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<br />ハンガリーに入国した翌朝に40ドルを駅の闇市で両替えしていたが、底をついてきたので、また駅まで闇両替に出かけることにした。ブタペスト市内の土地勘も出てきた私は、地下鉄で二駅ほどのブタペスト東駅まで徒歩で向かった。<br />駅周辺は比較的高層のホテル群が幾つか在った。ブタペストに到着した夜に私がやけくそ気味で泊まろうとして断られた駅前の高級ホテルも慇懃なたたずまいも変わらず建っている。そのホテル前を通過しようとした時、一人の若い女性に声をかけられた。<br />丁寧な言い回しの英語で彼女は尋ねてきた。<br />小柄なハンガリー美人だった。<br />「どちらに行かれるのですか?」 <br />「駅だけど?、、」と無愛想に答える私<br />「日本人?ハンガリーは如何ですか?愉しんでいますか?」  <br />「気候も人々も穏やかで気に入ってます。」と軽く答える私。<br />彼女は再び丁寧な言い回しで今度は本題に入ってきた。<br />「もし貴方がドルを充分に持っているならば、その一部を両替えさせて頂けないでしょうか?」 教科書のような英語で尋ねてきた。 <br />いやはや、私はその闇両替の為に駅に行く道すがらだった。<br />「う〜〜ん、、、、」優柔不断な態度の私に対して彼女は更に畳み込むように話しかけてきた。<br />「もし 充分な両替えをして頂けたら、貴方が望むなら私の時間を差し上げます。貴方の滞在しているホテルは何処ですか?」 <br />この手の攻めにめっぽう強くない私の弱い心は震度5状態くらいに多いに揺れに揺れた。 <br /><br />しかし 長旅の中で色々な体験をしてきていた。それなりに旅のキャリアも積んでいた。美味い話?には裏が有るということも学習していた。危険察知能力も身に付いていたし、授業料も微妙に払っていたような気もする。ホントの親切心なのか、そうではないのか?相手の意図も読みとること位は出来るようになっていた。<br />一介の旅ガラスに<その手>の僥倖なぞ滅多にあり得ない! というのが私の旅のスタンスだった。  <br />「民宿に泊まってるよ。日本人と部屋をシェアしてるよ。ドルもトラベラーズチェックがほとんどだよ」 すると彼女は突然に笑い出して、何事かマジャール語<ハンガリー語>で言うと踵を返して私から離れていった。 本来は君子危うきに近寄ろうとするタイプだった私が幾度の甘いトラップにかかりそうな事もどうにか結果的には無事乗り越えてきたのは、それなりに学習した成果かと・・・<br /><br />駅に着いた私はブタペストに到着した翌朝に闇ドル交換をした同じ場所に立っていた。 駅構内の両替え所で、公定レートを確認すると1USドル=18ft<フォリント>だった。 <br />目標は倍だった。 すぐに声をかけられた。周囲の目を気にしながらの筆談でお互いの希望レートを詰めていく。アフガニスタンからの留学生だと名乗ったその男と私は40ドルを1400ftで売った。<br /> 社会主義国は公共交通機関は非常に安い。地下鉄も市バスも1ftだった。当時の邦貨換算で7〜8円のくらいのものだった。西側旅行者から見れば共産圏の物価安はとても魅力的だった。それはブタペストで逢った西側の旅行者も異口同音に語っていた。それでも滞在中に日本人、或いは東洋人を見かけることは皆無だった。200K離れた隣国のウイーンでは多くの日本人ツアーとすれ違ったのに、まだ社会主義国ヘの日本からのツアーは一般的では無かったのかもしれない。そんな時代だった。 <br /><br /><br />ホストファミリーには、とても恵まれたと思う。ハンガリーでの一般的な家族形態なのかどうかは判らないが、私が滞在した家庭は二世代同居だった。親夫婦とその息子夫婦が同居していた。お嫁さんは、毎朝のように洗濯から始めていた。パンツ洗濯事件以来、私は二度と洗濯機を貸してくれなどと云うこともなく、洗面台に下着を浸し自ら洗っていた。更に云えば、洗濯機の前で甲斐甲斐しく働く嫁さんを見てると妙に照れてしまうようになっていた。丸めた洗濯物などをベッド周りに置いてまた洗われたら堪らないと思い、目に付かぬ場所に下着や靴下などを、隠し置いていたのだから訳が判らない。 <br /><br />嫁さんはとても愛想も感じも良く、ほんの少しだけ英語を解した。 私とほぼ同世代かと思われた。ABBAが大好きだと云う嫁さんにバルセロナで購入したABBAのベスト盤のカセットを滞在中に貸してあげると、とても喜び、毎日のようにABBAの曲がホストファミリーの部屋から漏れてきていた。結局ABBAのカセットはお世話になったという気持ちで、そのまま置いてきた。その夫とのコミュニケーションはあまりなかった。物静かと云うより、何か暗い感じだった。挨拶をしても言葉を返してくれないような事が何度かあった。若夫婦にはまだ子供はいないようだった。 お母さんはハンガリーの肝っ玉母さんだ。このファミリーの中心人物、或いはダイナモ(発動機)だと感じた。お母さんは嫁にテキパキとあれこれ指示を出す。嫁はごく自然な態度で指示をこなしているようだった。義母さんは時折は理不尽なリクエストも出すようだった。そんなとき嫁は私が近くにいたりすると、苦笑いしながら首を左右に振る。それを見た私が首を上下に振って同意の仕草をすると苦笑いは微笑みに変わっていった。<br /><br />ある時 咳が続いた事があった。旅の疲れと居心地が良く,のんびり弛緩し油断した私の気持ちに,軽いウイルスが入り込んだのかもしれない。特に朝の起きがけがいけなかった。咳き込むような感じになってきていた。するとお母さんはノックをしながら部屋に入ってきた。なにやら<おぼん>に薬らしきモノとホットドック、水を携えて心配そうに私の傍にやって来た。<br /><br />「あんた、 風邪っぴきだね、今 流行ってるんだよ。この薬をお飲み! 飲む前にこのホットドックを食べるんだよ。いいかい?先に食べてから薬を飲むんだよ?あんた 毎日出歩いて居るようだけど、今日はあまり出かけずゆっくり養生しなさいよ。 判ったかい?」<br /><br />マジャール語(ハンガリー語)で語りかけてくる、その言葉とボディランゲージは私の胸にビンビンと響いた。言葉は全然理解出来ずとも、気持ちはストレートに伝わって、云いたいことも充分過ぎるほど理解できた。その心遣いと機微が私にはとて有難かった。<br />気持ちを込めて礼を言うと、気にすることはないよ?と言いたげに笑顔を見せてお母さんは部屋を出ていった。<br /><br />ホストファミリーに恵まれたブタペストの日々は快適に過ぎていった。思えばウイーンからハンガリー東駅に到着した宿無しの夜も過ぎてしまえば、そんな事もあったなと済ませられる何でもない事だった。ハンガリー人の祖先はフィン・ハンガリー族という遠く西アジアにルーツを持っていると云う。姓名の表記も日本の様に苗字が先にきて、名前が後に来る。1956年のハンガリー動乱の傷跡は砲弾の痕と共に街中にも、人々の心の中にも残っているという日本大使館員に聞いた通り、当時は痕跡を見ることが出来た。もし言葉が出来たら、当時、どんな思いだったかここのホストファミリーに聞いてみたかった。 たった一家族との出会いのお陰で私のハンガリーの印象はとても良いものになった。<br /><br />私は今でも、ふと夢想したりする事があるのだ。ドナウ川がゆったりと流れるあの美しい街に、いつの日か戻りたいと、、<br />

NO7 ブタペスト滞在記

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1979/02 - 1980/01

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kio

kioさん


ハンガリーに入国した翌朝に40ドルを駅の闇市で両替えしていたが、底をついてきたので、また駅まで闇両替に出かけることにした。ブタペスト市内の土地勘も出てきた私は、地下鉄で二駅ほどのブタペスト東駅まで徒歩で向かった。
駅周辺は比較的高層のホテル群が幾つか在った。ブタペストに到着した夜に私がやけくそ気味で泊まろうとして断られた駅前の高級ホテルも慇懃なたたずまいも変わらず建っている。そのホテル前を通過しようとした時、一人の若い女性に声をかけられた。
丁寧な言い回しの英語で彼女は尋ねてきた。
小柄なハンガリー美人だった。
「どちらに行かれるのですか?」 
「駅だけど?、、」と無愛想に答える私
「日本人?ハンガリーは如何ですか?愉しんでいますか?」  
「気候も人々も穏やかで気に入ってます。」と軽く答える私。
彼女は再び丁寧な言い回しで今度は本題に入ってきた。
「もし貴方がドルを充分に持っているならば、その一部を両替えさせて頂けないでしょうか?」 教科書のような英語で尋ねてきた。 
いやはや、私はその闇両替の為に駅に行く道すがらだった。
「う〜〜ん、、、、」優柔不断な態度の私に対して彼女は更に畳み込むように話しかけてきた。
「もし 充分な両替えをして頂けたら、貴方が望むなら私の時間を差し上げます。貴方の滞在しているホテルは何処ですか?」 
この手の攻めにめっぽう強くない私の弱い心は震度5状態くらいに多いに揺れに揺れた。 

しかし 長旅の中で色々な体験をしてきていた。それなりに旅のキャリアも積んでいた。美味い話?には裏が有るということも学習していた。危険察知能力も身に付いていたし、授業料も微妙に払っていたような気もする。ホントの親切心なのか、そうではないのか?相手の意図も読みとること位は出来るようになっていた。
一介の旅ガラスに<その手>の僥倖なぞ滅多にあり得ない! というのが私の旅のスタンスだった。  
「民宿に泊まってるよ。日本人と部屋をシェアしてるよ。ドルもトラベラーズチェックがほとんどだよ」 すると彼女は突然に笑い出して、何事かマジャール語<ハンガリー語>で言うと踵を返して私から離れていった。 本来は君子危うきに近寄ろうとするタイプだった私が幾度の甘いトラップにかかりそうな事もどうにか結果的には無事乗り越えてきたのは、それなりに学習した成果かと・・・

駅に着いた私はブタペストに到着した翌朝に闇ドル交換をした同じ場所に立っていた。 駅構内の両替え所で、公定レートを確認すると1USドル=18ft<フォリント>だった。 
目標は倍だった。 すぐに声をかけられた。周囲の目を気にしながらの筆談でお互いの希望レートを詰めていく。アフガニスタンからの留学生だと名乗ったその男と私は40ドルを1400ftで売った。
 社会主義国は公共交通機関は非常に安い。地下鉄も市バスも1ftだった。当時の邦貨換算で7〜8円のくらいのものだった。西側旅行者から見れば共産圏の物価安はとても魅力的だった。それはブタペストで逢った西側の旅行者も異口同音に語っていた。それでも滞在中に日本人、或いは東洋人を見かけることは皆無だった。200K離れた隣国のウイーンでは多くの日本人ツアーとすれ違ったのに、まだ社会主義国ヘの日本からのツアーは一般的では無かったのかもしれない。そんな時代だった。


ホストファミリーには、とても恵まれたと思う。ハンガリーでの一般的な家族形態なのかどうかは判らないが、私が滞在した家庭は二世代同居だった。親夫婦とその息子夫婦が同居していた。お嫁さんは、毎朝のように洗濯から始めていた。パンツ洗濯事件以来、私は二度と洗濯機を貸してくれなどと云うこともなく、洗面台に下着を浸し自ら洗っていた。更に云えば、洗濯機の前で甲斐甲斐しく働く嫁さんを見てると妙に照れてしまうようになっていた。丸めた洗濯物などをベッド周りに置いてまた洗われたら堪らないと思い、目に付かぬ場所に下着や靴下などを、隠し置いていたのだから訳が判らない。 

嫁さんはとても愛想も感じも良く、ほんの少しだけ英語を解した。 私とほぼ同世代かと思われた。ABBAが大好きだと云う嫁さんにバルセロナで購入したABBAのベスト盤のカセットを滞在中に貸してあげると、とても喜び、毎日のようにABBAの曲がホストファミリーの部屋から漏れてきていた。結局ABBAのカセットはお世話になったという気持ちで、そのまま置いてきた。その夫とのコミュニケーションはあまりなかった。物静かと云うより、何か暗い感じだった。挨拶をしても言葉を返してくれないような事が何度かあった。若夫婦にはまだ子供はいないようだった。 お母さんはハンガリーの肝っ玉母さんだ。このファミリーの中心人物、或いはダイナモ(発動機)だと感じた。お母さんは嫁にテキパキとあれこれ指示を出す。嫁はごく自然な態度で指示をこなしているようだった。義母さんは時折は理不尽なリクエストも出すようだった。そんなとき嫁は私が近くにいたりすると、苦笑いしながら首を左右に振る。それを見た私が首を上下に振って同意の仕草をすると苦笑いは微笑みに変わっていった。

ある時 咳が続いた事があった。旅の疲れと居心地が良く,のんびり弛緩し油断した私の気持ちに,軽いウイルスが入り込んだのかもしれない。特に朝の起きがけがいけなかった。咳き込むような感じになってきていた。するとお母さんはノックをしながら部屋に入ってきた。なにやら<おぼん>に薬らしきモノとホットドック、水を携えて心配そうに私の傍にやって来た。

「あんた、 風邪っぴきだね、今 流行ってるんだよ。この薬をお飲み! 飲む前にこのホットドックを食べるんだよ。いいかい?先に食べてから薬を飲むんだよ?あんた 毎日出歩いて居るようだけど、今日はあまり出かけずゆっくり養生しなさいよ。 判ったかい?」

マジャール語(ハンガリー語)で語りかけてくる、その言葉とボディランゲージは私の胸にビンビンと響いた。言葉は全然理解出来ずとも、気持ちはストレートに伝わって、云いたいことも充分過ぎるほど理解できた。その心遣いと機微が私にはとて有難かった。
気持ちを込めて礼を言うと、気にすることはないよ?と言いたげに笑顔を見せてお母さんは部屋を出ていった。

ホストファミリーに恵まれたブタペストの日々は快適に過ぎていった。思えばウイーンからハンガリー東駅に到着した宿無しの夜も過ぎてしまえば、そんな事もあったなと済ませられる何でもない事だった。ハンガリー人の祖先はフィン・ハンガリー族という遠く西アジアにルーツを持っていると云う。姓名の表記も日本の様に苗字が先にきて、名前が後に来る。1956年のハンガリー動乱の傷跡は砲弾の痕と共に街中にも、人々の心の中にも残っているという日本大使館員に聞いた通り、当時は痕跡を見ることが出来た。もし言葉が出来たら、当時、どんな思いだったかここのホストファミリーに聞いてみたかった。 たった一家族との出会いのお陰で私のハンガリーの印象はとても良いものになった。

私は今でも、ふと夢想したりする事があるのだ。ドナウ川がゆったりと流れるあの美しい街に、いつの日か戻りたいと、、

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この旅行記へのコメント (3)

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  • チビケイさん 2005/03/27 23:33:23
    ブタペスト全巻拝読しましたぁ〜(^O^)面白かったぁ
    kioさん、今日はブタペスト全巻読みました(^^)やっぱり面白い!
    読書は私の少ない趣味の中でも一番のもので本がない生活は考えられません。ジャンルは問わず読み漁る方ですが(例外は恋愛小説だけは疲れますのであまり読みません)ノンフィクションは本当に好きです。

    ただ・・kioさんのは寝転がっては読めませんので腰と首がチョット疲れました(ノート型だけど流石に手に持ってはねぇ(笑))
    でも途中で止められずいつもシリーズになっているのは一気に読んでしまわないと気がすまないんですよ(^^ゞ

    ブタペストは私には遠〜い国で特に興味はなかったのですが・・拝読してみて少し共産圏の事が見えてくるような気がしました(^.^)
    ホストファミリーのお嫁さん優しいですね。

    kioさん出版されれば良いのに(*^^)v
    本日はブタペスト全巻読み終えたのでまた明日kio図書館に来館させて
    頂きますm(__)m

    本当に面白かったです♪ではまた明日!

    kio

    kioさん からの返信 2005/03/28 00:44:59
    いつも書き込みを Thank you
    チビケイさん いつも旅文をアップする都度に
    早々に感想を頂きありがとう御座います m(__)m
    書き手としては感想を頂けるとホントに嬉しいものですよね
    持ちネタは、まだ三か国ぶんほどありますので
    まだアップ出来ます。

    >本日はブタペスト全巻読み終えたのでまた明日kio図書館に来館させて
    頂きますm(__)m

    すんまへん 明日月曜日は当方も休館日になっておりますので
    よろしゅう願います m(._.)m ペコッ
  • さすらいおじさんさん 2005/03/27 10:57:40
    kioさん ブダペストの旅行記を拝見しました。文章も内容も素晴らしい旅行記です。
    kioさん ブダペストの旅行記を拝見しました。文章も内容も素晴らしい旅行記です。
    kioさんの旅行記はパックツアーで私達が見てくるその国の表の美しさだけでなく、貧しい生活の中、外国人を騙してでも生きていこうとする底辺の人達、法的には違反しないと生きて行けないだけど憎めない人達の生き様が伝わってきます。私も昨年12月にブダペストに行きましたが忙しいパックツアーで庶民との触れ合いはほとんどなく、きれいな面だけ見ていました。実は私も1971年のバックパック旅行の記録を書いており、いずれUPしたいと思っていますが、kioさんのような危険な体験(タイの白タクのような)は記憶になくやはり、表面しか見ていないのかな、と思い起こしています。でも自分の青春の財産として出してみたいとの思いをkioさんの旅行記を読んで改めて感じさせていただきました。

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