1975/01/13 - 1975/01/13
26位(同エリア301件中)
片瀬貴文さん
やがて、コンゴ自由国の圧政が始まる。
ゴム採集を強要するために女子供を人質にとったり、鞭打ちで死に至らしめたり、最も一般的な罰は右手を切断することだった。
あまりの暴政に耐えきれず、部族ごと自由国から逃げ出す例もあった。
1890年(明治23年)から始まった鉄道の建設では、最初2年間に7,000人の労働者が動員され、うち半分が死亡もしくは逃亡。
1893年(明治26年)には「王室領」を設置。
これはベルギー本国の5倍の広さを持ち、自由国国有地の収入が自由国国庫に入っていたのに対し、こちらからあがる収入は完全にレオポルド二世個人のものとなる。
王室領は後に倍の広さに拡大される。
レオポルドは「土民保護委員会」なる博愛組織をつくり、黒人に文明の恩恵を与えると宣伝していたが、ヨーロッパの工業製品はコンゴの黒人には与えられなかった。
時には警察軍の部隊が反乱を起こすこともあり、1895年(明治28年)には6ヶ月に渡ってカサイ州を制圧。
コンゴ自由国の敵は、象牙と奴隷を求めて北から入り込んでくるイスラム教徒。
コンゴ人は、自由国の暴虐だけでなく、イスラム教徒の奴隷狩りによっても打撃を受けた。
両者ともその兵力は黒人主体であり、どちらも、戦闘で捕らえた敵軍兵士を生きたまま、なるべく苦痛を与えながら料理して喰ったという話が伝えられている。
警察軍の白人指揮官にも、人肉食が病み付きになった者がいるとも言われる。
コンゴ自由国では、20年間に500〜800万人の死亡者を出した。
独立時の人口は1,400万人。
アフリカの植民地の中で、最も大量の死者が出たのは、このコンゴ自由国である。
レオポルド2世は、コンゴの実態を隠すために秘密組織をつくり、外国人のコンゴでの行動をなるべく制限し、自由国官吏の人選にも意を用いた。
コンゴの南のカタンガ地方は豊かな鉱物資源で知られ、レオポルド2世とイギリス南アフリカ会社のどちらが支配下におさめるかの競争となっていた。
1891年、レオポルド2世に派遣された遠征隊が親英派のカタンガ王を射殺し、その後継者と保護条約を結ぶことに成功。
カタンガは、1960年(昭和35年)に独立を達成するコンゴ共和国からも分離を叫んで、独自の行動をとることになる。
同時期に北東のイギリス勢力圏ナイル河方面にも遠征隊を送ったが、現地に根を張るイスラム教徒との戦いが長期間続き土地が荒廃、撤収する。
やがて、レオポルド2世のコンゴにおける暴虐は、他の西欧諸国の憤激を買う。
特に大きく動いたイギリスでは、1903年(明治37年)コンゴ自由国の非人道的統治と貿易に関する違反を非難する、国会決議を行った。
さらにイギリス政府は外交官ロジャー・D・ケイスメントにコンゴ視察を命じた。
ケイスメントは、ある村が警察軍の懲罰の襲撃を受けた時に、12歳の少年が恐怖のあまり死んだふりをしたまま手を切断されるのに耐えたという、恐るべき話を報告した。
彼の報告書はイギリスから各国政府に送付され、コンゴ自由国の暴虐は国際問題へと発展。
ベルギー議会の設置した調査委員会までもが、手を切り落とすとか、女子供を人質にとる話を事実であると確認した。
ベルギーは、1908年国王個人の支配するコンゴ自由国を廃止、ベルギー政府植民地とした。
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