今回の旅のメインテーマは後世のモダン・デザインに大きな影響を与えたバウハウスの史跡巡り。ネットで発見した 現在も泊まれるバウハウス建築のホテル 『ハウス・デス・フォルケス(Haus des Volkes)』に宿泊した。
宿泊可能なバウハウス施設と言うとデッサウの校舎が有名だが、あちらは再建されたに近い建物。一方、こちらはその用途を様々に転用されながらも建物はオリジナルのまま残されていて、調度品もバウハウスの工房でつくられたものだ。
● ハウス・デス・フォルケス(Haus des Volkes)とは
● ハウス・デス・フォルケスの為に、若きバウハウスの建築家がグロピウスより派遣される
● 宿泊可能なバウハウス施設 ハウス・デス・フォルケス
● ハウス・デス・フォルケスとと縁が深い若者にもてなされる
● ハウス・デス・フォルケスの生い立ち
● ハウス・デス・フォルケス(Haus des Volkes)とは
ハウス・デス・フォルケスとは「国民の家」を意味する。テューリンゲン地方の実業家フランツ・イッティン(Franz Itting)が従業員のレクリエーション施設として1927年にプロプストツェラ(Probstzella)の地に建てた。彼はこの地方の名士であり、電力会社を設立し地域の100以上の町に電力を供給して財を成した人物。そして、 ハウス・デス・フォルケス には、彼が得た収益を従業員や地元地域に還元する目的があった。
イッティンの考える福利厚生施策は先進的だった。彼の電力会社の従業員は当時にして週40時間労働、その就労後の楽しみの為に福利厚生施設まで用意した。福利厚生施設と言っても、その規模が凄い。映画館、劇場、ダンスホール、ボーリング場、クラブルーム、図書室、スパ、サウナを備え、コンサートまで主催した。
フランツ・イッティンは産業家でありながら社会主義者だったようで、彼の会社は賃金も高く、不景気の時には多少の利益を犠牲にしても雇用を守り、創出までした。しかし、その思想性故にナチス政権時代はブーヘンヴァルト強制収容所に投獄されてしまう。
戦後、このテューリンゲン地方は東ドイツ側に属し、ソ連の支配下にあったから、またしてもイッティンの苦難は続く。今度はソ連から資本家と見なされて、再び投獄されてしまうのだ。幸運にも、投獄の後の裁判で無罪を勝ち取り、釈放された。そして、すかさず彼は西側に亡命した。案の定、勝ち取った無罪判決は翻されてしまい、その後、東ドイツに戻ることは叶わなかった。
良心の実業家フランツ・イッティンが2度にわたって国家による翻弄された苦難の人生はローマン・グラフ(Roman Grafe)というドイツ人ジャーナリストによって書籍、映画となって後世に伝えられている。
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