大依羅神社〔神社〕
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- 旅行時期:2013/02(約13年前)
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by 横浜臨海公園さん(男性)
住吉・平野 クチコミ:10件
該社御祭祀は、
底筒男命(そこつつおのみこと)
中筒男命(なかつつおのみこと)
表筒男命(うわつつおのみこと)
建豊波豆羅和別王(たけとよはずらわけのきみ)
御4柱である。
該社は所在地は、元来、豪族 依羅一族居住地で、且つ、該社往時は住吉大社に次ぐ名神大社に選定された延喜式内社である。
因みに、建豊波豆羅和別王は、第9代 開花帝(かいか てんのう)(孝元7年(前208年)〜開化60年(前98年)5月23日)の第4子で、依羅宿禰吾彦の祖とされる。
神階に就いては、
貞観元年(859年)1月 従5位下勲8等
延喜9年(909年) 正2位
の記録が現存する。
鎌倉初期の歌人 藤原定家(ふじわら さだいえ)(應保2年(1162年)〜仁治2年(1241年)9月26日)は、該社をして、
君が代は依羅の柱のとことはに松と杉とや千たび栄えむ
と詠んだ。
該社は、壮大な敷地と豪奢な社殿を有していたが、南北朝時代に依羅一族は南朝方だった事から、再三に渡り北朝側から攻撃を受け、一族全て滅亡するに至った。
更に、万治2年(1659年)に該社に火災が発生し境内全部が焼失した事で貴重な資料も烏有に帰した。
江戸中期以降は、住吉大社傘下の境外摂社になり、更に、別当我孫子観音住職が管理維持する仏主神従の立場に置かれる。
明治政府は、明治5年(1872年)10月26日附で神祗省命令を以って、住吉大社境外摂社の立場から離れ独立社化させられた。
明治9年(1876年)2月12日附 郷社指定
昭和6年(1931年)10月1日附 縣社指定
明治24年(1891年)に、本殿、及び、拝殿を修造したが、昭和44年(1969年)9月1日に放火に依り本殿他は全焼したが、昭和46年(1971年)10月に再建され現在に至る。
大依羅神社(おおよさみ じんじゃ)
大阪市住吉区庭井2−19−16
?: 06−6691−3315
大阪市営交通地下鉄御堂筋線我孫子駅 徒歩5分
- 施設の満足度
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5.0
- 利用した際の同行者:
- 一人旅
- アクセス:
- 5.0
- 人混みの少なさ:
- 5.0
- バリアフリー:
- 5.0
- 見ごたえ:
- 4.0
クチコミ投稿日:2013/02/02
いいね!:49票
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