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1937年の日本軍侵攻時に発生した虐殺事件の印象があまりに大きいために日本では敬遠されがち、もしくはその研究のためだけに訪れる方が多い南京ですが、実は台湾人をはじめ海外から足を運ぶ旅客が多い中国有数の観光都市で、北京、安陽、西安、洛陽、開封、杭州と並ぶ「中国七大古都」です。<br /><br />35万年前の猿人の骨も出土しており歴史は長く、東呉、東晋、南朝の宋、斉、梁、陳が都を置いたことから「六朝古都」とも呼ばれ、その後も南唐、明、太平天国、中華民国なども首都を置いた2400年以上もの歴史を持つ古都です。<br /><br />かつては金陵、建業、建康、白下、昇州、江寧、集慶、應天などと呼ばれたこともあり、明の首都が北京へ遷都してから南京と呼ばれるようになりました。<br />太平天国時代には天京と改められましたが、太平天国滅亡後、南京の名が復活、清国に一度は江寧と名付けられはしましたが、民国の首都として“三度”「南京」の名称が復活し今に至っています。<br /><br />民国期の首都だったことから街中に当時の建築がいまだ多く残る他、大学の数も北京に次いで多く、文化都市という側面も持っています。<br /><br />そんな南京の「中華民国の首都」としての魅力を、写真とともにご紹介していきたいと思います。<br /><br /><br /><br /><br />   北緯31度14分〜32度37分、東経118度22分〜119度14分(長江沿いに位置)<br />   面積:6598k?<br />  人口:623万人(2000年) <br /><br />

中華民国の首都「南京」

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南京ドンブリ

南京ドンブリさん

1937年の日本軍侵攻時に発生した虐殺事件の印象があまりに大きいために日本では敬遠されがち、もしくはその研究のためだけに訪れる方が多い南京ですが、実は台湾人をはじめ海外から足を運ぶ旅客が多い中国有数の観光都市で、北京、安陽、西安、洛陽、開封、杭州と並ぶ「中国七大古都」です。

35万年前の猿人の骨も出土しており歴史は長く、東呉、東晋、南朝の宋、斉、梁、陳が都を置いたことから「六朝古都」とも呼ばれ、その後も南唐、明、太平天国、中華民国なども首都を置いた2400年以上もの歴史を持つ古都です。

かつては金陵、建業、建康、白下、昇州、江寧、集慶、應天などと呼ばれたこともあり、明の首都が北京へ遷都してから南京と呼ばれるようになりました。
太平天国時代には天京と改められましたが、太平天国滅亡後、南京の名が復活、清国に一度は江寧と名付けられはしましたが、民国の首都として“三度”「南京」の名称が復活し今に至っています。

民国期の首都だったことから街中に当時の建築がいまだ多く残る他、大学の数も北京に次いで多く、文化都市という側面も持っています。

そんな南京の「中華民国の首都」としての魅力を、写真とともにご紹介していきたいと思います。




北緯31度14分〜32度37分、東経118度22分〜119度14分(長江沿いに位置)
面積:6598k?
人口:623万人(2000年)

  • 「中華民国の父」である孫文の陵墓であるこの中山陵は1929年に完成しました。<br /><br />その規模はあまりに大きく、封建制度を打破し、民主国家建設への扉を開いた人物の墓とは思えないほど立派です。世界を見渡しても近代において、これほど大きな陵墓に眠っている人物もいないのではないでしょうか。<br /><br />長い参道を抜けて門をくぐると次に待ち構えているのは298段の階段です。孫文が提唱した『三民主義』にちなんで300段にする予定だったということですが、約300もの階段を上るのは容易ではありません。95年に南ドンが初めてここを訪れた時には“かごや”のおじさんが待機していました。でも、今はこの商売も禁止されてしまったのか、“かご”はどこにも見当たらず、自分の足で登るしかありません。<br /><br />この長い階段を上り切ると、ようやく祭堂に入ることが出来ます。中華民国のカラーである“青天白日”を示す青い屋根と白い壁の建物…この祭堂は中国近代史上初の公募によって400余りの図案の中から選ばれた設計図によって建設されたものだそうです。選ばれた設計図を描いたのは当時若干32歳だった呂彦直氏。この若さで、この歴史的建築物を建てたとなれば呂氏は間違いなく中国近現代建築の巨匠として君臨する運命にあったはずですが、彼はこの祭堂が完成する直前の1929年5月に還らぬ人となってしまいました。<br /><br />「民主」「民権」「民生」の文字が掲げられた祭堂の中に入ると孫文の大きな像が迎えてくれます。そして更に奥に入ると孫文の等身大の像がかたどられた棺が安置されています。見学を終え、祭堂を出て階段を下りようとする前にきっと足を止めずにはいられなくなるはず…と言うのは、ここから見える鐘山風景区の自然が絶景なのです!<br /><br />1925年に孫文が逝去する前に、自らこの地を陵墓にするよう望んだのも頷けることと思います。

    「中華民国の父」である孫文の陵墓であるこの中山陵は1929年に完成しました。

    その規模はあまりに大きく、封建制度を打破し、民主国家建設への扉を開いた人物の墓とは思えないほど立派です。世界を見渡しても近代において、これほど大きな陵墓に眠っている人物もいないのではないでしょうか。

    長い参道を抜けて門をくぐると次に待ち構えているのは298段の階段です。孫文が提唱した『三民主義』にちなんで300段にする予定だったということですが、約300もの階段を上るのは容易ではありません。95年に南ドンが初めてここを訪れた時には“かごや”のおじさんが待機していました。でも、今はこの商売も禁止されてしまったのか、“かご”はどこにも見当たらず、自分の足で登るしかありません。

    この長い階段を上り切ると、ようやく祭堂に入ることが出来ます。中華民国のカラーである“青天白日”を示す青い屋根と白い壁の建物…この祭堂は中国近代史上初の公募によって400余りの図案の中から選ばれた設計図によって建設されたものだそうです。選ばれた設計図を描いたのは当時若干32歳だった呂彦直氏。この若さで、この歴史的建築物を建てたとなれば呂氏は間違いなく中国近現代建築の巨匠として君臨する運命にあったはずですが、彼はこの祭堂が完成する直前の1929年5月に還らぬ人となってしまいました。

    「民主」「民権」「民生」の文字が掲げられた祭堂の中に入ると孫文の大きな像が迎えてくれます。そして更に奥に入ると孫文の等身大の像がかたどられた棺が安置されています。見学を終え、祭堂を出て階段を下りようとする前にきっと足を止めずにはいられなくなるはず…と言うのは、ここから見える鐘山風景区の自然が絶景なのです!

    1925年に孫文が逝去する前に、自らこの地を陵墓にするよう望んだのも頷けることと思います。

  • &gt;中華式大屋根建築や四合院だけでなく西洋風建築も擁する、中華式庭園「煦園」だけでなく西洋風廊下も取り入れられた東西文化が絶妙に合わさった“華洋折衷”の建築群がこの『総統府』です。<br /><br />『総統府』という呼び名は現在の記念館としての総統府の前には、実は2度、それも短期間しか使用されていませんでした。一度目は1912年1月1日に孫文が中華民国の臨時大総統になった時、二度目は1948年5月20日に蒋介石が中華民国総統となった時です。<br /><br />総統府内の建物を一つ一つ検証していくと、最も古いものは明朝元年のものにまで行き着きます。1363年に漢王陳友諒とその息子陳理を捕らえた朱元璋は、その実権強化のために1368年(洪武元年)に明故宮の西側に『漢王府』を置いて漢王陳友諒を幽閉しました。これが『総統府』の歴史の始まりです。<br /><br />明朝が滅亡すると、清朝は華南の統治の拠点として、ここに江南総督署と両江総督署を置き、1853年3月19日に太平天国が南京を占領し、天京と名前を変え首都と定めると、この両江総督署跡は規模が拡大され洪秀全の天朝宮殿(天朝府)となりまし。1864年7月19日、清軍が再び南京を奪回すると、この天朝宮殿は無残にも焼かれ、新両江総督署として再建され現在の総統府の姿の基礎が出来上がりました。<br /><br />1911年に辛亥革命が起こり、革命軍が12月2日に南京に入場すると、翌年の1月1日には孫文が中華民国臨時大総統に就任、この地を総統府として自身のオフィスを構えました。しかし、孫文が臨時大総統だったのはたったの91日。4月3日には袁世凱に大総統の地位を譲った孫文はここを離れています。その後、首都南京で執務を行うという約束を破った袁世凱を討とうと孫文亡き後の総統府の留守をあずかった黄興が北上を試みますが失敗。以来、総統府は袁世凱軍の総司令部(江蘇都督)となってしまいました。<br /><br />1927年、蒋介石軍が北伐に成功。同年3月には南京に入城し、南京を首都と定め、この地に「国民政府」の看板が掲げられました。しかし10年後の1937年、日本軍が南京に侵攻、南京が陥落するとここに傀儡の維新政府が誕生し、1940年には汪兆銘がここで執務を始めました。<br /><br />1945年、日本軍が降伏すると翌46年5月には蒋介石の国民政府が南京に再入城を果たし、ここにも再び「国民政府」の看板が掲げられ、1948年に蒋介石が中華民国総統に就任すると、『総統府』の看板が復活しました。<br /><br />しかし、この“二代目”総統府も1年ももたない短命で終わります。1949年4月23日に共産党軍が南京を解放すると、「総統府」の看板が下ろされてしまったからです。中華民国の青天白日旗は降ろされ、代わって真っ赤な中華人民共和国の国旗が正門にひるがえりました。でも、それ以上の破壊活動は4月27日に南京入りした当時のトウ小平が制止したそうです。「総統府は国家の宝であり、重要な文化遺産である。我々は総統府を愛護しなければならない。今から部隊は全員ここから出て行くように!」と…。<br /><br />数々の荒波を乗り越え、現在は一般に開放された『総統府』。現在は正門前がきれいに公園化されました。間違いなく南京の新しい顔です。

    >中華式大屋根建築や四合院だけでなく西洋風建築も擁する、中華式庭園「煦園」だけでなく西洋風廊下も取り入れられた東西文化が絶妙に合わさった“華洋折衷”の建築群がこの『総統府』です。

    『総統府』という呼び名は現在の記念館としての総統府の前には、実は2度、それも短期間しか使用されていませんでした。一度目は1912年1月1日に孫文が中華民国の臨時大総統になった時、二度目は1948年5月20日に蒋介石が中華民国総統となった時です。

    総統府内の建物を一つ一つ検証していくと、最も古いものは明朝元年のものにまで行き着きます。1363年に漢王陳友諒とその息子陳理を捕らえた朱元璋は、その実権強化のために1368年(洪武元年)に明故宮の西側に『漢王府』を置いて漢王陳友諒を幽閉しました。これが『総統府』の歴史の始まりです。

    明朝が滅亡すると、清朝は華南の統治の拠点として、ここに江南総督署と両江総督署を置き、1853年3月19日に太平天国が南京を占領し、天京と名前を変え首都と定めると、この両江総督署跡は規模が拡大され洪秀全の天朝宮殿(天朝府)となりまし。1864年7月19日、清軍が再び南京を奪回すると、この天朝宮殿は無残にも焼かれ、新両江総督署として再建され現在の総統府の姿の基礎が出来上がりました。

    1911年に辛亥革命が起こり、革命軍が12月2日に南京に入場すると、翌年の1月1日には孫文が中華民国臨時大総統に就任、この地を総統府として自身のオフィスを構えました。しかし、孫文が臨時大総統だったのはたったの91日。4月3日には袁世凱に大総統の地位を譲った孫文はここを離れています。その後、首都南京で執務を行うという約束を破った袁世凱を討とうと孫文亡き後の総統府の留守をあずかった黄興が北上を試みますが失敗。以来、総統府は袁世凱軍の総司令部(江蘇都督)となってしまいました。

    1927年、蒋介石軍が北伐に成功。同年3月には南京に入城し、南京を首都と定め、この地に「国民政府」の看板が掲げられました。しかし10年後の1937年、日本軍が南京に侵攻、南京が陥落するとここに傀儡の維新政府が誕生し、1940年には汪兆銘がここで執務を始めました。

    1945年、日本軍が降伏すると翌46年5月には蒋介石の国民政府が南京に再入城を果たし、ここにも再び「国民政府」の看板が掲げられ、1948年に蒋介石が中華民国総統に就任すると、『総統府』の看板が復活しました。

    しかし、この“二代目”総統府も1年ももたない短命で終わります。1949年4月23日に共産党軍が南京を解放すると、「総統府」の看板が下ろされてしまったからです。中華民国の青天白日旗は降ろされ、代わって真っ赤な中華人民共和国の国旗が正門にひるがえりました。でも、それ以上の破壊活動は4月27日に南京入りした当時のトウ小平が制止したそうです。「総統府は国家の宝であり、重要な文化遺産である。我々は総統府を愛護しなければならない。今から部隊は全員ここから出て行くように!」と…。

    数々の荒波を乗り越え、現在は一般に開放された『総統府』。現在は正門前がきれいに公園化されました。間違いなく南京の新しい顔です。

  • 中山北路105号にある軍人倶楽部。ここには各種レストラン、喫茶店、バー、カラオケといった娯楽だけでなく、家電や書籍の安売りセンターや、外国語を学ぶための塾などもあり、南京市民の人気スポットになっています。<br /><br />この「軍人倶楽部」内の中でも正門の正面にある華洋折衷の古い建物が一際目を引きますが、これは1937年に建てられ、もともと国民党の法官訓練所として使用されていました。しかし日本軍が南京を支配すると1938年には南京維新政府傘下の『督弁南京市政公署』となり、1940年3月30日に汪兆銘政権が成立すると“南京特別市”の政府事務所となったのです。そして1945年、日本軍が降伏し、この建物が国民政府に返還されると立法院としての使用が始まりました。

    中山北路105号にある軍人倶楽部。ここには各種レストラン、喫茶店、バー、カラオケといった娯楽だけでなく、家電や書籍の安売りセンターや、外国語を学ぶための塾などもあり、南京市民の人気スポットになっています。

    この「軍人倶楽部」内の中でも正門の正面にある華洋折衷の古い建物が一際目を引きますが、これは1937年に建てられ、もともと国民党の法官訓練所として使用されていました。しかし日本軍が南京を支配すると1938年には南京維新政府傘下の『督弁南京市政公署』となり、1940年3月30日に汪兆銘政権が成立すると“南京特別市”の政府事務所となったのです。そして1945年、日本軍が降伏し、この建物が国民政府に返還されると立法院としての使用が始まりました。

  • 寧海路122号にある南京師範大学の前身は金陵女子大学です。<br /><br />もともと1915年9月開校当時は明故宮の側に校舎を構えていました。当時、アメリカ系ミッション・スクールだった金陵女子大学に入学した女学生はたったの11名!教職員は6名だったといいます。1919年、5人の女学生が卒業をします。彼女達こそが中国の歴史上最もはやい女性の学位取得者なのです。<br /><br />今の寧海路南京師範大学の校舎群はアメリカの有名建築家モーフェィと中国の有名建築家呂彦直が共同で設計し、陳明記営造廠が工事を請け負い、1922年に建設が開始されたものです。そして1923年には6棟の宮殿式建築(会議楼、科学館、文学館、学生宿舎など)が竣工、1924年には8つの学部が増設され、学生も増え始めました。<br /><br />1927年、国民政府が南京を首都とすると、金陵女子大学も例に漏れず教育権の剥奪を余儀なくされ、アメリカ人校長は退き、呉貽芳女史が中国人初の校長を務めました。1930年には国民政府の新規定に基づき、金陵女子文理学院と校名が変更され、文系、理系を有する大型女子学校として発展を続けましたが、1937年8月から日本軍の南京空襲が始まると学生は上海、武昌、成都の3派に分散、12月13日に日本軍がついに南京に侵攻を始めると南京安全区国際委員会は金陵女子文理学院を婦女・児童のための難民区として接収し、多い時は1万人もの難民を収容していました。この時、活躍したのがアメリカ人教師ヴォートリン女史でした。<br /><br />しかし1941年、日本がアメリカに宣戦を布告すると金陵女子文理学院は日本軍によって接収され、軍施設として使用され始めました。でも、逆に、それが功を奏して建物はほとんど破壊されることはなかったのです。日本軍降伏後、1946年には女学生が復学、1951年には金陵大学(現南京大学)と合併し、1952年に全国高等学校院系調整が行われた時に、南京師範学院として南京大学から分離し、1984年に現在の南京師範大学の名前となりました。<br /><br />1992年には南京市の文物保護単位に。歴史的経緯から、今では「南京大虐殺研究中心」も南京師範大学内にあり、国際的な研究会がよく行われています。

    寧海路122号にある南京師範大学の前身は金陵女子大学です。

    もともと1915年9月開校当時は明故宮の側に校舎を構えていました。当時、アメリカ系ミッション・スクールだった金陵女子大学に入学した女学生はたったの11名!教職員は6名だったといいます。1919年、5人の女学生が卒業をします。彼女達こそが中国の歴史上最もはやい女性の学位取得者なのです。

    今の寧海路南京師範大学の校舎群はアメリカの有名建築家モーフェィと中国の有名建築家呂彦直が共同で設計し、陳明記営造廠が工事を請け負い、1922年に建設が開始されたものです。そして1923年には6棟の宮殿式建築(会議楼、科学館、文学館、学生宿舎など)が竣工、1924年には8つの学部が増設され、学生も増え始めました。

    1927年、国民政府が南京を首都とすると、金陵女子大学も例に漏れず教育権の剥奪を余儀なくされ、アメリカ人校長は退き、呉貽芳女史が中国人初の校長を務めました。1930年には国民政府の新規定に基づき、金陵女子文理学院と校名が変更され、文系、理系を有する大型女子学校として発展を続けましたが、1937年8月から日本軍の南京空襲が始まると学生は上海、武昌、成都の3派に分散、12月13日に日本軍がついに南京に侵攻を始めると南京安全区国際委員会は金陵女子文理学院を婦女・児童のための難民区として接収し、多い時は1万人もの難民を収容していました。この時、活躍したのがアメリカ人教師ヴォートリン女史でした。

    しかし1941年、日本がアメリカに宣戦を布告すると金陵女子文理学院は日本軍によって接収され、軍施設として使用され始めました。でも、逆に、それが功を奏して建物はほとんど破壊されることはなかったのです。日本軍降伏後、1946年には女学生が復学、1951年には金陵大学(現南京大学)と合併し、1952年に全国高等学校院系調整が行われた時に、南京師範学院として南京大学から分離し、1984年に現在の南京師範大学の名前となりました。

    1992年には南京市の文物保護単位に。歴史的経緯から、今では「南京大虐殺研究中心」も南京師範大学内にあり、国際的な研究会がよく行われています。

  • 四牌楼2号にある東南大学の前身は三江師範学堂。張之洞が両江総督だった1902年に創立しました。間もなく三江師範学堂は両江師範学堂と南京高等師範学校に分割され、1921年に南京師範高等学校を基礎として東南大学が誕生、南京で最も早く創立した総合大学でした。<br /><br />旧東南大学は1927年に第四中山大学と改名、続いて1928年には江蘇大学に、更に同年5月には国立中央大学と次々と校名が変わりました。<br /><br />国立中央大学の建築は全て旧東南大学以降からのもので、中でもシンボル的存在となっている大礼堂(写真)は1930年3月から建設が開始されたものです。しかしあまりに立派なこのドーム型の礼堂を建設するにはお金が足りず、一旦工事を停止。国民政府にも顔がきく朱校長の登場を待って、1931年4月末に竣工しました。この大礼堂は英国公和打洋行の設計で新金記康号営造廠によって建造されましたが、高さ34mの鉄筋コンクリート建てで2300名を収容できる当時としては大型のドーム建築でした。<br /><br />大礼堂の南西にある図書館は外国人パスカルの設計により1924年に竣工した。その後1933年には拡張され、現在の総建築面積3813?の姿になっています。<br /><br />その他にも国立中央大学内には科学館(1927年)、生物館(1929年)、体育館(1922年)、工芸実習場(1918年)など名建築がたくさんあり、中華民国の国立中央大学として相応しい厳かな雰囲気が現在も満ち満ちています。<br /><br />国民政府(総統府)、国民大会堂からも歩いて来れる距離でもあり、国民政府の大会などが大礼堂でも行われるほど、国家と密な大学風土で、1931年9.18事変(満州事変)が勃発すると、国立中央大学の学生は立ち上がり、9月22日には中大学生抗日救国会が成立しました。しかし1937年、日本軍が南京に侵攻、南京が陥落すると日本軍の陸軍医院として使用され、大礼堂の屋根には巨大な赤十字が描かれ、教室には畳が敷かれ、全く日本式の病室に様変わりしてしまいました。でも、これが逆に幸いにして、校舎が一切破壊されずに戦後すぐに大学として復活できた大きな原因となりました。<br /><br />1945年、日本軍が降伏すると翌46年には学生が復学。1949年、南京解放後は国立中央大学から国立南京大学に改名、1952年の大掛かりな院系調整の時に南京工学院となりました。東南大学の名前が復活するのは1989年になってからのこと。数々の名建築を擁する東南大学内の建築群は1991年、国家建設部・国家文物局に近代優秀建築と認められ、1992年には南京市の文物保護単位に指定されました。

    四牌楼2号にある東南大学の前身は三江師範学堂。張之洞が両江総督だった1902年に創立しました。間もなく三江師範学堂は両江師範学堂と南京高等師範学校に分割され、1921年に南京師範高等学校を基礎として東南大学が誕生、南京で最も早く創立した総合大学でした。

    旧東南大学は1927年に第四中山大学と改名、続いて1928年には江蘇大学に、更に同年5月には国立中央大学と次々と校名が変わりました。

    国立中央大学の建築は全て旧東南大学以降からのもので、中でもシンボル的存在となっている大礼堂(写真)は1930年3月から建設が開始されたものです。しかしあまりに立派なこのドーム型の礼堂を建設するにはお金が足りず、一旦工事を停止。国民政府にも顔がきく朱校長の登場を待って、1931年4月末に竣工しました。この大礼堂は英国公和打洋行の設計で新金記康号営造廠によって建造されましたが、高さ34mの鉄筋コンクリート建てで2300名を収容できる当時としては大型のドーム建築でした。

    大礼堂の南西にある図書館は外国人パスカルの設計により1924年に竣工した。その後1933年には拡張され、現在の総建築面積3813?の姿になっています。

    その他にも国立中央大学内には科学館(1927年)、生物館(1929年)、体育館(1922年)、工芸実習場(1918年)など名建築がたくさんあり、中華民国の国立中央大学として相応しい厳かな雰囲気が現在も満ち満ちています。

    国民政府(総統府)、国民大会堂からも歩いて来れる距離でもあり、国民政府の大会などが大礼堂でも行われるほど、国家と密な大学風土で、1931年9.18事変(満州事変)が勃発すると、国立中央大学の学生は立ち上がり、9月22日には中大学生抗日救国会が成立しました。しかし1937年、日本軍が南京に侵攻、南京が陥落すると日本軍の陸軍医院として使用され、大礼堂の屋根には巨大な赤十字が描かれ、教室には畳が敷かれ、全く日本式の病室に様変わりしてしまいました。でも、これが逆に幸いにして、校舎が一切破壊されずに戦後すぐに大学として復活できた大きな原因となりました。

    1945年、日本軍が降伏すると翌46年には学生が復学。1949年、南京解放後は国立中央大学から国立南京大学に改名、1952年の大掛かりな院系調整の時に南京工学院となりました。東南大学の名前が復活するのは1989年になってからのこと。数々の名建築を擁する東南大学内の建築群は1991年、国家建設部・国家文物局に近代優秀建築と認められ、1992年には南京市の文物保護単位に指定されました。

  • 現在も南京の中心街「新街口」で金融業を営んでいる中国工商銀行南京市分行(中山東路1号))は、1935年に竣工した当時は『交通銀行南京分行』でした。<br /><br />交通銀行は1908年、北京で創立され、1928年には上海に本店が移転、鉱工業および公共事業への借款が主たる業務でした。1910年には既に南京に支店がありましたが、1935年にはこの地に移されています。<br /><br />このビルは1933年に上海繆凱伯工程司によって設計され、新亨営造廠が工事を請け負い、約20万元(当時)の工費をかけて1935年7月に竣工されたものです。地上4階、地下1階、占有面積は1853?の当時の銀行としては大型のビルでした。その後、1937年から1945年、日本軍が南京を占領していた時代に、屋上に更に2階増築され、現在の姿になりました。この時代は汪兆銘傀儡政権下の中央銀行として使用されましたが、戦後は蒋介石政府により中央銀行南京分行として使用され、それから間もなく交通銀行南京分行としての営業が再開されました。<br /><br />建物は西ローマ式古典建築様式で、東西の壁面は6本、南壁面は4本の9mの柱が支えるようにして建っています。1990年には国家建設部から優秀建築として評価され、92年には南京市によって文物保護単位に指定されています。

    現在も南京の中心街「新街口」で金融業を営んでいる中国工商銀行南京市分行(中山東路1号))は、1935年に竣工した当時は『交通銀行南京分行』でした。

    交通銀行は1908年、北京で創立され、1928年には上海に本店が移転、鉱工業および公共事業への借款が主たる業務でした。1910年には既に南京に支店がありましたが、1935年にはこの地に移されています。

    このビルは1933年に上海繆凱伯工程司によって設計され、新亨営造廠が工事を請け負い、約20万元(当時)の工費をかけて1935年7月に竣工されたものです。地上4階、地下1階、占有面積は1853?の当時の銀行としては大型のビルでした。その後、1937年から1945年、日本軍が南京を占領していた時代に、屋上に更に2階増築され、現在の姿になりました。この時代は汪兆銘傀儡政権下の中央銀行として使用されましたが、戦後は蒋介石政府により中央銀行南京分行として使用され、それから間もなく交通銀行南京分行としての営業が再開されました。

    建物は西ローマ式古典建築様式で、東西の壁面は6本、南壁面は4本の9mの柱が支えるようにして建っています。1990年には国家建設部から優秀建築として評価され、92年には南京市によって文物保護単位に指定されています。

  • 現在も南京市内におけるキリスト教布教の主要基地となっている莫愁路390号にあるこの教会は1942年に建てられました。<br /><br />もともと1934年に漢中路にあった教会が立ち退きを迫られたために南京基督教会によって莫愁路に新しく建てられることが決まっていた当教会でしたが、何故8年もの歳月が必要となってしまったのでしょうか?<br /><br />これもやはり日本軍の南京侵攻が大きく影響しています。陳明記営造廠の陳裕華氏の設計によって黄金1100両を投じて建設されることが決まっていた当教会は1936年5月に着工式典が行われていましたが、1937年の日本軍南京侵攻時に一部が爆破され、汪兆銘傀儡政権発足後の1942年10月にようやく竣工となったのです。<br /><br />教会の塔の最も高い部分は高さ17メートル、16世紀の英国式教会を彷彿させる本格的な基督教建築です。でも、この教会も“文化大革命”期には例に漏れず受難な時代を迎えます。南京市の紅衛印刷廠として占拠されてしまい、南京市人民政府が信者の手にこの教会を返したのは1981年のことでした。その後、改修が進んで1992年には晴れて南京市の文物保護単位として指定を受けたのです。

    現在も南京市内におけるキリスト教布教の主要基地となっている莫愁路390号にあるこの教会は1942年に建てられました。

    もともと1934年に漢中路にあった教会が立ち退きを迫られたために南京基督教会によって莫愁路に新しく建てられることが決まっていた当教会でしたが、何故8年もの歳月が必要となってしまったのでしょうか?

    これもやはり日本軍の南京侵攻が大きく影響しています。陳明記営造廠の陳裕華氏の設計によって黄金1100両を投じて建設されることが決まっていた当教会は1936年5月に着工式典が行われていましたが、1937年の日本軍南京侵攻時に一部が爆破され、汪兆銘傀儡政権発足後の1942年10月にようやく竣工となったのです。

    教会の塔の最も高い部分は高さ17メートル、16世紀の英国式教会を彷彿させる本格的な基督教建築です。でも、この教会も“文化大革命”期には例に漏れず受難な時代を迎えます。南京市の紅衛印刷廠として占拠されてしまい、南京市人民政府が信者の手にこの教会を返したのは1981年のことでした。その後、改修が進んで1992年には晴れて南京市の文物保護単位として指定を受けたのです。

  • 清朝のアヘン戦争敗北以後、1899年には宣教師に対して南京も開放され、以来南京には数々の教会が建てられてきました。<br /><br />南京一の繁華街である新街口にほど近い石鼓路112号にあるこの石鼓路天主堂も1928年に建てられた(その前の教会は1927年戦火で焼失)由緒有る教会です。<br /><br />外観はイタリアピサの大教堂と同様シンプルなローマ建築で、小窓にはステンドグラスが施され、内部はアーチ型の柱が屋根を支えるようにして立っていて、内部がとても広く高く感じられるように設計されているそうです。建築面積は900?、江蘇省の文物保護単位に指定されています。

    清朝のアヘン戦争敗北以後、1899年には宣教師に対して南京も開放され、以来南京には数々の教会が建てられてきました。

    南京一の繁華街である新街口にほど近い石鼓路112号にあるこの石鼓路天主堂も1928年に建てられた(その前の教会は1927年戦火で焼失)由緒有る教会です。

    外観はイタリアピサの大教堂と同様シンプルなローマ建築で、小窓にはステンドグラスが施され、内部はアーチ型の柱が屋根を支えるようにして立っていて、内部がとても広く高く感じられるように設計されているそうです。建築面積は900?、江蘇省の文物保護単位に指定されています。

  • 中山北路81号にある「江蘇議事園」はもとは1933年竣工の『華僑招待所』でした。<br /><br />『華僑招待所』は当初は国民政府の僑務委員会の招待所でしたが、1947年からは呉鉄城が営業性機構とし、首都南京における重要ホテルの一つとなりました。<br /><br />特筆すべきは、この地が日本軍降伏後の国民党への南京返還と日本軍降伏の手順について話し合いがもたれた場所であるということでしょう。当時、南京を支配していた岡村寧次や今井武夫陸軍少将が中華民国国民政府代表の何應欽と日本軍の降伏調印の儀式について話し合いをもった場所がここなのです。

    中山北路81号にある「江蘇議事園」はもとは1933年竣工の『華僑招待所』でした。

    『華僑招待所』は当初は国民政府の僑務委員会の招待所でしたが、1947年からは呉鉄城が営業性機構とし、首都南京における重要ホテルの一つとなりました。

    特筆すべきは、この地が日本軍降伏後の国民党への南京返還と日本軍降伏の手順について話し合いがもたれた場所であるということでしょう。当時、南京を支配していた岡村寧次や今井武夫陸軍少将が中華民国国民政府代表の何應欽と日本軍の降伏調印の儀式について話し合いをもった場所がここなのです。

  • &gt;中山東路237号で今なお現役のホテルとして活躍中の「中央飯店」は、実は民国時代1930年1月創業の老舗ホテルです。<br /><br />開業年の11月には蒋介石が張学良をここに招いていることからも、当時は最高級のホテルであったことがわかります。また、1937年8月には周恩来が共産党軍代表としてここを訪れ、蒋介石、何應欽らと接見し、西洋料理に舌鼓を打っています。<br /><br />1949年、南京解放後は部隊によって接収され、部隊家族の宿舎となりましたが、1995年には部隊が家族が新住居に移り、同年9月からホテルとしての営業が再開されました。

    >中山東路237号で今なお現役のホテルとして活躍中の「中央飯店」は、実は民国時代1930年1月創業の老舗ホテルです。

    開業年の11月には蒋介石が張学良をここに招いていることからも、当時は最高級のホテルであったことがわかります。また、1937年8月には周恩来が共産党軍代表としてここを訪れ、蒋介石、何應欽らと接見し、西洋料理に舌鼓を打っています。

    1949年、南京解放後は部隊によって接収され、部隊家族の宿舎となりましたが、1995年には部隊が家族が新住居に移り、同年9月からホテルとしての営業が再開されました。

  • 中山北路32号にある現在の江蘇省人大常委会内にある古くて大きな建物は、かつての中華民国国民政府の外交部(外務省)です。<br /><br />国民政府の外交部は1927年5月に発足。1928年10月に国民政府が五院制を採用すると、行政院傘下に属しました。<br /><br />中華民国の“外務省”だけあって、大臣にあたる歴代の外交部長には伍朝枢、王正廷、施肇基、陳友仁、汪兆銘、陳群、宋子文、王世傑、呉鉄城などそうそうたるメンバーが名を連ねています。このビルは1931年3月から始められ、当初は天津基泰工程司の建築士である楊廷宝氏の設計により、“エ”の字型の建築面積4000?の中華式古典風ビルが建つ予定でしたが、国民政府の財政緊縮によって実現されませんでした。<br /><br />1932年から32年にかけて、上海華蓋建築師事務所の趙深氏らによってビルの設計は引き継がれ、宮殿式の西洋風ビルとなった。この建築面積8500?のビルは姚新記営造廠によって建てられ、1934年3月に工事が始められ、翌年の6月には竣工となりましたが、建築費は30万元余り(当時)だったといいます。<br /><br />日本軍占領下は、“中国派遣軍総司令部”として日本軍に使用され、岡村寧次がここをオフィスとして利用しています。<br /><br />中華民国期に出版された≪中華建築≫という雑誌の中で「首都(南京)において最も現代的なビルディング」と紹介されたこのビルは1991年には新中国の国家建設部からも優秀建築としての評価をうけ、1992年には南京市文物保護単位に、2001年には全国重点文物単位に指定されました。

    中山北路32号にある現在の江蘇省人大常委会内にある古くて大きな建物は、かつての中華民国国民政府の外交部(外務省)です。

    国民政府の外交部は1927年5月に発足。1928年10月に国民政府が五院制を採用すると、行政院傘下に属しました。

    中華民国の“外務省”だけあって、大臣にあたる歴代の外交部長には伍朝枢、王正廷、施肇基、陳友仁、汪兆銘、陳群、宋子文、王世傑、呉鉄城などそうそうたるメンバーが名を連ねています。このビルは1931年3月から始められ、当初は天津基泰工程司の建築士である楊廷宝氏の設計により、“エ”の字型の建築面積4000?の中華式古典風ビルが建つ予定でしたが、国民政府の財政緊縮によって実現されませんでした。

    1932年から32年にかけて、上海華蓋建築師事務所の趙深氏らによってビルの設計は引き継がれ、宮殿式の西洋風ビルとなった。この建築面積8500?のビルは姚新記営造廠によって建てられ、1934年3月に工事が始められ、翌年の6月には竣工となりましたが、建築費は30万元余り(当時)だったといいます。

    日本軍占領下は、“中国派遣軍総司令部”として日本軍に使用され、岡村寧次がここをオフィスとして利用しています。

    中華民国期に出版された≪中華建築≫という雑誌の中で「首都(南京)において最も現代的なビルディング」と紹介されたこのビルは1991年には新中国の国家建設部からも優秀建築としての評価をうけ、1992年には南京市文物保護単位に、2001年には全国重点文物単位に指定されました。

  • 南京紫金山麓、中山陵の東側に『霊谷寺』という古寺があります。そこには今でも多くの観光客が訪れ、寺境内の塔『霊谷塔』に上って帰ります。でも、この塔が実はもともと国民党によって建てられた『国民革命軍陣亡将士紀念塔』として1929年に建てられた塔であることは、ほとんどの中国人は知りません。<br /><br />1928年11月、蒋介石、何應欽、李宗仁らの中国国民党中央執行委員会のメンバーによって国民革命軍陣亡将士公墓の設立が決定され、次いで1929年9月には霊谷寺跡を公墓の場所とすることが決められました。設計にはアメリカからモーフェィ氏が招聘され、総工費92万元(当時)を投じて建設が開始されました。<br /><br />紀念塔はそのうち35.5万元が投じられ、1931年から建設が始まり、1933年には竣工しました。八角形のその塔は高さ30.4mの9層の塔で、らせん状の階段が内部に設けられています。また、塔の内壁には2層から4層までが孫文が北上に際して黄埔軍校に対して述べた告別の詞が、5層から8層までは孫文が黄埔軍校の開校に際して述べた訓詞が刻まれています。<br /><br />実は中国近代史に欠かせない“歴史の語り部”であったこの塔は、1992年には南京市の文物保護単位に指定され、2001年7月には全国重点文物保護単位となりました。

    南京紫金山麓、中山陵の東側に『霊谷寺』という古寺があります。そこには今でも多くの観光客が訪れ、寺境内の塔『霊谷塔』に上って帰ります。でも、この塔が実はもともと国民党によって建てられた『国民革命軍陣亡将士紀念塔』として1929年に建てられた塔であることは、ほとんどの中国人は知りません。

    1928年11月、蒋介石、何應欽、李宗仁らの中国国民党中央執行委員会のメンバーによって国民革命軍陣亡将士公墓の設立が決定され、次いで1929年9月には霊谷寺跡を公墓の場所とすることが決められました。設計にはアメリカからモーフェィ氏が招聘され、総工費92万元(当時)を投じて建設が開始されました。

    紀念塔はそのうち35.5万元が投じられ、1931年から建設が始まり、1933年には竣工しました。八角形のその塔は高さ30.4mの9層の塔で、らせん状の階段が内部に設けられています。また、塔の内壁には2層から4層までが孫文が北上に際して黄埔軍校に対して述べた告別の詞が、5層から8層までは孫文が黄埔軍校の開校に際して述べた訓詞が刻まれています。

    実は中国近代史に欠かせない“歴史の語り部”であったこの塔は、1992年には南京市の文物保護単位に指定され、2001年7月には全国重点文物保護単位となりました。

  • 南京大学の『北大楼』です。ここで修士学位を取得した南ドンにとっては“第二”の母校です。南京大学は2002年の建校百周年を迎えました。現在の南京大学鼓楼校区の主要部分は元々アメリカからの宣教師ボールォーによって創設されたミッション・スクールの遺構です。1910年に『匯文書院』という名で創設された後、『宏育書院』と合併し、『金陵大学堂』と改名、1927年に国民政府が南京に成立した時に教育権を接収され、1928年には国民政府教育部の批准により『金陵大学』となりました。写真の『北大楼』は現在も南京大学学長室として使用されており、1919年にアメリカ人スモール氏の設計によって竣工されたものです。

    南京大学の『北大楼』です。ここで修士学位を取得した南ドンにとっては“第二”の母校です。南京大学は2002年の建校百周年を迎えました。現在の南京大学鼓楼校区の主要部分は元々アメリカからの宣教師ボールォーによって創設されたミッション・スクールの遺構です。1910年に『匯文書院』という名で創設された後、『宏育書院』と合併し、『金陵大学堂』と改名、1927年に国民政府が南京に成立した時に教育権を接収され、1928年には国民政府教育部の批准により『金陵大学』となりました。写真の『北大楼』は現在も南京大学学長室として使用されており、1919年にアメリカ人スモール氏の設計によって竣工されたものです。

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この旅行記へのコメント (4)

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  • kodeyanさん 2005/06/21 21:58:44
    読み応えありました
    『中華民国の首都「南京」』、じっくり拝見させていただきました。
    建築・インテリア関係の仕事をしているので、とても興味深い内容です。

    アールデコ建築見学目的で上海には行ったことがあるのですが、南京にも
    いろいろな建築物があるんですね。
    建築物を見るために、南京に行ってみたくなりました。

    建築家の呂直彦氏に好奇心がわいたので、少し彼について調べてみたいと思います。

    南京ドンブリ

    南京ドンブリさん からの返信 2005/06/21 23:27:09
    RE: 読み応えありました
    長い文章(^^;読んでいただいてありがとうございます。
    建築関係の方に南京の老建筑に関心を持っていただけるとは…。

    自称「南京の宣伝マン」としては大変嬉しく思います!
    「南京」を代表するものは決して“虐殺”ではありません。
    とても素晴らしい町なんです。

    ぜひ、一度、足をお運びください!
  • osdさん 2005/06/20 10:38:50
    はじめまして…
    たまたま首都「南京」を覗きました。最初、軽く読み飛ばすつもりが、そういうわけにいかず、あらためて全篇腰を据えて完読しました。ひさしぶりに充実した時間でした。なかでも首都「南京」と「上海老洋房」は読み応えあり、中国近代建築上の地方文献記録としても貴重なものと思われます。南ドン氏個人の足での現地資料収集だとすれば、その基礎知識と採収力に敬意を称します。建築関係の雑誌上であれば、もっと価値を発揮することと思います。今後を期待いたします。
    ※小生個人てきには、卒論が「孫文と華僑経済」でしたので、ことさら南京 とか広州はなつかしく思い出されました。

    南京ドンブリ

    南京ドンブリさん からの返信 2005/06/20 13:11:29
    RE: はじめまして…
    身に余るお言葉をいただき恐縮です(^^;。

    一応、南京大学中華民国史研究中心で3年間修士生をしておりましたので、基礎知識はともかく、現地の文献をあさる時間には恵まれていました。
    また、辛亥革命90周年だったり南京大学建校100周年だったりしたものですから、新しく編集された民国建築に関する本も少なくなく、留学時期としては最高でした…それだけの話です(爆)。

    南京を離れ上海へ移住したものですから、「今後は上海!」と思いましたが、デジカメが故障し、しばらくは更新が難しい状況です(--;。

    せっかく、上海の中でも歴史の感じられるいい場所で暮らしていますので、現地の感動を出来るだけ皆さんにお伝えしたいと思います。

    よろしくお願いします。

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