ビルの谷間の癒しの空間として賑わいのある神社です!
- 4.0
- 旅行時期:2017/03(約9年前)
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by hiroさん(男性)
日本橋 クチコミ:18件
『福徳神社』の創建についての詳細な記録は無く不祥ですが、神社に伝わる略記よると清和天皇(第56代)在位していた貞観年間(859年~879年)には、武蔵野の村落である福徳村の稲荷神社として既に鎮座し、社号もこの村名に由来し「福徳稲荷」といわれ、明治維新後の1876年(明治9年)に『福徳神社』と改められています。
神社の主祭神は、日本書紀によると「倉稲魂命」(うかのみたまのみこと)、古事記では「宇迦之御魂神」(うかのみたましん)で五穀豊穣の神様です。
『福徳神社』は、元来武将の信仰があつく平安時代後期の武将である源義家(1039年~1106年)が深く崇敬されていたと伝わっています。
また、江戸幕府以前には、戦国時代の武将で江戸城を築城した太田道灌(1432年~1486年)も深く崇敬し、兜・矢・鏃などが奉納されたと伝わっています。
さらに小田原征伐により北条氏が滅んだ後、関東の新領主として徳川家康が江戸入府した1590年に初めて参詣し、その後も参詣は数度に及んだと伝わっています。
『芽吹稲荷』の由来は、徳川秀忠(二代将軍)が1614年正月に参詣した際に「福徳とはまことにめでたい神号である」と称賛し、その際に樹皮付きのクヌギの鳥居に若芽が萌え出ているのを見て「芽吹稲荷」との別称を命名しています。
幕末期には火災が多く度々被災していますが、社殿・施設修復費用捻出のため、富くじ興行が許された社寺のひとつでもありました。
天保年間(1830年~1843年)には全国的な凶作により行われた「天保の改革」の影響により一時「福徳稲荷」は姿を消しますが、改革を断行した老中・水野忠邦の失脚後、氏子の嘆願により再興されています。
1923年(大正12年)の関東大震災、1944年(昭和19年)の東京空襲などを経て、現在の地に落ち着いたのは1973年(昭和48年)、その後2007年(平成19年)に決定した「日本橋室町東地区開発計画」の一環として2014年(平成26年)に現在の本殿が再興されました。
2016年(平成28年)には、『福徳神社』と一体となった広場空間である「福徳の森」が整備され人々の憩いの場となっています。
2014年(平成26年)に現在の本殿が竣工した当時に参拝した際は、ひっそりとした神社のイメージでした。
ビルの谷間の小さい神社ですが、現在はテレビのコマーシャルでも取り上げられ、「福徳の森」と一体となった植栽が奇麗に整備された広場(人々の憩いの場)として定着しており、多くの参拝者で賑わいのある人気の神社になっています。
「福徳の森」と一体となったビルの谷間の癒しの空間として人気スポットとなっています!
日本橋を訪れた際は、必ず参拝している小さいですが歴史のある神社です。
- 施設の満足度
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4.0
- 利用した際の同行者:
- カップル・夫婦
- アクセス:
- 4.5
- 人混みの少なさ:
- 3.5
- バリアフリー:
- 3.5
- 見ごたえ:
- 4.0
クチコミ投稿日:2017/05/04
いいね!:5票
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