2016/06/03 - 2016/06/03
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chiaki-kさん
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今日はショパンが育ち、活躍したワルシャワを訪れる日。ワルシャワはどんな顔を私に見せてくれるか期待は尽きない。
表紙の写真はワルシャワで最も美しい公園、と言われるワジェンキ公園にある、しだれ柳の樹の下で風に身を任せ、物思いに耽るショパン像。見る角度によって微妙に表情が変わる。
2024/03/05 一部修正
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 2.0
- グルメ
- 3.5
- ショッピング
- 3.5
- 交通
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 25万円 - 30万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 観光バス 徒歩
- 航空会社
- フィンランド航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- クラブツーリズム
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6/02
ポーランドに入国してから、延々とこんな風景を眺めながらバスは進む。ちなみに、ポーランドの国名の Polska (ポルスカ)は野原を意味する(ポーレ)が語源と言われている。なお、ポーリュシカポーレという曲があるが、あれはロシアの軍歌でした、残念。 -
あと198kmは仕方ないのだが、道路は相変わらず片側1車線の普通の道。
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リトアニア、ベラルーシ北部を結ぶ8号線では目下高速道路建設中。ポーランドの高速道路は東西をつなぐものはまあまあだが、南北がいけない。
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ワルシャワまであと50kmほどになって、やっとまともな高速道路になった。ちなみにETC受信器があるので、ここは有料区間。
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19:00を過ぎてワルシャワの中央を流れるヴィスワ川を渡る。やっとワルシャワの街が見えてきた。今日のホテルは、よりにもよってここからは反対側にあるワルシャワ空港に近いホテル。
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19:50 やっとのことでホリディ・イン・ワルシャワ・エアポートに到着。ホテルの写真は翌朝撮影したもの。
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20:30にやっと夕食にありつく。夕食はバイキングなのだが、料理はたったこれだけ。チキンはまあまあの味だったが、とにかく品数が少なくガッカリモード突入。ホテルの周囲には何も無く、また長距離移動の疲れもあったのでシャワーを浴びてさっさと就寝する。
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6/3
6:00 朝飯前にホテル周辺の散策。ホテルの前にはこんな自転車道があった。自転車道にも横断歩道があるのね。なお、ホテルの周辺は会社と工場だらけで、観光客の入れるようなお店は皆無だった。 -
9:00 ワルシャワ市内観光に出発。最初は日程に入っていなかったワジェンキ公園。午後フリーになってから市内定期バスで来ようと予定していたのでラッキー。なお、写真右側が公園。この道を真っ直ぐ行くと旧市街に行く。
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公園の門をくぐって5分ほど歩くと見えてきました。
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しだれ柳の樹の下で風に身を任せ、物思いに耽るショパン像。
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このショパン像は1926年に建てられたがWW2中、ドイツ軍によって、破壊されてしまった。現在の像は、ポーランドのクラクフ芸術大学のマリアン・コニエチニイ教授によって作成されたもの。
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ちょっと角度を変えると少しもの悲しい表情になる。なお、毎年5月から9月にかけての週末には、像の前で無料ピアノコンサートが開催されているようだ。
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ワジェンキ宮殿は朝から大勢の観光客で賑わっている。そろいの青いキャップに派手なスタイルの団体さんはC国の方々か。ちなみに、この公園は18世紀、ポーランド王国最後の王となったスタニスワフ・アウグスト・ポナトフスキの命によって造営された。
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ワジェンキ宮殿の別名は水上宮殿。なお、ワジェンキとは浴場の意味で、公園内に点在する離宮にはすばらしい浴場があったことから、こう呼ばれるようになったとか。手すりの上に2トーンカラーのカラス発見。
なんというカラスか解らなかったのですが、野鳥のオーソリティ、潮来メジロさんに教えていただきました。
>このカラスは、和名ハイイロガラス(別名:ズキンガラス、英名:Hooded Crow)といいます。
>スペイン・ポルトガルを除くヨーロッパ全域に広く分布しています。
私もロンドンのグリーンパークで見ましたよ。
潮来メジロさん、ありがとうございました。 -
グェー、グェーと大きな鳴き声がする方向を見るとクジャクが悠然と歩いていた。
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公園観光を終え、バスでやって来たのは旧市街。この通りはバス、TAXI、そして許可車以外は入れない新世界通り。背丈をそろえた、きれいな建物が続く。
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通りの名はクラクフ郊外通りと名を変え、左前方に聖十字架教会が見えてきた。
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聖十字架教会前にバスを停車させ、教会に入る。なお、今日はバスが替わっている。
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聖十字架教会。写真は午後撮影したもの。
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教会の前には十字架を担ぐイエス像が。何かを指し示しているようだが何だろう。
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教会内に入る。すぐ左手の柱にそれはあった。
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ショパンは1849年10月17日、パリ・ヴァンドーム広場に面したアパートで息を引き取ったが、彼の遺言に従い、葬儀の前に取り出された心臓はショパンの良き理解者であった姉のルドヴィカによって祖国に持ち帰られ、聖十字架協会の柱に納められた。
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2013年に行った、パリ・ヴァンドーム広場。
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ショパン最後の地を示すプレート。
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現在はCHAUMETという店が1Fに入っている。周りにはCHANELやミキモトなどの高級店が並ぶ。なお、ショパンの墓はパリのペール・ラシェーズ墓地にある。1度は行ってみたい。
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この方はローマ、サン・ピエトロ大聖堂内のサン・セバスティアーノ礼拝堂に眠っている。
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ショパンがオルガンを弾いた、ヴィジトキ教会。(車窓より)
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ポーランド共和国大統領官邸。もともとは貴族の屋敷で、1765年に一部を劇場として公開、ショパンもここで初めてのピアノコンサートを開催している。(車窓より)
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バスが止まったのはワルシャワ蜂起記念碑のある広場。ここでワルシャワ蜂起についてスタディ。
1944年7月30日、ソ連軍はワルシャワから10km地点まで進出、ワルシャワ解放も近いと思われていた。しかし、このままソ連軍にまかせては解放後のポーランド造りの指導権がソ連に取られてしまう。というポーランド亡命政府の思惑もあり、1944年8月1日17時、ここまで地下組織として生き残ったポーランド国民軍、国内軍、左翼化したポーランド人民軍など20000〜50000人の混成部隊(ポーランド蜂起軍)がワルシャワを占領するナチス・ドイツ軍に対し一斉攻撃を開始する。
ワルシャワ市内には約12,000名のドイツ兵が駐屯、数では劣っていたものの蜂起軍を圧倒する豊富な物量装備を所有していた。その大半が小火器しか持たない蜂起軍では、わずかにドイツ軍の兵舎、補給所を占領しただけであり、たのみの綱はソ連軍の侵攻だけだった。
ヴィスワ川対岸にいたソ連軍は、市街地への渡河が可能な状況にあったにもかかわらず、蜂起軍への支援をせずに静観した。ヒトラーは、これをみて、ソ連軍が蜂起軍を支援する気が全くないと判断、蜂起軍の弾圧と、報復としてワルシャワの破壊を命ずる。
蜂起軍はドイツ軍の補給所や兵舎から奪ったドイツ軍の小火器、軍服を国内軍兵士に支給、これにより、敵味方が同じ軍服を着用するため、蜂起軍兵士はポーランド国旗を模した腕章やワッペンを着用し、識別を行った。さらに多くの市民が蜂起軍に参加、協力をして、ドイツ軍の反撃に備えバリケードを築いた。 -
と、いうことで蜂起軍の服装や装備にはドイツ軍のものが多く見られ、写真左側の兵士はドイツのヘルメットをかぶっている。
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この兵士もドイツのヘルメットだが、なにか布きれのようなものを巻いている。そして手にしている拳銃はドイツ軍から奪ったルガーと思われる。後方に少年兵がいるが、もっぱら伝令や補給役として活動した模様。
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ドイツ軍は重火器、戦車、火炎放射器など圧倒的な火力の差で徐々に蜂起軍を追いつめていった。8月31日、蜂起軍は分断された北側の解放区を放棄し、地下水道を使って南側の解放区に脱出、9月末には蜂起軍はほぼ潰滅する。写真の像はまさに下水道へ逃げるシーンであるが、このワルシャワ蜂起をテーマにした「地下水道」という映画があるそうだ。(見てないけど)
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その後、報復攻撃によりワルシャワは破壊される。蜂起参加者はテロリストとされ、市民も合わせて約22万人が戦死、又は処刑されたと言われる。10月2日、蜂起軍はドイツ軍に降伏し、蜂起は完全に鎮圧された。降伏した蜂起軍は、そのまま絶滅収容所に送られた。
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1945年1月12日、ソ連軍はようやく進撃を再開。1月17日、廃墟と化したワルシャワを占領した。その後、こともあろうにレジスタンス幹部を逮捕し、自由主義政権の芽を完全に摘み取った。ソ連は、ロンドンのポーランド亡命政府とは別に、ポーランド国民解放委員会なる傀儡政権を樹立していた。そのため、ワルシャワ蜂起は、ポーランド亡命政府主導の組織を壊滅させるための、ソ連の陰謀であったという説すらある。(Wikipedia参照)
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広場から5分ほど歩いて着いたのはワルシャワ新市街と呼ばれる地区。
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バルバカンは旧市街地への入り口にある門。
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馬車はこの時間でも入れるのね。
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門の左右は城壁となっている。これらの建築物も皆戦後に修復されたもの。
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中に入って、すぐに旧市街広場に着いた。
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東側の建物
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南側
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西側
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北側にはワルシャワ歴史博物館(一番左にあるグレーの建物)もあるのだが修復中で閉館中。残念。
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広場中央にはワルシャワのシンボルでもある剣と盾を持った人魚像がある。
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今あるワルシャワの旧市街、新市街は第二次大戦後、市民によって「壁のひび一本に至るまで」忠実に再現されたものである。
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旧市街、新市街、クラクフ郊外通り、新世界通り、およびワルシャワ市内に点在する複数の宮殿群を含む「ワルシャワ歴史地区」は1980年にユネスコの世界遺産に登録された。
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王宮広場へ出た。予定されていたオプショナルツアーが不成立となった為、ツアーメンバーは全員ここで解散。TDさんと何人かのメンバーはこの後、ワルシャワ蜂起博物館へ行ったようだ。さて、我々はというと・・・
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王宮の向こう側にある聖アンナ教会隣にある塔へ登ってみることにした。(5Z:5ズウォティ)
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階段を登りきると待っていたのは王宮広場を中心とした旧市街地の見事な眺め。
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西北方向はこんな感じ。遠くには高層ビルも見える。
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東北方向はこんな感じ。王宮とヴィスワ川に架かる橋が見える。
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では、いつものパノラマで。
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南西方向はこんな感じ。文化科学宮殿や中央駅前の高層ビル群が見える。
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東方向はこんな感じだが、ヴィスワ川の向こうには・・・
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ワルシャワ国立競技場が見えた。サッカー専用競技場で2012年に建て替えられたばかり。なお、ポーランドの代表チームは 2016/06/23現在 FIFAランキング27位となかなか強く、過去にはオリンピックで優勝、ワールドカップでも最高3位の成績を残している。(日本は53位・・・健闘を祈る)
*2024/02/15現在、日本は18位! よく頑張りました◎ -
王宮広場の中央にある塔の上で刀を振り回して頑張っているのは・・・
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ポーランドの首都をクラクフからワルシャワに持ってきた王様ジグムント3世。
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塔を降りて向かったのは広場前にあるバス停の先にある売店。
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市内交通1日券ゲット。(15Z)
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180番バスに乗車して最初にやることはチケットの刻印。つまり改札は自分でやるのね。
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バスに揺られてやってきたのはポーランド・ユダヤ人歴史博物館。2013年にワルシャワ・ゲットー蜂起(ワルシャワ蜂起とは違う)70年を記念して建てられた博物館。入場料は1人50Zと高かった。
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内部はハイテクを駆使した最新の博物館であったが、ポーランド語&ヘブライ語&英語だけの説明だったので、内容は画像等から類推するしか無かった。
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これは何?
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シナゴーグの模型か?
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1920年代のユダヤ人街か?
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ナチスとソ連によるポーランド分割。
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ナチス侵攻。
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ゲットーへ向かう人々、よく見ると女性はハダシ。
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そして押し込められ・・・
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一部の治安関係者、専門知識のある者だけを残して強制収容所へ送られ・・・
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これがワルシャワ・ゲットー。この狭い地域に最大45万人が押し込められた。
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映画「戦場のピアニスト」にも登場した跨線橋。
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強制収容所へ追い立てられる人々、女・子供でも容赦無し。
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住人が居なくなったゲットーはこのように焼かれた。壁の隙間などに隠れていた者も多分焼き殺されたのだろう。
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そしてポーランド国内に数多く造られた強制収容所へ送り込まれた。この続きはオシフェンチム編で。
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14:20 博物館の中にあったレストランで遅めの昼食。時間的なものもあったが東洋人は皆無。
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食事はカフェテリア方式。スープがおいしかった。(2人で30Z)
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博物館の庭にあったワルシャワ・ゲットー蜂起の英雄記念碑。ワルシャワ蜂起ほど有名では無いが、ゲットーや収容所に押し込められたユダヤ人の中には、勇敢に戦った人々もいたのだ。ではワルシャワ・ゲットー蜂起についてスタディ。え、もういいって。まあ、そう言わずにお付き合いください。
ワルシャワ・ゲットー蜂起は、第二次世界大戦中の1943年4月から5月にかけて、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人レジスタンスたちが起こしたナチス・ドイツに対する武装蜂起である。
1939年、ユダヤ人の「追放」が始まった当初は、ただ労働キャンプに送られるだけだと信じていた(信じ込ませていた)。しかし、1942年の終わりには、「追放」と言うものが死の収容所へ送られることだとわかり、残ったユダヤ人は戦うことを決定した。更なる移送作戦を阻止するため、「ユダヤ人戦闘組織」などが結成され、1943年4月19日から5月16日にかけてナチスに対して武装蜂起を起こした。
反乱を起こしたユダヤ人たちはゲットー外部から密かに持ち込まれた拳銃、手榴弾、火炎瓶などの貧弱な武装にもかかわらず粘り強く戦ったが、最終的には武装SSなどにより鎮圧された。鎮圧後、ワルシャワ・ゲットーの住民ほとんどがSSによって捕えられ、トレブリンカ、マイダネク、あるいは強制労働収容所へと移送され、ワルシャワ・ゲットーは解体された。
こうしてワルシャワ・ゲットー蜂起そのものは失敗に終わったが、決して無意義ではなかった。ナチス・ドイツの圧政に対してユダヤ人が初めて武器をとって抵抗したという輝かしい記憶をユダヤ人たちに残した。この記憶はイスラエルの建国に向けて大きな原動力となったのである。(Wikipedia参照) -
逆コースの180番のバスに乗って再びクラクフ郊外通りへ戻る。写真はポーランド科学アカデミーと、コペルニクスの像。
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コペルニクスは世界で初めて地動説を発表した16世紀の科学者だが、この説が印刷されて発表されたのは亡くなった後なので、ガリレオ・ガリレイのように宗教裁判にかけられることは無かった。
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コペルニクス像から徒歩10分ほどで到着したのはショパン博物館。元々は貴族の屋敷だったが、ショパンの生誕100執念を記念してリニューアルされ、内部はショパンの生涯などを最新の技術を用いて解説してある。
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左から若かりし頃のショパン、中央は母ユスティナ、右は父ニコラ。ニコラはポーランドに移住してきたフランス人。では、ショパンストーリーの始まり・始まり・・・
フレデリック・フランソワ・ショパン(以降ショパンと呼ぶ)は1810年3月1日(諸説あり)、当時ワルシャワ公国であったワルシャワから西に46kmの地点にあるジェラゾヴァ・ヴォラ村で生まれた。 -
ショパンがオルガンを弾いていたヴィジトキ教会。
ショパンが最初に本格的にピアノを習ったのは1816年から。若きショパンの実力はあっという間に師匠を超え、わずか7歳で公開演奏を行うようになり、瞬く間に神童モーツァルトやベートーヴェンと比較されるようになっていく。 -
ショパンが最後に使用したグランドピアノ。
20歳になったショパンは西ヨーロッパへと活躍の場を広げていく。しかしウィーン滞在中にポーランドはロシア帝国に攻め込まれ、反ロシア派と見なされたショパンは帰国できなくなってしまった。さらにウィーンにも居づらくなったため、活動の場をパリに移す。 -
ショパン手書きのスコア。まるで絵のようだ。
活動の舞台をパリに移したショパンは精力的に演奏会を開催する。1832年2月に開いた演奏会では、誰もがショパンを賞賛した。ことにシューマンが「諸君、帽子を脱ぎたまえ!天才だ」と叫んだのは有名な話。 -
1836年、ショパンは友人であり仲間であったリストのホームパーティーの場で、ジョルジュ・サンドと知り合う。最初は「彼女は本当に女なのか」と疑ったショパンだったが、32ページに渡る手紙をを受け取ったショパンは、次第に心を引かれていった。
1838年11月〜1839年2月まで過ごしたマヨルカ島では、今でもショパンの生涯の中でも最も創造的な期間の1つであると考えられている。しかし冬の悪天候はショパンの健康に深刻な影響を及ぼし、慢性的な肺の疾患から彼の生命を救うために島を去らざるを得なくなる。 -
親友ドラクロアが描いたショパンの肖像画。
マヨルカ島からサンドの別荘ノアンに移り、元気を取り戻したショパンは再び作曲活動に専念する。しかし、ショパンの病が進行するにつれて、サンドは彼の恋人というより看護師となっていった。サンドはショパンを自分の「3番目の子ども」と呼んでおり、その後の数年間は彼女はショパンとの交友関係を維持しつつも、しばしば第三者に宛てた手紙の中で彼に対する苛立ちを吐露していた。そして1847年、サンドの子供のことで口論となり、サンドとショパンの10年に及ぶ関係は終わった。 -
1849年9月、パリ、ヴァンドームのアパートにショパンは移り住んだが、10月になるとショパンの病状は一層深刻となり、一握りの近しい友人のみが病床に寄り添うのみとなった。
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最期の2日前に友人のポトツカ夫人が見舞いに訪れており、病床の彼のために歌を歌った。また、彼はポトツカ夫人にソナタを弾いてくれるよう頼み、神に大きな声で祈りをささげた。
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10月17日の深夜12時過ぎ、医師がショパンにひどく苦しいかと尋ねた。「もう何も感じない」とショパンは答えた。午前2時を回る少し前、ショパンは息を引き取った。
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パリのマドレーヌ寺院で行われることになっていた葬儀は、非常に凝ったものとなったため、ほぼ2週間も遅れて10月30日に行われることになった。葬儀には3,000人近くの参列者があったが、その中にジョルジュ・サンドの姿はなかった。そして、前述したとおりショパンの亡骸はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。(Wikipedia参照)
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博物館近くのMACで一休みしてから、再び旧市街広場を横切り Zapiecek という名の郷土料理レストランに入る。左上は午前中、この店の前を通りかかったとき、店の前で料理の解説をしたツアーガイドさん。右上は TYSKIE という名の生ビール。左下はサラダだが凄いボリューム。右下はメインのホウレン草入りピエロギ。ツアーメシと違って、どれもおいしかった。
この後、再々度旧市街広場を横切り、王宮前広場近くのバス停から175番のバスに乗車。文化科学宮殿や中央駅などを横目で見ながら終点ワルシャワ空港で148番のバスにトランジット? 20:00頃、ホリディ・イン・ワルシャワ・エアポートに到着。シャワーを浴びて就寝。今日も良く歩いた1日だった。
これで「2016年 バルト3国&ポーランド旅行記5: ワルシャワ」は終了です。最後まで、ご覧いただきありがとうございます。
2024/03/05 一部修正
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