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真清田神社

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眞清田神社〔神社〕

  • 4.0
  • 旅行時期:2013/05(約13年前)
横浜臨海公園さん

by 横浜臨海公園さん(男性)

一宮 クチコミ:12件

眞清田神社(ますみだ じんじゃ)は、愛知県一宮市に所在する尾張國一之宮神社である。

該社、御祭祀は、
天火明命(あめのほあかりのみこと)
の御1柱である。

然るに、時代背景として、大己貴命(おおなむちのみこと)、若しくは、國常立尊(くにのとこたちのみこと)との記述物も存在し、なかんずく、鎌倉期から江戸末期迄は、國常立尊の存在が最有力とされたが、紆余曲折の上、明治2年(1869年)に現祭祀に確定された。
現在、該社に於いて該日をして創建記念日に指定し、明治43年(1910年)からは新暦4月3日に桃花祭として神事執行される。

神階に就いては、
承和14年(847年)11月11日 従五位下(續日本後紀)
仁寿 元年(851年) 6月24日 従四位下(日本文徳天皇實録)
貞観 7年(865年) 8月21日 正四位上(日本文徳天皇實録)
文治 2年(1186年)3月    正一位  (尾張國神名帳)

康正元年(1455年)6月には、該社に盗賊一味が押入り、更に、放火の狼藉に及んだ為に、該社境内造営物、神寶、祭器一切が焼失した。
再興は、資金不足が原因で、長禄年間(1457〜60年)から寛正年間(1460〜66年)の長期間に亙った。

尾張の戦国新興大名 織田信長(おだ のぶなが)(天文3年(1534年)6月23日〜天正10年(1582年)6月21日)は、第106代 正親町天皇(おうぎまち てんのう)(永正14年(1517年)6月18日〜文禄2年(1593年)2月6日)警護を名目に永禄11年(1568年)に上洛したが、数度の天覧後、天正2年(1574年)3月28日に勅許に拠り、奈良正倉院に収納されている香木 蘭奢侍(らんじゃたい)の切片を入手し、信長自身が楽しむと共に家臣に分与したが、その分与を受けた1人たる 村井貞勝(むらい さだかつ)( ? 〜天正10年(1582年)6月21日)は、友人で一宮城主の人関長安(ひとせき ながやす)(天文31年(1552年)〜天正12年(1584年)に小片を再分与した。
長安は天下の名香を自家に置くのは忍びずとして該社に奉納した。
その後、該香は一時期所在不明とされたが、現在は該社宝物館に断片と称する物が現存する。

天正13年(1586年)1月18日に、天正大地震(てんしょう だいじしん)が発生し、当時の文書に、
該社本宮、楼門、廻廊、その他殿堂悉く転覆傾斜
と記載されるほどの被害が生じた。

更に、織田信長亡き後、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)(天文6年(1536年)3月17日〜慶長3年(1598年)9月18日)は、全国の石高確認の為に検地を実施したが、尾張國に対しては天正18〜19年(1590〜91年)に実施したが、該検地実施中たる天正19年(1591年)に、該社神人達が秀吉の些細な命令違反を理由に、一宮村以下計7村の該社所領地没収の暴挙に出た為に、神人達の職を廃し散逸させた事から、該社神職が各地に逸散した事から俄に荒廃状態を呈した事で神職不在社になり、故に、別当神宮寺般若院僧侶が神務管理する仏主社従の状態になった。

秀吉死後、慶長5年(1600年)10月21日に東西に別れ関ケ原に於いて雌雄を決する戦いが行われたが、東軍筆頭 徳川家康(とくがわ いえやす)(天文11年(1543年)11月3日〜元和2年(1616年)6月1日)は、前々日たる同月19日に該社に於いて小憩を兼ね、該社を参拝して戦勝祈願した。
幸いにして、関ヶ原ノ合戦は東軍側圧勝に終わったが、戦勝後、報寶として家康は該社に対し200石神領を安堵した。

荒廃を極めていた該社を再興させた功績者は、何と言っても、初代尾張藩藩主 徳川義直(とくがわ よしなお)公(慶長5年(1601年)1月2日〜慶安3年(1650年)6月5日)であろう。
義直は、尾張藩に入府した際に、該社参拝の折に見た状態に驚愕し、寛永8年(1630年)に該藩の全面的助力に依り本殿以下の造営が実施され、同年11月3日に正遷座が斎行され、その際に、義直は兄で徳川第2代将軍 徳川秀忠(とくがわ ひでただ)(天正7年(1579年)5月2日〜寛永9年(1632年)3月4日)の病気平癒を祈願している。
また、長らく神職不在であった該社に、義直は 佐分栄清(さわけ さけきよ)(元和9年(1623年)〜正徳元年(1716年)) を任命し明治維新まで佐分家が世襲宮司家となった。
尾張藩は該社を重視し、第2代尾張藩主 徳川光友(とくがわ みつとも)(寛永2年(1625年)8月31日〜元禄13年(1700年)11月26日)も先例に倣い、承應2年(1653年)に旧礎を活用して勅使殿を造営し、此れらに拠り、寛文3年(1663年)4月に本殿以下の造営が竣工した。

徳川家が朝廷に政権を返納し明治元年(1868年)に明治維新が成立したが、明治新政府は政教一致政策を採用し、神道を唯一の国教とし神仏分離政策を強行したが、該社は、南北朝期に南朝方に対し精勤していた事実も該社に幸運をもたらした。
該社境内別当寺は、享保18年(1733年)5月に廃絶した東西神宮寺、般若院以外、当時は、剣正寺、福寿院、光徳寺、及び、菩薩院が存在したが、福寿院以外は全寺廃寺に決し、堂宇は破壊され本尊は移転を余儀無くされた物も在ったが、一部は海外に流失した物も在ったが、多くの仏像類は現在も所在不明とされる。
然し、該社内に於ける困惑は少なからず発生していた様で、例えば、明治3年(1871年)6月には、聖徳太子父子三像をして仏像か神像かに就いて解釈が分れ、結局、同年9月に該像をして神像と解され判定された事から、該社に残存が決定し該像は神庫に収納された。

明治24年(1891年)10月28日6時38分に、岐阜県大野郡根羽村(現 本巣市)を震源とする濃尾大震災(のうび だいしんさい)が発生し、震源地至近の一宮町では、全家屋2750戸中、2200戸全壊、230戸余半壊し、即死153名、重軽傷者250名余を出す惨事となった。
該社被災では、拝殿、勅使殿、塀重門が倒壊し、井戸屋形が損壊被害が発生したが、何れも、明治26年(1893年)3月に旧材を活用して再建された。

大東亜戦争中、名古屋は三菱重工業を中心とした当時の我が国航空機製造企業が存在した事から、連合軍側の空襲攻撃重要都市の筆頭扱をされた為に度々攻撃を受けた。
然し、当時は米軍に拠る攻撃は大都市部を標的にしたものと考えられていた為に、寧ろ、一宮市は疎開受入側都市とされ、昭和19年(1944年)1月に受入開始後、一宮市転入者は431世帯1580名を数えていた。
然るに、同年12月ともなると一宮市は、警戒警報発令22回、空襲警報発令11回を記録し、最早、一宮の如き地方都市への攻撃すら最早避けられぬとの判断が主流となりつつあった。
昭和20年(1945年)3月12日の名古屋空襲では、熱田神宮宮庁舎、斎館に焼夷弾が着弾全焼し、更に、同年5月17日の名古屋大空襲では、本殿、土用殿が被災全焼した。
その為に、一宮市空襲実施時に於ける該社被災を懸念し、同年4月17日に防空様式の奉安殿設置が決定し、該地に駐屯していた陸軍一宮地方防衛隊の全面的協力を得て建設着手し、同年6月21日に竣工後に極秘裏に御霊代や寶物類を動座移動させていした為に、此れら所蔵宝物類は無事だった。
一宮市は同年7月23日に北部地域に焼夷弾が投下され初被災が生じたが、同月27日21時40分に、事前の警戒警報発令も無く、いきなり空襲警報発令と同時に市中心部に爆弾焼夷弾が投下され、同日22時30分頃から該社境内に焼夷弾約200弾が投下炎上し、該市上水道施設が爆撃が原因で停電の為に断水状態になった為に、消火の為に送水する事すら叶わず、該社は神輿庫、寶蔵、及び、手水舎を除き、殆どの造営物が被災焼失した。
全国の一宮神社で大東亜戦争中の空襲被害で、境内施設が壊滅に等しい甚大被害を受けたのは、該社以外では、大阪市中央区所在の摂津國坐摩神社(いかすり じんじゃ)が有る。

該社社殿造営物は、尾張造(おわり づくり)と称するもので、尾張地域に所在する神社に見られる。
平入切妻造の本舎正面に同幅庇を設置し、更に前方に延身した屋根が軒先まで曲線で覆い込む形態様式が特長とされ、同様例は、京都上賀茂神社、及び、下賀茂神社に類例を見る事が可能である。
因みに、一宮市内には、もう1ヶ所、尾張國一宮大神神社が所在する。



眞清田神社(ますみた じんじゃ)
一宮市真清田1−2−1
?: 0586−73−5196
9:00〜17:00
東海道本線尾張一宮駅東口 徒歩8分
http://www.masumida.or.jp/index.php

施設の満足度

4.0

利用した際の同行者:
一人旅
アクセス:
4.5
人混みの少なさ:
5.0
バリアフリー:
5.0
見ごたえ:
3.5

クチコミ投稿日:2013/05/31

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