浦賀湾を見下ろす小山です。
- 3.5
- 旅行時期:2020/11(約5年前)
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by nichiさん(男性)
横須賀 クチコミ:10件
ペリーの浦賀来航の際に交渉にあたった浦賀奉行所与力・中島三郎助の招魂碑が1891年(明治24年)に建立された場所を、公園として整備したものです。
急階段を登って行きます。
最初に現れるのが、咸臨丸出航の碑。
1860年(安政7年)幕府は日米通商友好条約批准書交換のため、米軍艦ポーハタン号で新見豊前守正興を代表とする使節団をワシントンに送ることにしました。
幕府は万が一の事故に備えて、軍艦奉行木村摂津守を指揮官に、勝麟太郎以下90名の日本人乗組員で運航する咸臨丸を従わせることにしました。
咸臨丸はココ浦賀で2日間航海準備を行い、浦賀港を出港。
39日後、無事にサンフランシスコに入港し、大任を果たしています。
碑の裏側には乗組員の名前。
奉行従者として福沢諭吉の名前がもありました。
さらに登ると中島三郎助招魂碑がありました。
明治24年に建てられました。
篆額は戊辰戦争を一緒に戦った榎本武明の筆です。
榎本武明の筆と言われても文字が見えない。
と言うか文字が見えても達筆すぎて読めないと思います。
浦賀のスーパースター 与力中島三郎助。
父も浦賀奉行所の与力だった中島三郎助。
浦賀への黒船来航時、応接掛けとして折衝の任にあたり敏腕ぶりを発揮。
ここで黒船に乗船し館内を調べて回った経験があります。
翌年、幕府が初めて西洋式の軍艦「鳳凰丸」を建造する際、その建造主任になっています。
西洋式の軍艦の必要性を何度も幕府に進言した結果のようです。
更にその翌年、勝海舟や榎本武揚と共に長崎海軍伝習所に派遣され、造船術を学びます。
その後は浦賀で咸臨丸の修理などを行い、造船・操船の第一人者として活躍しました。
大政奉還で、150年の歴史がある浦賀奉行所も廃止。
与力や同心、みんな離職。
中島三郎助は、主君徳川の為、榎本武揚と共に幕府軍として戦い、中島三郎助は箱根の五稜郭で戦死しています。生き残っていれば、榎本武揚お共に明治政府の要人になっていた可能性もあったかもしれません。
しかし、自らの命を投げ出して徳川のために戦うことを選んでいます。
強い意思のもと、中島三郎助は旧幕府軍に加わったんですね。
たまたま一与力であった中島三郎助は、幕末から明治維新と言う激動の時代で、開国の舞台の日本中から注目を浴びた浦賀で大変な経験をします。
そして地元浦賀をこよなく愛した中島三郎助。
今でも浦賀の人々に愛されているんですね。
頂上近くには、与謝野鉄幹、晶子夫妻が観音崎、浦賀、久里浜を吟行した際に詠んだ句の歌碑がありました。
黒船を 怖れし世など なきごとし 浦賀に見るは すべて黒船 寛
春寒し 造船所こそ 悲しけれ 浦賀の町に 黒き鞘懸く 晶子
奥様の与謝野晶子の俳句、格好いいですね。
俳句ブームの今、夏井いつき先生の感想を聞きたい!!
頂上近くからは、浦賀湾ではなく、外海が良く見えました。
- 施設の満足度
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3.5
- 利用した際の同行者:
- カップル・夫婦(シニア)
クチコミ投稿日:2021/02/03
いいね!:4票
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