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『居眠り磐音』の舞台である深川六間堀を歩いた。まず猿子橋の近くにあったという金兵衛長屋を探した。<br /> 深川六間堀町の金兵衛長屋について、『居眠り磐音』(陽炎の辻)に次のように書かれている。数か月前に幼なじみ小林琴平を上意討ちしたときに傷を負い、今だ足に違和感を感じる磐音が、足を引きずるように新大橋を渡り、金兵衛長屋に帰るときの記述である。<br /><br />「磐音は右に曲がり、御籾蔵の塀に沿って左に折れた。蔵の右手は町家で深川元町、六間堀町と続いて、小名木川と竪川を結ぶ堀に出た。<br /> その堀に猿子橋が架かっていて、南六間堀とを結んでいた。」<br /><br />「磐音は、六間堀町の裏長屋、金兵衛長屋の木戸を潜ろうとして、猿子橋の袂にどてらを着た金兵衛が立っているを認めた。」<br /><br />「猿子橋と中橋の中間には御籾蔵があって、その先に六間堀町が北之橋まで広がっていた。金兵衛長屋のある六間堀町は御籾蔵をはさんでの飛び地である。」<br /><br /> 手元にある安政年間の切絵図を見ながら、金兵衛長屋の辺りを見当をつけると、新大橋を渡ると御籾蔵があり、その南側に深川元町と書かれた町家があり、その先に六間堀が流れている。<br /> 切り絵図には六間堀まで深川元町が続いており、そこには六間堀町がないのだが、小説では金兵衛長屋のある六間堀町は御籾蔵をはさんでの六間堀町の飛び地とあるので、磐音の生きた時代にはそこにあったということなのだろう。堀には猿子橋と書かれた橋が架かっている。磐音が金兵衛長屋の木戸を潜ろうとしたとき、猿子橋の袂に金兵衛を見ているので、長屋は猿子橋の手前ということになる。<br /><br /> 六間堀は戦後に埋め立てられて今はない。猿子橋跡が分れば金兵衛長屋の位置も推測がつくだろう。先ず、芭蕉記念館に入って猿子橋跡の場所を尋ねた。新大橋跡の向かいの通りを芭蕉通りという。その通りをまっすぐ行くと酒屋があるのでそのあたりとのこと。<br /> 芭蕉通りを行く。芭蕉通りを横切る通りと通りの間が幅10mほどになる場所があるのに気づく。ここが六間堀跡だろう。何の案内板も碑もない。こういうときは、古くから住んでいそうな地元の人に聞くに限る。丁度店に入ろうとしている主人がいたので声をかけた。<br />「すみません。ちょっとお尋ねしますが、猿子橋の跡はどの辺でしょうか」<br />「ああ、猿子橋ね。その右に少し高い建物があるでしょう、ブルーの庇のある。そこの前の場所ですよ。道路がちょっと盛り上がっているのが分るでしょう」<br />なるほど、埋め立てたあとのように道路が少し高くなっている。ここが猿子橋の跡か。<br /><br />「私の母親の話だと、昔は木の橋だったそうで、戦災で焼け落ちてしまいました。何しろ木の橋ですからね。戦争が終わってガレキが出て、どこに埋めようかと困った。この間の震災のあれと同じですよ。そこで六間堀に埋めようということで、埋め立てられたんです。」<br /><br /> そういうことがあったのか。近くの八名川公園の説明板では、水運利用の減少により、昭和26年に埋め立てられたとあるが、ガレキ処理もなかなか説得力のある説明ではないか。<br /><br />「最近、居眠り磐音を読んでいて、つい金兵衛長屋の場所に行ってみたくて来てみました。」というと、ご主人は居眠り磐音をご存じの様子で、「この先を行くと中ノ橋、そして北ノ橋、うなぎ屋(磐音に出てくる宮戸川のこと)のある所で、その先が五間堀との分岐になっていて、ずっと行くと弥勒寺橋跡に着きます。案内板がありますよ。道はこうなっているからすぐわかりますよ。」と大きく山を描く仕草をし、教えてくれる。<br /><br />こんなわけで、猿子橋跡が分ったので、後は六間堀跡に沿って北に向かってのんびり歩き、深川発祥の地、深川神明宮に参拝した。最寄駅は、都営新宿線森下町が近い。

居眠り磐音の深川六間堀-猿子橋-探訪

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2013/01/31 - 2013/01/31

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traveldog

traveldogさん

『居眠り磐音』の舞台である深川六間堀を歩いた。まず猿子橋の近くにあったという金兵衛長屋を探した。
 深川六間堀町の金兵衛長屋について、『居眠り磐音』(陽炎の辻)に次のように書かれている。数か月前に幼なじみ小林琴平を上意討ちしたときに傷を負い、今だ足に違和感を感じる磐音が、足を引きずるように新大橋を渡り、金兵衛長屋に帰るときの記述である。

「磐音は右に曲がり、御籾蔵の塀に沿って左に折れた。蔵の右手は町家で深川元町、六間堀町と続いて、小名木川と竪川を結ぶ堀に出た。
 その堀に猿子橋が架かっていて、南六間堀とを結んでいた。」

「磐音は、六間堀町の裏長屋、金兵衛長屋の木戸を潜ろうとして、猿子橋の袂にどてらを着た金兵衛が立っているを認めた。」

「猿子橋と中橋の中間には御籾蔵があって、その先に六間堀町が北之橋まで広がっていた。金兵衛長屋のある六間堀町は御籾蔵をはさんでの飛び地である。」

 手元にある安政年間の切絵図を見ながら、金兵衛長屋の辺りを見当をつけると、新大橋を渡ると御籾蔵があり、その南側に深川元町と書かれた町家があり、その先に六間堀が流れている。
 切り絵図には六間堀まで深川元町が続いており、そこには六間堀町がないのだが、小説では金兵衛長屋のある六間堀町は御籾蔵をはさんでの六間堀町の飛び地とあるので、磐音の生きた時代にはそこにあったということなのだろう。堀には猿子橋と書かれた橋が架かっている。磐音が金兵衛長屋の木戸を潜ろうとしたとき、猿子橋の袂に金兵衛を見ているので、長屋は猿子橋の手前ということになる。

 六間堀は戦後に埋め立てられて今はない。猿子橋跡が分れば金兵衛長屋の位置も推測がつくだろう。先ず、芭蕉記念館に入って猿子橋跡の場所を尋ねた。新大橋跡の向かいの通りを芭蕉通りという。その通りをまっすぐ行くと酒屋があるのでそのあたりとのこと。
 芭蕉通りを行く。芭蕉通りを横切る通りと通りの間が幅10mほどになる場所があるのに気づく。ここが六間堀跡だろう。何の案内板も碑もない。こういうときは、古くから住んでいそうな地元の人に聞くに限る。丁度店に入ろうとしている主人がいたので声をかけた。
「すみません。ちょっとお尋ねしますが、猿子橋の跡はどの辺でしょうか」
「ああ、猿子橋ね。その右に少し高い建物があるでしょう、ブルーの庇のある。そこの前の場所ですよ。道路がちょっと盛り上がっているのが分るでしょう」
なるほど、埋め立てたあとのように道路が少し高くなっている。ここが猿子橋の跡か。

「私の母親の話だと、昔は木の橋だったそうで、戦災で焼け落ちてしまいました。何しろ木の橋ですからね。戦争が終わってガレキが出て、どこに埋めようかと困った。この間の震災のあれと同じですよ。そこで六間堀に埋めようということで、埋め立てられたんです。」

 そういうことがあったのか。近くの八名川公園の説明板では、水運利用の減少により、昭和26年に埋め立てられたとあるが、ガレキ処理もなかなか説得力のある説明ではないか。

「最近、居眠り磐音を読んでいて、つい金兵衛長屋の場所に行ってみたくて来てみました。」というと、ご主人は居眠り磐音をご存じの様子で、「この先を行くと中ノ橋、そして北ノ橋、うなぎ屋(磐音に出てくる宮戸川のこと)のある所で、その先が五間堀との分岐になっていて、ずっと行くと弥勒寺橋跡に着きます。案内板がありますよ。道はこうなっているからすぐわかりますよ。」と大きく山を描く仕草をし、教えてくれる。

こんなわけで、猿子橋跡が分ったので、後は六間堀跡に沿って北に向かってのんびり歩き、深川発祥の地、深川神明宮に参拝した。最寄駅は、都営新宿線森下町が近い。

同行者
一人旅
交通手段
私鉄

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  • 森下町駅構内の地図で深川を確認。駅の地図は正確で大変役に立つ。帰ってから六間堀と金兵衛長屋に色づけした。

    森下町駅構内の地図で深川を確認。駅の地図は正確で大変役に立つ。帰ってから六間堀と金兵衛長屋に色づけした。

  • 現在の新大橋を芭蕉記念館の裏手の土手から臨む。旧新大橋は、ここより少し下流に行った所になる。

    現在の新大橋を芭蕉記念館の裏手の土手から臨む。旧新大橋は、ここより少し下流に行った所になる。

  • 旧新大橋西詰付近に立つ旧新大橋の碑。<br />芭蕉通りが見える。その左側が御籾蔵跡で右側が深川元町跡。<br />切絵図を見ると新大橋を渡りきると広小路になっていて、すぐに御籾蔵の塀にぶつかる。<br />芭蕉通りを行くと六間堀跡に着く。<br />磐音は御籾蔵の塀に沿って左に曲がり、深川元町との間の道を金兵衛長屋を目指して歩いた。

    旧新大橋西詰付近に立つ旧新大橋の碑。
    芭蕉通りが見える。その左側が御籾蔵跡で右側が深川元町跡。
    切絵図を見ると新大橋を渡りきると広小路になっていて、すぐに御籾蔵の塀にぶつかる。
    芭蕉通りを行くと六間堀跡に着く。
    磐音は御籾蔵の塀に沿って左に曲がり、深川元町との間の道を金兵衛長屋を目指して歩いた。

  • 芭蕉通りをまっすぐ行くと間もなく六間堀に架かる猿子橋に着く。しかし、今は堀も橋もどちらもない。跡をたどるだけである。

    芭蕉通りをまっすぐ行くと間もなく六間堀に架かる猿子橋に着く。しかし、今は堀も橋もどちらもない。跡をたどるだけである。

  • 猿子橋の手前に竹屋があった。昔はよく「たけや〜 たけ〜い」と町中を売り歩いていたな。

    猿子橋の手前に竹屋があった。昔はよく「たけや〜 たけ〜い」と町中を売り歩いていたな。

  • 六間堀に架かる猿子橋の跡。左前方の4階建ての建物の前に六間堀に架かる猿子橋があった。確かに橋のところで道路が少し盛りあがっている。地元の人の話だと、猿子橋は、戦前は木の橋で、戦災で焼け落ちた。この辺りの町家は、被災し多くのガレキが出て処分に困った。その埋め立て地として六間堀が使われたとのこと。

    六間堀に架かる猿子橋の跡。左前方の4階建ての建物の前に六間堀に架かる猿子橋があった。確かに橋のところで道路が少し盛りあがっている。地元の人の話だと、猿子橋は、戦前は木の橋で、戦災で焼け落ちた。この辺りの町家は、被災し多くのガレキが出て処分に困った。その埋め立て地として六間堀が使われたとのこと。

  • 猿子橋跡を東から見たところ。江東区常盤2丁目から1丁目の猿子橋跡を見る。<br />実は、このあたりで猿子橋の場所をちょうど店に入ろうとしていた主人に尋ねたのである。<br /><br />「すみません。ちょっとお尋ねしますが、猿子橋の跡はどの辺でしょうか」<br />「ああ、猿子橋ね。その右に少し高い建物があるでしょう、ブルーの庇のある。そこの前の場所ですよ。道路がちょっと盛り上がっているのが分るでしょう」<br />なるほど、埋め立てたあとのように道路が少し高くなっている。ここが猿子橋の跡か。<br /><br />「私の母親の話だと、昔は木の橋だったそうで、戦災で焼け落ちてしまいました。何しろ木の橋ですからね。戦争が終わってガレキが出て、どこに埋めようかと困った。この間の震災のあれと同じですよ。そこで六間堀に埋めようということで、埋め立てられたんです。」<br /><br /> そういうことがあったのか。近くの八名川公園の説明板では、水運利用の減少により、昭和26年に埋め立てられたとあるが、ガレキ処理もなかなか説得力のある説明ではないか。<br /><br />「最近、居眠り磐音を読んでいて、つい金兵衛長屋の場所に行ってみたくて来てみました。」というと、ご主人は居眠り磐音をご存じの様子で、「この先を行くと中ノ橋、そして北ノ橋、うなぎ屋(磐音に出てくる宮戸川のこと)のある所で、その先が五間堀との分岐になっていて、ずっと行くと弥勒寺橋跡に着きます。案内板がありますよ。道はこうなっているからすぐわかりますよ。」と大きく山を描く仕草をし、教えてくれた。<br />

    猿子橋跡を東から見たところ。江東区常盤2丁目から1丁目の猿子橋跡を見る。
    実は、このあたりで猿子橋の場所をちょうど店に入ろうとしていた主人に尋ねたのである。

    「すみません。ちょっとお尋ねしますが、猿子橋の跡はどの辺でしょうか」
    「ああ、猿子橋ね。その右に少し高い建物があるでしょう、ブルーの庇のある。そこの前の場所ですよ。道路がちょっと盛り上がっているのが分るでしょう」
    なるほど、埋め立てたあとのように道路が少し高くなっている。ここが猿子橋の跡か。

    「私の母親の話だと、昔は木の橋だったそうで、戦災で焼け落ちてしまいました。何しろ木の橋ですからね。戦争が終わってガレキが出て、どこに埋めようかと困った。この間の震災のあれと同じですよ。そこで六間堀に埋めようということで、埋め立てられたんです。」

     そういうことがあったのか。近くの八名川公園の説明板では、水運利用の減少により、昭和26年に埋め立てられたとあるが、ガレキ処理もなかなか説得力のある説明ではないか。

    「最近、居眠り磐音を読んでいて、つい金兵衛長屋の場所に行ってみたくて来てみました。」というと、ご主人は居眠り磐音をご存じの様子で、「この先を行くと中ノ橋、そして北ノ橋、うなぎ屋(磐音に出てくる宮戸川のこと)のある所で、その先が五間堀との分岐になっていて、ずっと行くと弥勒寺橋跡に着きます。案内板がありますよ。道はこうなっているからすぐわかりますよ。」と大きく山を描く仕草をし、教えてくれた。

  • 昔の町名をとった八名川公園に切絵図と六間堀の解説があった。<br />場所は、かつての六間堀の西側、中ノ橋付近。北側に隣接して江東区立八名川小学校がある。

    昔の町名をとった八名川公園に切絵図と六間堀の解説があった。
    場所は、かつての六間堀の西側、中ノ橋付近。北側に隣接して江東区立八名川小学校がある。

  • 深川めしで有名な「みや古」があった。「深川めし本家」の看板がかかっている。昼で1500円のセットがあるとのこと。六間堀の東側、中ノ橋付近。かつては六間堀に面していたと思われる。江東区常盤2-7-1

    深川めしで有名な「みや古」があった。「深川めし本家」の看板がかかっている。昼で1500円のセットがあるとのこと。六間堀の東側、中ノ橋付近。かつては六間堀に面していたと思われる。江東区常盤2-7-1

  • 深川発祥の地といわれる深川神明宮に着いた。江東区森下1-3-17<br /><br />徳川家康が江戸入府後にこの地を視察し、深川の開拓者である深川八郎右衛門を召して、この地の名を尋ねたところ、未だ名もなき地であると答えた。そこで八郎右衛門の姓「深川」をもって地名とせよと命じた。<br />八郎右衛門は、伊勢神宮を崇拝すること厚く、この地に神宮を分祀したのが、深川神明宮の起源である。<br />また八郎右衛門の菩提寺は泉養寺といい、深川の地にあり、神明宮の別当を勤めたが、後に東の猿江に移り、江戸名所図会にも掲載されている。関東大震災後に千葉県市川市国府台5-26-18に移っている。<br /><br />『居眠り磐音 江戸双紙』では、「神明社地、別当泉養寺」として、長屋住まいの磐音が剣の修行をし、また幸吉と仲間たちが集まって相談をする場所として描かれている。

    深川発祥の地といわれる深川神明宮に着いた。江東区森下1-3-17

    徳川家康が江戸入府後にこの地を視察し、深川の開拓者である深川八郎右衛門を召して、この地の名を尋ねたところ、未だ名もなき地であると答えた。そこで八郎右衛門の姓「深川」をもって地名とせよと命じた。
    八郎右衛門は、伊勢神宮を崇拝すること厚く、この地に神宮を分祀したのが、深川神明宮の起源である。
    また八郎右衛門の菩提寺は泉養寺といい、深川の地にあり、神明宮の別当を勤めたが、後に東の猿江に移り、江戸名所図会にも掲載されている。関東大震災後に千葉県市川市国府台5-26-18に移っている。

    『居眠り磐音 江戸双紙』では、「神明社地、別当泉養寺」として、長屋住まいの磐音が剣の修行をし、また幸吉と仲間たちが集まって相談をする場所として描かれている。

  • 神明宮の本殿。

    神明宮の本殿。

  • 2月3日の節分豆まきの福男、福女の募集をしていた。会費が要るようだ。

    2月3日の節分豆まきの福男、福女の募集をしていた。会費が要るようだ。

  • 六間堀の北ノ橋跡に着く。現在は新大橋通りが走る。うなぎ屋の宮戸川はこの辺りである。ここは西詰。先が東詰。宮戸川はどちら側だろう。

    六間堀の北ノ橋跡に着く。現在は新大橋通りが走る。うなぎ屋の宮戸川はこの辺りである。ここは西詰。先が東詰。宮戸川はどちら側だろう。

  • 六間堀と五間堀の分かれ目に六間堀児童遊園があった。小さな公園だが、六間堀の名前を残した公共施設としては貴重だ。江東区にも墨田区にも六間堀の名がつく地名はない。ここは墨田区千歳である。六間堀跡と五間堀跡が江東区と墨田区の境になる。<br />

    六間堀と五間堀の分かれ目に六間堀児童遊園があった。小さな公園だが、六間堀の名前を残した公共施設としては貴重だ。江東区にも墨田区にも六間堀の名がつく地名はない。ここは墨田区千歳である。六間堀跡と五間堀跡が江東区と墨田区の境になる。

  • 五間堀跡に立つ民家。かつて左右に五間堀が流れていた。<br />ここが江東区と墨田区の境である。つまり手前が江東区で先の建物は墨田区と、隣家が背中合わせで別の区になるのである。

    五間堀跡に立つ民家。かつて左右に五間堀が流れていた。
    ここが江東区と墨田区の境である。つまり手前が江東区で先の建物は墨田区と、隣家が背中合わせで別の区になるのである。

  • 五間堀に架かる弥勒寺橋跡。遠くにスカイツリーが臨める。ここも埋め立てられたため、かなり道路が盛り上がっている。

    五間堀に架かる弥勒寺橋跡。遠くにスカイツリーが臨める。ここも埋め立てられたため、かなり道路が盛り上がっている。

  • 五間堀を埋め立てたあとに作られた五間堀公園。堀が大きく曲がる角にある。

    五間堀を埋め立てたあとに作られた五間堀公園。堀が大きく曲がる角にある。

  • 五間堀公園に設置されている説明板。五間堀は昭和11年と昭和30年の二度にわたって埋め立てられた。

    五間堀公園に設置されている説明板。五間堀は昭和11年と昭和30年の二度にわたって埋め立てられた。

  • 大久保稲荷から眺めた五間堀跡と満徳山龍光院。

    大久保稲荷から眺めた五間堀跡と満徳山龍光院。

  • この辺り寺が多い。芭蕉時雨塚のある長慶寺(蟠龍山天寿院)、萬徳山徳上院、満徳山龍光院、法樹院、そして弥勒寺があった。うろうろするうち早夕暮れである。

    この辺り寺が多い。芭蕉時雨塚のある長慶寺(蟠龍山天寿院)、萬徳山徳上院、満徳山龍光院、法樹院、そして弥勒寺があった。うろうろするうち早夕暮れである。

  • Yahooの地図を見ると面白い。六間堀と五間堀が江東区と墨田区の境界だったので、埋め立てられた後も真ん中に境界線が引かれている。埋め立てられても地図は明瞭に六間堀の跡を示していた。(おわり)

    Yahooの地図を見ると面白い。六間堀と五間堀が江東区と墨田区の境界だったので、埋め立てられた後も真ん中に境界線が引かれている。埋め立てられても地図は明瞭に六間堀の跡を示していた。(おわり)

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  • 一歩人さん 2013/02/28 06:43:30
    大好きな深川かしらね
    traveldogさんへ
    ふ、ふ、江戸時代の堀や、川が埋め立てられた東京砂漠かな。
    私は、門前仲町や新大橋はよく行く大好きな場所です。

    ふ、ふ、本郷散策へ投票、ありがとうございました。
    あのあたりも文学散歩にはうってつけですよね。
    特に宮沢賢治宅はとても、感動しました。路地裏なのにね。

    ふ、ふ、樋口一葉の軌跡もなかなか。

    ありがとうございました。
    失礼しま〜す♪

    traveldog

    traveldogさん からの返信 2013/02/28 22:26:36
    RE: 大好きな深川かしらね
    一歩人さんへ

    よくいろいろな所を歩いていて、楽しそうですね。

    実は先日、本郷を歩いてきて、何の気なしに本郷の所を見ていて、一歩人さんの口コミをお見かけした次第です。

    賢治の旧居跡も行きました。坂にある案内ではよく場所がわからず、玄関を出てきたお兄さんに尋ねやっとわかりました。上道から下道におりる坂の向いの三階建ての家だそうです。一葉跡・・・三四郎池、いいですね。
    今度、啄木の喜之床跡を確かめたいです。

    ありがとうございました。

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