1975/01/07 - 1975/01/07
195位(同エリア263件中)
片瀬貴文さん
1856年12月9日、探検の資金が尽きたリヴィングストンは、支援者を探すために16年ぶりにイギリスへ帰還
イギリスでは、いくつもの重要な発見を果たした功績から、英雄としてもてなされ、1857年、Missionary Travels and Reserches in South Africa(南アフリカにおける宣教師の旅と探検)を著し、ベストセラーとなる。
しかしロンドン宣教師協会からは、一箇所に居住せず方々を探検していたことを理由に除名される。
翌1858年3月には、女王の勅命により、キリマネ駐在大使、兼ザンベジ探検隊の隊長に任命され、妻と息子を連れ、再びアフリカ大陸へと旅立つ。
ケープタウンで妻の両親と再会するが、妻の体調がすぐれないため、リヴィングストンたちはザンベジ川河口へ向かい、残りのものは静養もかねてクルマンへ向かった。
リヴィングストン一行は5月河口へ到達し、蒸気船で川を上り、9月テテに到着、シレ河、マラウィ湖に、ヨーロッパ人初の到達、周辺を探検。
1860年マコロロ王国を再訪。
1861年にはイングランドより派遣された宣教師団体Universities MissionのためにRovuma河周辺を探索、布教拠点設立に力を貸した。
その間、妻は一旦イギリスへ戻り、1862年には再度夫と合流したが、3ヵ月後マラリアのために死亡。
リヴィングストンは悲嘆に暮れながらも、何度もRovuma河上流を探索。
1863年、政府からの帰還命令を受けイギリスへ帰還。
重要な地理上の発見を果たしたにも関わらず、当時はこの探検は失敗に終わったと考える向きがあり、その後、次の探検資金調達に苦労することとなった。
1年間休息の間、探検の報告を各所で行いながら、1865年、2冊目の著書The Zambesi and Its Tributaries(ザンベジ河とその支流)を発行。
この本に描かれた、アラブ商人とポルトガル商人間の奴隷貿易、現地人への虐待や虐殺の実態は、当時の知識人たちを驚愕させ、奴隷商人たちへの怒りを再度引き起こすこととなる。
リヴィングストンが3回目のアフリカ探検に出るきっかけは、王立地理協会からの、ナイル河水源探求の依頼だった。
ナイル河は白ナイルと青ナイルに分かれており、青ナイルはすでに水源の探求が完了していたが、白ナイルに関しては1860年代に入ってからも、その水源がヴィクトリア湖か否かの論争が繰り広げられていた。
リヴィングストンは、ヴィクトリア湖より少し南方に、ヴィクトリア湖に流れ込む水源があると推測し、1865年、再びイギリスを旅立った。
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