ルボン山の歴史
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- 旅行時期:2024/09(約1年前)
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by ジョルジュ・ルボンさん(男性)
佐倉・四街道 クチコミ:1件
四街道の貴重な史跡である「ルボン山」は、明治5年に来日したジョルジュ・ルボンによって築かれました。
天保11年2月、佐倉藩は下志津原に町打場(砲術演習場)を開設し、以来、この地で砲術を磨き、幕末まで多くの軍役を勤めました。
明治5年4月11日、横浜港にフランス陸軍軍事顧問団が到着しました。
明治5年11月、陸軍大輔山縣有朋は、旧佐倉藩の“町打場”を「これに替る適地なし」として大砲演習場に決定し、顧問団教師のルボン砲兵大尉にその築造を委ねました。この時、彼は発射台とフランス士官の宿舎や陸軍砲兵の詰所などの建物を建設し(現在の佐倉市木戸場辺り)、演習場の南端には「小山」を築きました。ルボン砲兵大尉は明治9年7月に帰国しました。
明治19年4月、陸軍は砲兵射的学校を演習場の発射台附近に開校し、全国から人材を集めて、砲兵教育と技術研究の拠点としました。
明治27年12月、総武鉄道が四街道停車場を開業すると、同校は野戦砲兵射撃学校と改称し、停車場近くに移転しました。これにより、帝都から同校へのアプローチが容易になり、陸軍は天皇や皇太子の行幸啓を仰ぎました。大砲の射程が延伸し、演習場は六方野へと拡張され、数千人からなる諸団の大砲演習や野戦演習の場となり、停車場周辺に町場が形成されて、“軍郷四街道”が誕生しました。
明治45年7月に明治天皇が崩御されると、ルボンはフランス大統領代表として来日し、9月13日には青山練兵場で執り行われた大喪の儀式に参列しました。そして、同月23日には四街道停車場に降り立ち、陸軍野戦砲兵射撃学校を視察するとともに、「小山」に登りました。感慨にふけるルボンの前に校長の河北大佐が「ルボン山」と記した木標を建てました。この一件は新聞で報道され、海外にも「Lebon-Yama」の名とともに伝えられました。「ルボン山」命名の瞬間でした。
太平洋戦争後、開拓団によって演習場地に農地が拓かれ、さらに団地が造成され、商業施設やマンションが建ち並び、今や下志津原の面影はありません。
詳細は、大矢敏夫著「ルボン山と町打場の物語ー佐倉藩の幕末・維新と“軍郷四街道”」(出版:デザインエッグ株式会社、販売:アマゾンおよび楽天ブックス、価格: 4,367円(税込)、サイズ:B5、頁数:全383頁)をご参照ください。
- 施設の満足度
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4.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 四街道駅から1キロ以内
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- 一人でもゆっくり景色を眺めることができる
- バリアフリー:
- 2.0
- 階段を上ることになるが、少しの我慢
- 見ごたえ:
- 4.0
- 市内の中央にあって、軍郷の歴史を感じることができる
クチコミ投稿日:2024/09/23
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