多数のユダヤ人の子供が犠牲になった町と関連書籍2冊
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- 旅行時期:2019/11(約6年前)
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by ごーふぁーさん(非公開)
プラハ クチコミ:6件
テレジーンの町はリトムニェジツェから車で10分ほどだった。ここは見事な城塞都市が2つ残っており、ひとつは大要塞、もう1つは小要塞と呼ばれ、オフジェ川(ドイツ語名エーガー川)をはさんで1kmあまりの距離にある。
ともに1780年にオーストリアのヨーゼフ2世が対プロシア防備の為につくらせた。その後、第一次大戦時には捕虜収容所として、戦後は軍隊の駐屯地として使われていた。そして、第二次大戦時はナチスドイツによって大要塞は街全体がユダヤ人ゲットーとして、小要塞は監獄や収容所として使うことになり、現在は大要塞、小要塞ともに内部に史跡や博物館が多くある。
テレジーンの町である大要塞内は大きな割に閑散としており、チェコの発展から取り残されたようだ。廃墟の建物もたくさんあり、人もまばら、道路も未舗装のところがあり、かなりすさんだ印象を持つ。ホテルも少ないし、ここでの宿泊を避けて正解で、なんとも言えない風情である。
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テレジーン(ドイツ語名 テレージエンシュタット)は名前の通りマリア・テレジアの名にちなんで命名され、ハプスブルク家が構築した要塞都市。かつては立派な街だったようだが、今は史跡関連施設以外は寂れていて宿泊施設もこころもとない。そこで、宿泊は隣接するリトムニェジツェにして、そこから通うことにした。
テレジーンは第二次大戦時にナチスドイツによってユダヤ人ゲットーや収容所として使われ、多くの方がこの地で亡くなった。その中には多数のユダヤ人の子供がおり、これに関する施設や2冊の本の紹介にも重点をおいた。テレジーンについて詳しい日本語サイトや書籍は少ないので、丁寧にまとめてみた。
● テレジーンへ
● ナチスに蹂躙された第二次大戦中のテレジーン
● ナチスドイツによるユダヤ人弾圧の偽装工作
● テレジンの子供たち / 『テレジンの子どもたちから―ナチスに隠れて出された雑誌「VEDEM」』
● VEDEM と プラハ日記 アウシュヴィッツに消えたペトル少年の記録
● テレジーンに収容されていた指揮者カレル・アンチェル
● テレジーン大要塞の各施設
・マクデブルク兵舎(Památník Terezín – Magdeburská kasárna)
・遺骨安置所(Kolumbárium)
・火葬場(Krematorium)
・ゲットー博物館(Terezín Memorial – Ghetto Museum)
● テレジーン小要塞(Památník Terezín – Malá pevnost)
● テレジーンでの食事 レストラン Atypik
詳細はコチラから↓
http://jtaniguchi.com/%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%B3-%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%83%B3-terezin-vedem/
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- 観光の所要時間:
- 1日
- アクセス:
- 3.0
- コストパフォーマンス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 4.0
- 展示内容:
- 5.0
クチコミ投稿日:2020/03/13
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