2026/08/17 - 2026/08/17
256位(同エリア339件中)
おやじさん
8/17、ツアーバスで三重県熊野市で行われた2026熊野大花火を見に行ってきました。
ツアーは9:00頃に名古屋駅を出発、途中休憩をとりながら会場となる熊野灘に面した七里御浜海岸で花火鑑賞後は取って返して、翌朝5時に名古屋駅に戻ってくるもの。
以前からかみさんのリクエストがあったものの、車は帰り道の規制・渋滞、電車なら長蛇の列と苦手なことばかり。
昨年のきほく燈籠祭花火のときは、駐車場で車中泊ができたので、酒も飲め、翌日は混雑もなく観光も楽しめた。
メジャーな花火大会は宿泊形態はなんでもいい、車で訪れ、現地泊まりが個人の理想、そんな自分向けに選んでくれたのがバスツアーだった。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 3.5
- 交通
- 2.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
-
8/17、ツアーバスで三重県熊野市で行われた2026熊野大花火を見に行ってきました。
ツアーは9:00頃に名古屋駅を出発、途中休憩をとりながら会場となる熊野灘に面した七里御浜海岸で花火鑑賞後は取って返して、翌朝5時に名古屋駅に戻ってくるもの。
以前からかみさんのリクエストがあったものの、車は帰り道の規制・渋滞、電車なら長蛇の列と苦手なことばかり。
昨年のきほく燈籠祭花火のときは、駐車場で車中泊ができたので、酒も飲め、翌日は混雑もなく観光も楽しめた。
メジャーな花火大会は宿泊形態はなんでもいい、車で訪れ、現地泊まりが個人の理想、そんな自分向けに選んでくれたのがバスツアーだった。
13:00、会場に到着。
写真は熊野灘に面した七里御浜海岸から世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産である鬼ヶ城の眺め。
細かい小石が堆積する砂礫海岸が南の紀宝町まで延々25キロ続き、周辺には獅子巌や花の窟神社などがある。
ツアーは団体エリアにバスごとに区割りされ、紐で一名ごとに区画が用意されているので、場所取りの心配はない。
ただ、16時まで立ち入りできず、それまでは鬼ヶ城まで歩く予定でいたが、手荷物を持ったままなので、市内散策や食べ歩きで時間を潰すことになる。 -
熊野大花火で訪れた熊野市木本町、打上げまでには時間もあり、熊野市木本町地内を少し歩いてみました。
上は打ち上げ会場の七里御浜から鬼ヶ城の眺め。
七里御浜から山側に入った木本町は、熊野灘に面した熊野市の中心市街地。
現在は静かな町並みですが、かつては熊野地方の政治や経済の中心として栄えた町です。
江戸時代、この地には紀州徳川家の本藩公領地として「奥熊野代官所」が置かれ、熊野川以東から現在の紀北町に至る広い地域を管轄していました。
そんな木本町の一角に鎮座するのが、今回訪れた木本神社です。
木本神社は、もともと木本町字新田に鎮座していた「若一王子権現」と称する神社がその始まりと伝えられています。
「若一王子」は天照皇大神を意味するとされ、現在の祭神にも天照皇大神が祀られています。
創始の年代は詳らかではありませんが、慶長13年(1608)12月に新田地区から現在地へ遷座したことを記す棟札が現存しており、この頃にはすでに祭礼も行われていたとされています。
その後、明治41年(1908)には、境内社の若宮神社二座、大国神社、恵比須神社をはじめ、新田町の稲荷神社、字切立の新田神社を合祀。
昭和26年(1951)には木本御靈神社が創設され、稲荷神社と菅原神社(旧・新田神社)は飛地境内社として、それぞれ旧鎮座地に分祀されています。
現在の木本神社は、長い年月の中で周辺の神社を合わせながら、木本の町の鎮守として現在に至っているようです。 -
社頭の「吉田大明神石祠」、熊野市指定文化財。
「安政2年3月、木本側の27か村(紀州藩領)と、有田側の5か村(新宮藩領)の「領地の入れ替え」が発表された。
すると木本など27か村は、200年も仕えてきた紀州藩主から離れることを喜ばず、さらに新しい領主のもとで重い年貢を課されると予想して強く反対し、一揆のような状態になった。これが「安政の村替騒動」である。
このとき、江戸勤めの勘定組頭・吉田庄太夫が命を受けて木本へ来て説得にあたった。
しかし村人の意思が固いことを悟り、ついには庄太夫が独断で「村替は据え置く」とする誓紙を渡し、江戸へ戻って村替を中止させた。
こうして三年に及んだ騒動は民衆の勝利となったが、庄太夫は独断の責任を負い、自ら命を絶ったと伝えられる。
その後、熊野27か村では吉田大明神の祠を建て、村を鎮める神として祀った。
ここにある祠はその一つである。」
昨今の政治を見ていると、民意とは程遠いところで物事が決められているように思う。
海外旅行やリホームに勤しむ者ばかり、民を向いて舵取りはされていないな。
今の世にも庄太夫のように、民の側に立って決断する政治家がいてほしいものだ。 -
熊野市指定文化財 彫刻
木本神社の木造狛犬
「狛犬は神社や寺の社やお堂の内や外などに守護と装飾をかねておかれる一対の獅子形をした像である。
素材は石や木が普通であるが、熊野市内では石造が多く、木造の狛犬は少ない。
狛犬の起源は、インドの仏寺や中国の宮門、陵墓の前などに獅子に似た動物像を並べたのが始まりとされる。
日本でもこの風習をまねて平安時代からおかれている。
木本神社の狛犬の伝来は明らかでないが、鎌倉時代作のものとされる木造狛犬の高さは四十センチで、材質はスギと思われ、一つの材から制作した一木造である。」 -
熊野市指定文化財 木本神社の棟札。
「木本神社の棟札は106枚あり、一番古い物は慶長13年(1608)のもので、時の奉行中次兵衛・辻久右衛門・与三右衛門・濱地茂兵衛・口地七太夫・宮地太郎兵衛の名が列せられている。
裏側には経費(米)の43石5斗5升を出し合った216名の名が記されており、木本の殆どの人が出し合ったとされる。
他にも時の代官野村平之丞の一石、大阪・松阪など他地方からも寄進されている。」 -
鳥居から先の境内の眺め。
右手に御神輿庫、左手の社務所、正面の社殿が主なもの。
木本神社を語るうえで外せないのが、例大祭で行われる勇壮な神輿渡御です。
その祭礼は熊野神が神倉山に降臨したことを起源とするとされ、かつての祭日は9月9日。
祭典を終えると御神体を神輿へ移し、本殿前の白州に安置した後、町へと繰り出します。
行列の先頭に「稲荷山車」、その後に「御神輿」「六法」「よいや」「子供みこし」「元宮太鼓」が続きます。
なかでも「六法行列」は、紀州藩の直轄地となった木本の住民が、そのことを喜んで大名行列を模したものと伝えられ、勇壮な行列として知られています。
そして祭りの主役ともいえるのが神輿で、総重量は約1トン。
お旅所の稲荷神社を出発すると神輿を台車から外し、町内を練り歩きます。
住民から振る舞われる酒が神輿にかけられることから、いつしか「暴れ神輿」と呼ばれるようになったという。
神輿は七里御浜に向かい荒波に浸けて清める「浜担ぎ」が行われ、その後、神輿は再び町内を巡り、深夜になって木本神社へ戻り、渡御を終えます。
熊野の祭りというと、山深い熊野古道や神倉神社のような山の信仰を思い浮かべますが、海辺の町、木本ならではの祭礼です。 -
境内右の大きな手水鉢。
赤く染まっているのは清水に含まれる鉄分が多いのか。
鉢の側面には宝暦七年(1757)の銘が刻まれていました。 -
拝殿正面の眺め。
切妻平入の拝殿に切妻向拝が付くもので、左右の開けられた格子戸の先には、本殿域に祀られた境内社の拝所があり、右側には吉田庄太夫の碑が祀られている。
三重県神社庁の解説によれば祭神は天照皇大神、天兒屋根命、天布刀玉命、大己貴命、事代主命、大山祗命、埴山姫命の七柱を祀る。 -
拝殿前の狛犬は風貌に年季を感じさせるが昭和に入って寄進されたもの。
拝殿脇や道路側ともに奥に控える本殿域の様子は見られなかった。 -
境内から社頭の眺め。
手前の道路は県道204号線で、堤防沿いを走るのが国道42号線、その先の堤防を越えると溢れんばかりの花火見物客と屋台が連なる七里御浜です。
堤防の先の喧騒とは別世界のように境内は静まり返っていました。 -
社地右側の道路から本殿の屋根がちらりと顔を出してくれた。
木本神社
創建 / 不明
祭神 / 天照皇大神、天兒屋根命、天布刀玉命、大己貴命、事代主命、大山祗命、埴山姫命
例祭日 / 体育の日の前日
春祭 / 2月17日
秋祭 / 11月23日
境外末社 / 稲倉稲荷神社(木本町332)、菅原神社
所在地 / 三重県熊野市木本町95
参拝日 / 2026/8/17 -
木本神社から北に向かい、笛吹橋を越えると熊野古道松本峠に向かう登り口があります。
大泊から熊野古道松本峠を越え、峠の西麓に位置する木本集落に辿り着く。
砂礫を敷き詰めた平坦な七里御浜が現れ、花の窟を経て熊野大神が降臨したとされる神倉山に向け延々と続いています。
写真は木本集落北端に位置する松本峠登り口で、ここから先は樹々に包まれた登り坂が続きます。
進んでみたい気持ちはあったが、この日は花火鑑賞が目的。
汗だくにはなりたくないうえ、入口付近には「熊注意」の貼り紙まであり、潔く諦めた。 -
登り口から左の市街地に向かう道すがら、写真の鳥居が目に止まり立ち寄ってみた。
-
山の西斜面に立てられた石鳥居があり、境内に続く石段脇には解説板も立てられている。
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境内に続く石段からの眺め。
参道脇には古い梅の樹もあり、鳥居の前の境内の奥行きに余裕はないようだ。
参道の右上に長方形の石の水槽らしきものが見えています。 -
神社解説板かと思っていたが、これは境内にある水槽石の解説だった。
「熊野市指定文化財 有形民俗文化財 宝暦の水槽石(四基) 新田天神社
新田天神社手洗水船として使用されている水槽石は、もともと西川町の元八百屋の隣に据えられており、住民の飲料水を確保する水槽であった。
作成 寛政十一年(1799)正月、石工 玉助
長さ 3.39m、幅1.22m、高さ1.13m
木本浦は海辺にあることから、地中が砂礫層に覆われ井戸を掘ることが困難で、人々は谷川まで水を汲みに往復しなければならず、水の便が悪い土地であった。
正徳二年(1712)、濱地太右衛門は、永年の水不足に耐えかね、切立奥の谷郷の水源地から木本浦に水を引く工事を起こした。
松の木を縦に割り、中をくりぬき、再び合わせ、地中に埋めて水を引き、木製の水槽に水を溜め、飲料水の確保に努めた。
宝暦年間(1751~1764)に、この地方では、最も堅牢な岩質(花岡斑岩)として知られる曽根石の大きな一枚岩をくりぬいた水槽を全四基が作られた。
その後も水槽石は場所を変えながらも現に残り、活用されている。
昔の水の不便な生活の苦労を偲ぶ貴重な民俗資料である。
他の三基は次の通り。
1.木本神社 宝暦七年作
2.新出町稲荷神社 宝暦9年作
3.天理教紀大教会 宝暦9年作」
熊野市史には「天保の旱魃の際は水一荷(60liter)を200文で販売した記録」も残るという。
江戸時代の物価で考えると蕎麦が約20文、酒だと一合4文に相当したとされる。
今時、水1literはコンビニで160円とすると、1万近い金額になる。
温暖化で水源に雪は積もらず、各地の水がめが底をつき、取水制限が行われ、作物に与える水に苦慮する報道が流れる。
都市では局地的な豪雨が発生しても、その多くは十分に活用されることなく海へ流れていく。
そう考えると、これからは都市部での雨水貯留についても考える必要がありそうだ。
捻れば出てくる水も大切な資源と捉え、一人一人が節水を心がける時代が訪れている。 -
これが水槽石。
小さな子供なら水遊びが出来るほどの大きさで、側面には二箇所穴があけられています。
もともと八百屋の横にあったとか、この時期ならスイカも冷やされていたのかもしれない。
側面に開けられた穴は、水槽からあふれる前に別の水槽や水路へ水を分けるためのものだろうか。
水事情の悪いこの地だけに、一滴たりとも無駄にはしなかっただろう。
側面には寛政十一年、石工 玉助の銘も読み取れ、江戸時代中期には既に簡易水道のような仕組みが整えられていたことになる。
木本神社の長い手水鉢も、そうした目的から作られた水槽石で市内に置かれていたのだろう。
水事情が改善され、本来の目的を終えた水槽石も、神社の手水鉢として新たな役割を担っている。
用が無くなれば捨てる現代において、先人達の思いを今に伝えている。
これは江戸時代の人々が築いた、町の小さなダムだったのかもしれない。 -
松葉山天満宮 社頭全景。
Gマップでは松葉山天満宮として表示されるが、上の解説板に「新田天神社」と書かれている。
当ブログでは松葉山天満宮と表記します。
因みに熊野市史には天神社として表記されていました。
資料によって名称に違いはあるものの、いずれも同じ天満宮を指しているようである。 -
鳥居の先には撫で牛が安置されており、天満宮らしさが漂う。
本題のこの松葉山天満宮、三重県神社庁には登録されておらず、創建等の詳細は記されていなかった。
熊野市史に目を通すと、水槽石の記述と天神社として以下の記述を見付けた。
「言い伝えによると、昔当地に狸が住んでいて、よく漁師について困るからそのために天満宮を祀ったといわれている。
御神体は天神木像を納めている。
7月24日が祭日で西川地区が中心となって祭りを行う。」
別の資料では、「御神体は熊野市指定文化財の天神画像で、大和絵の傾向をふまえ、鎌倉時代に流行った「似せ絵」の画風を偲ばせるもので、昔、京都より来住していた水谷善吉の蔵品だったが、宝暦年間(1751~1764)西川久兵衛がこれを譲り受け、私山山の松葉山に祭祀し木本天神社のご神体として伝えられてきた。」とあった。
創建時期は宝暦年間、菅原道真をお祀りするもので、Gマップの松葉山天満宮、解説の新田天神社、どちらも正しいようである。 -
社殿全景、社殿は随分傷みが目立つ状態だった。
松本峠の麓にあたるこの場所では、漁師について困るという伝承からも、昔から狸が身近な存在だったのだろう。
実際に狸による何らかの被害があり、それを鎮めるため神が必要だったのだろう。
菅原道真を祀る天満宮には、雷神・天候の神、さらには災厄を鎮める神としての性格もあるが、狸との直接的な関係は見当たらない。
しかしなぜ狸除けに天神様だったのか、その理由は今となっては分からない。 -
境内から鳥居と木本集落の眺め。
-
小高い高台に築かれた石積みも当時からのものだろうか。
松葉山天満宮
創建 / 宝暦年間(1751~1764)
祭神 / 菅原道真
例祭日 / 7月24日
所在地 / 三重県熊野市木本町1584
参拝日 / 2026/8/17 -
会場の沖には既に飛鳥Ⅱ・飛鳥Ⅲ・三井オーシャンフジのクルーズ船が停泊していた。
この3隻のほか、夕刻にはダイヤモンド・プリンセスも停泊し、船上では食事をしながら花火鑑賞となるようだ。
クルーズの途中、熊野灘から優雅に花火鑑賞。
天気さえ良ければこれが一番いいのだが、雨に祟られたクルーズは意外に飽きてくる。
とはいえ、海上から見る花火は経験がなく、どんな感じに見えるのか、こうした場合、右舷と左舷で価格設定が異なるのか、興味は尽きない。
少なくともイカ焼きや焼きそばの屋台がないのは確かなことだ。 -
会場に帳が降りる頃、船には明かりが灯り、海岸には続々と花火見物に訪れた観光客が席に陣取り、打上げ開始予定の19時を今か今かと待ち焦がれるが上空には怪しい雲が漂いはじめる。
打上げは鬼ヶ城付近と海上の台船、獅子巌付近の三か所がメインで、舟を使った海上自爆など行われる。
鑑賞場所が指定で、写真を撮るスポットがどこがいいのか分からないので、今回は嵩張るカメラは持ってこなかった。
三脚を立てじっくり撮影するなら花の窟あたりから撮ると三か所で打ちあがる花火を一枚に収められるかもしれない。
しかし、この浜から眺める花火は迫力がある。
空気を揺るがし、背後の山々に反響する炸裂音とともに、頭上いっぱいに花開く光景、そして目の前で炸裂する海上自爆。まさに感動ものだ。 -
三か所から同時に打ち上げられるスターマインは一枚に収まり切れないスケール感がある。
寝転がって上空を眺めるのが、いいかもしれない。 -
この日は一時小雨に降られたり、風がなくなり連続的に打ちあがる花火の煙が滞留し花火が隠れ条件は良くなかったのではないだろうか。
クライマックスの鬼ヶ城大仕掛けは煙の切れ目から見えるような感じだった。 -
しかし全長600mとも云われる三尺玉海上自爆は、遮るものなくクリアに見ることができ満足できるものだった。
-
こうした海上自爆を体験するには浜席が一番適している。
浜には無料エリアがありますが、既に場所取りされており競争率は高そうだ。
自分なら屋台や迫力あるこの光景は諦めて、獅子巌方向に逃げていくだろう。
打ち上げ終了後は混む前に市内から出たいものですが、打ち上げ終了の21:00~22時までは国道42号線は歩行者用として封鎖され、24時まで市内各所は一般車の通行が制限され、市内各所に停められたツアーのバスが優先的に移動できるように規制されます。
無理に動かずに、駐車場で時間を潰し、日付が変わってから動くのがいいと思われます。
自分なら釣竿出して釣りを楽しむか、そのまま車中泊の二択だろうか。
列車なら名古屋行きの上りが24:15が最終で一時間毎、下りは新宮行きで23:36を最終として約30分毎に運行されていたようです。
いずれにせよヨーイドンで一斉に動くので、混雑は避けられない、気長に行動するのが一番だろう。
もうひとつの情報。
市内の笛吹橋を渡った先の熊野古道松本峠口に熊出没注意のポスター、道の駅マンボーにも同様のポスターを見かけました。
今夜の海岸は香しい香りが漂っているので、誘われて熊も降りてくるかもしれない。
2026熊野大花火
訪問日 / 2026/08/17
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