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平成9年12月23日(火)  <br /> 天皇誕生日で祝日。会社を卒業してからは毎日が日曜日なので、祝日の有り難さがピンとこない。<br /><br /> いよいよ明日からハワイ遠征である。携行品に若干不足するものがあるので家内と綱島へ買い物に出掛けた。毎日一万歩以上歩くことを日課として実行してきたが昨日京都から帰ってきたばかりで、まだ今日の日課をこなしていないので昼時にもかかわらず、腹があまり空いていない。しかし規則正しい生活を心掛けているので、昼飯を抜くことも主義に反する。なかば義務感に命ぜられて、大王ラ−メンに寄り味噌ラ−メンを食べる。われわれの世代には育ち盛りに食料不足で難儀をした情けない体験が脳裏に奥深くインプットされているので食べることには貪欲で意地汚いところがある。きちんと三食食べておかなければという意識が本能的に働くのであろう。そのため飽食の時代にあってはついつい食べすぎてしまい血糖値を心配しなければならないという羽目に陥るのである。<br /><br /> この後、本屋でハワイについてのガイドブックを買った。京都へ置きわすれてきてしまったので二冊目になってしまった。出版社がダブラナイように昭文社のものにした。あとサングラス、緩下剤、風邪薬、日焼け止めクリ−ム、フイルム6本を買った。娘の志奈が卒論の提出期限を控えて神経過敏になっているが、それでも婿と一緒に家内と飼い猫とうち揃って壮行会を夕食時にやってくれた。もう一度手荷物の点検をして下着や上着類を出したり入れたりした。アロハシャツが正装の国と聞いているのでス−ツは不用かとも思うが、公式行事のときに背広がなくて困るのも癪なので紺のス−ツを着ていくことにした。紺であればスク−ルカラ−でもあるから無難であろう。セ−タ−はス−ツに合わせて淡い水色のものである。当日寒ければ、薄手のダスタ−コ−トを羽織って行き、空港で携行品のなかにつっこむしかないだろう。旅なれた人は外套を着ていき空港内の貸しロッカ−へ預けたままにしておいて、帰国したとき期限超過で領置されているのを反則料金を支払って返して貰い平然としているとも聞いたが、私の規範意識はそれを許さない。要領が悪いのは生来のものだから致し方のないところだ。<br /><br /> 次女から贈られた水彩絵具にもなる色鉛筆セットも荷物に加えた。M先輩の画集に触発されて旅先の思い出を絵にかきとめておき、俳句でも書きそえておけばいい記念になるだろうという考えからである。<br /><br /> ビデオカメラを持っていくには家内と論争があった。家内は旅先まで重いものを持ち運ぶ人の気が知れないと言い、景観は自分の目で直接見、脳髄に焼き付けておいてこそ時間の経過とともにその景観は美化されるし、レンズというフイルタ−を通して見るより真実が見えるというのである。それも一理だと思う。が私には記録をビデオに残しておいて、これを編集してみるのも楽しかろうし、絵の題材として蓄えておいて、後日、場面を再現し、当時を追体験しながら絵筆をとる楽しみのためだという主張があるのである。そんなわけで、わが家には夫婦旅行の時にはビデオカメラを携行しないという黙契がある。しかし今回の旅にはビデオ撮影蔑視論者が不在なので、ビデオ撮影という楽しみが倍加されることになるであろう。それにしても荷物を出したり入れたり、まるで幼児の遠足前夜のようなものだ。<br />      <br />平成9年12月24日(水)<br /> Hさんと午後4時31分発の成田エキスプレス35号に乗るため、横浜駅で待ち合わせしているので3時半に自宅を出る。家内に車で鶴見駅まで送って貰うことにしていたが、ひどく道路が渋滞しているので、なかなか鶴見駅へ到着できない。たまりかねて水泳教室の前あたりで降りて鶴見駅まで歩いた。<br /><br /> 横浜駅へは既に団長のHさんが来ていた。Hさんは夏服のカジュアルな背広姿でコ−トなしで襟巻きをしていた。冬支度の自分の服装のことを思い失敗だったかなとの思いが頭の中をかけめぐる。予め入手しておいた成田エキスプレスの切符を手渡し代金4180円を受け取る。成田までの道中、ハワイ遠征実現に至るまでのHさんはじめ関係各位の苦労話を拝聴した。<br /><br /> 思い出してみれば、入学して間もなく端艇部に入部し、学部対抗レ−スが終わるまでは石山の合宿所に寝泊まりし、皆さんと一緒にランニングしたりバック台で汗を流したりして、真面目に練習に精出していたと思う。その後エッセン・マネ−ジャ−という役割を貰いながら、アルバイトや勉強にかこつけて何時しか部活動から遠のいていた。そして卒業、就職とボ−トとは関係のない生活が三十年ばかり続いた。そんな私がY寮の寮生でありまた端艇部の部員でもあったN・K彦君のあまりにも早すぎた逝去の報に接し、通夜の席へ駆けつけたのである。その席で昔懐かしい面々に再会したのが私とボ−トとの復縁であった。短い期間ではあったが、半年ほどはボ−ト部に在籍して練習をした事実があるのだから、私も仲間に入れて欲しいと懇願したところ、気持ち良く認めて頂き、飲み会や濃青会の会合に参加できるようになった。その後、T大戦にOBも出場しようではないかという話が持ち上がった。戸田で始まった第一回目の対T大OBレ−スでは、練習豊富なT大に惨敗。この時は応援に駆けつけて声を限りに声援した。人数が足りないから、お前も漕げと言われていたが漕ぐ自信がなかったので辞退した。なにしろ学生時代には専らフィックスで練習し、エイトには三回ほどしか乗った経験がなかったのだから。<br /><br /> 初めてのT大OB戦に惨敗したことがN氏、H氏の両氏を始めとするOBの負けじ魂に火をつけた。第二回目の瀬田川におけるT大戦を目標にして関東在住のOBが鶴見川に月一回集まって練習を開始したのである。この練習に私も参加して漕がして貰った。なにしろ還暦近い年の素人が歴戦の元名選手達に伍してエイトを漕ごうというのだから考えてみれば無茶な話である。しかし、この無謀な申し出に嫌な顔をせずに受け入れ、親切に指導してくれるのが抱擁力の大きい我が漕友達の良いところである。イロハのイの字から教えなければならない遅れてきたボ−ト部員である小生と一緒に漕いだ諸兄のいらいらと苦労が手にとるように私にはよく判る。ボ−トへ乗るときの足の置き場、バランスをとる時のオ−ルの支え方といった基礎の基礎から教えなければならない漕友諸兄の寛大な友情に感謝するところ大である。御陰で二回目対T大OB戦でも三回目T大OB戦でも漕がして貰えることができた。そして今、ハワイ遠征チ−ムに加わってホノルルのアラワイ運河でボ−トを漕ぐべく日本を飛び立とうとしているのである。まさに楽しきかな我が人生の一語に尽きる。<br /><br /> 飛行機はインタ−コンチネンタル・ミクロネシア航空の908便で19時50分発であるが、集合時刻の17時50分には成田エキスプレスの到着時間の関係で7分遅れることになっている。第二空港ビルで下車してミクロネシア航空のカウンタ−は簡単にみつけることが出来たが、色々なツア−があって紛らわしい。年末年始を日本から脱出して海外で過ごそうという人達で空港はごったがえしている。ホノルル行きオンリ−という窓口で並びやっと順番がきて、持参した案内書を見せるとアミュ−ズツワ−はこの窓口ではなくて4〜5個左の窓口だという。言われてみると成る程、アミュ−ズツァ−という張り紙をした窓口が別にあった。おなじ航空会社のハワイ行きでも何種類も窓口があるのだから紛らわしいことこの上もない。思わぬところで無駄な時間を費やしてしまった。我々二人が最後の搭乗者らしいことがすぐわかった。チェックインが始まっているから至急出国手続きをしてくれと我々を待ちかねていた係員が慌ただしい口調で言う。釣られて多少慌て気味に小走りになる。出国手続きを終えて免税売店で日本酒を二本買った。月桂冠と白鹿である。代金は各1900円である。多少免税分だけは安い筈だ。今は免税の酒もそれほど安いという感覚がなくなった。ひと昔前は台湾へ行くのに、高級な酒は台湾にはないというので羽田空港で免税のコニャックや香水を限度一杯買って機内に持ち込み、ボンドと称して台湾空港預けにしておいて帰国するとき再び持ち帰るなどという馬鹿らしいことをしたのが嘘のように思いだされる。当時に比べ、それだけ国際化が進展したということだろうか。<br /><br /> 搭乗してから無事離陸するまではいつものことながら落ち着かない。離陸して水平飛行に移ってはじめてほっとする。<br /><br /> 機中で寝ようとつとめるが二時間ほどうたたねをしただけである。機内食には御飯付のシ−フ−ドを選択したが貝の白ソ−ス和えであった。量は少なかったがスコッチを貰って飲みながら食べると美味しく感じた。ま、味は良いほうだろう。機中時間は約七時間で二回目の軽食を食べたら間もなくホノルル空港に到着した。現地時間7時5分に着陸した。 入国審査のゲ−トにはH氏が私より先に入ったが何故か手間どっている。審査官は若いハ−フの黒人女性だが緑色の標識を掲示して通訳の応援を求めたようである。目の前でやりとりしているのだが、距離があるので何を話しているのかはよく聞き取れない。だが途切れ途切れに聞こえてくる単語にマヒヤと聞こえる。どうもマヒヤと疑われたらしく時間がかかっていたが通訳が来てやっと解放された。後で聞いてみると入れ墨はあるかとか手の指に欠損はないかということをしきりに聞かれたという。何年会社に勤めたかというので35年勤めたと答えたら、そんなに長くかとびっくりした表情になってパスしたということであった。<br /><br /> 空港をでたところで後発隊のS氏、K氏、O氏等三人の到着を待つ。彼らはユナイテッド航空である。彼らが到着してからほどなく学生陣15名が到着した。オ−ルは関西空港から積み込んだということであったが、これも同時に着いていた。<br /><br /> 学生達は無愛想で無口である。親の躾が出来ていないのか、或いは先輩達が教えないのか我々が迎えに出ているのに、只今到着しましたともお出迎え有り難うございますとの挨拶もない。流石に会釈だけはしたようだが人間社会で初対面の時には訓練されていない学生といえども、それなりに言葉での挨拶が必要なのではなかろうか。我々Y寮では先輩達から寮生同志が顔を合わせたら先輩後輩にかかわらず互いに「オッス」と言葉にして挨拶をしようと教えられたものである。オッスの中には若い男達が同じ屋根の下で同じ釜の飯を食っている「若い元気な男達である」という意味を込めて取り交わす挨拶語であると教えられ、素直にそれを実行したものである。ボ−ト部でも確か「オッス」は挨拶語として通用していたと記憶しているのだが・・・・<br /><br /> 暫く待つうちに予ての手配通り、運送会社のトラックがオ−ルを運搬にきてくれたので一同はタクシ−に分乗してハワイアン・モナ−ク・ホテルへ到着した。午前中であったがチェックインできた。部屋代の前払いとして780$(3人分)を支払った。S氏H氏、小生の三人一室の12月24日から1月5日までの部屋代である。これは一泊当たり20ドル(2,600 円)である。ほかに税金4.17パ−セントが加算されることになる。この日、ホテルの近くのシッツラ−という24時間営業のステ−キハウスで3ドル99セントの定食の海老フライを食べ、バドワイザ−で合宿入りの乾杯をした。OBは学生達に余計な干渉をしないようにしようということで滞在中全て学生達とは別行動である。<br /><br /> 昼食後、ハワイは三回目だというOさんのガイドで皆一緒に、アラモアナのショッピングセンタ−をうろつき、ワイキキビ−チを廻って帰った。日本で予想していたよりもあったかくまさに常夏の国である。<br /><br /> 夕食にはロイヤル・ハアイアン・ショッピングセンタ−の中にある北京という中華料理屋で夕食をした。28ドルの料理。学生諸君接待のための下見の意味もある。時差を計算にいれると一日が43時間もある長い一日であった。夜は暑いけれど疲れのせいもあって、ここちよく寝られた。明け方4時半に目がさめてシャワ−を浴びたところ水が止まらなくなってしまった。同室の相棒は熟睡しているし、勇を皷して受話器をとりブロ−クンの英語で見に来て欲しいと言ったら通じたらしく、しばらくして係員が見にきてくれた。しかしパッキンが磨滅しているらしくやはり止まらなかった。そのままにしておいて翌日修理することになった。<br /><br /><br />                                  <br />平成9年12月25日(木)<br /> 昨日空港からホテルまでに利用したタクシ−の運転手の正典さんがオアフ島の一周観光に連れていってくれることになっている。彼は日本人の母と韓国人の父とを持つハ−フの二世でかたことの日本語が喋れる。ゴルフもうまいらしい。8時半にホテルへワゴン車で迎えに来てくれた。見ると昨日のオンボロの車とは違ってピッカピカのリムジンである。一同リッチな気分になり、満足している様子が窺える。<br /><br /> 乗るのはS、O、H、K、小生の五人の組である。ダイヤモンドヘッド、ココヘッド・サンデ−・ビ−チ,ハナウマ湾ハロナ潮吹き穴マカプ−ビ−チ、ワイマナ・ビ−チ、カネオヘ湾、チャイナマンズハット、クアロアビ−チ、カワウアビ−チ、クラウチングライオン、ハウウラビ−チ、ポリネシア文化センタ−、タ−タル・ベイヒルトン・カントリ−クラブ、ワイアレアビ−チ、サンセットビ−チ、ワイメア・ベイ・ビ−チ、曙の生家、ド−ルパイナップル・パビリオン、<br /><br /><br /> パ−ルハ−バ−、アリゾナ記念館と巡って市内へ入り、カメハメハ王の像、イオラニ宮殿等を見てオアフ島の主要な観光スポットは一通り見たことになる。たまたまクリスマスの日であったため、ポリネシア文化センタ−とアリゾナ記念館には入場することが出来なかった。<br /><br />  タ−タル・アイランド・ヒルトン・ホテルでバイキング形式の昼食を食べた。ビ−ル込みで22ドル。ここのレストランはそれなりに高級感があって値段もリ- ズナブルであるし寛げると皆が言っている。次回来る人達のためにも推奨できる店であろう。夕食はワイキキのレストランで17ドル。<br /><br />  パ- ルハ- バ- では丁度生理的要求が嵩じてくる頃であったが、クリスマスのため店は休業のところが多く、まさか立ち小便をするわけにもいかず手洗いを捜すのに苦労した。暫くの間、まるで手洗い捜しのドライブをしているようなものであった。<br /><br /> 運転手が思い出して公園の手洗いへ連れていってくれたが、鍵がかかっていて入れないなどということを四〜五回繰り返して、やっと開店しているホットドッグの店を見つけた。我先にとトイレへ駆け込んだ。大の大人が多勢レストル- ムを無料使用しただけとあっては大和男児の名折れになると判断した智恵者がポテトフライを一人前購入してチップを多めに支払い、片言英語で感謝の意を表明してことなきを得た。このポテトフライが夜半、部屋での酒盛りのつまみとして威力を発揮するとはその時誰も思っていなかった。<br /><br /> なにしろこちらの連中の一人前の量はとてつもなく多いのである。<br /> 4時半頃ワイキキへ戻ってきて240 ドルを正典氏に支払った。一人当たり48ドルの負担であった。<br />           <br />平成9年12月26日(金)<br /> 正典氏の段取りでKAPOLEI ゴルフクラブでキャディなしのゴルフをした。<br /><br /> 6時半に正典氏がリムジンで迎えにきてくれたが朝食も弁当とコ−ヒ−を買ってきてくれた。朝飯の弁当は4ドルであるが、ハムとスクランブルエッグがおかずについており、ハワイにもこんな美味い米があるのかと感心するものであった。<br /><br />  このゴルフコ- スは、女子全米選手権大会の行われる名門コ−スらしい。O、S、H、小生の4名で行い、スコアは小生58、52、H47、54、O55、45、S60、55であった。三人ともゴルフバッグを日本から持参しての用意周到さであったが、生来ゆきあたりばったりの生活習慣が何時までも直らない小生は手ぶらである。幸いなことに運転手の正典氏が自分の道具と靴まで貸してくれることになり、これが私の体型にうまくフイットしたものであった。残念ながら成績のほうは100 を切ることができなかった。人間とは勝手なものでスコアが纏まらなかったのは借りたクラブのせいであると自らを慰めているのである。終了後ショップに寄ってそれぞれに太陽のマ- クの入った帽子やらゴルフウエアを記念に買った。<br /><br />  昼食はゴルフ終了後、正典氏の案内でウエステリアという韓国系の寿司屋で寿司を食べたが美味しく21ドルであった。地の利を知った現地人に案内して貰うと安くて美味い店に出会えるという教訓である。正典氏と別れて、夕食はプラザという所へ飛び込んで、焼き肉を食べたが一人ビ- ル込みで32ドル。値段の割りには大したことなく観光客相場であしらわれたという感じである。ゴルフは一人155 ドルの分担で内訳はプレ- 費130 ドル、交通費チップで25ドルである。<br /><br />                       <br />平成9年12月27日(土)<br /> 今日は自由行動の日であったが、概ね一緒に行動した。第二陣のI、Y、Wの三人が到着した。I、Y氏は時差ぼけ解消対策として予め段取りしておいたゴルフ場へチエックインしてから直ちに出掛けたという。K、O両氏も合流してO氏が見つけた朝食バイキングを食べに行った。ベリ−ズ・スモ−ギ−という店で4.99ドル朝食、ということで皆に好評であった。昼食だと5.99ドルである。大食漢揃いの学生達に是非紹介したい店である。<br /><br /> 午後からK、W、小生の三人でワイキキビ- チへ水泳に行った。昼は皆でシエラトンホテルに行き15ドルで食事をした。夕食は後発隊の到着を祝って会食。ロイヤルハワイアンショッピングセンタ−内にあるパラディソという海鮮料理屋でサ- モンの料理を食べた。60ドル。これも観光客料金である。ドルの手持ちのない人が皆の分も纏めてカ−ドで支払い、皆からドルを集めるという資金繰り法を智恵者が編み出して、この店から適用することになった。    <br /><br />平成9年12月27日(土)<br /> 今日は自由行動の日であったが、概ね一緒に行動した。第二陣のI、Y、Wの三人が到着した。I、Y氏は時差ぼけ解消対策として予め段取りしておいたゴルフ場へチエックインしてから直ちに出掛けたという。K、O両氏も合流してO氏が見つけた朝食バイキングを食べに行った。ベリ−ズ・スモ−ギ−という店で4.99ドル朝食、ということで皆に好評であった。昼食だと5.99ドルである。大食漢揃いの学生達に是非紹介したい店である。<br /><br /> 午後からK、W、小生の三人でワイキキビ- チへ水泳に行った。昼は皆でシエラトンホテルに行き15ドルで食事をした。夕食は後発隊の到着を祝って会食。ロイヤルハワイアンショッピングセンタ−内にあるパラディソという海鮮料理屋でサ- モンの料理を食べた。60ドル。これも観光客料金である。ドルの手持ちのない人が皆の分も纏めてカ−ドで支払い、皆からドルを集めるという資金繰り法を智恵者が編み出して、この店から適用することになった。    <br /><br /><br /><br />平成9年12月28日(日)<br /> ハワイ到着と同時に申し込んでおいたハワイ島ツア−に参加。一人150$。5時50分にホテルへバスが迎えに来た。昼食付。<br /><br /> ホノルル空港からヒロ空港まで約一時間位の飛行。機内の窓からハワイ島の影が見え出して注目するととてもなだらかな山並みが三つほど見える。その内の一つが今日見学する予定のキャラウエア火山なのだろう。富士山よりも斜面はなだらかな感じである。<br /><br /> 空港よりバスにてレインボ−滝へ。道中日本人一世の上田さんという年配の女性ガイドがヒロの町は津波で壊滅したことがあると名調子で説明してくれるガイドの説明の中に時折り、日本人の当地における破廉恥な行動批判が巧みに織りこまれていて耳が痛い。<br /><br /> 津波の恐れがあるためか、不景気のためかヒロの町には空屋になったビルが目立つ。ハイスク−ルの校舎等を窓外にみながら再びヒロ市内へ戻り、ココナッツ工場とTシャツの工場を見学した後、海岸で時間を潰す。<br /><br /> モ−タ−バイクの展示のある店で昼食。ハワイアンの音楽を聞きながらの昼食。ハワイアン音楽に若い頃かぶれたこともあるというSさんは御満悦の様子。食後、構内の庭園に植えられている僅かばかりの蘭の花を鑑賞したが自分でも沢山の蘭の鉢を持っているという博学のHさんの解説つきであるから分かり易くためになる。<br /><br /> ピナウの黒砂海岸を経てキラウエア火山の噴火口を二箇所の観察地点から見学した。火山の噴火口跡なのに水が全然溜まっていない。月世界はこのようなものであるという。暫し月世界へ行った気持ちになって空想の輪を広げてみる地質学的には非常に若い火山口であると博学のH氏が解説してくれるので成る程と思う。地面から噴出しているガスに運転手が煙草の火を近づけるとたちまち白い煙がたち昇る。噴火こそしていないが生きている火山なのであろう。<br /><br /> このあとオニツカ蘭センタ−へ立ち寄り空港を経て帰宅した。ハワイ島はオアフ島に比べるとまだ開発の進んでいない素朴さが残る島ということが出来る。夜は京屋でうどんすきを食べる。60ドル。<br />          <br />平成9年12月29日(月)<br /> ニユ−エバ−ビ−チゴルフクラブで、I、H、Y、W、K、小生、T氏でゴルフをした。3人と4人の二組。私はH、I氏と同じ組。Sさんのクラブを借用して靴は履いていったスニ−カ−でプレーした。フイ−が80ドル。タクシ−が60ドル。8番アイアンが紛失したとの錯覚があり慌てた。H氏は人のプレ−中声を出したとかパタ−のライン上に立ったとかなかなか口うるさい。マナ−としては正しいことを言っているのだが、自分の技量不足の結果をそのことにかこつけて、他人のせいにする悪い癖がある。結果は52-54 のスコア。またしても 100の壁が崩せない。<br /><br /> 午後からK氏と二人で海へ泳ぎに行った。N氏、R氏夫妻も到着したため夜は会食。柳という寿司屋でH氏が現地に詳しいM氏に依頼して段取りしたものであるが、高級な料理屋である。久し振りに和食を堪能し、リッチな気分になって満足した。酒を多く飲んだということもあり、勘定の段になって計算すると一人120 ドルの負担となっていた。内心ハメを外し過ぎたかなと思っていたら、ささいなことから仲間内で若干の口論が始まって、険悪な空気が一時流れた。しかし、そこはおおらかな性格の人が多く多少飲み過ぎたかなということで大事には到らなかった。スポ−ツで繋がっている仲間は時に、気が付かないで相手の感情を逆撫でするようなことを平然と言って、感情のもつれることもあるが、爆発してしまえば後を残さないところがいい。明日になれば皆ケロッとしていることだろう。<br />  <br /><br /><br />平成9年12月30日(火)<br /> 朝8時半から初めて艇に乗って練習。ワシントン州立大学より借りたグラスファイバ−製のエイトである。我々が鶴見で練習に使っているベニア合板の艇に比べてスマ−トで軽るく如何にもスピ−ドが出そうである。ラダ−も小さくて本当に効くのかなとコックスのSさんが心配そうな顔をしている。<br /><br /> オ−ルは瀬田川の艇庫から空輸されてきたダ−クブル−の懐かしいものである。八本の中に二本だけ、故N・K君の銘の刻まれたオ−ルが混じっている。N・K君の奥さんが個人の冥福を祈ってボ−ト部に寄贈されたものである。この二本のオ−ルは故人と最も関係の深かったI氏とH氏の友情の手に握られて今アラワイ運河で水を掻こうとしているのだ。N・K君よ安らかに眠りたまえ。<br /><br /> 約一時間半の練習。コ−スを千メ−トル漕いでみた。初体験であるが遅れをとらずになんとか合わせていくことが出来た。これなら試合にも出られるだろうと闘志が体中に漲る。N・K君のためにも頑張るぞとの決意を新たにオ−ルを引いた。<br /><br />  練習後、朝昼兼用の食事をペリ−ズ・スモ−ギ−でする。5.99ドルに税4.17%で6.24ドルであった。食後K氏と水泳に行くが道を間違えてヒルトンホテルのほうまで行ってしまった。あとで判ったことであるが、このホテルの庭でオ−プニングセレモニ−が行われることになっていたのだ。図らずして会場の下見をしたということになった。<br /><br /> 夕食は予て下見をし予約しておいた北京で学生諸君と顔合わせ会という形で行われた。 OBは120 ドルの負担となった。<br /><br />  席上自己紹介を兼ねて全員スピ- チをしたが、N・K君のオ- ルを手にして初漕ぎをした団長のHさんのスピ- チは人の心を打つものであった。前日の夢にN・K君が白髪をたなびかせて笑顔で手招きしながら現れたというのである。心なしかHさんの声は潤んで聞こえた。友よ今こそ友情の証によく食べ、よく飲みかつよく漕ごうではないか。<br /><br />  それにしても学生諸君の食べっぷりは頼もしい。自分達にもあのような食欲旺盛な時期があったのだなと千切りのキャベツにソ−スを掛けて、鯨肉と一緒に麦飯をかきこんだ石山の合宿所のことを思い出していた。<br />             <br />平成9年12月31日(水)<br /> 朝から練習。約二時間。日本では本日は元旦。3時半よりヒルトンホテルの芝の上でオ−プニングセレモニ−。英語のヒヤリングができないので会話に参加することができないのが情けない。それにしてもOさんSさんの会話能力は素晴らしい。ヒヤリングが出来ているのであろう。二人とも流暢な英語を喋っているのでもなく、話が上手いというのでもなく、知っている単語を並べているだけという感じであるが、ちゃんと自分の意志を相手に判からせて目的を達してしまうのである。物怖じせずに相手に立ち向かって自分の意志を伝えようとする迫力が会話をなりたたせているのであると思う。見習わなければならない所だ。しかし、小生の場合ヒヤリングが出来ないので相手が何を言っているのかが分からずのっけから会話が成立しないのである。英語圏の海外で仕事をした経験のある人とのキャリアの違いを如実に感じさせられた一場面である。夕食はペリ−ズ・スモ−ギィでバイキング。95ドル。<br /><br /> 横浜へ新年おめでとうの電話をかけた。ここハワイに居ると正月気分も沸かない。日本人がやたらに目につくようになった。明日から試合なので9時半には床についたが、アラワイ運河のほとりでしきりに爆竹を鳴らす音が聞こえているのを夢うつつの中で聞いていた。一際大きな爆竹の音で目が覚めた。暫くうとうとしていたが時計を見ると12時半であった。多分日本でいう除夜の鐘に相当する中国式の年越しの合図なのであろう。運河の近くには中国人達が多く住んでいるという。<br /><br /> 年賀状に書いて出しておいた俳句を思い出した。<br /><br /> ボ−ト漕ぎ 異国で味わう 雑煮かな <br /> 果たしてこの正月ハワイで雑煮が食べられるのだろうか。<br />                                  <br />平成10年1月1日(木)<br /> 元日であるが、外国にいると正月という気分がしない。<br /><br />  今日からレ−スである。七時十五分に乗艇した。オ−ルド・ボ−イズはロンドンから来たウエストミニスタ−Bクル−という高校生クル−が相手である。千メ−トルで22秒、五百メ−トルで11秒のハンディキャップを貰って八時半スタ−ト。我々のクル- が先にスタ- トして、ハンディ- 時間経過後相手クル−がスタ−トするという競技方法である。後からスタ−トした相手クル−の声と水音が後ろから迫ってきて全員闘志に燃えるが、気ばかり先行して思うように体が動いてくれないのでピッチもなかなか上がらない。七百当たりで追いつかれあえなく敗退。残念ながら二戦とも負けた。<br /><br /><br />  この時の当方の編成はコックスS、整調H、七番N、六番T、五番I、四番H、三番小生、二番K、バウkであった。私の経験ではレ−スで千メ−トルもの長い距離を漕いだのは初めてであったが、腹切りもせず空振りもなしで最後までついていくことが出来た。これは私の自慢である。素人が僅かばかりの練習をしただけで、ハワイまで来ていきなり千メ−トルと五百メ−トルのレ−スを連続して漕ぐという冒険に挑戦したのである。T大戦でも三百メ−トルのレ−スである。まともに三百メ−トル以上漕いだことのない素人の私が、全距離を漕ぎきったということは一重に漕友諸兄の友情の賜物であると感謝したいし流行の言葉で言えば私自身を褒めてあげたいと思うのである。<br /><br /> 学生クル−は9時からワシントン州立大学と対戦し、千メ−トルで勝ち、五百メ−トルでは負けた。最初の千メ−トルレ−スで接戦の末、僅かに早くゴ−ルに飛び込んだとき、学生クル−の諸君が両手を上げて歓声を上げた嬉しそうな姿は一生忘れられないであろう。この一瞬の感激のためにこそ人はボ−トを漕ぐのであり、練習をするのであろう。またOBとしてもハワイまで応援にきた甲斐があったというものであり、サポ−タ−冥利に尽きるところである。<br /><br /> 12時からは再びオ−ルドボ−イズがプリンストン大学OBのファット・キャットと対戦し善戦虚しく千も五百もともに負けた。この試合では私とH氏はS氏s氏と交代し応援に廻ることにした。彼等は昨日到着し、睡眠不足気味ではあったが、よく健闘したといえよう。<br /><br /> この日は学生チ−ムが初勝利をあげたので夕食をOBが御馳走することになりペリ−ズ・スモッギ−のバイキングに連れていったが彼等は皆、惚れ惚れする程よく食べた。<br />            <br />平成10年1月2日(金)<br /> 10時から昨日のメンバ−でオ−ルド・ボ−イズはホノルル・ロ−イング・クラブと対戦し善戦したが、千も五百も及ばなかった。学生クル−は11時からハ−バ−ド・クル−と対戦し千も五百も残念ながら敗退した。彼我の体力差と技術力の差を如実に見せつけられた一戦であった。学生諸君がこの経験を明日に活かして、精進することを望むや切なるものがあると言いたいところだ。<br /><br /> 昼食は、いつも行くロイヤル・ハワイアン・ショッピング・センタ- 地区でない所へ行ってみようということになり、アラモアナ方面へ向けて出掛けた。コンベンションセンタ- を通り過ぎてちょっと行った辺りに飲食店がたちならんでいる。しかしよく見るとどうも韓国人街らしく、風俗営業のいかがわしい看板が出ている店の隣がレストランになったりしている。暫く物色したが、なかなか適当な店が見つからない。もうすこし先へ足を伸ばしてみようかといっている時、比較的こざっぱりした和食の店を見つけた。入ってみると日本語の達者なウエイトレスが出てきて、特別料理として雑煮と魚料理のセットものがあるという。韓国人の経営らしいが特別料理として雑煮のメニュ- を揃えるなどこの国の人は商売がうまいと思った。値段も18ドルほどなので全員それにし改めて新年の賀詞を交換しあったものである。<br /><br />  午後4時半からコ−チ会議がアウトリガ−・カヌ−・クラブズで催され、オ−ルドボ−イズは全員が招待された。当地で求めたアロハシャツを着用している仲間が四人ほどいたが、顎髭を長く伸ばした禿頭の審判長がたまたま我々仲間の着用しているアロハの柄と同じものを着用して現れた。お互いに指摘しあいながら「ウィ- ア- ブラザ- ズ」と冗談をとばしあうなど和やかな雰囲気の中でパ- ティ- は進行した。しかしながら、会話力の弱いオ- ルドボ- イズの面々は所在なくノンアルコ- ルのフル- ツポンチを飲みながら壁の花ならぬ壁際の彫刻になっている人が多かった。<br /><br />  それにしても、夕日がワイキキの海岸の遙か彼方の地平線に沈んで行く光景は百万ドルの値打ちがあると言ってもよかろう。皆がしばしこのサンセットに見惚れていた。<br /><br />  パ- ティ- が終わってから、夕食にはビフテキを食べようと衆議一決してワイキキの町のレストランを物色していたところ、ビフテキを格安の値段 (確か3ドルだったと思う)で提供するというビラを見つけた。客引きにビラの通りの値段で食べさせるのだなと確認するとそうだということなので12〜13人のグル−プが店の中央のテ−ブルに陣取った。先ずはビ−ルを注文し、これから料理の注文ということになった時にインチキ商法であることを見破った。ビラに掲載されているビフテキはメニュ−にある他の料理とセットになっていて、その料理を注文したら別に3ドルの値段でビフテキを提供するというものであった。他の料理というのが40〜50ドルとべらぼうに高いのである。<br /><br /> 説明を聞いて一同、怒り心頭に達してビ−ルだけ飲んで何も食べずに席を蹴って出てきた その店にはインチキ商法に引っ掛かっているとも気がつかないで法外に高い食事をしている日本人観光客もいたが、中央に陣取った我々大勢のグル−プが何も食べずに出ていくのを怪訝な顔で見ていた。悪徳商法にひっかからずに済んだという笑い話の一つとしてかたずければいいのかもしれない。<br /><br /> しかしながら翻って考えてみると日本は今こそ不況の中で呻吟しているが、日本国民一般が高度成長からバブルに至るまでの期間は世界に対してその経済力を鼻にかけ、不遜で思い上っていたのではなかろうか。チップを法外にはずみ、高価なブランド品を買い漁り、観光地の物価を釣り上げ、夜の巷で札びらを切って御乱行に及び諸国の顰蹙を買い、対日本人向け特別価格を形成せしめたという謗りを免れることはできないだろう。今回のような日本人相手の悪徳商法を生み出させしめたのもまた日本人であると言えるのではないか。その意味もあって日本人の中にも骨のある人達が居るということを悪徳商人共に思い知らしめねばならないという意識が我々の気持ちの中にあって、とらせた今回の行動であると言えるのではなかろうか。S氏が旅行中しきりに言っておられた安易にチップをはずみ過ぎると却って馬鹿にされるという言葉は正論だと思う。<br /><br />  結局ホテル近くのシッツラ−でビフテキを食べることになった。ここでは12ドルなのである。如何にしてリ−ズナブルな値段の料理屋を捜しだすかがこうした外国での合宿の成否を決める大きな要素になると思うのである。<br />        <br />平成10年1月3日(土)<br /> 今日からI、H、K、Oの各氏は帰国したので、オ−ルド・ボ−イズはメンバ−が足りなくなる。小生の出番がやってきた。よしもう一度漕ぐぞと力が体の中に漲るのを感じた。それにしてもまだ二人足りない。補漕の学生諸君二人に応援を頼まねばならないのである。<br /><br /> その時頭に浮かんだのは補漕できている四人の学生諸君のことである。彼らも外国で漕ぎたいであろう。たとえオ−ルドボ−イズの中に入ってでも漕ぐことが出来れば、彼等のボ−ト人生のなかでいい体験になるであろう。一回も漕ぐことなく帰国する学生があってはならない。彼らに外国を体験させ力をつけさせるのが目的で今回の遠征が計画されたのではないか。ここに思いが到ったとき補漕の選手達に一回でも多く漕がしてやりたい、そのためには素人の私が下りればいいという気持ちが自然に心の中に沸いてきたのである。私のこれからの勤めは岸辺から声の限り旗を掲げて声援することだ。その旨を意志表示した。幸いこの私の気持ちは快く理解されて補漕の選手は全員一回以上は漕ぐことができるようになった。<br /><br /> レ- スはオ- ルド・ボ- イズがウエストミンスタ-Aクル- と対戦。補漕の学生諸君三人を加えてのレ- スとなり、若い諸君が力漕したが千、五百共に惜敗した。<br /><br /> 学生クル- はオ- プン戦で相手はいずれも女子クル- のORUとUSCの2クル−であった。いずれもハンディ−を提供しての対戦であった。接戦の末、追いついて勝ったレ−スもあったと思うが、勝敗の結果を確認していない。<br />     <br />平成10年1月4日(日)<br /> 最終日である。オ−ルドボ−イズはハワイ・ロ−イング・クラブと二回目の対戦であったが、若い学生選手が四人入ったので、ハンデキャップなしをN主将が、元気に要請して相手に立ち向かった。接戦を演じたが僅かな差で1000、500 とも勝ちを譲った。我がオ- ルド・ボ- イズ・クル- の四人のOBは学生諸君の力強い漕ぎについていくのが精一杯の戦いであった。漕いだ選手の事後の感想は皆一様に今日程歳を感じたことはない、気ばかりあせるが体がついていかない、若い諸君に乗せて貰っているだけだったというものであった。<br /><br /> 全レ- スが終わってからヒルトン・ホテルでアオ- ド・バンケが催され、デイナ- を食べながらお互いに健闘を讃えあい国際親善の場を楽しんだ。最後に求めて、オ- ルド・ボ- イズ、学生諸君一同が会場中央に集まりスクラムを組んで琵琶湖周航の歌を歌った。予め配っておいたカレンダ- には英語の歌詞もついていたので、外国の選手の中には我々に合わせてくちずさんでいる人も何人かいた。H氏とK氏が用意してきた日本の独楽とか扇等の小物のお土産も好評を博した。<br /><br /> 今回の遠征ではH団長がボ−トとはお互いにクル−メイトのことに気を配りあっていかなければ成り立たない競技であるということを、ことあるごとに力説しておられたが、まさしくその通りであると思った。思えば平均年令60才のオ−ルド・ボ−イズ・クル−が事故もなく異国の地で無事漕ぎ終えて、それぞれに達成感を味わい爽やかな思い出を残して帰国できたことは一種の奇跡であると言えるかもしれない。いやそれよりも、H団長、N主将、漕ぎ手の人、本土で今回の企画を推進して下さったOB会の関係者各位の相手を気遣うという気持ちが一つの目的に向かって結集したからであろうと思う。本当に有り難うと心から感謝申しあげたい。<br /><br /> 鶴見川でまた漕友達とオ−ルを握り、T大戦、琵琶湖就航を目指して良い汗をかきたいものである。今晩はきっと練習後、生麦のビ−ル工場でジョッキを傾けながらクル−メイトと談笑している情景を夢にみることだろう。<br /><br /><br /><br />

還暦クルーズのハワイ出漕記

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1997/12/23 - 1998/01/04

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早島 潮

早島 潮さん

平成9年12月23日(火)  
 天皇誕生日で祝日。会社を卒業してからは毎日が日曜日なので、祝日の有り難さがピンとこない。

 いよいよ明日からハワイ遠征である。携行品に若干不足するものがあるので家内と綱島へ買い物に出掛けた。毎日一万歩以上歩くことを日課として実行してきたが昨日京都から帰ってきたばかりで、まだ今日の日課をこなしていないので昼時にもかかわらず、腹があまり空いていない。しかし規則正しい生活を心掛けているので、昼飯を抜くことも主義に反する。なかば義務感に命ぜられて、大王ラ−メンに寄り味噌ラ−メンを食べる。われわれの世代には育ち盛りに食料不足で難儀をした情けない体験が脳裏に奥深くインプットされているので食べることには貪欲で意地汚いところがある。きちんと三食食べておかなければという意識が本能的に働くのであろう。そのため飽食の時代にあってはついつい食べすぎてしまい血糖値を心配しなければならないという羽目に陥るのである。

 この後、本屋でハワイについてのガイドブックを買った。京都へ置きわすれてきてしまったので二冊目になってしまった。出版社がダブラナイように昭文社のものにした。あとサングラス、緩下剤、風邪薬、日焼け止めクリ−ム、フイルム6本を買った。娘の志奈が卒論の提出期限を控えて神経過敏になっているが、それでも婿と一緒に家内と飼い猫とうち揃って壮行会を夕食時にやってくれた。もう一度手荷物の点検をして下着や上着類を出したり入れたりした。アロハシャツが正装の国と聞いているのでス−ツは不用かとも思うが、公式行事のときに背広がなくて困るのも癪なので紺のス−ツを着ていくことにした。紺であればスク−ルカラ−でもあるから無難であろう。セ−タ−はス−ツに合わせて淡い水色のものである。当日寒ければ、薄手のダスタ−コ−トを羽織って行き、空港で携行品のなかにつっこむしかないだろう。旅なれた人は外套を着ていき空港内の貸しロッカ−へ預けたままにしておいて、帰国したとき期限超過で領置されているのを反則料金を支払って返して貰い平然としているとも聞いたが、私の規範意識はそれを許さない。要領が悪いのは生来のものだから致し方のないところだ。

 次女から贈られた水彩絵具にもなる色鉛筆セットも荷物に加えた。M先輩の画集に触発されて旅先の思い出を絵にかきとめておき、俳句でも書きそえておけばいい記念になるだろうという考えからである。

 ビデオカメラを持っていくには家内と論争があった。家内は旅先まで重いものを持ち運ぶ人の気が知れないと言い、景観は自分の目で直接見、脳髄に焼き付けておいてこそ時間の経過とともにその景観は美化されるし、レンズというフイルタ−を通して見るより真実が見えるというのである。それも一理だと思う。が私には記録をビデオに残しておいて、これを編集してみるのも楽しかろうし、絵の題材として蓄えておいて、後日、場面を再現し、当時を追体験しながら絵筆をとる楽しみのためだという主張があるのである。そんなわけで、わが家には夫婦旅行の時にはビデオカメラを携行しないという黙契がある。しかし今回の旅にはビデオ撮影蔑視論者が不在なので、ビデオ撮影という楽しみが倍加されることになるであろう。それにしても荷物を出したり入れたり、まるで幼児の遠足前夜のようなものだ。
      
平成9年12月24日(水)
 Hさんと午後4時31分発の成田エキスプレス35号に乗るため、横浜駅で待ち合わせしているので3時半に自宅を出る。家内に車で鶴見駅まで送って貰うことにしていたが、ひどく道路が渋滞しているので、なかなか鶴見駅へ到着できない。たまりかねて水泳教室の前あたりで降りて鶴見駅まで歩いた。

 横浜駅へは既に団長のHさんが来ていた。Hさんは夏服のカジュアルな背広姿でコ−トなしで襟巻きをしていた。冬支度の自分の服装のことを思い失敗だったかなとの思いが頭の中をかけめぐる。予め入手しておいた成田エキスプレスの切符を手渡し代金4180円を受け取る。成田までの道中、ハワイ遠征実現に至るまでのHさんはじめ関係各位の苦労話を拝聴した。

 思い出してみれば、入学して間もなく端艇部に入部し、学部対抗レ−スが終わるまでは石山の合宿所に寝泊まりし、皆さんと一緒にランニングしたりバック台で汗を流したりして、真面目に練習に精出していたと思う。その後エッセン・マネ−ジャ−という役割を貰いながら、アルバイトや勉強にかこつけて何時しか部活動から遠のいていた。そして卒業、就職とボ−トとは関係のない生活が三十年ばかり続いた。そんな私がY寮の寮生でありまた端艇部の部員でもあったN・K彦君のあまりにも早すぎた逝去の報に接し、通夜の席へ駆けつけたのである。その席で昔懐かしい面々に再会したのが私とボ−トとの復縁であった。短い期間ではあったが、半年ほどはボ−ト部に在籍して練習をした事実があるのだから、私も仲間に入れて欲しいと懇願したところ、気持ち良く認めて頂き、飲み会や濃青会の会合に参加できるようになった。その後、T大戦にOBも出場しようではないかという話が持ち上がった。戸田で始まった第一回目の対T大OBレ−スでは、練習豊富なT大に惨敗。この時は応援に駆けつけて声を限りに声援した。人数が足りないから、お前も漕げと言われていたが漕ぐ自信がなかったので辞退した。なにしろ学生時代には専らフィックスで練習し、エイトには三回ほどしか乗った経験がなかったのだから。

 初めてのT大OB戦に惨敗したことがN氏、H氏の両氏を始めとするOBの負けじ魂に火をつけた。第二回目の瀬田川におけるT大戦を目標にして関東在住のOBが鶴見川に月一回集まって練習を開始したのである。この練習に私も参加して漕がして貰った。なにしろ還暦近い年の素人が歴戦の元名選手達に伍してエイトを漕ごうというのだから考えてみれば無茶な話である。しかし、この無謀な申し出に嫌な顔をせずに受け入れ、親切に指導してくれるのが抱擁力の大きい我が漕友達の良いところである。イロハのイの字から教えなければならない遅れてきたボ−ト部員である小生と一緒に漕いだ諸兄のいらいらと苦労が手にとるように私にはよく判る。ボ−トへ乗るときの足の置き場、バランスをとる時のオ−ルの支え方といった基礎の基礎から教えなければならない漕友諸兄の寛大な友情に感謝するところ大である。御陰で二回目対T大OB戦でも三回目T大OB戦でも漕がして貰えることができた。そして今、ハワイ遠征チ−ムに加わってホノルルのアラワイ運河でボ−トを漕ぐべく日本を飛び立とうとしているのである。まさに楽しきかな我が人生の一語に尽きる。

 飛行機はインタ−コンチネンタル・ミクロネシア航空の908便で19時50分発であるが、集合時刻の17時50分には成田エキスプレスの到着時間の関係で7分遅れることになっている。第二空港ビルで下車してミクロネシア航空のカウンタ−は簡単にみつけることが出来たが、色々なツア−があって紛らわしい。年末年始を日本から脱出して海外で過ごそうという人達で空港はごったがえしている。ホノルル行きオンリ−という窓口で並びやっと順番がきて、持参した案内書を見せるとアミュ−ズツワ−はこの窓口ではなくて4〜5個左の窓口だという。言われてみると成る程、アミュ−ズツァ−という張り紙をした窓口が別にあった。おなじ航空会社のハワイ行きでも何種類も窓口があるのだから紛らわしいことこの上もない。思わぬところで無駄な時間を費やしてしまった。我々二人が最後の搭乗者らしいことがすぐわかった。チェックインが始まっているから至急出国手続きをしてくれと我々を待ちかねていた係員が慌ただしい口調で言う。釣られて多少慌て気味に小走りになる。出国手続きを終えて免税売店で日本酒を二本買った。月桂冠と白鹿である。代金は各1900円である。多少免税分だけは安い筈だ。今は免税の酒もそれほど安いという感覚がなくなった。ひと昔前は台湾へ行くのに、高級な酒は台湾にはないというので羽田空港で免税のコニャックや香水を限度一杯買って機内に持ち込み、ボンドと称して台湾空港預けにしておいて帰国するとき再び持ち帰るなどという馬鹿らしいことをしたのが嘘のように思いだされる。当時に比べ、それだけ国際化が進展したということだろうか。

 搭乗してから無事離陸するまではいつものことながら落ち着かない。離陸して水平飛行に移ってはじめてほっとする。

 機中で寝ようとつとめるが二時間ほどうたたねをしただけである。機内食には御飯付のシ−フ−ドを選択したが貝の白ソ−ス和えであった。量は少なかったがスコッチを貰って飲みながら食べると美味しく感じた。ま、味は良いほうだろう。機中時間は約七時間で二回目の軽食を食べたら間もなくホノルル空港に到着した。現地時間7時5分に着陸した。 入国審査のゲ−トにはH氏が私より先に入ったが何故か手間どっている。審査官は若いハ−フの黒人女性だが緑色の標識を掲示して通訳の応援を求めたようである。目の前でやりとりしているのだが、距離があるので何を話しているのかはよく聞き取れない。だが途切れ途切れに聞こえてくる単語にマヒヤと聞こえる。どうもマヒヤと疑われたらしく時間がかかっていたが通訳が来てやっと解放された。後で聞いてみると入れ墨はあるかとか手の指に欠損はないかということをしきりに聞かれたという。何年会社に勤めたかというので35年勤めたと答えたら、そんなに長くかとびっくりした表情になってパスしたということであった。

 空港をでたところで後発隊のS氏、K氏、O氏等三人の到着を待つ。彼らはユナイテッド航空である。彼らが到着してからほどなく学生陣15名が到着した。オ−ルは関西空港から積み込んだということであったが、これも同時に着いていた。

 学生達は無愛想で無口である。親の躾が出来ていないのか、或いは先輩達が教えないのか我々が迎えに出ているのに、只今到着しましたともお出迎え有り難うございますとの挨拶もない。流石に会釈だけはしたようだが人間社会で初対面の時には訓練されていない学生といえども、それなりに言葉での挨拶が必要なのではなかろうか。我々Y寮では先輩達から寮生同志が顔を合わせたら先輩後輩にかかわらず互いに「オッス」と言葉にして挨拶をしようと教えられたものである。オッスの中には若い男達が同じ屋根の下で同じ釜の飯を食っている「若い元気な男達である」という意味を込めて取り交わす挨拶語であると教えられ、素直にそれを実行したものである。ボ−ト部でも確か「オッス」は挨拶語として通用していたと記憶しているのだが・・・・

 暫く待つうちに予ての手配通り、運送会社のトラックがオ−ルを運搬にきてくれたので一同はタクシ−に分乗してハワイアン・モナ−ク・ホテルへ到着した。午前中であったがチェックインできた。部屋代の前払いとして780$(3人分)を支払った。S氏H氏、小生の三人一室の12月24日から1月5日までの部屋代である。これは一泊当たり20ドル(2,600 円)である。ほかに税金4.17パ−セントが加算されることになる。この日、ホテルの近くのシッツラ−という24時間営業のステ−キハウスで3ドル99セントの定食の海老フライを食べ、バドワイザ−で合宿入りの乾杯をした。OBは学生達に余計な干渉をしないようにしようということで滞在中全て学生達とは別行動である。

 昼食後、ハワイは三回目だというOさんのガイドで皆一緒に、アラモアナのショッピングセンタ−をうろつき、ワイキキビ−チを廻って帰った。日本で予想していたよりもあったかくまさに常夏の国である。

 夕食にはロイヤル・ハアイアン・ショッピングセンタ−の中にある北京という中華料理屋で夕食をした。28ドルの料理。学生諸君接待のための下見の意味もある。時差を計算にいれると一日が43時間もある長い一日であった。夜は暑いけれど疲れのせいもあって、ここちよく寝られた。明け方4時半に目がさめてシャワ−を浴びたところ水が止まらなくなってしまった。同室の相棒は熟睡しているし、勇を皷して受話器をとりブロ−クンの英語で見に来て欲しいと言ったら通じたらしく、しばらくして係員が見にきてくれた。しかしパッキンが磨滅しているらしくやはり止まらなかった。そのままにしておいて翌日修理することになった。


                                  
平成9年12月25日(木)
 昨日空港からホテルまでに利用したタクシ−の運転手の正典さんがオアフ島の一周観光に連れていってくれることになっている。彼は日本人の母と韓国人の父とを持つハ−フの二世でかたことの日本語が喋れる。ゴルフもうまいらしい。8時半にホテルへワゴン車で迎えに来てくれた。見ると昨日のオンボロの車とは違ってピッカピカのリムジンである。一同リッチな気分になり、満足している様子が窺える。

 乗るのはS、O、H、K、小生の五人の組である。ダイヤモンドヘッド、ココヘッド・サンデ−・ビ−チ,ハナウマ湾ハロナ潮吹き穴マカプ−ビ−チ、ワイマナ・ビ−チ、カネオヘ湾、チャイナマンズハット、クアロアビ−チ、カワウアビ−チ、クラウチングライオン、ハウウラビ−チ、ポリネシア文化センタ−、タ−タル・ベイヒルトン・カントリ−クラブ、ワイアレアビ−チ、サンセットビ−チ、ワイメア・ベイ・ビ−チ、曙の生家、ド−ルパイナップル・パビリオン、


パ−ルハ−バ−、アリゾナ記念館と巡って市内へ入り、カメハメハ王の像、イオラニ宮殿等を見てオアフ島の主要な観光スポットは一通り見たことになる。たまたまクリスマスの日であったため、ポリネシア文化センタ−とアリゾナ記念館には入場することが出来なかった。

タ−タル・アイランド・ヒルトン・ホテルでバイキング形式の昼食を食べた。ビ−ル込みで22ドル。ここのレストランはそれなりに高級感があって値段もリ- ズナブルであるし寛げると皆が言っている。次回来る人達のためにも推奨できる店であろう。夕食はワイキキのレストランで17ドル。

パ- ルハ- バ- では丁度生理的要求が嵩じてくる頃であったが、クリスマスのため店は休業のところが多く、まさか立ち小便をするわけにもいかず手洗いを捜すのに苦労した。暫くの間、まるで手洗い捜しのドライブをしているようなものであった。

 運転手が思い出して公園の手洗いへ連れていってくれたが、鍵がかかっていて入れないなどということを四〜五回繰り返して、やっと開店しているホットドッグの店を見つけた。我先にとトイレへ駆け込んだ。大の大人が多勢レストル- ムを無料使用しただけとあっては大和男児の名折れになると判断した智恵者がポテトフライを一人前購入してチップを多めに支払い、片言英語で感謝の意を表明してことなきを得た。このポテトフライが夜半、部屋での酒盛りのつまみとして威力を発揮するとはその時誰も思っていなかった。

 なにしろこちらの連中の一人前の量はとてつもなく多いのである。
 4時半頃ワイキキへ戻ってきて240 ドルを正典氏に支払った。一人当たり48ドルの負担であった。
         
平成9年12月26日(金)
 正典氏の段取りでKAPOLEI ゴルフクラブでキャディなしのゴルフをした。

 6時半に正典氏がリムジンで迎えにきてくれたが朝食も弁当とコ−ヒ−を買ってきてくれた。朝飯の弁当は4ドルであるが、ハムとスクランブルエッグがおかずについており、ハワイにもこんな美味い米があるのかと感心するものであった。

このゴルフコ- スは、女子全米選手権大会の行われる名門コ−スらしい。O、S、H、小生の4名で行い、スコアは小生58、52、H47、54、O55、45、S60、55であった。三人ともゴルフバッグを日本から持参しての用意周到さであったが、生来ゆきあたりばったりの生活習慣が何時までも直らない小生は手ぶらである。幸いなことに運転手の正典氏が自分の道具と靴まで貸してくれることになり、これが私の体型にうまくフイットしたものであった。残念ながら成績のほうは100 を切ることができなかった。人間とは勝手なものでスコアが纏まらなかったのは借りたクラブのせいであると自らを慰めているのである。終了後ショップに寄ってそれぞれに太陽のマ- クの入った帽子やらゴルフウエアを記念に買った。

昼食はゴルフ終了後、正典氏の案内でウエステリアという韓国系の寿司屋で寿司を食べたが美味しく21ドルであった。地の利を知った現地人に案内して貰うと安くて美味い店に出会えるという教訓である。正典氏と別れて、夕食はプラザという所へ飛び込んで、焼き肉を食べたが一人ビ- ル込みで32ドル。値段の割りには大したことなく観光客相場であしらわれたという感じである。ゴルフは一人155 ドルの分担で内訳はプレ- 費130 ドル、交通費チップで25ドルである。

                       
平成9年12月27日(土)
 今日は自由行動の日であったが、概ね一緒に行動した。第二陣のI、Y、Wの三人が到着した。I、Y氏は時差ぼけ解消対策として予め段取りしておいたゴルフ場へチエックインしてから直ちに出掛けたという。K、O両氏も合流してO氏が見つけた朝食バイキングを食べに行った。ベリ−ズ・スモ−ギ−という店で4.99ドル朝食、ということで皆に好評であった。昼食だと5.99ドルである。大食漢揃いの学生達に是非紹介したい店である。

 午後からK、W、小生の三人でワイキキビ- チへ水泳に行った。昼は皆でシエラトンホテルに行き15ドルで食事をした。夕食は後発隊の到着を祝って会食。ロイヤルハワイアンショッピングセンタ−内にあるパラディソという海鮮料理屋でサ- モンの料理を食べた。60ドル。これも観光客料金である。ドルの手持ちのない人が皆の分も纏めてカ−ドで支払い、皆からドルを集めるという資金繰り法を智恵者が編み出して、この店から適用することになった。    

平成9年12月27日(土)
 今日は自由行動の日であったが、概ね一緒に行動した。第二陣のI、Y、Wの三人が到着した。I、Y氏は時差ぼけ解消対策として予め段取りしておいたゴルフ場へチエックインしてから直ちに出掛けたという。K、O両氏も合流してO氏が見つけた朝食バイキングを食べに行った。ベリ−ズ・スモ−ギ−という店で4.99ドル朝食、ということで皆に好評であった。昼食だと5.99ドルである。大食漢揃いの学生達に是非紹介したい店である。

 午後からK、W、小生の三人でワイキキビ- チへ水泳に行った。昼は皆でシエラトンホテルに行き15ドルで食事をした。夕食は後発隊の到着を祝って会食。ロイヤルハワイアンショッピングセンタ−内にあるパラディソという海鮮料理屋でサ- モンの料理を食べた。60ドル。これも観光客料金である。ドルの手持ちのない人が皆の分も纏めてカ−ドで支払い、皆からドルを集めるという資金繰り法を智恵者が編み出して、この店から適用することになった。    



平成9年12月28日(日)
 ハワイ到着と同時に申し込んでおいたハワイ島ツア−に参加。一人150$。5時50分にホテルへバスが迎えに来た。昼食付。

 ホノルル空港からヒロ空港まで約一時間位の飛行。機内の窓からハワイ島の影が見え出して注目するととてもなだらかな山並みが三つほど見える。その内の一つが今日見学する予定のキャラウエア火山なのだろう。富士山よりも斜面はなだらかな感じである。

 空港よりバスにてレインボ−滝へ。道中日本人一世の上田さんという年配の女性ガイドがヒロの町は津波で壊滅したことがあると名調子で説明してくれるガイドの説明の中に時折り、日本人の当地における破廉恥な行動批判が巧みに織りこまれていて耳が痛い。

 津波の恐れがあるためか、不景気のためかヒロの町には空屋になったビルが目立つ。ハイスク−ルの校舎等を窓外にみながら再びヒロ市内へ戻り、ココナッツ工場とTシャツの工場を見学した後、海岸で時間を潰す。

 モ−タ−バイクの展示のある店で昼食。ハワイアンの音楽を聞きながらの昼食。ハワイアン音楽に若い頃かぶれたこともあるというSさんは御満悦の様子。食後、構内の庭園に植えられている僅かばかりの蘭の花を鑑賞したが自分でも沢山の蘭の鉢を持っているという博学のHさんの解説つきであるから分かり易くためになる。

 ピナウの黒砂海岸を経てキラウエア火山の噴火口を二箇所の観察地点から見学した。火山の噴火口跡なのに水が全然溜まっていない。月世界はこのようなものであるという。暫し月世界へ行った気持ちになって空想の輪を広げてみる地質学的には非常に若い火山口であると博学のH氏が解説してくれるので成る程と思う。地面から噴出しているガスに運転手が煙草の火を近づけるとたちまち白い煙がたち昇る。噴火こそしていないが生きている火山なのであろう。

 このあとオニツカ蘭センタ−へ立ち寄り空港を経て帰宅した。ハワイ島はオアフ島に比べるとまだ開発の進んでいない素朴さが残る島ということが出来る。夜は京屋でうどんすきを食べる。60ドル。
          
平成9年12月29日(月)
 ニユ−エバ−ビ−チゴルフクラブで、I、H、Y、W、K、小生、T氏でゴルフをした。3人と4人の二組。私はH、I氏と同じ組。Sさんのクラブを借用して靴は履いていったスニ−カ−でプレーした。フイ−が80ドル。タクシ−が60ドル。8番アイアンが紛失したとの錯覚があり慌てた。H氏は人のプレ−中声を出したとかパタ−のライン上に立ったとかなかなか口うるさい。マナ−としては正しいことを言っているのだが、自分の技量不足の結果をそのことにかこつけて、他人のせいにする悪い癖がある。結果は52-54 のスコア。またしても 100の壁が崩せない。

 午後からK氏と二人で海へ泳ぎに行った。N氏、R氏夫妻も到着したため夜は会食。柳という寿司屋でH氏が現地に詳しいM氏に依頼して段取りしたものであるが、高級な料理屋である。久し振りに和食を堪能し、リッチな気分になって満足した。酒を多く飲んだということもあり、勘定の段になって計算すると一人120 ドルの負担となっていた。内心ハメを外し過ぎたかなと思っていたら、ささいなことから仲間内で若干の口論が始まって、険悪な空気が一時流れた。しかし、そこはおおらかな性格の人が多く多少飲み過ぎたかなということで大事には到らなかった。スポ−ツで繋がっている仲間は時に、気が付かないで相手の感情を逆撫でするようなことを平然と言って、感情のもつれることもあるが、爆発してしまえば後を残さないところがいい。明日になれば皆ケロッとしていることだろう。
  


平成9年12月30日(火)
 朝8時半から初めて艇に乗って練習。ワシントン州立大学より借りたグラスファイバ−製のエイトである。我々が鶴見で練習に使っているベニア合板の艇に比べてスマ−トで軽るく如何にもスピ−ドが出そうである。ラダ−も小さくて本当に効くのかなとコックスのSさんが心配そうな顔をしている。

 オ−ルは瀬田川の艇庫から空輸されてきたダ−クブル−の懐かしいものである。八本の中に二本だけ、故N・K君の銘の刻まれたオ−ルが混じっている。N・K君の奥さんが個人の冥福を祈ってボ−ト部に寄贈されたものである。この二本のオ−ルは故人と最も関係の深かったI氏とH氏の友情の手に握られて今アラワイ運河で水を掻こうとしているのだ。N・K君よ安らかに眠りたまえ。

 約一時間半の練習。コ−スを千メ−トル漕いでみた。初体験であるが遅れをとらずになんとか合わせていくことが出来た。これなら試合にも出られるだろうと闘志が体中に漲る。N・K君のためにも頑張るぞとの決意を新たにオ−ルを引いた。

練習後、朝昼兼用の食事をペリ−ズ・スモ−ギ−でする。5.99ドルに税4.17%で6.24ドルであった。食後K氏と水泳に行くが道を間違えてヒルトンホテルのほうまで行ってしまった。あとで判ったことであるが、このホテルの庭でオ−プニングセレモニ−が行われることになっていたのだ。図らずして会場の下見をしたということになった。

 夕食は予て下見をし予約しておいた北京で学生諸君と顔合わせ会という形で行われた。 OBは120 ドルの負担となった。

席上自己紹介を兼ねて全員スピ- チをしたが、N・K君のオ- ルを手にして初漕ぎをした団長のHさんのスピ- チは人の心を打つものであった。前日の夢にN・K君が白髪をたなびかせて笑顔で手招きしながら現れたというのである。心なしかHさんの声は潤んで聞こえた。友よ今こそ友情の証によく食べ、よく飲みかつよく漕ごうではないか。

それにしても学生諸君の食べっぷりは頼もしい。自分達にもあのような食欲旺盛な時期があったのだなと千切りのキャベツにソ−スを掛けて、鯨肉と一緒に麦飯をかきこんだ石山の合宿所のことを思い出していた。
             
平成9年12月31日(水)
 朝から練習。約二時間。日本では本日は元旦。3時半よりヒルトンホテルの芝の上でオ−プニングセレモニ−。英語のヒヤリングができないので会話に参加することができないのが情けない。それにしてもOさんSさんの会話能力は素晴らしい。ヒヤリングが出来ているのであろう。二人とも流暢な英語を喋っているのでもなく、話が上手いというのでもなく、知っている単語を並べているだけという感じであるが、ちゃんと自分の意志を相手に判からせて目的を達してしまうのである。物怖じせずに相手に立ち向かって自分の意志を伝えようとする迫力が会話をなりたたせているのであると思う。見習わなければならない所だ。しかし、小生の場合ヒヤリングが出来ないので相手が何を言っているのかが分からずのっけから会話が成立しないのである。英語圏の海外で仕事をした経験のある人とのキャリアの違いを如実に感じさせられた一場面である。夕食はペリ−ズ・スモ−ギィでバイキング。95ドル。

 横浜へ新年おめでとうの電話をかけた。ここハワイに居ると正月気分も沸かない。日本人がやたらに目につくようになった。明日から試合なので9時半には床についたが、アラワイ運河のほとりでしきりに爆竹を鳴らす音が聞こえているのを夢うつつの中で聞いていた。一際大きな爆竹の音で目が覚めた。暫くうとうとしていたが時計を見ると12時半であった。多分日本でいう除夜の鐘に相当する中国式の年越しの合図なのであろう。運河の近くには中国人達が多く住んでいるという。

 年賀状に書いて出しておいた俳句を思い出した。

 ボ−ト漕ぎ 異国で味わう 雑煮かな 
 果たしてこの正月ハワイで雑煮が食べられるのだろうか。
                                  
平成10年1月1日(木)
 元日であるが、外国にいると正月という気分がしない。

今日からレ−スである。七時十五分に乗艇した。オ−ルド・ボ−イズはロンドンから来たウエストミニスタ−Bクル−という高校生クル−が相手である。千メ−トルで22秒、五百メ−トルで11秒のハンディキャップを貰って八時半スタ−ト。我々のクル- が先にスタ- トして、ハンディ- 時間経過後相手クル−がスタ−トするという競技方法である。後からスタ−トした相手クル−の声と水音が後ろから迫ってきて全員闘志に燃えるが、気ばかり先行して思うように体が動いてくれないのでピッチもなかなか上がらない。七百当たりで追いつかれあえなく敗退。残念ながら二戦とも負けた。


この時の当方の編成はコックスS、整調H、七番N、六番T、五番I、四番H、三番小生、二番K、バウkであった。私の経験ではレ−スで千メ−トルもの長い距離を漕いだのは初めてであったが、腹切りもせず空振りもなしで最後までついていくことが出来た。これは私の自慢である。素人が僅かばかりの練習をしただけで、ハワイまで来ていきなり千メ−トルと五百メ−トルのレ−スを連続して漕ぐという冒険に挑戦したのである。T大戦でも三百メ−トルのレ−スである。まともに三百メ−トル以上漕いだことのない素人の私が、全距離を漕ぎきったということは一重に漕友諸兄の友情の賜物であると感謝したいし流行の言葉で言えば私自身を褒めてあげたいと思うのである。

 学生クル−は9時からワシントン州立大学と対戦し、千メ−トルで勝ち、五百メ−トルでは負けた。最初の千メ−トルレ−スで接戦の末、僅かに早くゴ−ルに飛び込んだとき、学生クル−の諸君が両手を上げて歓声を上げた嬉しそうな姿は一生忘れられないであろう。この一瞬の感激のためにこそ人はボ−トを漕ぐのであり、練習をするのであろう。またOBとしてもハワイまで応援にきた甲斐があったというものであり、サポ−タ−冥利に尽きるところである。

 12時からは再びオ−ルドボ−イズがプリンストン大学OBのファット・キャットと対戦し善戦虚しく千も五百もともに負けた。この試合では私とH氏はS氏s氏と交代し応援に廻ることにした。彼等は昨日到着し、睡眠不足気味ではあったが、よく健闘したといえよう。

 この日は学生チ−ムが初勝利をあげたので夕食をOBが御馳走することになりペリ−ズ・スモッギ−のバイキングに連れていったが彼等は皆、惚れ惚れする程よく食べた。

平成10年1月2日(金)
 10時から昨日のメンバ−でオ−ルド・ボ−イズはホノルル・ロ−イング・クラブと対戦し善戦したが、千も五百も及ばなかった。学生クル−は11時からハ−バ−ド・クル−と対戦し千も五百も残念ながら敗退した。彼我の体力差と技術力の差を如実に見せつけられた一戦であった。学生諸君がこの経験を明日に活かして、精進することを望むや切なるものがあると言いたいところだ。

 昼食は、いつも行くロイヤル・ハワイアン・ショッピング・センタ- 地区でない所へ行ってみようということになり、アラモアナ方面へ向けて出掛けた。コンベンションセンタ- を通り過ぎてちょっと行った辺りに飲食店がたちならんでいる。しかしよく見るとどうも韓国人街らしく、風俗営業のいかがわしい看板が出ている店の隣がレストランになったりしている。暫く物色したが、なかなか適当な店が見つからない。もうすこし先へ足を伸ばしてみようかといっている時、比較的こざっぱりした和食の店を見つけた。入ってみると日本語の達者なウエイトレスが出てきて、特別料理として雑煮と魚料理のセットものがあるという。韓国人の経営らしいが特別料理として雑煮のメニュ- を揃えるなどこの国の人は商売がうまいと思った。値段も18ドルほどなので全員それにし改めて新年の賀詞を交換しあったものである。

午後4時半からコ−チ会議がアウトリガ−・カヌ−・クラブズで催され、オ−ルドボ−イズは全員が招待された。当地で求めたアロハシャツを着用している仲間が四人ほどいたが、顎髭を長く伸ばした禿頭の審判長がたまたま我々仲間の着用しているアロハの柄と同じものを着用して現れた。お互いに指摘しあいながら「ウィ- ア- ブラザ- ズ」と冗談をとばしあうなど和やかな雰囲気の中でパ- ティ- は進行した。しかしながら、会話力の弱いオ- ルドボ- イズの面々は所在なくノンアルコ- ルのフル- ツポンチを飲みながら壁の花ならぬ壁際の彫刻になっている人が多かった。

それにしても、夕日がワイキキの海岸の遙か彼方の地平線に沈んで行く光景は百万ドルの値打ちがあると言ってもよかろう。皆がしばしこのサンセットに見惚れていた。

パ- ティ- が終わってから、夕食にはビフテキを食べようと衆議一決してワイキキの町のレストランを物色していたところ、ビフテキを格安の値段 (確か3ドルだったと思う)で提供するというビラを見つけた。客引きにビラの通りの値段で食べさせるのだなと確認するとそうだということなので12〜13人のグル−プが店の中央のテ−ブルに陣取った。先ずはビ−ルを注文し、これから料理の注文ということになった時にインチキ商法であることを見破った。ビラに掲載されているビフテキはメニュ−にある他の料理とセットになっていて、その料理を注文したら別に3ドルの値段でビフテキを提供するというものであった。他の料理というのが40〜50ドルとべらぼうに高いのである。

 説明を聞いて一同、怒り心頭に達してビ−ルだけ飲んで何も食べずに席を蹴って出てきた その店にはインチキ商法に引っ掛かっているとも気がつかないで法外に高い食事をしている日本人観光客もいたが、中央に陣取った我々大勢のグル−プが何も食べずに出ていくのを怪訝な顔で見ていた。悪徳商法にひっかからずに済んだという笑い話の一つとしてかたずければいいのかもしれない。

 しかしながら翻って考えてみると日本は今こそ不況の中で呻吟しているが、日本国民一般が高度成長からバブルに至るまでの期間は世界に対してその経済力を鼻にかけ、不遜で思い上っていたのではなかろうか。チップを法外にはずみ、高価なブランド品を買い漁り、観光地の物価を釣り上げ、夜の巷で札びらを切って御乱行に及び諸国の顰蹙を買い、対日本人向け特別価格を形成せしめたという謗りを免れることはできないだろう。今回のような日本人相手の悪徳商法を生み出させしめたのもまた日本人であると言えるのではないか。その意味もあって日本人の中にも骨のある人達が居るということを悪徳商人共に思い知らしめねばならないという意識が我々の気持ちの中にあって、とらせた今回の行動であると言えるのではなかろうか。S氏が旅行中しきりに言っておられた安易にチップをはずみ過ぎると却って馬鹿にされるという言葉は正論だと思う。

結局ホテル近くのシッツラ−でビフテキを食べることになった。ここでは12ドルなのである。如何にしてリ−ズナブルな値段の料理屋を捜しだすかがこうした外国での合宿の成否を決める大きな要素になると思うのである。
        
平成10年1月3日(土)
 今日からI、H、K、Oの各氏は帰国したので、オ−ルド・ボ−イズはメンバ−が足りなくなる。小生の出番がやってきた。よしもう一度漕ぐぞと力が体の中に漲るのを感じた。それにしてもまだ二人足りない。補漕の学生諸君二人に応援を頼まねばならないのである。

 その時頭に浮かんだのは補漕できている四人の学生諸君のことである。彼らも外国で漕ぎたいであろう。たとえオ−ルドボ−イズの中に入ってでも漕ぐことが出来れば、彼等のボ−ト人生のなかでいい体験になるであろう。一回も漕ぐことなく帰国する学生があってはならない。彼らに外国を体験させ力をつけさせるのが目的で今回の遠征が計画されたのではないか。ここに思いが到ったとき補漕の選手達に一回でも多く漕がしてやりたい、そのためには素人の私が下りればいいという気持ちが自然に心の中に沸いてきたのである。私のこれからの勤めは岸辺から声の限り旗を掲げて声援することだ。その旨を意志表示した。幸いこの私の気持ちは快く理解されて補漕の選手は全員一回以上は漕ぐことができるようになった。

 レ- スはオ- ルド・ボ- イズがウエストミンスタ-Aクル- と対戦。補漕の学生諸君三人を加えてのレ- スとなり、若い諸君が力漕したが千、五百共に惜敗した。

 学生クル- はオ- プン戦で相手はいずれも女子クル- のORUとUSCの2クル−であった。いずれもハンディ−を提供しての対戦であった。接戦の末、追いついて勝ったレ−スもあったと思うが、勝敗の結果を確認していない。
     
平成10年1月4日(日)
 最終日である。オ−ルドボ−イズはハワイ・ロ−イング・クラブと二回目の対戦であったが、若い学生選手が四人入ったので、ハンデキャップなしをN主将が、元気に要請して相手に立ち向かった。接戦を演じたが僅かな差で1000、500 とも勝ちを譲った。我がオ- ルド・ボ- イズ・クル- の四人のOBは学生諸君の力強い漕ぎについていくのが精一杯の戦いであった。漕いだ選手の事後の感想は皆一様に今日程歳を感じたことはない、気ばかりあせるが体がついていかない、若い諸君に乗せて貰っているだけだったというものであった。

 全レ- スが終わってからヒルトン・ホテルでアオ- ド・バンケが催され、デイナ- を食べながらお互いに健闘を讃えあい国際親善の場を楽しんだ。最後に求めて、オ- ルド・ボ- イズ、学生諸君一同が会場中央に集まりスクラムを組んで琵琶湖周航の歌を歌った。予め配っておいたカレンダ- には英語の歌詞もついていたので、外国の選手の中には我々に合わせてくちずさんでいる人も何人かいた。H氏とK氏が用意してきた日本の独楽とか扇等の小物のお土産も好評を博した。

 今回の遠征ではH団長がボ−トとはお互いにクル−メイトのことに気を配りあっていかなければ成り立たない競技であるということを、ことあるごとに力説しておられたが、まさしくその通りであると思った。思えば平均年令60才のオ−ルド・ボ−イズ・クル−が事故もなく異国の地で無事漕ぎ終えて、それぞれに達成感を味わい爽やかな思い出を残して帰国できたことは一種の奇跡であると言えるかもしれない。いやそれよりも、H団長、N主将、漕ぎ手の人、本土で今回の企画を推進して下さったOB会の関係者各位の相手を気遣うという気持ちが一つの目的に向かって結集したからであろうと思う。本当に有り難うと心から感謝申しあげたい。

 鶴見川でまた漕友達とオ−ルを握り、T大戦、琵琶湖就航を目指して良い汗をかきたいものである。今晩はきっと練習後、生麦のビ−ル工場でジョッキを傾けながらクル−メイトと談笑している情景を夢にみることだろう。



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