2014/09/18 - 2014/09/18
84位(同エリア205件中)
さんたくさん
前半で葛井寺や古墳などをまわった後、近鉄電車で道明寺駅へやってきました。
ここから道明寺天満宮、古墳などをまわりながら古市駅まで歩いていきます。
天気が少し心配でしたが、なんとか雨にも降られず楽しく歩くことができました。
ではよろしくお願いします。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
-
葛井寺などをまわった後、近鉄電車で藤井寺駅から道明寺駅にやってきました。
現在14:00です。
藤井寺駅前でお昼ご飯を食べるつもりでお店にはいりましたが, 不愉快なことがあり結局食べれずじまい・・・平和主義者なんで文句も何も言いませんでしたがお昼は抜きになりました(泣) -
道明寺駅です。
道明寺天満宮、道明寺、応神天皇陵などを訪問しつつ隣の古市駅まで向かいます。 -
道明寺合戦のノボリです。
大坂夏の陣は大阪のあちこちで戦いがおこりましたが 道明寺でもその一つがありました。 -
石段の先に道明寺天満宮があります。
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神門をくぐって道明寺天満宮に入ります。
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土師窯跡です。
道明寺天満宮は元々、土師氏の氏寺であったようです。 -
筆塚です。
使い古された筆などを供養するための塚です。
そういえば紀三井寺でも見た記憶があります。 -
小林一茶の句碑がありました。
「青梅や 餓鬼大将が 肌ぬいで」
1795年にこの場所で読んだ句らしいですが、昔からガキ大将はいたんでしょうか(笑)情景が目に浮かびそうですよね。
この句碑は榊莫山によるものです。 -
鳥居をくぐって本堂へ向かいます。
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鳥居をくぐると「なで牛」がお迎えしてくれます。
牛は天神様のお使いとして知られ、この地でも白牛に助けられたという言い伝えがあります。
やっぱり撫でておきました(笑) -
牛は何体かありました。
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江戸時代初期に建立された本殿です。
道明寺天満宮の御祭神は菅原道真公、天穂日命と覚寿尼公です。
菅原道真公もたびたびここを訪れ、大宰府天満宮へ左遷される時もここに住んでいたおばの覚寿尼公と別れを惜しんだと云われています。
土師氏の氏寺であった土師寺を947年に道明寺と改称し、明治時代の神仏分離により道明寺天満宮と道明寺に分かれました。
もちろん学問の神様として有名です。 -
精悍な感じの狛犬です。
奥に見える納経所で御朱印を頂きました。 -
本殿のななめ前に神楽殿があります。
ここで能が披露されるのでしょう。 -
神宝陳列館です。
展示物が鑑賞できるので入ってみたかったのですが、受付の方が奥で団体さんに説明しているようで、入りずらく遠慮しました。次回は入館しようと思います。 -
修羅保存庫です。
三ツ塚古墳から出土した修羅の復元品が展示されています。 -
修羅は大きな石を運ぶためのソリで、これはレプリカですが傷まで正確に宮大工により復元されています。
先ほど行ったアイセルシュラホールはこれをデザインした外観をしていたんですね。
またアイセルシュラホールで当時の人たちがこれを引っ張っている絵を見たばかりなので、イメージが更に膨らみます。 -
小さい修羅もあります。
こちらは3メートル弱ですが、上の大きな修羅はおよそ9メートルもあります。 -
白太夫社です。
菅原道真が大宰府へ向かう際の道案内をした白太夫(しらだゆう)を祀っています。 -
およそ800本もの梅が植えられている梅園です。
梅の季節に訪れると人も多いそうですが、この日は2人ほど見かけただけでした。
本殿の裏手にあります。
そろそろ道明寺天満宮をあとにします。
なかなか広い敷地を有する所でした。 -
次に道明寺にやってきました。
道明寺天満宮のすぐ近くにあります。
道明寺は古義真言宗の尼寺です。尼寺とは知りませんでした。 -
道明寺の楼門の扁額です。
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道明寺境内の句碑です
右は伊藤柏翠の「大安で吉日梅の道明寺」、左は坊城中子の「国宝を守る御寺の虫しきり」
伊藤は高浜虚子の弟子、坊城は孫にあたります。 -
手水舎ですが、周りにベンチがあるのはあまり見たことありません。
誰もいなかったので少し休憩しました。意外と有り難いもんですね。 -
この多宝塔は1918年に世界大戦戦没者の霊を弔うために建てられたものです。
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護摩堂です。
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本堂です。
道明寺の御本尊は菅原道真が刻んだと云われる十一面観世音菩薩像で国宝に指定されています。
戦国時代には焼失したこともありましたが、織田、豊臣、徳川家らの庇護により復興しました。
道明寺天満宮から神仏分離令によりこの地に移されました。
本堂の納経所で御朱印を頂きました。 -
大師堂です。
道明寺を出ます。 -
綺麗な花などを眺めながら小室山古墳へ向かいます。
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小室山古墳です。
古市古墳群のひとつでこの辺りには古墳がたくさんあります。
およそ150メートルほどの小型の前方後円墳です。
墳円部分に葺石が施され円筒埴輪も出土しています。
墳丘部の高さはおよそ40mほどで登ることもできるようですので、写真の墳丘部の頂点に行ってみました。 -
小室山古墳の墳丘部です。
天気も良くないし、高さもそれ程ではないので見晴らしはこんなものでしょう。 -
小室山古墳は非常に綺麗に管理されていました。
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西名阪自動車道の下をくぐります。
このあたりで年配の女性に「古墳巡りですか?」と声をかけて頂き、応神天皇陵への行き方を教えて頂きました。
古市古墳群ですのでやはり古墳をまわっている方が多いのでしょうか。
ともあれありがとうございました。 -
応神天皇陵に向かう途中に大鳥塚古墳があったので寄ってみます。
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大鳥塚古墳はおよそ110メートルの前方後円墳です。
少し小ぶりな古墳ですが、墳円部に葺石が敷かれ円筒埴輪が出土しています。
また円筒埴輪のほかに家や馬の形をした象形埴輪が出土していることから、5世紀に作られたものと推定されています。 -
大鳥塚古墳のすぐ前に応神天皇陵があります。
ここは宮内庁の管理事務所があるようです。 -
砂利が敷かれ綺麗に管理されています。
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応神天皇陵です。
実はここ正式名は「誉田御廟山古墳」といい、およそ420メートルと全国2位の規模を誇る古墳です。
1位はもちろん仁徳天皇陵です。
そしてなんと体積では日本一大きな古墳です。
この応神天皇陵を含む古市古墳群は世界遺産の国内暫定リストに入っていますので、将来もしかしたら世界遺産に登録されるかもしれません。 -
応神天皇陵の鳥居です。
現在はここが拝所ですが、文久時代以前には誉田八幡宮から後円部の頂上の宝殿まで石段で参拝することができました。
すごい行ってみたいですが、現在はもちろん行くことができません。
またこの古墳は5世紀頃に造られたと考えられ、様々な種類の埴輪が出土しています。 -
東高野街道(ひがしこうやかいどう)を通って次の目的に向かいます。
昔は京都から高野山への参詣道としてにぎわった街道です。 -
東高野街道は風情のある石畳の道でした。
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誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)に到着しました。
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誉田八幡宮の境内図です。
入ってすぐに公園があり何組かの親子連れが遊んでいました。 -
手水舎です。
右に見えるのが南大門です。
明治まで長野山護国寺があったのですが、取り壊され南大門だけが残っています。
予備知識なしで来たのでこれしか写真ありませんし、意識していませんでした。
次は外からも見てみたいですね。 -
拝殿です。
欽明天皇の命により応神天皇陵の前に社殿を建立下のが始まりと言われ、1051年に現在地にうつされました。
戦国時代に織田信長により社領を没収されましたが、豊臣家により再建され江戸幕府の庇護もうけました。 -
こちらが本殿です。
誉田八幡宮は日本最古の八幡宮と言われ、主祭神は応神天皇です。
境内図でも分かる通り、応神天皇陵に隣接しています。 -
誉田林古戦場址です。
誉田八幡宮周辺は戦略上の要所であったため、南北朝時代から再三、戦いの舞台となった所です。
南北朝時代には細川軍と楠木正行が、室町時代には畠山氏の内輪争いをし社殿などが焼失しています。
大阪の神の折には薄田隼人正がここで陣をはり出撃、道明寺で討ち死にしています。 -
境内にだんじり小屋ありました。
これを見ると平野をまわった時を思い出します。 -
誉田八幡宮を出て古市駅へ向かいます。
木造の立派な常夜燈があります。 -
1801年に刊行された「河内名所図絵」に例祭(旧暦4月8日)でだんじりに花をかざり、人々が祝う様子が描かれています。
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古市駅に到着です。
後半、3つの寺院、古墳3カ所と周りなかなか充実した一日となりました。
最後まで見て頂き本当にありがとうございました。
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