2026/07/31 - 2026/07/31
853位(同エリア873件中)
黒田(温泉)さん
- 黒田(温泉)さんTOP
- 旅行記164冊
- クチコミ5件
- Q&A回答3件
- 306,950アクセス
- フォロワー83人
この「不思議な旅」は、現実の4年前(2022年)の「塩山」への旅と、昨年2025年の「夢のような話」が混然となった話です!
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- その他
- 交通手段
- JRローカル
- 旅行の手配内容
- その他
-
あれは夢だった。
そう言ってしまえば、それまでのことである。
しかし、目が覚めた今でも、あの夜の列車の揺れと、煤(すす)の匂いが混じったような冷たい空気だけは、現実の記憶よりも鮮やかに残っている。 -
私は、がくんという衝撃で目を覚ました。
窓の外には幾筋もの線路が闇の中へ伸び、無数の赤や青の信号灯が、まるで夜空の星座のように点滅していた。
「八王子です。」
誰かが小さな声でそう言った。
車内放送はない。
発車ベルも鳴らない。 -
それなのに、乗客たちは皆、それが終点であることを知っているように立ち上がり、静かに降りる支度を始めた。
隣に座っていた老人が私に笑いかけた。
「初めてですか。」
「え?」
「この列車のことですよ。」
私は慌てて周囲を見回した。
どこにも路線図がない。
車両番号も見当たらない。 -
ただ、誰も急ぐ様子はなく、まるで長年乗り慣れた列車であるかのように降りていく。
私も人の流れについて車外へ出た。
驚いた。
そこはホームではなかった。
引込線に停まった長い列車の脇に、木材で組まれた仮設の階段が数か所設けられ、それを降りると、枕木の上に板を渡しただけの通路が続いている。
私の左前方には、中央本線のブルーの列車が止まっていた。 -
その先に制服姿の駅員が立ち、一人ずつ料金を精算していた。
Suicaの改札機はない。
定期券を見せる人はすぐ通れる。
切符を持つ人は駅員が運賃を計算し、不足分を現金かクレジットカードで支払う。
古い国鉄時代の改札と、最新式のカード決済が同居している。
夢らしい、不思議な風景だった。 -
私は前に並んでいた中年の男性に尋ねた。
「これは何という列車ですか。」
男は少し驚いた顔をした。
「ご存じなかったんですか?」
「ええ。」
「この列車は、終電を逃した人だけが乗れる列車ですよ。」
私は思わず笑った。
「そんな列車があるんですか?」
「ありますとも。ただし、時刻表には載りません。」
男は当然のように続けた。
「東京駅を深夜に出て、新宿を経由し、終点は八王子の車庫。運賃は普通に取られますが、乗られるかどうかは運次第です。」
周囲の人たちも頷いている。
誰一人、疑う者はいなかった。 -
改札を抜けると、人だかりができていた。
その中心に、一人の男性が立っている。
六十歳を少し過ぎたくらいだろうか。
白髪は短く整えられ、紺色の古風なコートを羽織っている。
姿勢は驚くほど美しく、歩く姿には長年鉄道に携わってきた者だけが持つ静かな品格があった。
人々は口々に言う。
「えりあしさん、おはようございます。」
「今日はどちらへ。」
「松本まで行けますか。」 -
その男性は、一人一人の顔を見て穏やかに頷く。
私は、なぜか自然にその人へ目を奪われていた。
派手な人ではない。
しかし、この場にいる誰よりも安心感があった。
まるで、この人について行けば、必ず家へ帰れる。
そんな気持ちにさせる人だった。 -
やがて、えりあしさんが私に目を向けた。
初対面のはずなのに、昔から知っている人を見るような懐かしい微笑みだった。
「初めてですね。」
私は驚いた。
「どうして分かったのですか。」
「この列車では、初めての方は皆、同じ顔をされます。」
その言葉に、一同が静かに笑った。
笑い声はするのに、不思議と騒がしくない。
深夜の駅へ吸い込まれるような穏やかな笑いだった。 -
やがて一人の老人が私に耳打ちした。
「本名は、誰も知らないんですよ。」
「え?」
「昔、国鉄の駅員だったそうです。帽子を脱いでも襟足(えりあし)だけは乱れない。それで先輩から『襟足』というあだ名で呼ばれるようになったのだとか!」 -
えりあしさんは照れくさそうに笑った。
「昔話ですよ。」
老人は嬉しそうに続けた。
「でも、その呼び名だけが今も残った。」
「今では誰も本名を知らない。皆、『えりあしさん』です。」 -
「さあ、参りましょう。」
えりあしさんが静かに言った。
「今日は運がよろしい。松本方面への回送列車に乗せていただけます。」
木製の階段を上って乗り込む。
腕時計を見ると、午前二時四十分。
ベルもない。
放送もない。
扉は静かに閉まり、列車は闇の中へ滑るように走り始めた。 -
高尾を過ぎ、大月へ向かうころ、車窓には月明かりに照らされた山々が浮かび上がる。
誰も大きな声では話さない。
その代わり、えりあしさんが昔話を語り始めた。
「甲州には、『道に迷った旅人は、山が帰り道を教えてくれる』という古い言い伝えがあります。」 -
私は耳を傾けた。
「人は、家へ帰る道よりも、自分の心へ帰る道を見失うものです。」
その言葉が胸に残った。
列車は笹子トンネルを抜けた。
すると、えりあしさんが窓の外を見つめながら、小さく言った。
「もうすぐ塩山です。」
その声には、どこか懐かしさと敬意が込められていた。 -
やがて列車は静かに速度を落とし、夜明け前の塩山駅へ滑り込んだ。
ホームには人影がない。
風の音だけが静かに流れている。
えりあしさんは私たちを振り返り、一礼した。
「これから、向嶽寺へ参りましょう。」
「この時間だけ、お会いできる方がおられます。」
そう言って歩き始めたえりあしさんの後ろ姿を見たとき、私は胸の奥で、小さく何かが動き始めるのを感じた。
その方とは、三年前の現実の旅で、確かに一度だけ、お会いしたことがあった「あの人では---?」と胸の高鳴りを覚えた。 -
えりあしさんの後を歩くうち、私たちはいつの間にか塩山の町外れにある向嶽寺(こうがくじ)の山門へ着いていた。
山門は静かに開かれ、本堂には一筋の灯がともっていた。
境内には、朝を待つ蝉の声も、風の音さえない。
えりあしさんは深く一礼すると、小さな声で言った。
「どうぞ、お入りください。」
不思議なことに、そのときの私には、私たち七人が同じ夢の中の時間を歩いているように感じられた。向嶽寺 寺・神社・教会
-
玄関先で声を掛けた。
「おはようございます。御朱印をいただけますか。」 しばらくすると、一人の女性が現れた。
三十五歳くらい、金色の髪を後ろで束ね、日本の作務衣を着ている。
その姿を見た瞬間、私は息をのんだ。
三年前、この寺で実際に御朱印を書いてくださった、あのイギリス人修行僧の女性だった。
女性は穏やかな日本語で微笑んだ。
「はい、喜んで。」
硯で墨をすり、迷いのない筆遣いで御朱印を書いていく。 -
その達筆さに、同行した誰もが見とれていた。
私は思わず尋ねた。
「日本には長いのですか?」
女性は静かに頷いた。
「仏教を学ぶため、イギリスから参りました。四年間、この向嶽寺で修行しております。近いうちに一度祖国へ帰りますが、また日本へ戻り、修行を続けたいと思っています。」
その言葉は、三年前に私が実際に聞いた話と、一字一句違わなかった。
御朱印帳を受け取ると、墨がまだ乾いていない。 -
書かれていた禅語は、
『帰る処は、一つにあらず。』
その意味を尋ねようと顔を上げると、女性はもう姿を消していた。
えりあしさんだけが静かに言った。
「人生には、家へ帰る旅と、心へ帰る旅があります。」 -
私たちは再び塩山駅へ戻った。
夜明け前だというのに、駅には誰もいない。
ところが、えりあしさんは一番線の先へ向かって歩き始めた。
行き止まりのはずの場所だった。
しかし、その奥に、もう一つのホームが現れた。
古い木造の上屋。
ガス灯のような明かり。
そして、白い駅名標。
そこには何も書かれていない。
ただ、風だけが静かに吹いていた。 -
私は思わず立ち止まった。
えりあしさんはホームの時計を見上げた。
時計の針は逆向きに回っている。
「昔から塩山では、『人は道に迷うのではない。時に迷うのだ。』と言われています。」
その瞬間、ホームの景色が揺らいだ。
蒸気機関車の汽笛が聞こえる。
着物姿の旅人。
甲州街道を急ぐ商人。
戦地へ向かう若い兵士。
幼い子を背負う母親。
そして、家族に迎えられる人々。
百年以上の時が、一つのホームへ静かに重なっていた。
「ここは、帰りたいと願う人だけが立てるホームです。」
えりあしさんはそう言って微笑んだ。
「ですが、過去へ戻る駅ではありません。人は前へしか歩けません。ただ、忘れていたものを思い出すためだけに、このホームがあるのです。」 -
やがて遠くから回送列車が近づいてきた。
音もなく停車し、私たちは再び乗り込んだ。
帰りの車内では誰も話さなかった。
窓の外が少しずつ明るくなる。
新宿を過ぎる頃には、都会の朝が始まっていた。 -
やがて列車は東京駅へ滑り込んだ。
私はようやく現実へ戻った気がした。
改札へ向かうと、駅員が呼び止めた。
「お客様、切符を拝見します。」
私は八王子で精算したことを説明した。
駅員は不思議そうな顔をした。
「昨夜、そのような列車は運転しておりません。」 -
私は笑いながら言った。
「そんなはずはありません。えりあしさんという方が案内してくださいました。」
その瞬間、年配の駅員の表情が変わった。
「……えりあしさん?」
奥から古い写真が運ばれてきた。
国鉄時代の駅員たちが並ぶ集合写真だった。
一番端に写る若い駅員の名札には、
『襟足 恒一』
と記されていた。
「昭和五十七年、深夜の回送列車で乗客を救い、殉職した駅員です。」 -
私は言葉を失った。
写真の裏には、小さな文字でこう書かれていた。
『終電に間に合わなかった人も、必ず家へ帰してあげること。』 -
私は胸ポケットから御朱印帳を取り出した。
開くと、墨はすっかり乾いていた。
そこには、向嶽寺の朱印とともに、あの禅語が静かに残っていた。
『帰る処は、一つにあらず。』
私は改札を振り返った。
雑踏の向こうに、紺色のコートを着たえりあしさんが、小さく一礼したような気がした。
瞬きをした次の瞬間、その姿は朝の人波へ溶けるように消えていた。 -
あれ以来、私は終電が近づくたび、ふと駅のホームの先を見つめる癖がついた。
もしかすると今夜も、時刻表には載らない一本の列車が、帰る場所を探している誰かを、静かに待っているのかもしれない。
完
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったスポット
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
27