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島旅日記〜「世界を見たことがある人」よりも『日本を知っている人』になりたい〜<br />より、第2話『父島(1980年)』<br /><br /><br />中学3年の春、「中学生の最後の想い出づくり」と称して、仲の良かった男3人組で、夏休みに泊まりで海に行こうという話が持ち上がった。<br />行き先はどうする?<br />湘南や三浦よりも葉山、いや、葉山よりもっときれいな海に行きたい…と言う仲間達。<br />それでは、伊豆はどうだろうか?<br />南伊豆はきれいな砂浜があると聞くし、西伊豆は水の透明度が抜群らしい。<br />そのセンで計画をたて始めると、数日後、友人の一人が「新島はどうだろうか?」、「神津島も良いらしいし、式根島も海がきれいだって聞いた。」と、新しいプランを持ってきた。 <br />早速、伊豆諸島のガイドブックを買って調べてみる。<br />確かに南伊豆や西伊豆より、美しい景色が写っている。島ならば伊豆半島よりもっと水は澄んできれいな気がする。<br />「伊豆七島のどれかにしよう!」と3人の意見は一致した。<br />さぁ、エスカレートが始まった。<br />そして、新島、神津島、式根島、3つの島をいろんな角度から比べながら、「しかし、もっときれいな海は何処だろう…?」、そんな話になった。<br />一応、費用的に非現実的と断りを入れた上で、昨年親戚家族に連れて行ってもらった宮古島の話しをした。<br />確かに、宮古島は文句なしに良い。日本離れした真っ白な砂浜と珊瑚礁が魅力的だ。<br />だけど、中学生同士の旅行で、行き帰りで飛行機に合計4回も乗る旅行なんて…、費用も問題だけど親が許可するわけがない。<br />やはり、伊豆七島か…?<br />「ところで、神津島より先にある八丈島なんてどうなんだろう?」そんな声も出た。<br />しかし調べると、八丈島は溶岩島らしく、砂浜はほとんど無いらしい。<br />それならやはり新島あたりの白砂が魅力的だろうか。<br /><br />

【島2】 島旅日記 ≪父島≫

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1980/07/26 - 1980/08/06

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αρκαδια(アルカディア)

αρκαδια(アルカディア)さん

島旅日記〜「世界を見たことがある人」よりも『日本を知っている人』になりたい〜
より、第2話『父島(1980年)』


中学3年の春、「中学生の最後の想い出づくり」と称して、仲の良かった男3人組で、夏休みに泊まりで海に行こうという話が持ち上がった。
行き先はどうする?
湘南や三浦よりも葉山、いや、葉山よりもっときれいな海に行きたい…と言う仲間達。
それでは、伊豆はどうだろうか?
南伊豆はきれいな砂浜があると聞くし、西伊豆は水の透明度が抜群らしい。
そのセンで計画をたて始めると、数日後、友人の一人が「新島はどうだろうか?」、「神津島も良いらしいし、式根島も海がきれいだって聞いた。」と、新しいプランを持ってきた。 
早速、伊豆諸島のガイドブックを買って調べてみる。
確かに南伊豆や西伊豆より、美しい景色が写っている。島ならば伊豆半島よりもっと水は澄んできれいな気がする。
「伊豆七島のどれかにしよう!」と3人の意見は一致した。
さぁ、エスカレートが始まった。
そして、新島、神津島、式根島、3つの島をいろんな角度から比べながら、「しかし、もっときれいな海は何処だろう…?」、そんな話になった。
一応、費用的に非現実的と断りを入れた上で、昨年親戚家族に連れて行ってもらった宮古島の話しをした。
確かに、宮古島は文句なしに良い。日本離れした真っ白な砂浜と珊瑚礁が魅力的だ。
だけど、中学生同士の旅行で、行き帰りで飛行機に合計4回も乗る旅行なんて…、費用も問題だけど親が許可するわけがない。
やはり、伊豆七島か…?
「ところで、神津島より先にある八丈島なんてどうなんだろう?」そんな声も出た。
しかし調べると、八丈島は溶岩島らしく、砂浜はほとんど無いらしい。
それならやはり新島あたりの白砂が魅力的だろうか。

旅行の満足度
5.0
同行者
友人
交通手段
旅行の手配内容
個別手配

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  • 友人2人がガイドブックを開いて、「新島はこの白ママ層のおかげで、ビーチの砂が沖縄のように白い!」と盛り上がっている横で、私の目線は一人、八丈島を越えてもっともっと下へと、地図上を南下していた。<br />「小笠原諸島って…、どうなんだろう?」と私が口を開いた。<br />「社会の授業で聞いたことがあるでしょ?東京から真っ直ぐ、ずっと南、沖縄並みに南なのに東京都!」<br />地図を広げた。 東京から1000km南。<br />「これじゃ、沖縄と同じじゃないの?」と言う友人。<br />「いや、飛行機じゃないよ。飛行機は飛んでいない。船だよ。2等船室なら、安いとは言えないけど飛行機に比べれば断然じゃない?あ…、それに、2等は学割が使えるって書いてある。」<br />ツボにはまった。<br />行き先は小笠原諸島に決定!!<br />

    友人2人がガイドブックを開いて、「新島はこの白ママ層のおかげで、ビーチの砂が沖縄のように白い!」と盛り上がっている横で、私の目線は一人、八丈島を越えてもっともっと下へと、地図上を南下していた。
    「小笠原諸島って…、どうなんだろう?」と私が口を開いた。
    「社会の授業で聞いたことがあるでしょ?東京から真っ直ぐ、ずっと南、沖縄並みに南なのに東京都!」
    地図を広げた。 東京から1000km南。
    「これじゃ、沖縄と同じじゃないの?」と言う友人。
    「いや、飛行機じゃないよ。飛行機は飛んでいない。船だよ。2等船室なら、安いとは言えないけど飛行機に比べれば断然じゃない?あ…、それに、2等は学割が使えるって書いてある。」
    ツボにはまった。
    行き先は小笠原諸島に決定!!

  • 小笠原海運の船はだいたい6日に1便のペースで、竹芝桟橋と父島の間を往復している。<br />竹芝を10:00に出た船は、翌日の14:30に父島の二見港に着く。乗船時間は28時間30分。(このときは、初代おがさわら丸だった。)<br />旅行のガイドブックには、「新造船おがさわら丸の就航で、近く快適になった小笠原」と書いてあった。<br />事実、初代おがさわら丸が就航したのは、この旅行のほんの1年前。<br />それまでの父島丸(2,616t)で片道38時間かかっていたところが、新造船おがさわら丸(3,553t)に代わり、乗船時間も28時間30分に短縮されたわけだから、それはもう、速くて快適になった…はずだ。<br />正直なところ、船酔いを多少なりとも心配していた私は、この新造船の事実にも魅かれるところがあった。<br />しかし私は、外洋においてはこのクラスの船でもまだ木の葉同然だという事実を知らなかった。<br /><br />さて、計画も盛り上がり、だいぶ話も煮詰まってきたところで、せっかく父島まで行くのだから、母島まで足を延ばそうという案も出て、父島での滞在を一部削って母島の民宿も予約することにした。<br />しかしこの頃の小笠原の宿の予約は大変だった。 <br />どう大変だったのかと言うと、JTB等大手旅行会社での取り扱いなんて無いので、予約は電話と往復葉書。<br />携帯電話全盛の現代に全くイメージできない話だろうが、電話だって直接宿にかかるのではない。<br />電話で父島の宿と話をしたい時は、最初に固定電話から父島の電話交換所に電話をして「民宿○○に電話を繋いで欲しいのですが…」と申し込む。すると、<br />「分かりました。電話を切ってお待ち下さい。」と言われるので、一旦電話を切って待つ。<br />そして数分後、電話交換所から「民宿○○と繋がりました。どうぞお話し下さい。」と電話がかかって来るという、今では想像も出来ないシステムだった。<br />電話で予約を申し込んだ後、往復葉書で予約の確認をした。<br />母島についても同じ作業をした。<br />船の予約は、竹芝にある小笠原海運への電話予約だったので比較的簡単だった。<br />これで何とか、父島の宿、母島の宿、往復の船も予約完了だ。<br />そして翌日、船代を2割引にするため、学割の申請書を書いて3人で職員室に提出に行った。<br /><br />しかし…、その日のうちに早速、学校から3人の親が呼び出された。<br />先生に、「お母さん方、何を考えているんですか?年明けには高校受験ですよ。」と叱られた。<br />内申書に響くかも知れない。母親達3人は、「すみません、すぐ中止させます。」と言って帰ってきた。<br />せっかくここまで企画したのに…と口惜しさを滲ませる私達に、3家の親は話し合ってこういう結論を出した。<br />「こういう事情だから学割は諦めなさい。だけど、これだけ計画したのだから小笠原には行っていい。その代わりに、行ったことが学校に知れないように、行く前も行った後も、学校で小笠原の話はしちゃダメ。」<br />そう言って、私たちの小笠原旅行は許可された。<br /><br />当時、10:00に竹芝を出た船は一晩かけて太平洋を南下、翌14:30に父島に着き、二見港に3晩停泊する。<br />この船、停泊中はホテルとして使われ、竹芝を出て5日目の昼頃に父島を出発し、そしてまた1泊かけて6日目の夕方に竹芝に戻ってくる。そして翌日また、竹芝から父島に向けて出航する。<br />つまり、乗って行った船でまた竹芝に帰る日程を組んでも、父島だけならば3泊4日、到着日の14:30から出発日の昼頃まで島内の観光ができる。<br />しかし私たちは乗っていった船を1本見送って、次の船で帰る約11泊12日(内船中泊2泊)の旅程を組んでいた。そして、現地9泊の内、2泊を使って母島を往復することにした。<br />

    小笠原海運の船はだいたい6日に1便のペースで、竹芝桟橋と父島の間を往復している。
    竹芝を10:00に出た船は、翌日の14:30に父島の二見港に着く。乗船時間は28時間30分。(このときは、初代おがさわら丸だった。)
    旅行のガイドブックには、「新造船おがさわら丸の就航で、近く快適になった小笠原」と書いてあった。
    事実、初代おがさわら丸が就航したのは、この旅行のほんの1年前。
    それまでの父島丸(2,616t)で片道38時間かかっていたところが、新造船おがさわら丸(3,553t)に代わり、乗船時間も28時間30分に短縮されたわけだから、それはもう、速くて快適になった…はずだ。
    正直なところ、船酔いを多少なりとも心配していた私は、この新造船の事実にも魅かれるところがあった。
    しかし私は、外洋においてはこのクラスの船でもまだ木の葉同然だという事実を知らなかった。

    さて、計画も盛り上がり、だいぶ話も煮詰まってきたところで、せっかく父島まで行くのだから、母島まで足を延ばそうという案も出て、父島での滞在を一部削って母島の民宿も予約することにした。
    しかしこの頃の小笠原の宿の予約は大変だった。 
    どう大変だったのかと言うと、JTB等大手旅行会社での取り扱いなんて無いので、予約は電話と往復葉書。
    携帯電話全盛の現代に全くイメージできない話だろうが、電話だって直接宿にかかるのではない。
    電話で父島の宿と話をしたい時は、最初に固定電話から父島の電話交換所に電話をして「民宿○○に電話を繋いで欲しいのですが…」と申し込む。すると、
    「分かりました。電話を切ってお待ち下さい。」と言われるので、一旦電話を切って待つ。
    そして数分後、電話交換所から「民宿○○と繋がりました。どうぞお話し下さい。」と電話がかかって来るという、今では想像も出来ないシステムだった。
    電話で予約を申し込んだ後、往復葉書で予約の確認をした。
    母島についても同じ作業をした。
    船の予約は、竹芝にある小笠原海運への電話予約だったので比較的簡単だった。
    これで何とか、父島の宿、母島の宿、往復の船も予約完了だ。
    そして翌日、船代を2割引にするため、学割の申請書を書いて3人で職員室に提出に行った。

    しかし…、その日のうちに早速、学校から3人の親が呼び出された。
    先生に、「お母さん方、何を考えているんですか?年明けには高校受験ですよ。」と叱られた。
    内申書に響くかも知れない。母親達3人は、「すみません、すぐ中止させます。」と言って帰ってきた。
    せっかくここまで企画したのに…と口惜しさを滲ませる私達に、3家の親は話し合ってこういう結論を出した。
    「こういう事情だから学割は諦めなさい。だけど、これだけ計画したのだから小笠原には行っていい。その代わりに、行ったことが学校に知れないように、行く前も行った後も、学校で小笠原の話はしちゃダメ。」
    そう言って、私たちの小笠原旅行は許可された。

    当時、10:00に竹芝を出た船は一晩かけて太平洋を南下、翌14:30に父島に着き、二見港に3晩停泊する。
    この船、停泊中はホテルとして使われ、竹芝を出て5日目の昼頃に父島を出発し、そしてまた1泊かけて6日目の夕方に竹芝に戻ってくる。そして翌日また、竹芝から父島に向けて出航する。
    つまり、乗って行った船でまた竹芝に帰る日程を組んでも、父島だけならば3泊4日、到着日の14:30から出発日の昼頃まで島内の観光ができる。
    しかし私たちは乗っていった船を1本見送って、次の船で帰る約11泊12日(内船中泊2泊)の旅程を組んでいた。そして、現地9泊の内、2泊を使って母島を往復することにした。

  • 迎えた出発の朝、大きなスポーツバッグに大量の着替えを詰めて、私たちは竹芝桟橋に向かった。<br />乗るのはもちろん一番安い2等船室。大部屋の床にごろ寝と聞いていたが、乗船手続きをすると、指定券が渡された。 床にも場所の指定があるのか?それとも、椅子席に変わったのか?<br />疑問を胸に初代おがさわら丸に乗船した。これから28時間半の船旅が始まる。<br />指定された区画へ指定券に従って歩いていくと、大部屋の床には細長く折りたたまれた化繊の毛布が整然と並べられ、その片側には、病院の水銀血圧計を使うときに肘の下に敷くような小さな箱型のクッションが置かれていた。きっとこれが枕なのだろう。そのクッションには、指定席番号が振られた紙が貼ってあった。<br />なるほど、これが指定券の意味だったのか…と納得した。<br />試しに自分のスペースに寝転んでみると、嘘みたいに狭い。<br />人一人に与えられた床は、肩幅+拳が2個くらいだろうか、静かに仰向けに寝ていれば良いが、少しでも体勢を変えるだけで隣とぶつかってしまう。寝返りなんて出来ない、今居る位置で回転するしかない。<br />このスペースで片道28.5時間、往復で57時間も過ごすのか…。<br />夏休みの満員の船って、こんなにまで人を詰め込むんだ…と、少々憂鬱になった。<br /><br />しかし心配事は後回しにして、何はともあれ甲板から出航風景を楽しもう。大荷物を荷物棚に置いた、<br />銅鑼が鳴り、テープが投げられ、船と岸壁を放射状の線が繋ぐ。<br />話しに聞いていた出航風景を目の当たりにして、旅情が盛り上がった三人は大はしゃぎだ。<br />暫くは甲板を、右へ、そして、左へと走り回り、神奈川と千葉を交互に見ながら、初めての船旅を楽しんだ。<br />それにしても、竹芝を出てからずいぶん時間が経つのに、まだ、東京湾を出ない。話しによると、この船は時速に直して40km/h時ほど出るらしい。それなのに、2時間経ってもまだ左右に神奈川と千葉が見える。<br />こんな調子で、1000kmも南にある小笠原諸島に、明日の午後までに辿り着けるのだろうか?<br />そう思っていると船内アナウンスが入り、東京湾内は速度制限があって12ノット(22km/h)までしか速度を上げられない、浦賀水道を抜けたら速度を上げるという事を教えてくれた。<br />そして、浦賀水道を抜けると、エンジン音が高くなり、確かに船の速度が上がった。<br />釣りが好きでときどき親父さんと釣り船にも乗っている友人が色々と教えてくれる。<br />「湾から外洋に出ると、波が高くなって、船はもっと揺れるよ。」<br />「でも波頭を見てみな、確かにさっき(東京湾内)よりは揺れるけど、殆ど白波は立っていないでしょ。これなら快適な船旅だと思うよ。」<br />「景色は遠くを見た方が良い。甲板のすぐ下、船が作る波を見ていると酔うよ。」<br />私が船酔いしないように、色々と気を遣ってくれた。<br />

    迎えた出発の朝、大きなスポーツバッグに大量の着替えを詰めて、私たちは竹芝桟橋に向かった。
    乗るのはもちろん一番安い2等船室。大部屋の床にごろ寝と聞いていたが、乗船手続きをすると、指定券が渡された。 床にも場所の指定があるのか?それとも、椅子席に変わったのか?
    疑問を胸に初代おがさわら丸に乗船した。これから28時間半の船旅が始まる。
    指定された区画へ指定券に従って歩いていくと、大部屋の床には細長く折りたたまれた化繊の毛布が整然と並べられ、その片側には、病院の水銀血圧計を使うときに肘の下に敷くような小さな箱型のクッションが置かれていた。きっとこれが枕なのだろう。そのクッションには、指定席番号が振られた紙が貼ってあった。
    なるほど、これが指定券の意味だったのか…と納得した。
    試しに自分のスペースに寝転んでみると、嘘みたいに狭い。
    人一人に与えられた床は、肩幅+拳が2個くらいだろうか、静かに仰向けに寝ていれば良いが、少しでも体勢を変えるだけで隣とぶつかってしまう。寝返りなんて出来ない、今居る位置で回転するしかない。
    このスペースで片道28.5時間、往復で57時間も過ごすのか…。
    夏休みの満員の船って、こんなにまで人を詰め込むんだ…と、少々憂鬱になった。

    しかし心配事は後回しにして、何はともあれ甲板から出航風景を楽しもう。大荷物を荷物棚に置いた、
    銅鑼が鳴り、テープが投げられ、船と岸壁を放射状の線が繋ぐ。
    話しに聞いていた出航風景を目の当たりにして、旅情が盛り上がった三人は大はしゃぎだ。
    暫くは甲板を、右へ、そして、左へと走り回り、神奈川と千葉を交互に見ながら、初めての船旅を楽しんだ。
    それにしても、竹芝を出てからずいぶん時間が経つのに、まだ、東京湾を出ない。話しによると、この船は時速に直して40km/h時ほど出るらしい。それなのに、2時間経ってもまだ左右に神奈川と千葉が見える。
    こんな調子で、1000kmも南にある小笠原諸島に、明日の午後までに辿り着けるのだろうか?
    そう思っていると船内アナウンスが入り、東京湾内は速度制限があって12ノット(22km/h)までしか速度を上げられない、浦賀水道を抜けたら速度を上げるという事を教えてくれた。
    そして、浦賀水道を抜けると、エンジン音が高くなり、確かに船の速度が上がった。
    釣りが好きでときどき親父さんと釣り船にも乗っている友人が色々と教えてくれる。
    「湾から外洋に出ると、波が高くなって、船はもっと揺れるよ。」
    「でも波頭を見てみな、確かにさっき(東京湾内)よりは揺れるけど、殆ど白波は立っていないでしょ。これなら快適な船旅だと思うよ。」
    「景色は遠くを見た方が良い。甲板のすぐ下、船が作る波を見ていると酔うよ。」
    私が船酔いしないように、色々と気を遣ってくれた。

  • 昼食もとり、夕飯もとり、船室では隣のグループとトランプで遊んだり…と、1日目はあっという間に過ぎて、消灯時刻がやってきた。<br />日没してから、船の揺れは少々大きくなり、寝転んでいてもどうも落ち着かない。<br />実際に身体が転がるような揺れじゃないのかもしれない。だけど、狭いスペースで身体を棒のようにしていると、転がる気がしてならない。何とか開くだけ手足を広げてみようか。<br />そして、自分の領土(?)いっぱいにジワジワと手を広げていった。<br />柔道の後ろ受身ほども開かず、コンコルドの主翼の後退角程度に腕が開いた。<br />合わせて脚もジワジワ広げてみる。<br />とりあえず、この体勢で落ち着こうと決めたものの、ちっとも眠れなかった。<br /><br />朝になると、幸運にも海は凪いでいた。<br />そして、東京湾や相模湾の茶緑色とは全く違う、かといって伊豆七島付近で見た少し黒みがかった紺とも違う、明るくも深いブルー、「碧」い色の海が広がっていた。<br />どうやら、黒潮を抜けるとこんな色になるらしいことを、近くの席(床?)の人が教えてくれた。<br />朝食をとったあと船室に居ると、船内アナウンスが入った。<br />「いま、船の左側にイルカがいます!」<br />急いで左の甲板に走った。<br />船から50〜100mくらいだろうか。少し離れたところで、4〜5頭のイルカがジャンプしていた。<br />

    昼食もとり、夕飯もとり、船室では隣のグループとトランプで遊んだり…と、1日目はあっという間に過ぎて、消灯時刻がやってきた。
    日没してから、船の揺れは少々大きくなり、寝転んでいてもどうも落ち着かない。
    実際に身体が転がるような揺れじゃないのかもしれない。だけど、狭いスペースで身体を棒のようにしていると、転がる気がしてならない。何とか開くだけ手足を広げてみようか。
    そして、自分の領土(?)いっぱいにジワジワと手を広げていった。
    柔道の後ろ受身ほども開かず、コンコルドの主翼の後退角程度に腕が開いた。
    合わせて脚もジワジワ広げてみる。
    とりあえず、この体勢で落ち着こうと決めたものの、ちっとも眠れなかった。

    朝になると、幸運にも海は凪いでいた。
    そして、東京湾や相模湾の茶緑色とは全く違う、かといって伊豆七島付近で見た少し黒みがかった紺とも違う、明るくも深いブルー、「碧」い色の海が広がっていた。
    どうやら、黒潮を抜けるとこんな色になるらしいことを、近くの席(床?)の人が教えてくれた。
    朝食をとったあと船室に居ると、船内アナウンスが入った。
    「いま、船の左側にイルカがいます!」
    急いで左の甲板に走った。
    船から50〜100mくらいだろうか。少し離れたところで、4〜5頭のイルカがジャンプしていた。

  • 昼食をとったあたりから、徐々に小笠原諸島の北側の島影が見えてくる。<br />船は少し遅れているようで、到着予定時刻の午後2時半には、まだ父島の北端付近手前だった。<br />山の上に気象観測ドームが見える。 あれが、三日月山か。 宿に荷物を置いたら早速行ってみよう…などと話していると、間もなく船は左に進路を取り、船首を父島二見港に向けた。<br />近付いてくる父島の港。東京や横浜で見慣れた「港」の概念を覆すような海の色。<br />南国は港だってモスグリーンだ。そのモスグリーンの奥には、熱い日差しに照らされた白い岸壁。<br />その岸壁を埋め尽くすのは・・・人、人、人?<br />島の人が大勢、港に迎えに来てくれている。歓迎の横断幕もある。<br />想像をはるかに超えた大歓迎に、ちょっと恥ずかしいような、照れるような、そんな気分になってしまう。<br />後で知ったことだが、半分は観光客の歓迎、しかしもう半分は、この船で送られてくる6日に一度の生活物資の歓迎だったそうだ。<br />建築資材やセメントなどは、貨物船共勝丸でやってくるのだが、タバコや酒といった嗜好品はこのおがさわら丸でやって来ると言う。新聞だって6日に一度、なんとTVの放送内容(後述する)も6日おきに、まとめて島にやってくるそうだ。台風で船が欠航すればタバコも吸えない、酒も飲めない、清涼飲料水だって飲めない、それが離島というものだと、この旅行で実感することになる。<br />

    昼食をとったあたりから、徐々に小笠原諸島の北側の島影が見えてくる。
    船は少し遅れているようで、到着予定時刻の午後2時半には、まだ父島の北端付近手前だった。
    山の上に気象観測ドームが見える。 あれが、三日月山か。 宿に荷物を置いたら早速行ってみよう…などと話していると、間もなく船は左に進路を取り、船首を父島二見港に向けた。
    近付いてくる父島の港。東京や横浜で見慣れた「港」の概念を覆すような海の色。
    南国は港だってモスグリーンだ。そのモスグリーンの奥には、熱い日差しに照らされた白い岸壁。
    その岸壁を埋め尽くすのは・・・人、人、人?
    島の人が大勢、港に迎えに来てくれている。歓迎の横断幕もある。
    想像をはるかに超えた大歓迎に、ちょっと恥ずかしいような、照れるような、そんな気分になってしまう。
    後で知ったことだが、半分は観光客の歓迎、しかしもう半分は、この船で送られてくる6日に一度の生活物資の歓迎だったそうだ。
    建築資材やセメントなどは、貨物船共勝丸でやってくるのだが、タバコや酒といった嗜好品はこのおがさわら丸でやって来ると言う。新聞だって6日に一度、なんとTVの放送内容(後述する)も6日おきに、まとめて島にやってくるそうだ。台風で船が欠航すればタバコも吸えない、酒も飲めない、清涼飲料水だって飲めない、それが離島というものだと、この旅行で実感することになる。

  • 板張りのタラップを降りていくと、宿のプラカードを持った人を探した。<br />宿の主人とは難なく合流できて、さっそくお世話になる「ヴィラ・シーサイド」に向かった。<br />荷物を置いて宿帳を書くと、宿の主人から島での注意事項の説明を受ける。<br />1.	日焼けに気をつけてなるべく肌を隠すこと。<br />2.	日没後は急速に暗くなるので、日が傾いたら早めに街や大通りへ戻ること。<br />3.	毒蛇はいないが急な崖が多いので獣道には入らないこと。<br />4.	父島北側の兄島瀬戸は潮流が速いので絶対に泳がないこと。<br /><br />その他いくつかの注意事項を確認したのち、私たちは宿の横の舗装された坂道を上がり始めた。<br />道沿いの木には、緑色の実が鈴のようになっている。<br />パパイヤだ…。確か船の売店で、1杯400円で売っていたパパイヤジュースのパパイヤだ。<br />ついでに言うなら、小学校の時に「お父さんの嫌いな果物はな〜に?」としょーもないナゾナゾをやった、あのパパイヤだ。小笠原ではパパイヤが自生しているんだ、「1杯400円なのに…」と感激しながら坂道を歩き、三日月山展望台へと上がった<br />ここからは、二見港が見渡せる。<br />せっかくだから、このまま南国の日没を見ようと、日が沈むまで展望台に居た。<br />日が完全に沈んだので、宿へと坂道を降りた。<br />宿に着くと、日が沈んでも戻らない私たちを宿の主人が心配していた。<br />そして、叱られた。<br />そう、島には島の決まりがある。<br />私たちはゲストだけれど、リゾートホテルや温泉旅館の「お客様」とは少し立場が違う。<br />この離島という特別な環境においては、私たちは船の乗客で、乗客の安全を責任持って守る宿の主人は船長。<br />お金を払っているお客であっても、船長の指示に従わなくてはならない。<br />そう思い、これからはもう少し考えて行動するようにした。<br />船で思い出したが、29時間も船に揺られていると、降りてから随分時間が経ってもも足元が揺れている感じがする。結局揺れた感じは、翌朝起きてもまだ僅かに続くことになる<br />

    板張りのタラップを降りていくと、宿のプラカードを持った人を探した。
    宿の主人とは難なく合流できて、さっそくお世話になる「ヴィラ・シーサイド」に向かった。
    荷物を置いて宿帳を書くと、宿の主人から島での注意事項の説明を受ける。
    1. 日焼けに気をつけてなるべく肌を隠すこと。
    2. 日没後は急速に暗くなるので、日が傾いたら早めに街や大通りへ戻ること。
    3. 毒蛇はいないが急な崖が多いので獣道には入らないこと。
    4. 父島北側の兄島瀬戸は潮流が速いので絶対に泳がないこと。

    その他いくつかの注意事項を確認したのち、私たちは宿の横の舗装された坂道を上がり始めた。
    道沿いの木には、緑色の実が鈴のようになっている。
    パパイヤだ…。確か船の売店で、1杯400円で売っていたパパイヤジュースのパパイヤだ。
    ついでに言うなら、小学校の時に「お父さんの嫌いな果物はな〜に?」としょーもないナゾナゾをやった、あのパパイヤだ。小笠原ではパパイヤが自生しているんだ、「1杯400円なのに…」と感激しながら坂道を歩き、三日月山展望台へと上がった
    ここからは、二見港が見渡せる。
    せっかくだから、このまま南国の日没を見ようと、日が沈むまで展望台に居た。
    日が完全に沈んだので、宿へと坂道を降りた。
    宿に着くと、日が沈んでも戻らない私たちを宿の主人が心配していた。
    そして、叱られた。
    そう、島には島の決まりがある。
    私たちはゲストだけれど、リゾートホテルや温泉旅館の「お客様」とは少し立場が違う。
    この離島という特別な環境においては、私たちは船の乗客で、乗客の安全を責任持って守る宿の主人は船長。
    お金を払っているお客であっても、船長の指示に従わなくてはならない。
    そう思い、これからはもう少し考えて行動するようにした。
    船で思い出したが、29時間も船に揺られていると、降りてから随分時間が経ってもも足元が揺れている感じがする。結局揺れた感じは、翌朝起きてもまだ僅かに続くことになる

  • この夜は、宿で夕飯の時に「歓迎会」というものが行われた。<br />6日前またはそれ以前の船で、先にこの島に来ていた旅行客が、今日着いた私達旅行客を歓迎するというイベントなのだが、宿の人が旅行客を歓迎するのならともかく、旅行客が旅行客を歓迎するって何か変なの…と思った。同じ旅行客に「ようこそ小笠原へ!」と言われ乾杯したが、なんだか微妙な違和感が有ったが、何はともあれ、島で過ごす10日間が始まった。<br />

    この夜は、宿で夕飯の時に「歓迎会」というものが行われた。
    6日前またはそれ以前の船で、先にこの島に来ていた旅行客が、今日着いた私達旅行客を歓迎するというイベントなのだが、宿の人が旅行客を歓迎するのならともかく、旅行客が旅行客を歓迎するって何か変なの…と思った。同じ旅行客に「ようこそ小笠原へ!」と言われ乾杯したが、なんだか微妙な違和感が有ったが、何はともあれ、島で過ごす10日間が始まった。

  • 父島では、毎日規則正しく食事をとって、気が向いたときに海で遊び、港で釣りをして、部屋に戻ればトランプをして…、そんな風に過ごした。<br />そして夜は、宿の他の宿泊客と一緒にビアガーデンへ行った。<br />しかし、未成年だったので、飲むのはもっぱらコーラやジンジャーエールだった。<br />当時は、一緒に行った大人(他の旅行客)も、ビアガーデンの主も、中学生ならちょっとくらい飲んでも…というノリだったが、3人とも親には「ちゃんと節度を持った行動をする」と宣言して小笠原行きを許可してもらった手前、お酒は遠慮した。<br />島にいる間の一番の遠出は、父島の南部にある小港海岸だった。<br />中心地である二見港付近からは、約8kmの道のりだ。<br />同じ船で来た大人たちは、バイクをレンタルして、かなり楽に島内を動き回ったようだが、私達は免許の無い中学生だったので、自転車をレンタルした。<br />しかし、これがけっこう厳しい道のりで、小港海岸まで8kmといっても、途中に幾つも峠がある。<br />「せっかくだから、行きは表通りではなくて山の裏側の道を行こう!」なんて変な色気を出したので、一段と道中は大変なことになり、また、一人が大変な事故に遭った。<br />宿を出発すると、2kmほどは快適な平地のサイクリングが続く。<br />自転車の前カゴには、海パンと飲み水とカメラが入っている。<br />そして、表通りから外れ、乳頭山の横を回り込むように一気に山を上がる。<br />というよりは、坂がキツくて完全に自転車を押していた。<br />標高200mくらいまで一気に上がり、そこからアップダウンを繰り返しながら、270mくらいまで昇る。<br />そして中央山という山を越えると道は一気に下り坂になり、標高70mくらいまでの標高差200mを駆け下ることになる。<br />

    父島では、毎日規則正しく食事をとって、気が向いたときに海で遊び、港で釣りをして、部屋に戻ればトランプをして…、そんな風に過ごした。
    そして夜は、宿の他の宿泊客と一緒にビアガーデンへ行った。
    しかし、未成年だったので、飲むのはもっぱらコーラやジンジャーエールだった。
    当時は、一緒に行った大人(他の旅行客)も、ビアガーデンの主も、中学生ならちょっとくらい飲んでも…というノリだったが、3人とも親には「ちゃんと節度を持った行動をする」と宣言して小笠原行きを許可してもらった手前、お酒は遠慮した。
    島にいる間の一番の遠出は、父島の南部にある小港海岸だった。
    中心地である二見港付近からは、約8kmの道のりだ。
    同じ船で来た大人たちは、バイクをレンタルして、かなり楽に島内を動き回ったようだが、私達は免許の無い中学生だったので、自転車をレンタルした。
    しかし、これがけっこう厳しい道のりで、小港海岸まで8kmといっても、途中に幾つも峠がある。
    「せっかくだから、行きは表通りではなくて山の裏側の道を行こう!」なんて変な色気を出したので、一段と道中は大変なことになり、また、一人が大変な事故に遭った。
    宿を出発すると、2kmほどは快適な平地のサイクリングが続く。
    自転車の前カゴには、海パンと飲み水とカメラが入っている。
    そして、表通りから外れ、乳頭山の横を回り込むように一気に山を上がる。
    というよりは、坂がキツくて完全に自転車を押していた。
    標高200mくらいまで一気に上がり、そこからアップダウンを繰り返しながら、270mくらいまで昇る。
    そして中央山という山を越えると道は一気に下り坂になり、標高70mくらいまでの標高差200mを駆け下ることになる。

  • 今なら『Google Earth』のポインタを合わせるだけかも知れないが、当時は、出発前に国土地理院の地形図を買って来て、標高差について下調べをしたものだ。<br />そして、標高差200mの下り坂は、未舗装の砂利道だった。<br />ついに来た下り坂、3人は競うようにダウンヒルを開始した。<br />私と、いつも自転車に乗って遊んでいた友人(出発時に船酔いを気遣ってくれた方)が先頭を競い合った。<br />最も運動神経が良く、勉強もできる、3人の中ではリーダー格の男は、ちょっと遅れた。<br />数学も英語も柔道も陸上もコイツには勝てないけれど、自転車だったら負けるわけが無い。<br />下り坂をさらに漕いで自転車を加速させた。<br />レンタサイクルの後輪を滑らせながらカーブを曲がる前の2人、麓のT字路に着いたのは、どっちが勝ったか忘れたが、僅差だったと思う。<br />「あ〜面白かった。自転車を押して上がって、もう一度やろうか?」なんて話しながら、リーダー格を待っているが、彼はちっとも来ない。<br />「途中に分かれ道なんて有ったっけ?」<br />数分が過ぎた。<br />「いくらなんでも、遅すぎない?」<br />…と、来ない男を探しに道を戻ろうとした時に、向こうからよろよろと彼が降りてきた。<br />その姿を見て仰天した。<br />何というか…、これが、血だるまというものだろうか?<br />熊にでも襲われたのかと思うくらいボロボロに血だらけだった。<br />彼は途中で大転倒したらしい。<br />救急用具は何も持っていないし、傷口が砂だらけだった。<br />しかし、T字路のところに1軒の農家があったので、お願いして水を借り、傷を洗わせてもらった。<br />彼は、痛さに悶えながら、水をかけて傷を洗った。<br />農家の人が絆創膏をたくさんくれたので、それで、できる限り傷を覆った。<br />お礼を言って農家を出た。とりあえずここで立ち話をすると、心配そうにずっと見守らてしまうので、直ぐ先の小港海岸まで自転車を進めた。<br />

    今なら『Google Earth』のポインタを合わせるだけかも知れないが、当時は、出発前に国土地理院の地形図を買って来て、標高差について下調べをしたものだ。
    そして、標高差200mの下り坂は、未舗装の砂利道だった。
    ついに来た下り坂、3人は競うようにダウンヒルを開始した。
    私と、いつも自転車に乗って遊んでいた友人(出発時に船酔いを気遣ってくれた方)が先頭を競い合った。
    最も運動神経が良く、勉強もできる、3人の中ではリーダー格の男は、ちょっと遅れた。
    数学も英語も柔道も陸上もコイツには勝てないけれど、自転車だったら負けるわけが無い。
    下り坂をさらに漕いで自転車を加速させた。
    レンタサイクルの後輪を滑らせながらカーブを曲がる前の2人、麓のT字路に着いたのは、どっちが勝ったか忘れたが、僅差だったと思う。
    「あ〜面白かった。自転車を押して上がって、もう一度やろうか?」なんて話しながら、リーダー格を待っているが、彼はちっとも来ない。
    「途中に分かれ道なんて有ったっけ?」
    数分が過ぎた。
    「いくらなんでも、遅すぎない?」
    …と、来ない男を探しに道を戻ろうとした時に、向こうからよろよろと彼が降りてきた。
    その姿を見て仰天した。
    何というか…、これが、血だるまというものだろうか?
    熊にでも襲われたのかと思うくらいボロボロに血だらけだった。
    彼は途中で大転倒したらしい。
    救急用具は何も持っていないし、傷口が砂だらけだった。
    しかし、T字路のところに1軒の農家があったので、お願いして水を借り、傷を洗わせてもらった。
    彼は、痛さに悶えながら、水をかけて傷を洗った。
    農家の人が絆創膏をたくさんくれたので、それで、できる限り傷を覆った。
    お礼を言って農家を出た。とりあえずここで立ち話をすると、心配そうにずっと見守らてしまうので、直ぐ先の小港海岸まで自転車を進めた。

  • そこで、さぁ、どうしようかという話になった。<br />「表通りから宿に戻るか。それでも1時間はかかるだろうけど…、傷どう?自転車こげる?」<br />と無事だった2人が切りだすと、<br />「せっかくココまで来たんだから、お前ら泳いで行けよ。」と彼は言う。<br />そうか…、それじゃお言葉に甘え、「悪いな」と言いながら二人が海パンに履き替え始めると、大怪我を負ったヤツまで海に入る準備を始めた。<br />「おい?正気かよ?」と言うと、<br />「せっかく来たんだからな。」と彼は白い歯を出して笑う。<br />止めても無駄だと思いながら、海へ入って行くと、<br />『ぬぉぉぉ〜〜!』『うぎゃぁぁぁ〜〜!』『いてぇ〜〜!』<br />と言って、彼は悶絶した。<br />本当にバカ・・・。<br />しかし…、こんな馬鹿の野蛮人に、勉強でもスポーツでも毎回毎回負けているのかと思うと、ガックリきてしまった。<br />「サメが来たら迷惑だから、いい加減海から上がれよ。」<br />と言うと、半身海に浸かって悶えていた彼は、「うん、分かった…」と陸に上がって行った。<br />

    そこで、さぁ、どうしようかという話になった。
    「表通りから宿に戻るか。それでも1時間はかかるだろうけど…、傷どう?自転車こげる?」
    と無事だった2人が切りだすと、
    「せっかくココまで来たんだから、お前ら泳いで行けよ。」と彼は言う。
    そうか…、それじゃお言葉に甘え、「悪いな」と言いながら二人が海パンに履き替え始めると、大怪我を負ったヤツまで海に入る準備を始めた。
    「おい?正気かよ?」と言うと、
    「せっかく来たんだからな。」と彼は白い歯を出して笑う。
    止めても無駄だと思いながら、海へ入って行くと、
    『ぬぉぉぉ〜〜!』『うぎゃぁぁぁ〜〜!』『いてぇ〜〜!』
    と言って、彼は悶絶した。
    本当にバカ・・・。
    しかし…、こんな馬鹿の野蛮人に、勉強でもスポーツでも毎回毎回負けているのかと思うと、ガックリきてしまった。
    「サメが来たら迷惑だから、いい加減海から上がれよ。」
    と言うと、半身海に浸かって悶えていた彼は、「うん、分かった…」と陸に上がって行った。

  • また他の日には、宿の主人が「ヤギ狩り行く?」と言うので、事情も分からず頷いてしまった。<br />どうやら、宿のペットであるジョンという犬が猟犬としてヤギを獲ってくれるらしい。<br />身体は立派だけど、こんな、白くて可愛いのに、野生動物を狩ったりするのだろうか?<br />そんな、疑念を持ちながらも、「狩りはジョンがするから、君達は絶対に車道から離れないように。」と言われ、宿のライトバンから中学生3人と犬1匹は、飲み物を持たされて山の中で降ろされた。<br />「後で迎えに来るから! 今夜はヤギでバーベキューだ!」と言って、宿の主人は去って行った。<br />さて、ジョン君…、どうするんでしょうか?<br />首輪から手綱を外すと、彼は山の中へ飛び込んで行ってしまった。<br />最初は緑の林の中に、ジョンの白い身体を追っていたのだが、そのうち見えなくなってしまった。<br />しかし、どういう状態で彼は戻って来るのだろう?<br />ヤギを仕留めるって、やはり頸動脈を噛み破って、ジョンの白い毛並みを血で赤く染めて帰って来るわけ?<br />それに…、ヤギを捌くって…、誰がするわけ?<br />心臓とか、胃とか腸とか、ベロベローと出すのを見る羽目になるわけ?<br />うへぇぇ〜、来るんじゃなかった…と思ったが、ジョンは視界には居ない。<br />30分待ったが、犬の吠える声も、ヤギの絶叫も聞こえない。<br />1時間待ったが、やはり何も無い。<br />3人は、「ジョ〜ン、ジョ〜ン」と情けない声で呼び続けるが、何も音はしなかった。<br />まさか、崖から転落でもしてしまったのだろうか?<br />何度呼んでも何の反応も無かった。<br />狩猟開始から2時間くらい経った頃だろうか、林の中がガサガサっと鳴り、ジョンがひょっこり顔を出した。<br />顔はきれいだ。獲物をくわえている風でもない。<br />とりあえず、無事に帰って来てくれて、さらに狩猟には成功しなかった事は分かった。<br />それとほぼ同時に、宿の主人の車がやって来た。<br />何なんだ、このタイミングは。<br />犬と無線連絡でも取っているのだろうか?<br />主は、手ぶらのジョンを見ると、「そうかぁ…、残念だなぁ。う〜ん、残念だなぁ。」と言った。<br />まさか、「もう一回」なんて言い出すんじゃないだろうな…と思い、我々3人は、<br />「あの…、十分楽しめました。良い経験できました。ありがとうございます。」<br />「ねっ、ジョンもありがとう!」なんて言って、宿に帰ることを促した。<br />やっぱり、野生のヤギを捌くのはどうにも嫌だ。<br />結局、山の中で待ち呆けしただけのこの日のレジャーは、獲物も無く無事に終わった。<br />

    また他の日には、宿の主人が「ヤギ狩り行く?」と言うので、事情も分からず頷いてしまった。
    どうやら、宿のペットであるジョンという犬が猟犬としてヤギを獲ってくれるらしい。
    身体は立派だけど、こんな、白くて可愛いのに、野生動物を狩ったりするのだろうか?
    そんな、疑念を持ちながらも、「狩りはジョンがするから、君達は絶対に車道から離れないように。」と言われ、宿のライトバンから中学生3人と犬1匹は、飲み物を持たされて山の中で降ろされた。
    「後で迎えに来るから! 今夜はヤギでバーベキューだ!」と言って、宿の主人は去って行った。
    さて、ジョン君…、どうするんでしょうか?
    首輪から手綱を外すと、彼は山の中へ飛び込んで行ってしまった。
    最初は緑の林の中に、ジョンの白い身体を追っていたのだが、そのうち見えなくなってしまった。
    しかし、どういう状態で彼は戻って来るのだろう?
    ヤギを仕留めるって、やはり頸動脈を噛み破って、ジョンの白い毛並みを血で赤く染めて帰って来るわけ?
    それに…、ヤギを捌くって…、誰がするわけ?
    心臓とか、胃とか腸とか、ベロベローと出すのを見る羽目になるわけ?
    うへぇぇ〜、来るんじゃなかった…と思ったが、ジョンは視界には居ない。
    30分待ったが、犬の吠える声も、ヤギの絶叫も聞こえない。
    1時間待ったが、やはり何も無い。
    3人は、「ジョ〜ン、ジョ〜ン」と情けない声で呼び続けるが、何も音はしなかった。
    まさか、崖から転落でもしてしまったのだろうか?
    何度呼んでも何の反応も無かった。
    狩猟開始から2時間くらい経った頃だろうか、林の中がガサガサっと鳴り、ジョンがひょっこり顔を出した。
    顔はきれいだ。獲物をくわえている風でもない。
    とりあえず、無事に帰って来てくれて、さらに狩猟には成功しなかった事は分かった。
    それとほぼ同時に、宿の主人の車がやって来た。
    何なんだ、このタイミングは。
    犬と無線連絡でも取っているのだろうか?
    主は、手ぶらのジョンを見ると、「そうかぁ…、残念だなぁ。う〜ん、残念だなぁ。」と言った。
    まさか、「もう一回」なんて言い出すんじゃないだろうな…と思い、我々3人は、
    「あの…、十分楽しめました。良い経験できました。ありがとうございます。」
    「ねっ、ジョンもありがとう!」なんて言って、宿に帰ることを促した。
    やっぱり、野生のヤギを捌くのはどうにも嫌だ。
    結局、山の中で待ち呆けしただけのこの日のレジャーは、獲物も無く無事に終わった。

  • まだ紹介していなかったが、宿の食事はどんな感じかというと、特に郷土色というのは無く、普通の一般家庭の夕飯か、それ以下のシンプルなものだった。<br />主菜は冷凍食品のコロッケやメンチカツまたはハンバーグに、きざんだ野菜にご飯とみそ汁。<br />朝も、目玉焼きにウインナー、ご飯とみそ汁…みたいな感じだ。<br />ちょっと気になって、宿の主人に聞いてみた。<br />「港に漁船はいるみたいですけど、魚って食べないんですか?」<br />暗に、冷凍食品以外の物も食べたいとアピールしてみた。<br />「あ〜魚ね。獲れるけどお金になるものはみんな東京に行っちゃうね。だから、食べる魚は自分で釣ったものくらいかなぁ。買わないよ。」とのこと。<br />なるほどー!<br />これだけ海に囲まれて、漁場に恵まれていても、魚は外貨獲得手段であり、島民の為の食べ物ではないのかー!<br />と感心した。また、社会勉強になった。<br />結局、宿泊客の誰かが釣りをして、魚が釣れた時は宿の主人に渡して捌いてもらい、宿泊客皆で分けて食べるのがこの宿の、もしかしたらこの島の常識なのかも知れない。<br />

    まだ紹介していなかったが、宿の食事はどんな感じかというと、特に郷土色というのは無く、普通の一般家庭の夕飯か、それ以下のシンプルなものだった。
    主菜は冷凍食品のコロッケやメンチカツまたはハンバーグに、きざんだ野菜にご飯とみそ汁。
    朝も、目玉焼きにウインナー、ご飯とみそ汁…みたいな感じだ。
    ちょっと気になって、宿の主人に聞いてみた。
    「港に漁船はいるみたいですけど、魚って食べないんですか?」
    暗に、冷凍食品以外の物も食べたいとアピールしてみた。
    「あ〜魚ね。獲れるけどお金になるものはみんな東京に行っちゃうね。だから、食べる魚は自分で釣ったものくらいかなぁ。買わないよ。」とのこと。
    なるほどー!
    これだけ海に囲まれて、漁場に恵まれていても、魚は外貨獲得手段であり、島民の為の食べ物ではないのかー!
    と感心した。また、社会勉強になった。
    結局、宿泊客の誰かが釣りをして、魚が釣れた時は宿の主人に渡して捌いてもらい、宿泊客皆で分けて食べるのがこの宿の、もしかしたらこの島の常識なのかも知れない。

  • そんなこんなで日々は過ぎ、小笠原旅行の後半、母島へと出発する日がやってきた。<br />しかし、大型台風が接近中の為、母島行きの船は欠航。<br />母島行きを断念して、今まで泊まっていた宿に、引き続き泊めてもらうことになった。<br />台風が近付いているので遊泳禁止、どんな風が吹くかもわからないのでレンタサイクルも禁止。<br />こういうときは、TVを見て時間をつぶす…というのは、日本人の常識。<br />しかし、その常識さえも小笠原では通用しないかったのだ。<br />当時、父島のTVの放送時間は、16時〜20時の夕方4時間のみ。<br />しかも放送局は1局だけだ。<br />昨年行った宮古島だってNHK総合とNHK教育のNHK2局(民放は無し)があった。<br />しかし、父島にはNHKすら無かった。<br />そして、放送時間は1日たったの4時間、その番組内容は東京で放送されたものを編集して、1日分を4時間にまとめたものだ。<br />1ヶ月ほど前に見て、ふてぶてしい悪代官が最後はどうなってしまうのか結末を知っている水戸黄門が、夕食時の食堂のTVから流れてくる。<br />このTV事情は衝撃的だった。<br />6日に一度、船で送られてくるビデオテープがこの島唯一のTVの楽しみ方。<br />ニュースも、新聞も、6日に一度だ。<br />この旅行が1980年のことで、その4年後の1984年に衛星放送が開始されて、小笠原でも朝から夜までTV番組を受信できるようになった。 しかし、BS1とBS2のNHK2局だけだった。<br />地上波放送は、さらに12年後の1996年、中継局が出来たことにより、ようやく可能となった。<br />つまり、日本中がバブル景気に沸いたあの時も、小笠原はNHKのBS放送2局のみだったわけで、浮かれた六本木も、次々と生まれる新語や流行語も、NHKのニュースを通して知る程度だった。<br />1996年までは小笠原だけのゆっくりとした時間が流れていたのだ。<br /><br />さて、そんな訳で宿の部屋で退屈していたところ、宿の主人の紹介で、道路を挟んだちょうど向かい側にある父島気象観測所の中を見学させてもらえることになった。<br />白い門をくぐると、高い椰子の並木があり、その向こうに観測所の玄関があった。<br />天気図で台風の接近状況を教えてもらい、次に地震計のようなものを見せられた。<br />記録用紙に、波模様が記録されている。<br />「これは、風と波で父島が揺れている振動を拾っているんです。島も揺れるんですよ。」<br />気象に関する説明を一通り受けると、お礼を言い玄関を出た。そして青い果実をたくさんつけた高い椰子の木を見上げながら宿に戻った。<br />

    そんなこんなで日々は過ぎ、小笠原旅行の後半、母島へと出発する日がやってきた。
    しかし、大型台風が接近中の為、母島行きの船は欠航。
    母島行きを断念して、今まで泊まっていた宿に、引き続き泊めてもらうことになった。
    台風が近付いているので遊泳禁止、どんな風が吹くかもわからないのでレンタサイクルも禁止。
    こういうときは、TVを見て時間をつぶす…というのは、日本人の常識。
    しかし、その常識さえも小笠原では通用しないかったのだ。
    当時、父島のTVの放送時間は、16時〜20時の夕方4時間のみ。
    しかも放送局は1局だけだ。
    昨年行った宮古島だってNHK総合とNHK教育のNHK2局(民放は無し)があった。
    しかし、父島にはNHKすら無かった。
    そして、放送時間は1日たったの4時間、その番組内容は東京で放送されたものを編集して、1日分を4時間にまとめたものだ。
    1ヶ月ほど前に見て、ふてぶてしい悪代官が最後はどうなってしまうのか結末を知っている水戸黄門が、夕食時の食堂のTVから流れてくる。
    このTV事情は衝撃的だった。
    6日に一度、船で送られてくるビデオテープがこの島唯一のTVの楽しみ方。
    ニュースも、新聞も、6日に一度だ。
    この旅行が1980年のことで、その4年後の1984年に衛星放送が開始されて、小笠原でも朝から夜までTV番組を受信できるようになった。 しかし、BS1とBS2のNHK2局だけだった。
    地上波放送は、さらに12年後の1996年、中継局が出来たことにより、ようやく可能となった。
    つまり、日本中がバブル景気に沸いたあの時も、小笠原はNHKのBS放送2局のみだったわけで、浮かれた六本木も、次々と生まれる新語や流行語も、NHKのニュースを通して知る程度だった。
    1996年までは小笠原だけのゆっくりとした時間が流れていたのだ。

    さて、そんな訳で宿の部屋で退屈していたところ、宿の主人の紹介で、道路を挟んだちょうど向かい側にある父島気象観測所の中を見学させてもらえることになった。
    白い門をくぐると、高い椰子の並木があり、その向こうに観測所の玄関があった。
    天気図で台風の接近状況を教えてもらい、次に地震計のようなものを見せられた。
    記録用紙に、波模様が記録されている。
    「これは、風と波で父島が揺れている振動を拾っているんです。島も揺れるんですよ。」
    気象に関する説明を一通り受けると、お礼を言い玄関を出た。そして青い果実をたくさんつけた高い椰子の木を見上げながら宿に戻った。

  • 「明日はいよいよ台風最接近なので、絶対に外へは出ないように!」と、宿の主人に念を押された。<br />しかし、この日の夕飯には驚いた。<br />食卓には、鮪の刺身が山盛りという、この旅行中一番の豪華な食事が用意されていた。<br />「これ?どうしたんですか?」と宿の主人に聞くと、台風で避難してきたマグロ漁船と物々交換をしたという。<br />この当時、遠洋漁業の漁船はお金を殆ど持たずに海に出ていたそうで、まぁそれは、何処かに寄港する予定も無いのだからある意味当然のことだった。<br />しかし、こういった台風からの避難なんかで、たまたま陸に上がることがあると、せっかく陸地に上がるのだから船上生活と違うこともしたい。<br />船に積んでいない食べ物や飲み物も欲しくなる。スナックなどお店でお酒も飲みたい。<br />だけど、お金が無いのでそれも出来ない。<br />そこで、船倉の冷凍庫から獲ったマグロを1匹出して解体し、売ってお金と替えるか、または、欲しいモノと直接物々交換をするんだそうだ。主は何と取り換えたのか知らないが、避難してきたマグロ漁船のお陰で、この日の夕飯は一気にグレードアップした。<br />

    「明日はいよいよ台風最接近なので、絶対に外へは出ないように!」と、宿の主人に念を押された。
    しかし、この日の夕飯には驚いた。
    食卓には、鮪の刺身が山盛りという、この旅行中一番の豪華な食事が用意されていた。
    「これ?どうしたんですか?」と宿の主人に聞くと、台風で避難してきたマグロ漁船と物々交換をしたという。
    この当時、遠洋漁業の漁船はお金を殆ど持たずに海に出ていたそうで、まぁそれは、何処かに寄港する予定も無いのだからある意味当然のことだった。
    しかし、こういった台風からの避難なんかで、たまたま陸に上がることがあると、せっかく陸地に上がるのだから船上生活と違うこともしたい。
    船に積んでいない食べ物や飲み物も欲しくなる。スナックなどお店でお酒も飲みたい。
    だけど、お金が無いのでそれも出来ない。
    そこで、船倉の冷凍庫から獲ったマグロを1匹出して解体し、売ってお金と替えるか、または、欲しいモノと直接物々交換をするんだそうだ。主は何と取り換えたのか知らないが、避難してきたマグロ漁船のお陰で、この日の夕飯は一気にグレードアップした。

  • 翌朝、目が覚めると、ものすごい暴風雨だった。<br />風が不気味に唸り、雨粒が激しく窓を叩く。<br />これは、外出=自殺だ。<br />もう、とっくの昔に飽きてしまったが、昨日の夕方から食事時間と寝る時間以外は、ロングラントランプ大会をやっている。惰性でトランプを続けながら退屈に耐え続け、もう2時間ほどで陽が沈むという頃になって、ようやく風が静かになってきた。<br />主から外出OKの許可がでたので、台風一過の街を歩いてみた。<br /><br />最初に目に付いたのは、地面にゴロゴロと転がる大きな青い椰子の実。<br />あの観測所の高い椰子の木から落ちてきたものだった。<br />これは、確かに外出禁止だ。あの高さからこんな大きな物が落ちてきて、もし頭に当たったら死んでしまう。<br />港まで歩いてみた。人気のない港、今日入港予定だった「おがさわら丸」は来なかった。<br />昨日、竹芝桟橋を出航した「おがさわら丸」は、台風接近で父島には接岸できないと判断し、途中で引き返し帰ってしまった。<br />入港(タバコ)を待ち望んでいた宿の主人は、非常に落胆している。<br />船が入る直前は何処へ行ってもタバコは売り切れていて、もう売っていない。<br />彼は、灰皿にある長めの吸殻を拾って、もう一度火を点けて吸った。<br />さて、船が来ないのは私たちにとっても大きな問題だった。<br />このまま、船が入って来ないと、次の船まで私たちは帰れないのだろう・・・か?<br /><br />翌朝、台風が去って空が晴れたとはいえ、まだまだ海岸は波が高く遊泳禁止。<br />宿で釣具を借りて、港に行った。<br />大型船接岸用岸壁で釣り糸を垂れる。 今日も「おがさわら丸」は入ってこないそうだ。<br />船は台風が父島を通過したのを確認できてから竹芝を出航するようで、昨日の夜、通過が確認できた為に、今日の午前に出航して今こちらに向かっている。<br />それでも、28時間半かかるから、父島二見港入港は明日の午後だ。<br />

    翌朝、目が覚めると、ものすごい暴風雨だった。
    風が不気味に唸り、雨粒が激しく窓を叩く。
    これは、外出=自殺だ。
    もう、とっくの昔に飽きてしまったが、昨日の夕方から食事時間と寝る時間以外は、ロングラントランプ大会をやっている。惰性でトランプを続けながら退屈に耐え続け、もう2時間ほどで陽が沈むという頃になって、ようやく風が静かになってきた。
    主から外出OKの許可がでたので、台風一過の街を歩いてみた。

    最初に目に付いたのは、地面にゴロゴロと転がる大きな青い椰子の実。
    あの観測所の高い椰子の木から落ちてきたものだった。
    これは、確かに外出禁止だ。あの高さからこんな大きな物が落ちてきて、もし頭に当たったら死んでしまう。
    港まで歩いてみた。人気のない港、今日入港予定だった「おがさわら丸」は来なかった。
    昨日、竹芝桟橋を出航した「おがさわら丸」は、台風接近で父島には接岸できないと判断し、途中で引き返し帰ってしまった。
    入港(タバコ)を待ち望んでいた宿の主人は、非常に落胆している。
    船が入る直前は何処へ行ってもタバコは売り切れていて、もう売っていない。
    彼は、灰皿にある長めの吸殻を拾って、もう一度火を点けて吸った。
    さて、船が来ないのは私たちにとっても大きな問題だった。
    このまま、船が入って来ないと、次の船まで私たちは帰れないのだろう・・・か?

    翌朝、台風が去って空が晴れたとはいえ、まだまだ海岸は波が高く遊泳禁止。
    宿で釣具を借りて、港に行った。
    大型船接岸用岸壁で釣り糸を垂れる。 今日も「おがさわら丸」は入ってこないそうだ。
    船は台風が父島を通過したのを確認できてから竹芝を出航するようで、昨日の夜、通過が確認できた為に、今日の午前に出航して今こちらに向かっている。
    それでも、28時間半かかるから、父島二見港入港は明日の午後だ。

  • 次の日も朝から晴れた。今日は二日遅れで「おがさわら丸」が入って来る。<br />「さぁ入港だ!港へ行くぞ!」と言う宿の主人に連れられて港へ行った。<br />港に集まる大勢の人々、9日前に私たちがこの島にやってきた時は、この大勢の島人と歓迎の横断幕を船の上から見ていた。しかし、今は陸側、つまり笑顔で歓迎する島民の背中側から見ている。<br />宿の主人は『タバコ♪タバコ♪タバコ♪』と言ってピョンピョン飛び跳ねている。<br />やはり、歓迎されていたのは、私達よりそっちだったかぁ〜!<br />船の上で接岸を今かと待つ観光客達は、この歓迎ムードをあの日の私たちと同じ気持ちで受け止め、そして、感激しているのだろうか。<br />ちょっとだけ島旅の先輩になったような、そんな不思議な気分だ。<br />だけど実は、前回の出航の日に海に遊びに行っていて、自分達が父島まで乗ってきた船が出るときの場面を見ていない私たち3人は、本当のクライマックスは明日だということを知らない。<br />そして、明日は大感動して3人とも大泣きする事を、もちろん、この時はまだ知らない。<br />

    次の日も朝から晴れた。今日は二日遅れで「おがさわら丸」が入って来る。
    「さぁ入港だ!港へ行くぞ!」と言う宿の主人に連れられて港へ行った。
    港に集まる大勢の人々、9日前に私たちがこの島にやってきた時は、この大勢の島人と歓迎の横断幕を船の上から見ていた。しかし、今は陸側、つまり笑顔で歓迎する島民の背中側から見ている。
    宿の主人は『タバコ♪タバコ♪タバコ♪』と言ってピョンピョン飛び跳ねている。
    やはり、歓迎されていたのは、私達よりそっちだったかぁ〜!
    船の上で接岸を今かと待つ観光客達は、この歓迎ムードをあの日の私たちと同じ気持ちで受け止め、そして、感激しているのだろうか。
    ちょっとだけ島旅の先輩になったような、そんな不思議な気分だ。
    だけど実は、前回の出航の日に海に遊びに行っていて、自分達が父島まで乗ってきた船が出るときの場面を見ていない私たち3人は、本当のクライマックスは明日だということを知らない。
    そして、明日は大感動して3人とも大泣きする事を、もちろん、この時はまだ知らない。

  • 今日入港した船は、既に二日も遅れているので変則日程とし、通常は父島に3晩停泊するところを、1晩の停泊で竹芝に向けて出航する。<br />私たちはその船に乗って帰る。今夜が父島最後の夜だ。<br />宿では、今日来た新しい島旅人と、明日の船で島を離れる旧い島旅人の歓送迎会になった。<br />そうか、あの日、この島に来た晩に、同じ旅行客から「小笠原へようこそ!」と言われ、ちょっと不思議な違和感があった。<br />しかし今は、私達が新しい島旅人に「小笠原へようこそ!」と言っている。<br />振り返れば、島に来てたった1週ちょっとのことだけれど、色々なことを知ったし、色々なことを経験した。<br />ちょっと偉そうな言い方をすれば、旅人として成長した気がする。<br />残念だけど、それも今夜でおしまい。<br />ただ自分の想い出だけで終わりにしたくなくて、誰かにそれをバトンタッチしたくて、そんなことを思いながら自然に口から出る言葉が「小笠原へようこそ!」、これなんだな…と思った。<br />この島に着いた日に、自分達が訳も分からず受け取ったバトンを、島で遊びながら自分達なりに理解して、そして今夜次の人に渡した。<br />「(バトンに)この人なりの理解を加えて、また次の人に渡してくれるといいな」そんな思いを抱きながら、父島最後の夜が過ぎていった。<br />

    今日入港した船は、既に二日も遅れているので変則日程とし、通常は父島に3晩停泊するところを、1晩の停泊で竹芝に向けて出航する。
    私たちはその船に乗って帰る。今夜が父島最後の夜だ。
    宿では、今日来た新しい島旅人と、明日の船で島を離れる旧い島旅人の歓送迎会になった。
    そうか、あの日、この島に来た晩に、同じ旅行客から「小笠原へようこそ!」と言われ、ちょっと不思議な違和感があった。
    しかし今は、私達が新しい島旅人に「小笠原へようこそ!」と言っている。
    振り返れば、島に来てたった1週ちょっとのことだけれど、色々なことを知ったし、色々なことを経験した。
    ちょっと偉そうな言い方をすれば、旅人として成長した気がする。
    残念だけど、それも今夜でおしまい。
    ただ自分の想い出だけで終わりにしたくなくて、誰かにそれをバトンタッチしたくて、そんなことを思いながら自然に口から出る言葉が「小笠原へようこそ!」、これなんだな…と思った。
    この島に着いた日に、自分達が訳も分からず受け取ったバトンを、島で遊びながら自分達なりに理解して、そして今夜次の人に渡した。
    「(バトンに)この人なりの理解を加えて、また次の人に渡してくれるといいな」そんな思いを抱きながら、父島最後の夜が過ぎていった。

  • そして、いよいよ父島を離れる日の朝がやってきた。<br />朝食の後、宿代の清算を済ませ、昼の出航時刻まで宿の周りを散歩した。<br />何もかもが懐かしく、また名残惜しい。<br />父島にやってきた10日前のあの日を思い出しながら歩いた。<br /><br />乗船開始時刻も近付き、私たちは9泊した宿を出て港に向かった。<br />港の事務所で乗船手続きを済ませると、港まで見送りに来てくれた宿の主人に、お礼と別れを告げ、荷物を持ってタラップを上がった。<br />

    そして、いよいよ父島を離れる日の朝がやってきた。
    朝食の後、宿代の清算を済ませ、昼の出航時刻まで宿の周りを散歩した。
    何もかもが懐かしく、また名残惜しい。
    父島にやってきた10日前のあの日を思い出しながら歩いた。

    乗船開始時刻も近付き、私たちは9泊した宿を出て港に向かった。
    港の事務所で乗船手続きを済ませると、港まで見送りに来てくれた宿の主人に、お礼と別れを告げ、荷物を持ってタラップを上がった。

  • なんだか昨日の入港時よりも人が多い気がする。<br />船内の荷物棚に大荷物を置くと、3人で競うように岸壁側の甲板に走った。<br />息を呑んだ。<br />岸壁を埋め尽くす程の大勢の人、人、人、人、人、人、人…、そして人。<br />私たちが島にやってきた日、そして昨日の入港、その倍、いや、それ以上の群集で岸壁が埋め尽くされている。<br />その中央には、ギターを持ったお兄さん達(青年団?)が居る。<br />旗、横断幕、笑顔で見送ってくれる沢山の人々。<br />そして、出航合図の銅鑼が鳴り、タラップが外される。<br />次々とテープが投げられ蜘蛛の糸のように船から岸壁へ伸びていく。その数は竹芝を出たときの比ではない。<br />無数に延びたテープは、船と岸壁の間に広げられたカーテンのようだ。<br />船が岸壁に繋ぎ止められてしまうんじゃないかと思うくらい、沢山のテープが船と島を繋いでいる。<br />青年団がギターを弾き歌い始めた。<br />RCサクセションの『雨上がりの夜空に』、そうだ、台風が去った!<br />間もなく出航の汽笛が鳴り、船が動き始める。<br />青年団が次の曲を歌い始める。曲は吉田拓郎の『落陽』。<br />「苫小牧発〜仙台行きフェリー♪」を「小笠原発〜竹芝行きフェリー♪」と歌う。<br /><br />大勢の旅人が投げた沢山のテープを、大勢の島人が拾って握っている。<br />その一本一本が、旅人ひとりひとりの父島での楽しかった思い出、そして旅人と島人の名残惜しさ、そう思えて涙が止まらなかった。 <br />船が岸壁を少しずつ離れ、張っていく無数のテープ、そして歌は続く・・・<br />私は、甲板の手すりから身を乗り出しながら、力いっぱい手を振った。<br />涙が止まらない。すぐ隣の友人も、泣いているのが肩で判った。<br />その時、後ろから二人の背中をポーンと叩いて、リーダー格が言った。<br />「おい、オメェら、まさか泣いているんじゃぁねぇだろうな?」<br />後ろから見透かされて、ズキッときた。<br />そのまま無視したかったが、ヤツは私の背中に手を置いたままだ。<br />くっそぉー! 振り向いて泣き顔を見せろと言いたいのか?<br />いくらリーダーでも、そんな横暴が許されるのか?<br />『うるせー!』と心で叫びながらながら振り向くと、ヤツは涙と鼻水を垂れ流し、目を真っ赤に腫らしていた。<br />一瞬時が止まった。自転車競走の血だるま以来、この旅行で2回目のサプライズだ!!<br />ヤツは「ガハハ!これが泣かずにいられるか!」と、ぐしゃぐしゃの泣き顔で笑って2人の肩を抱いてきた。<br />私達3人は、その場で甲板に泣き崩れた。<br />

    なんだか昨日の入港時よりも人が多い気がする。
    船内の荷物棚に大荷物を置くと、3人で競うように岸壁側の甲板に走った。
    息を呑んだ。
    岸壁を埋め尽くす程の大勢の人、人、人、人、人、人、人…、そして人。
    私たちが島にやってきた日、そして昨日の入港、その倍、いや、それ以上の群集で岸壁が埋め尽くされている。
    その中央には、ギターを持ったお兄さん達(青年団?)が居る。
    旗、横断幕、笑顔で見送ってくれる沢山の人々。
    そして、出航合図の銅鑼が鳴り、タラップが外される。
    次々とテープが投げられ蜘蛛の糸のように船から岸壁へ伸びていく。その数は竹芝を出たときの比ではない。
    無数に延びたテープは、船と岸壁の間に広げられたカーテンのようだ。
    船が岸壁に繋ぎ止められてしまうんじゃないかと思うくらい、沢山のテープが船と島を繋いでいる。
    青年団がギターを弾き歌い始めた。
    RCサクセションの『雨上がりの夜空に』、そうだ、台風が去った!
    間もなく出航の汽笛が鳴り、船が動き始める。
    青年団が次の曲を歌い始める。曲は吉田拓郎の『落陽』。
    「苫小牧発〜仙台行きフェリー♪」を「小笠原発〜竹芝行きフェリー♪」と歌う。

    大勢の旅人が投げた沢山のテープを、大勢の島人が拾って握っている。
    その一本一本が、旅人ひとりひとりの父島での楽しかった思い出、そして旅人と島人の名残惜しさ、そう思えて涙が止まらなかった。 
    船が岸壁を少しずつ離れ、張っていく無数のテープ、そして歌は続く・・・
    私は、甲板の手すりから身を乗り出しながら、力いっぱい手を振った。
    涙が止まらない。すぐ隣の友人も、泣いているのが肩で判った。
    その時、後ろから二人の背中をポーンと叩いて、リーダー格が言った。
    「おい、オメェら、まさか泣いているんじゃぁねぇだろうな?」
    後ろから見透かされて、ズキッときた。
    そのまま無視したかったが、ヤツは私の背中に手を置いたままだ。
    くっそぉー! 振り向いて泣き顔を見せろと言いたいのか?
    いくらリーダーでも、そんな横暴が許されるのか?
    『うるせー!』と心で叫びながらながら振り向くと、ヤツは涙と鼻水を垂れ流し、目を真っ赤に腫らしていた。
    一瞬時が止まった。自転車競走の血だるま以来、この旅行で2回目のサプライズだ!!
    ヤツは「ガハハ!これが泣かずにいられるか!」と、ぐしゃぐしゃの泣き顔で笑って2人の肩を抱いてきた。
    私達3人は、その場で甲板に泣き崩れた。

  • 3人とも感動で大泣きだった。<br />涙も鼻水も流れるまま、もう泣き顔を隠すこともしなかった。<br />そして周囲の乗客もみんな泣いている。<br />「おがさわら丸」が岸壁を完全離れると、張りつめたテープが次々と切れていった。<br />何という切ない別れの儀式。<br />岸壁から捲き起こる「小笠原!小笠原!」という小笠原コールの中、船は港の出口へと船首を向けると、徐々に速度を上げていった。<br />港の中を走る間、岸壁の方を向いて、何度も何度も力一杯手を振った。<br />そして無情にも、船は速度を増しながら、港の外へ出てしまった。<br />「あぁ、とうとう、終わってしまった…」<br />そんな喪失感に包まれた時、泣き腫らした目の滲んだ視界に、漁船の白い舳先が入ってきた。<br /><br />「なんなの…??」と思って周囲を見渡すと、沢山の漁船が「おがさわら丸」を追い上げてくるのが見えた。<br />島中の船が集まったのではないかと思うほど、沢山の漁船だ。<br />そして、追いついて船を囲むと、そのまま併走して、父島の端まで見送ってくれた。<br />歌で送ってくれた青年団のお兄さん達、テープを握って名残を惜しんでくれた島のお母さん・お姉さん達、そして最後に黙って横を疾って見送ってくれた海の男達、最後の最後まで本当にありがとう。<br />美し過ぎる想い出で胸をいっぱいに膨らませ、私たち3人は涙を拭うと、船の前方、東京へと顔を向き直した。<br />

    3人とも感動で大泣きだった。
    涙も鼻水も流れるまま、もう泣き顔を隠すこともしなかった。
    そして周囲の乗客もみんな泣いている。
    「おがさわら丸」が岸壁を完全離れると、張りつめたテープが次々と切れていった。
    何という切ない別れの儀式。
    岸壁から捲き起こる「小笠原!小笠原!」という小笠原コールの中、船は港の出口へと船首を向けると、徐々に速度を上げていった。
    港の中を走る間、岸壁の方を向いて、何度も何度も力一杯手を振った。
    そして無情にも、船は速度を増しながら、港の外へ出てしまった。
    「あぁ、とうとう、終わってしまった…」
    そんな喪失感に包まれた時、泣き腫らした目の滲んだ視界に、漁船の白い舳先が入ってきた。

    「なんなの…??」と思って周囲を見渡すと、沢山の漁船が「おがさわら丸」を追い上げてくるのが見えた。
    島中の船が集まったのではないかと思うほど、沢山の漁船だ。
    そして、追いついて船を囲むと、そのまま併走して、父島の端まで見送ってくれた。
    歌で送ってくれた青年団のお兄さん達、テープを握って名残を惜しんでくれた島のお母さん・お姉さん達、そして最後に黙って横を疾って見送ってくれた海の男達、最後の最後まで本当にありがとう。
    美し過ぎる想い出で胸をいっぱいに膨らませ、私たち3人は涙を拭うと、船の前方、東京へと顔を向き直した。

  • 太平洋は青空が広がっていたが波は高かった。<br />船首で砕けた波が、時々そのまま大きな音を立ててブリッジ(船橋)に当たる。<br />2代目は知らないが、初代おがさわら丸はブリッジの前下が乗客も自由に通れる通路になっていて、見上げると航海を指揮する船乗り達の顔が見えた。<br />私達はこの通路の柵に掴まり、青い空と熱い太陽の下、舳先があげる波しぶきを浴びながら、南国最後の数時間を思い切り楽しんだ。<br />出航から5時間くらい経っただろうか、陽がだいぶ傾いた頃に船内放送が入った。<br />「全乗客は甲板から船室に入ってください。」<br />「先日通過した台風の影響で、この先は大シケになります。」<br />船員達が甲板の最終確認を終えると、防水扉が閉められた。<br />甲板にいる時は、開放感と興奮でそれほど感じなかったのだが、こうして船内に閉じこもって、この船の揺れを受け止めていると、恐ろしいほどに大きく揺れていることがわかる。<br />すごく速いエレベーターで1階と2階を激しく往復している…と表現したら良いのだろうか?<br />あっという間に船酔いした。<br />先を見越して、二見港で乗船するとすぐに、数に限りのある洗面器をキープしておいたが、今夜の寝床は間違いなくトイレになるだろう。<br />夜10時、消灯時刻になって船室の電灯が、小さな常夜灯を除き消されると、船の揺れは一層激しくなった。<br />トイレと船室を何往復しただろうか。船釣りで慣れている友人も流石に酔っていた。<br />何とか眠って、この船酔いを忘れたい。そう思って何度も眠ろうとしたが全く無理だった。<br />何故って、身体が転がるから。<br />行きの船みたいに、「転がる気がする…」のではなく、狭いスペースで直立不動を横に寝かせた姿勢でいると、本当に転がる。<br />この際、右の人も左の人も条件は同じなので、転がってぶつかってもお互い様で何も言わないだろうが、それでも気兼ねがあって転がらないように努力してしまう。<br />狭いスペースの中で手足を広げられるだけ広げてみたが、やはり転がる。<br />それで、転がりそうな方向に、先に素早く踏ん張れば転がらないことが判ったが、数秒おきに右へ左へと踏ん張っていたのでは眠れるわけが無い。<br /><br />仰向けに寝て低い天井を見上げていると、ググーッと床がせり上がって身体が上に持ち上げられる、<br />ほんの2〜3秒前に見上げていた天井辺りまで、今は身体が持ち上げられたんだろうな…と思った途端に、今度は吸い込まれるように下へと落ちる。<br />あぁ・・・、いま、天井と床が入れ替わった。<br />さっきから何時間も、この繰り返しだ。<br />そして時々思わぬ方向に揺れて身体が転がる。<br />

    太平洋は青空が広がっていたが波は高かった。
    船首で砕けた波が、時々そのまま大きな音を立ててブリッジ(船橋)に当たる。
    2代目は知らないが、初代おがさわら丸はブリッジの前下が乗客も自由に通れる通路になっていて、見上げると航海を指揮する船乗り達の顔が見えた。
    私達はこの通路の柵に掴まり、青い空と熱い太陽の下、舳先があげる波しぶきを浴びながら、南国最後の数時間を思い切り楽しんだ。
    出航から5時間くらい経っただろうか、陽がだいぶ傾いた頃に船内放送が入った。
    「全乗客は甲板から船室に入ってください。」
    「先日通過した台風の影響で、この先は大シケになります。」
    船員達が甲板の最終確認を終えると、防水扉が閉められた。
    甲板にいる時は、開放感と興奮でそれほど感じなかったのだが、こうして船内に閉じこもって、この船の揺れを受け止めていると、恐ろしいほどに大きく揺れていることがわかる。
    すごく速いエレベーターで1階と2階を激しく往復している…と表現したら良いのだろうか?
    あっという間に船酔いした。
    先を見越して、二見港で乗船するとすぐに、数に限りのある洗面器をキープしておいたが、今夜の寝床は間違いなくトイレになるだろう。
    夜10時、消灯時刻になって船室の電灯が、小さな常夜灯を除き消されると、船の揺れは一層激しくなった。
    トイレと船室を何往復しただろうか。船釣りで慣れている友人も流石に酔っていた。
    何とか眠って、この船酔いを忘れたい。そう思って何度も眠ろうとしたが全く無理だった。
    何故って、身体が転がるから。
    行きの船みたいに、「転がる気がする…」のではなく、狭いスペースで直立不動を横に寝かせた姿勢でいると、本当に転がる。
    この際、右の人も左の人も条件は同じなので、転がってぶつかってもお互い様で何も言わないだろうが、それでも気兼ねがあって転がらないように努力してしまう。
    狭いスペースの中で手足を広げられるだけ広げてみたが、やはり転がる。
    それで、転がりそうな方向に、先に素早く踏ん張れば転がらないことが判ったが、数秒おきに右へ左へと踏ん張っていたのでは眠れるわけが無い。

    仰向けに寝て低い天井を見上げていると、ググーッと床がせり上がって身体が上に持ち上げられる、
    ほんの2〜3秒前に見上げていた天井辺りまで、今は身体が持ち上げられたんだろうな…と思った途端に、今度は吸い込まれるように下へと落ちる。
    あぁ・・・、いま、天井と床が入れ替わった。
    さっきから何時間も、この繰り返しだ。
    そして時々思わぬ方向に揺れて身体が転がる。

  • 長い夜が終わり船内の照明が点くと、乗客はみな沢山のボロ雑巾のように床に転がっていた。<br /><br />波はまだ高かったが、台風から離れつつあるという船内放送と、東京に向けて確実に近付いて行っているという事実を励みに、残り数時間の揺れる航海を耐えた。<br /><br />(1980 父島)

    長い夜が終わり船内の照明が点くと、乗客はみな沢山のボロ雑巾のように床に転がっていた。

    波はまだ高かったが、台風から離れつつあるという船内放送と、東京に向けて確実に近付いて行っているという事実を励みに、残り数時間の揺れる航海を耐えた。

    (1980 父島)

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