2008/11/10 - 2008/11/20
542位(同エリア830件中)
くろへいさん
ハバナ滞在3日目
くろへいはヘミングウェイ博物館を訪れてみた。
ノーベル賞作家 アーネスト.ヘミングウェイが22年間暮らした邸宅は、Finca La Vigiaと呼ばれ、博物館となっている。
ハバナ郊外のSan Francisco de Paulaの丘の上の邸宅を訪れると、アーネストが愛用していた様々な展示品が、在りし日を彷彿させる。
この清楚な環境から、名作、『誰がために鐘はなる』、『河を渡って木立のなかへ』、『老人と海』、『海流の中の島々』が生まれてきた。
彼がキューバで過ごした時代は、キューバ激動の歴史と無関係ではない。
キューバに暮らし、彼らの文化に溶け込み、この国を第二の祖国としたアーネストは、自らを「ヤンキーではない」と言い、この国を愛し、そしてこの国の生活を楽しんだ。
鬱病で苦しんだ晩年に対し、キューバ時代のアーネストは、彼の人生の中で最も充実していたと言われている。
作家であり、記者であり、ハンター、フィッシャーマンでもあったアーネストの趣味人ぶりは、フィンカ・ビヒアの邸宅を訪れると容易に窺い知る事ができる。
くろへいは、特にヘミングウェイのフリークでは無いが、彼の書いた「老人と海」はキューバ革命以前の原風景を情緒豊かに描き、カジキマグロに挑む老人の姿には、自然への畏敬と、老いに対する思いが込められており、ハンターでもあったアーネスト自身を重ね合わせる事で、より興味深く読むことができる。
既に、世界中で何万回も刷られており、近代文学を代表するアーネスト.ヘミングウェイの暮らした風景が、今もハバナの郊外で見る事ができる。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 3.0
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 3.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 交通手段
- タクシー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
20世紀近代文学に於いて、アーネスト.ヘミングウェイは世界でも最も著名な作家のひとりである。
彼は、世界史の中でも最も激動に満ちた時代を生きてきた。
1917年に地元シカゴの高校を卒業したアーネストは、地元の新聞社に入社するも、1年で退職する。
その後、第一次世界大戦に参加するため、志願兵に募集したが、視力が弱いとの理由で不採用となる。
その為、赤十字に入り、野生衛生隊員として北イタリアのフォッサルタ戦線に派遣された。
然しながら、不幸にも対オーストリア戦線では砲撃により重症を負う事になった。
その後は、カナダのトロントでフリーの記者となり、特派員としてパリに渡った。
パリでは同じアメリカ人で、詩人、美術収集家のガートルード・スタインと出会う。
ユダヤ系アメリカ人のガートルドは、資産家であり、美術や文学に深い造詣をもっていた。
彼は、若い芸術家達の社交場としてカフェを建てた。
アーネストもこのカフェに通うようになり、ガートルドも含めた芸術家や作家達の影響を受けた。
この時に、ジャーナリストであったアーネストに文学の炎が灯されたと言われている。
更に、医者である父の活発的な性格を受け継いだアーネストは、第一次世界大戦、スペイン内戦に飛び込み、ジャーナリストとして積極的に取材していく。
しかし、パリでの経験の影響で、アーネストは作家の目でこの戦争を捉え、後に「武器よさらば」、「われわの時代に」等名作を次々と発表し、文学作家としての地位を不動のものにした。 -
アーネストは、1938年にキューバに移住し、その後1960年までの22年間をこの地で暮らす。
1940年に、「フィンカ.ビビア」に現在のヘミングウェイ博物館となった邸宅を購入し、キューバでの生活を楽しむ傍らで、多くの傑作を産み出していった。
実は、アーネストとキューバとの関連に関しては、未だに明瞭な資料が存在しない。
勿論、以前スペインの植民地だったキューバは、彼の生まれたアメリカと違い、スペイン文化の影響を強く受け、カリブ海の美しい海とラテンの極彩色の豊かな自然は、アーネストを魅了し彼の好奇心を強く刺激したに違いない。
もっとも、アーネストが最初にキューバの地を踏んだのは、1928年といわれている。
当初の目的は、彼が父から教わった趣味のひとつである、「釣り」であった。
その4年後にも再び「釣り」をしに再訪しているが、移住を決めるまでに2回しかキューバに来ていないのだ。
何故、それほどアーネストとキューバの関係について拘るのか?
それは、彼の名作の多くが、このキューバで過ごした22年間に書かれたのに対し、彼のキューバでの生活や、当事の思い出などは、殆ど記録に残っていないからである。
生前、多くのジャーナリストがアーネストにこの頃の事について取材を試みたが、アーネストはその多くを語らなかったといわれている。
今でも、世界中で多くのヘミングウェイ研究者がいるが、彼らの間でもアーネストがキューバで過ごした22年間は、「空白の時」と呼ばれている。 -
この「空白の時」は、バチスタ政権からキューバ革命、キューバの共産化に伴うアメリカとの決別と、キューバにとっては最も波乱に満ちた時代でもあった。
アメリカ人のアーネストが、この時代の事を多く語らなかったのは、これらのキューバとアメリカ間の政治的な問題とは無関係ではなかった筈だ。
何故、彼は故意に多くを語らなかったか?
これは、彼が故人となった今では既に知る事はできない。
だからこそ、多くの人々は、この偉大にして、著名な大作家の「空白」に何かを求め、そしてそれらは刺激に満ちた内容で彼らの想像力を駆り立てるのに違いない。 -
さて、ハバナ郊外に建つ旧ヘミングウェイ邸には、これらの想像力に溢れたファンが世界中から集まってくる。
勿論、この博物館を見学したからといって、アーネストの空白が明らかになる事は無いが、少なくともこの家を訪れれば、彼の暮らした22年の軌跡が染みこんだ多くのものを見る事ができる。
これらの遺品に触れる事で、空白の謎により空いた知識の溝を埋める事はできなくとも、そこには確かにアーネストが圧倒的な存在感で暮らしていたことが肌で感じられる筈だ。 -
ヘミングウェイを語る上で、キューバ革命を前後するこの国の歴史を無視する事はできない。
彼は、自身の事を多くは語る事はしなかったものの、彼の描く作品からは、ヒューマニズムに満ちた反戦主義者の姿が浮かび上がってくる。
「誰がために鐘はなる」のタイトルは、イギリスの詩人ジョン・ダンの文章の一節である事は知られている。
Any man's death diminishes me, because I am involved in mankind, and therefore never send to know for whom the bell tolls; it tolls for thee.
(誰かの死は、私を弱らせる。なぜなら私も人であるから。従い、誰の為に弔いの鐘が鳴っているのかを聞くために使者を送る必要はない。その鐘は汝のために鳴っているのだから)
この作品は、反ファシスト軍としてスペイン内戦で戦った兵士の物語である。
この作品の読み方は、読者それぞれにより異なるが、当事世界中で火薬と血の匂いが広がっていった中、モンロー主義が蔓延していたアメリカ人に対してのメッセージとして受け取った読者は多かった筈だ。大西洋を挟んだスペインでは、軍事クーデターにより誕生したフランコ将軍によるファシスト政権に対し、反ファシスト派の国民が立ち上がり、内戦が拡大化していった。
独裁主義のファシスト政権は、隣国ポルトガルとイタリア、ドイツを見方にし、巨大な権力と軍事力で反政府主義の民衆を弾圧、粛清していったが、軍事衝突を恐れたイギリスやアメリカは静観しているだけだった。
当事のスペイン内戦を実体験したアーネストは、アメリカのモンロー主義に対してメッセージを送った。
『誰がために鐘は鳴る」でアメリカ国民に向けて、「もし我々がここで勝つなら、我々はいたるところで勝利するだろう。この世界は美しいところだ。そのために戦うに値する」
それはベストセラーとなって国民を反ファシズムの戦いへと喚起した。アメリカが参戦したのはそれから一年後である。そのときイギリス首相
チャーチルは「これで結局われわれの勝利が決まった」と安堵の念を表明したという
同様に、スペイン内戦によりドイツ空軍の援護で空襲されたゲルニカをモデルに描いたピカソの「ゲルニカ」もこの内戦を告発している。
然しながら、非常に皮肉であったのは、アーネストが批判したアメリカのモンロー主義は、後に日本の真珠湾攻撃によりアメリカ国民により否定される事になる。
モンロー主義の否定は、アメリカの国策による陰謀(オレンジ計画)にも関ってくるが、奇しくもアーネストと意を共にしたのは偶然であった。
だが、結果としては第二次世界大戦に参戦したアメリカは、パクスアメリカーナをより強固にしていったのは周知の事実である。 -
第一次世界大戦、スペイン内戦、そして第二次世界大戦と3つの戦争をジャーナリストとして、作家として見続けてきたアーネストは、この平和なキューバに心の安息を求めていたのではないか?
しかし、アーネストが移住してきた当事のキューバは、アメリカの傀儡政権によるバチスタ政権がこの国を支配していた。
当事、既に世界的な名声を得ていたアーネストは、当然富裕層としてキューバで不自由の無い優雅な暮らしを楽しんでいた。
しかし、その後フィデル.カストロ率いる反乱軍兵士達が、グランマ号で乗り付けると、これまで圧政に苦しんでいた民衆を見方に、次々とバチスタ政権軍を打倒し、ついに革命政権を樹立した。
さらには、キューバ政府とアメリカ政府の対立と、アーネスト人生には常に波乱が尽きる事がなかった。
写真&コメントの削除 -
フィデル率いる革命軍がハバナを陥落する前後、革命による戦乱を逃れてアーネストはアメリカに帰国する。
しかし、キューバに革命政権が樹立すると、アーネストは彼が愛するキューバに再び帰ってきた。
ハバナの空港に着き、飛行機のタラップを降りたアーネストは、大勢のキューバの民衆に囲まれ、新しいキューバの国旗にキスをし、「俺はヤンキーじゃない」という言葉を残している。
懐かしくも第二の故郷に帰ってきたアーネスト.ヘミングウェイにとって、この後の僅か1年未満の間が最も精神的に充実していたのではないかと想像する。
元々、アーネストは、バチスタ政権に対して激しい嫌悪を抱いていた。
これには、アメリカの傀儡政権であるバチスタ政権が、キューバの資本を独占し、民衆に塗炭の苦しみを与えていた事もあるかもしれない。
しかし、ある日、彼の愛犬の「ブラック」が、彼の邸宅を訪れたバチスタ政権の警官に激しく吼えたところ、警官はブラックを棍棒で撲殺してしまった。
この事件が、彼の反バチスタ感情を決定的にしたのは想像に難く無い。
又、アーネストが元々反バチスタ思想であり、フィデル率いる革命軍に多額の資金援助をしていた事も、警官が彼の愛犬を撲殺する起因となっていたとも想像できる。
写真は、撲殺された愛犬ブラックの墓石 -
当事、既に世界的な名声を得ており、資産家でもあったアーネストの悲劇は、彼が資金援助していた革命軍(後のキューバ政府)に対して、彼が共産主義者という汚名着せられた事からはじまる。
2つの世界大戦が終わり、世界は米ソによる2極対立が明確化してきた。
アメリカの欧州、太平洋への参戦により、モンロー主義は崩壊し、代わりにパスクアメリカーナが台頭してきたのは既に述べた。
しかし、パスクアメリカーナの台頭は、反共産主義思想の拡大と比例し、アメリカ国内では合衆国政府主導による反共運動が高まっていく。
日本の戦中、戦前にも、特高による「アカ狩り」が横行した事があるが、大戦後のアメリカでも無意識下での言論統制は行われていたようだ。
これは、くろへいの想像でしかないが、アーネストが「誰がために鐘がなる」を書いたときは、欧州でのファシズムの台頭に対し、モンロー主義により内戦を不干渉とするアメリカ政府に対する民衆の共感があった筈だ。
又、フランコ率いるファシズム政権に反乱した勢力をソ連が支持した事で、アメリカ政府は非公然とファシスト政権を支持してきた。
その後、欧州はナチによるポーランド侵攻で第二次世界大戦が勃発するが、反共主義=反ソ主義 の姿勢を一貫し、民主主義の是非に関らず一時的とはいえ、フランコを支持するナチと歩調を合わせた当事のアメリカ政府に、良識ある米国市民は失望し、憤慨したに違いない。 -
そのような社会背景の中で、アーネストの作品は多くの人達に共感をもって読まれた筈である。
それは、本来アメリカ建国の思想であり、自由と正義を愛する「古き良きアメリカ」の代弁者となっていったのではないか?
作家にとって、多くの大衆が自分を評価してくれるのは、大きな心の支えになったに違いない。
しかし、大戦後米ソ対立が明確化されるに従い、反フランコ派であり、親カストロ派のアーネストに対して、共産主義者のレッテルが貼られるようになった。
このレッテルこそが、アーネストにとって、最も屈辱且つ不名誉な事であったのではないか?
アーネスト自身は、常に自らの正義に従っていた自負があった筈だが、いつの間にか「古き良きアメリカの代弁者」から「アカ」扱いされた事が、彼を大いに悩ませ、最後には自殺にいたる原因となったと推測している。
まあ、この想像は、くろへいに限らず、ヘミングウェイを愛する多くの読者にも共通していると思うので、特に目新しい視点ではない。
然しながら、注目すべき点は、彼は終始一貫して「共産主義者」では無かったと主張していた事だ。
現在の史観であれば、当事のスペイン内戦で、フランコ将軍が非民主的なクーデターで樹立した政権に正義は無い。
同様に、アメリカの傀儡政権で資本の搾取を行ってきたキューバのバチスタ政権よりも、現在の革命政権に正義がある事は、アメリカ以外の国々では常識となっている。
然しながら、アーネスト自身は、反ファシストであり親カストロ派であった。
残念なのは、彼が支持した2つの政体は何れも共産主義であり、当事は何れも米国政府の思惑と対極にあった事だ。
善意的に考えれば、アーネストが支持したのは、民主主義や平等主義であり究極的には反戦主義ではなかったのではないか?
おそらくは、彼の価値観において正義の概念に基いていれば、それが共産主義であっても資本主義でも、イデオロギー自体にたいした問題は無かった筈である。
しかし、大戦後のソ連共産党の政策を見ると、スターリン主義により多くの人々が粛清されてきた。
元々、大戦前から共産主義は資本主義経済国家としては相容れない水と油のようなものであった。
ファシズムやナチズムが世界大戦で粉砕された後も、覇権主義の思想はソ連共産党や中国共産党に根強く残っていた。
パスクアメリカーナを拡大する上で、反共産主義は国策上有益であった筈だ。
同時に、キューバに於ける革命政権は、アメリカの資産を凍結した事で、アメリカ国民の共感を得る事はできなかったのではないか?
キューバ政権とアーネスト.ヘミングウェイの関係については、未だ不明慮な部分が多く、多くの噂が残っている。
アーネストは、カストロの宣伝に利用されたのではないか?
いや、実は逆にアーネストはCIAが送り込んだアメリカのスパイだった等など… -
何れにしても、この時代に共産主義者のレッテルがアーネストに貼られた事は、彼の精神に深い傷を残したと後世の人たちは評論する。
その心の傷が、彼の作家生命を絶ち、そして何度目かの自殺の成功により、彼は61歳の人生に幕をおろした。
後年のアーネストは、常にFBIによる尾行を恐れていたといわれている。
キューバ革命後のアメリカとの関係は、誰もが知るとおり、悪化の一途を辿っていった。
その国で生活するアメリカ人であり、既に世界的な名声を得た作家の言動は注目を集める。
アーネストは、カストロ政権を支持していた事もあり、敵国アメリカから監視されていたと周囲の親しい人達に言っている。
しかし、徐々に精神が蝕まれていった時期とも重なり、「強度の被害妄想」として諸々な精神医療を施されるようになった。
だが、電気療法とした様々な精神治療も効果は薄く、ついに、アメリカとキューバの関係悪化により、母国アメリカに帰国する事になる。
結果的に、アーネストの「被害妄想」が彼自身を死に追いやったというのが、これまでの定説ではあるが、近年におけるアメリカ合衆国の情報公開法により、FBIの極秘文書の一部が閲覧できるようになった。
そこには、合衆国はFBIの情報員を用い、長期に渡り「アーネスト.ヘミングウェイ」を徹底的に監視していた事が判明した。
それらは、莫大な調査報告書として保管されている。
つまり、驚いた事にアーネストが晩年に怯えた米国の陰は実在しており、彼は決して「被害妄想」では無かった事が証明された -
それでは、ヘミングウェイは、アメリカが危惧したように、敵国キューバに暮らす「政治的共産分子」であり、合衆国に対する脅威の存在であったのか?
それとも、くろへいを含む多くの読者が好意的に捕らえるように、イデオロギーに翻弄され続けたものの、自然と正義を愛するカーボーイでアメリカ人のヒーローだったのか?
様々な憶測があればあるほど、ヘミングウェイの神秘性は増し、20世紀の産んだカリスマは伝説となっていく。
今となっては、キューバで過ごした22年の空白は、想像の域を出る事は無いが、彼が生前書いた作品は、これからもアメリカを代表する文学として、世界中で読み続けられるであろう。 -
この邸宅は本当に贅沢な造りだ
ハバナの中心から遠くないのに静かで高台からは遠くにハバナ湾が望める
邸宅の周辺は緑が覆われ、南国の花々が咲き誇っている。
よくみると、ハチドリが庭園の中を飛んでいる
海風がそよぎ、エアコンがなくても家の中は充分に涼しい -
ヘミングウェイは、トイレでよく考え事をしていたという。
トイレの壁には、彼の思いついた言葉が、脈絡も無く書かれている -
ノーベル賞「老人と海」は、意外にもこのトイレで生まれたのかもしれない
-
フロリダ州キーウェストのヘミングウェイの家で飼われている「ヘミングウェイの6本指の猫」は有名だが、キューバの邸宅にも彼は多くの猫を飼っていた。
自らがハンターでもあったヘミングウェイは、飼い猫達も自らと同じハンターとして、畏敬の念をもって接していたといわれている。
この家には、ヘミングウェイが仕留めた動物達と一緒に、小鳥やカエルのホルマリン漬けが展示されている。
これは、彼の猫達が狩ってきた獲物である。
猫たちの獲物も、自分の獲物と同様に展示し、猫たちを可愛がっていた -
博物館というよりも、豪族の別荘に来たようだ
(たしかに、元々は自宅として使用していたので、無理は無いが)
よく見ると、家具や食器の一つ一つにこだわりがある
けっして安価なものではないが、豪華絢爛というわけではない
このへんが、アーネストの趣味の良さの所以だろう -
博物館というよりも、豪族の別荘に来たようだ
(たしかに、元々は自宅として使用していたので、無理は無いが)
よく見ると、家具や食器の一つ一つにこだわりがある
けっして安価なものではないが、豪華絢爛というわけではない
このへんが、アーネストの趣味の良さの所以だろう -
アーネスト.ヘミングウェイは、1934年にハンティングのためアフリカを旅行した
その時の思い出を元に2年後の1936年に「キリマンジェロの雪」を発表した
その2年後に、彼はキューバへの移住を決める
「キリマンジェロの雪」は世界中で増刷されただけではなく、何度も映画化されたので、今更詳細を書くつもりはない
しかし、小説の中の主人公「ハリー」の存在は、アーネスト自身を投影している事は、多くの本で解説されているし、多少なりともヘミングウェイについて造詣があれば、誰にでも分かる事だ。
ここで描かれた内容は、狩猟中に怪我をして死を待つ「ハリー」の目を通して、これまでの人生の回想録の形をとっている。
当事、アーネストは36歳。
死を題材にするには早すぎるように思うが、彼自身アフリカでの旅行で赤痢に罹り死に掛けている。
「ハリー」と違い、アーネストは幸いにも九死に一生を得て帰国するが、この旅行で彼は「ハリー」のように人生を回想していたのかもしれない。
これは、くろへいの想像に過ぎないが、この頃のアーネストは、彼のデビュー作である「誰がために鐘がなる」以降、エッセイなどの短文を除き、小説の発表は無かった。
これをスランプと呼ぶのかは知る由もないが、主人公「ハリー」が文中で、
「書くべきことは、実にたくさんある。世界が変わっていくのも、目の当たりにしてきた。単に事件というだけではない。もちろん事件も人も、目撃したことはいくつもあるが、もっと微妙な変化、時代が変われば人がどのように変わっていくかも、決して忘れずにいた。おれはその中にいて、目に焼きつけてきたのだから、それを書くのはおれの義務だった」
これは、まさにアーネストが作品中の「ハリー」の口をかりて言いたかった事だったに違いない -
アーネストの文章は、幻想的でもなく、情緒的な表現は少ない。
しかし、状況を的確かつシンプルに捉える描写力から、読者は彼の描いた世界を共有する。
文章の捉え方には幾つかある。
短歌や俳句、詩などは、制約された文字数の中で表現をおこなう。
当然、その短い文章の中で細かい描写を描くのは難しく、端的な言葉から読者はイメージを膨らませて状況を想像する。
その点、小説は制約が少なく作者によって自由な表現が可能となる。
しかし、表現方法が文章であるという点は変わらず、自ずと読者のイメージに頼らざるを得ない。
同じ小説を読んでも、読者側の人生観や経験、宗教観などで捉え方は様々である。
それが、映画と違い、小説の興味深いところであるが、生前のアーネストの手記や小説からは、読者の想像力だけに委ねた解釈をよしとしない姿勢が垣間見れる。
勿論、彼の書く小説はフィクションではあるが、根本的には自らの経験を投影した方法で描かれており、作者のイメージを忠実に描写したい意思に溢れている。
それは、彼自身が新聞記者であり、ジャーナリストとしてスペイン内戦を経験し、更にはパリ時代に多くの芸術家からの影響を多分に受けたからだと思っている。
アーネストは、パリ時代に「セザンヌ」の作品に心を奪われたと聞く。
完璧に計算された構図と、色彩の配分は、まさに天才的であり、その無限な表現力は印象派でありながら、どの写実派よりも忠実に表現している。
アーネストは、文学のセザンヌを意識したのであろうか?
又は、彼は絵の持つ表現力に感化され、その中で最も優れたセザンヌに何かを見出そうとしていたのか?
アーネストにとって、重要だったのは、彼の感じた死生観や情景をできるだけ正確に文章によって書き留める事だった。
ある意味、赤裸々な精神の告白とも受け取られかねないが、父の自殺や自らの事故、そして赤痢など、いみじくも死と向かい合わせる事で、彼はそれらを書き残す事に自らの義務と課したのではないか。 -
アーネストの愛艇「ピラール号」
全長12mのこの船は1934年に購入
趣味のカジキマグロ漁などに使用された
この愛艇でカリブ海を駆けた経験が、後にノーベル文学賞を受賞した「老人と海」を書くきっかけとなった。
アーネストがキューバを離れてから、放置されていたピラール号は、シロアリや熱帯性気候に浸食されていた。
しかし、周囲の保存を呼びかける声が多く、数年前から本格的に補修作業を行い、当時の形に復活された。
「老人と海」の舞台となった町は、ハバナの東方20kmに位置するコヒマールという小さな漁村で、人口は約5,000人ほど。
漁村には入り江があり、今でも漁師達が昔と変わらない暮らしをおくっている。
「ピラール号」の船長をしていたグレゴリオも、今も健在でこの漁村で暮らしている。
グレゴリオ翁こそ、「老人と海」の主人公、サンチャゴのモデルといわれている。
「老人と海」は、ヘミングウェイの代表作となったが、この話は現地に住む村人から聞いた実話を元に書いたとアーネストは後に語っている。
小説では、カリブ海に面する素朴な漁村の描写からはじまり、その後サンチェゴ老人と巨大マカジキとの死闘へと展開していく。
人は老いると、体力も気力も萎えてくる。
細い皺だらけの腕で、巨大マカジキと戦い続けるサンチェゴの姿に、読者は次第に感情を移入させていく。
しかし、生きるという事は、常に戦い続けることである。
至極当たり前な自然の摂理ではあるが、同時に無情な現実でもある。
「魚をとるってことは、おれを生かしてくれることだが、同時におれを殺しもするんだ」
文中のサンチェゴの言葉は重く読者に語りかける。
3日にも及ぶ死闘の末、ついにサンチェゴは勝ち抜く。
この時点で、読者はサンチェゴの勝利に強く共感し、希望の灯火が煌煌と海を照らすのを見るに違いない。
だが、命を懸けて吊り上げたマカジキを鮫が襲い掛かり、サンチェゴは新たな戦いを挑む事になる。
結果、鮫はマカジキを食い漁り、マカジキの骨だけが残されてしまう。
戦いの希望の灯火は消え、非情な結末は、厭世的とも感じられる。
文中に、情緒的な感情表現はできるだけ省かれ、坦々とした文章で状況を細やかに表現する。
誰もが避ける事のできない老いと、死ぬまで戦い続けなければならない業。
サンチェゴ老人に人生の不条理を投影させた読者も多いことであろう。
しかし、これまでのアーネストの作品は、比較的分りやすい内容に感じるものの、この作品は読む者にそれぞれが思考させる内容といわれている。
アーネストの本意はどこにあるのか?
「達観した人生観」
と評する者もいれば、
「常に挑戦し続ける事への賛歌」
と評する者もいる
しかし、くろへいの感想はやや異なる。
「大自然とそこに共存する人の姿をありのまま丹念に描いた作品」
そこから先の事はアーネストの意図する事では無いのではないか?
なぜなら、カリブ海の自然と、そに暮らす人々の姿がアーネストの心を強く揺さぶる光景だから。
そこに、多くの理由は要らない。
画家が風景を描くように、忠実に書く。
多くの読者のように、人生観に重ね合わせるのは、それが作者の意図したことではなく、アーネストが暮らしたハバナで見た光景こそ、大自然と共存する人々の姿であり、それを忠実かつ的確に表現した結果だったのではないか?
そんなアーネスト.ヘミングウェイを、優れた描写能力を持つ画家のように感じるのはくろへいだけであろうか? -
最後に、アーネスト.ヘミングウェイの言葉を記す
In order to write about life, first you must live it!
人生について書きたいなら、まず生きなくてはならない。
「老人と海」が1956年にノーベル文学賞を受賞して3年後、対キューバとの関係悪化がし、アーネスト.ヘミングウェイはアメリカに戻る。
彼の4度目の妻であるメアリーが自分の部屋で鼻歌を歌うと、隣の部屋でアーネストが続きを鼻歌で歌い始めた。
調子外れの鼻歌に苦笑しながら、メアリーは隣室のアーネストに「お休み」と声を掛けて眠りにつく。
翌朝、メアリーは大きな銃声で目が覚める。
急いで銃声のした階下の部屋に下りて行くと、そこには自ら手にした猟銃で頭を吹き飛ばしたアーネストが倒れていた。
アーネスト.ヘミングウェイ62歳のときだった
次は本旅行の最終編
以下サイトをご覧下さい
キューバ旅行 その9 タイからキューバ キャバレーショー編
http://4travel.jp/traveler/mochida1969/album/10641543/
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