2008/06/28 - 2008/06/28
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「大阪の陣」で強大な徳川を相手に獅子奮迅の戦ぶりで家康を追いつめ[日本一の兵(つわもの)]と称された真田幸村(信繁)、最期の地としてゆかりのある史跡等をこの二箇所中心に巡ってきました。…江戸時代の人々からも愛された戦国武将。戦死跡碑など実際目の当たりにすると感慨深いものがありました。
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<アクセス>
(天王寺公園内へ)
JR天王寺駅、地下鉄谷町線天王寺駅、
地下鉄御堂筋線天王寺駅、地下鉄御堂筋線動物園前駅
近鉄南大阪線あべの橋駅、
阪堺電軌上町線天王寺駅前駅下車、
または市バス阿倍野橋駅下車
北西400m -
『茶臼山古墳(大阪府指定史跡)』
(所在/大阪市天王寺区茶臼山町1)
大阪市天王寺区茶臼山町にある古墳で、大阪市内でも最大級の規模を誇る前方後円墳。
--慶長19年(1614年)の「大坂冬の陣」では、この茶臼山一帯が徳川家康の本陣となり、次いで翌年「大坂夏の陣」では真田幸村(信繁)勢の本陣となり、「茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)」の舞台となった。
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手前に広がる池『河底池』は、1928年に天王寺公園に編入されているそうです。『茶臼山』へは、あちらに見える橋を渡っていきます。 -
『茶臼山』の雰囲気をもう一枚。
「山」という「山」のような高さではありません。 -
橋の手前の様子。「わけばし」の名が見えます。
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「わけばし」の全体の様子です。
池には、鯉や亀の姿が見えます。 -
「わけばし」を渡り終え、振り返って一枚。
この一帯は、静かで趣きある景観で、心が静まるのを覚えます。 -
しばらく行くとすぐに「茶臼山」を示す看板があります。矢印の方向に石段があり頂上部へ上がれますが、グルッと回れば他にもいくつか上へ上がる石段があります。 …看板後方の旗印が気になったので、近付いてみることにします。
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やはり目を惹く「真田」の「六文銭(六連銭)」--。
幸村の祖父・幸隆から続く旗印である六連銭は、亡くなった人の棺に入れる六文銭の事で、三途の川の渡し賃を意味する。この旗印にすることは「不惜身命」を意味するとされ、戦場では相応の覚悟で挑むということのよう。 -
「大阪夏の陣」で「茶臼山」に布陣する西軍・幸村軍とそれに対峙する東軍の布陣の様子を示した立看板。
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--慶長二十年五月七日(1615年5月7日)、紅の旗・吹貫であたかもつつじの花盛りのように群れなびかせた真田の赤備が陣を構える茶臼山の真田幸村隊三千五百は、この日の正午過ぎ、徳川方最強の松平忠直率いる越前勢一万五千と激突し、真田の赤備えと松平家の家紋のつま黒が交互に入り乱れる大阪夏の陣最大の激戦が茶臼山周辺で繰り広げられた。(大阪夏の陣/天王寺口の戦い)数では劣る真田隊であったが、高い戦意と捨身の攻撃で越前勢を突き破り、徳川家康の本陣目掛けて一文字に三度の攻撃を仕掛け、あとわずかで家康の首に手が届くところまで攻めるも、数に優る越前勢が混乱から立ち直り反撃を開始、しばらく茶臼山に拠って抵抗を続けた真田隊も越前勢の猛攻によって奮戦むなしく壊滅し、真田幸村も激戦を戦い抜いて疲弊し茶臼山の北にある安居天神で休息しているところを越前兵により討ち取られる。(※立札のとおり)
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石段を上がる手前、史跡「茶臼山」と「河底池」を示す石柱が建っています。
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頂上部へ向かう石段を下から一枚。
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石段を登ったところで、振り返って一枚。
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すぐに頂上部らしき場所へ上がれるが、グルリ一周してみると、このような感じでいくつか上がるところがあった。
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頂上部の様子。平らな広場のような場所。ベンチもあり、小休止でき、ここでしばし、当時の古戦場の息吹きなど想いを馳せてみていた…。
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「茶臼山」有す天王寺公園を出て、北側へ向かう。
25号線沿いに面すところに、「安居天満宮 真田幸村戦死の地」の看板。ここが、安居天満宮=安居神社。
--目指す「真田幸村戦死跡碑」はこの中に在る。 -
正面入口右側で一枚。
「安居神社」を示すそれだ--。 -
『安居神社』
所在/大阪府大阪市天王寺区逢阪1-3-24
御祭神/少彦名神 菅原道公
創建年は不詳だそうです。
当初は少彦名神が祭られており、天慶5年(942年)から菅原道真が祭られるようになったと伝えられる。
菅原道真が太宰府に流されるときに、風待ちのために休息をとったことが、この名の由来とのこと。 -
社内の位置取りが分かる案内看板が掛けられています。
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入口の右側に建っていたものです。
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とても手の行き届いた様子を感じます。
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ここでも真紅の旗が見られました。
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「眞田幸村陣 歿の旧跡」(※実物のとおり)
元和元年、大阪夏の陣に徳川家康は秀忠と共に大軍を率いて大阪城を攻めた。ここに於いて大阪の兵は城の既に恃むべからざるを知って出でて戦ひ、五月六日、幸村は後藤基次、薄田兼相等と大和口を防がんとして河内の片山道明寺に赴き、基次等が敗死したので殿軍となって伊達政宗の兵と戦ひ、翌七日は天王寺附近に松平忠直の軍を迎え奮戦したが、ついに当社境内一本松の下で戦死した。時に年齢四十九歳であった。当時の松は既に枯死したが、社殿復興を機に昭和二十六年四月二十四日、これを記念して植樹される。
(例年五月七日に幸村祭が盛大に行はれる。) -
そして、これが…『真田幸村戦死跡碑 (さなだゆきむらせんしあとひ)』です。
お供えする人が後を絶たない感じが見受けられました。写真は右側斜めに傾いているようですが、実際そのような感じでしたので、そういう感じで撮ってみました。
…茶臼山から駆け降りた幸村以下約一万の決死隊怒涛の騎馬突撃は凄まじく、松平忠直隊…駿府衆…を突破、さらには本隊旗本勢を瞬く間に壊滅状態に追い込み、家康本人をも窮地に陥れた。家康の窮地は、後にも先にも、甲斐の虎・武田信玄に滅多撃ちにされた「三方ヶ原の戦い」とこの時のたった二度だけだったという…。
…境内このあたりで、疲弊し腰を落とした、かつての当時の幸村の姿があったかと思うと、やはり感慨深いです。周囲の静けさと相まってひっそり佇んでいます。後ろ髪引かれる思いで、ここを後にしました---。 -
境内を正面側に戻らず、奥の石段を下って念願の「安居神社」をあとにします。北側にあるこちらからも、入ることができます。
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石段を下ったところで、振り返り、一枚。
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少し歩いて、名残惜しんで、また一枚。
こちらの北側からは、このように階段で上り下りすることになります。 -
天王寺区伶人町と逢阪一丁目との境界に位置する坂です。安居神社へ通じる坂道から、このように呼ばれています。
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天神坂の様子です。
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今度は、少し北側、東西に向かう「清水坂」です。
天王寺区伶人町の有栖山清水寺の北側に位置。
大阪星光学院と清水寺(清光院)との間の坂道で、別の「愛染坂」と交わるまでの広いゆったりとした石畳の坂道です。ちょうど隣に面する「清水寺」の北側にあるためこの名で呼ばれています。
この辺りは、もう少し北方向へ行くとさらに多くの寺が密集します。 -
拡大でもう一枚。
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「清水坂」端からの眺め。
地区の方々も愛着持っていられることでしょう。
綺麗な坂です。 -
「清水坂」の途中、壁に埋め込まれた一枚岩の彫物。
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しばし、上った後に振り返って、一枚。
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これは「清水坂」反対側の端から見た様子です。
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この界隈にあった「史跡案内板」です。
案内板で分かるように、もっと北側から天王寺公園側へ向かって南下するコースが一般的に知られるようですので、遠方からいらっしゃる方は、このようなコースで史跡を満喫されてみてはいかがでしょうか。
--ご覧いただきありがとうございました。
<おわり>
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