室町時代後期の武将「太田道灌」が築城したとされる山城(砦)跡です!
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- 旅行時期:2017/04(約9年前)
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by hiroさん(男性)
赤羽 クチコミ:1件
『稲付(いなつけ)城』は、「江戸城」を築城したことで知られる「太田道灌(どうかん)」(1432年~1486年)が、「江戸城」と「岩槻城」を中継するために「鎌倉時代」から岩淵の宿があり「室町時代」には関が設けられて街道の主要地点となっていて三方を丘陵に囲まれた土地である現在の「静勝寺」境内一帯あたりに築いた「山城(砦)」とされています。
1987年(昭和62年)に「静勝寺」南方面で行われた発掘調査によって永禄年間(1558年~1569年)末頃から1582年(天正10年)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されています。
また、「静勝寺」に伝存する1687年(貞享4年)の「静勝寺除地検地地図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、『稲付城』の城塁配置を推察することができます。
『稲付城跡』は、1961年(昭和36年)に「東京都指定文化財(旧跡)」に指定されています。
『稲付城跡』へのアクセスは、JR「赤羽駅」南改札から西口方面へ出て徒歩4分程度(約300メートル)の場所に位置します。
「静勝寺」境内に行くには、石段を登りますが石段下側に『都旧跡 稲付城跡』の石碑があり、石段を登ると左側に「東京都北区教育委員会」の案内板が設置され、右側に発掘調査の際に出土した『稲付城』の遺構とされる石が置かれています。
実際にこの地を訪れてみて石碑と案内板が無ければ、城跡に気付くことは無いと思いますが、案内板を見て石段の上から「赤羽駅」方面を見下ろすと砦を築くのに適している立地であると感じることはできます。
『稲付城』は、江戸に入城した「徳川家康」の命により廃城となっています。
また、「静勝寺」は「太田道灌」の死後、道灌の師「雲綱和尚」が1504年(永正元年)に『稲付城』の一角に「太田道灌」を弔う堂を建立して「道灌寺」としたことがはじまりとされ、1655年(明暦元年)に道灌の子孫「太田資宗(すけむね)」が堂舎を建立し、道灌とその父「太田資清(すけきよ)」の法号にちなんで寺号を「自得山静勝寺」と改めています。
江戸時代を通じて「静勝寺」は太田氏の菩提寺であり、「木造太田道灌坐像」を祀る「道灌堂」が道灌の250回忌にあたる1735年(享保20年)に建立、厨子は350回忌にあたる1835年(天保6年)に製作されています。
「道灌堂」は、「太田道灌」の命日である毎月26日に開扉され「道灌堂」に安置されている「木造太田道灌坐像附厨子」を拝観できます。
「木造太田道灌坐像附厨子」は、1989年(平成元年)に「東京都北区指定有形文化財(歴史資料)」に指定されています。
また、『稲付城跡』を訪れる際は、「道灌堂」の開扉日に合わせて26日に訪れてみたいと思います。
- 施設の満足度
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3.5
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 4.5
- 「赤羽駅」から徒歩4分程度です。
- 人混みの少なさ:
- 4.5
- バリアフリー:
- 2.0
- 赤羽駅からは、石段または急坂を登ります。
- 見ごたえ:
- 3.5
クチコミ投稿日:2017/09/16
いいね!:9票
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