュビッツ収容所の便所跡
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アウシュビッツ収容所の絞首刑用の柱
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ビルケナウ強制収容所全景
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ヴイエリチカ地下窟の岩塩でできた照明
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ザモシチの広場
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ザモシチの補修してない建物
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ザコバネの木造教会
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ザコバネの木造教会
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ザコバネの日没
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クラコフ。バベル城
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クラコフの芸人
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クラコフ。聖マリア教会
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ワニーットー市のカシミュス大王の宮殿
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ザモシティの旧市庁舎
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ルブリン市内
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