1950/12/31 - 1950/12/31
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αρκαδια(アルカディア)さん
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【島旅日記】
「世界を見たことがある人」よりも
『日本を知っている人』になりたい
【1】 宮古島
人生で初めての島旅は1979年、中学2年の夏休み、宮古島への旅行だった。
もともとは私には全く関係のない、親戚家族が沖縄に行くというだけの旅行だったのだが、出発直前になってメンバーの一人が急用だったか急病だったか、とにかく行けなくなってしまい、私に代打で声がかかったという偶然の島旅だった。
私は出発前夜から中目黒の親戚宅に泊まった。
旅行メンバーは、叔父・叔母(14年後に仲人をしてくれる)、それに、4学年上と同学年の従兄弟2人、それに私が加わった5人だった。
この一家は、都内で会社を経営していて、たぶん私の親戚の中では、父方・母方あわせて一番お金持ちというイメージで、焼肉もフランス料理も、生まれて初めて豪華な外食させてくれたのはこの一家だ。
そして夏に家族で沖縄とは、すごいなぁ~と大興奮の飛び入り参加旅行だった。
出発の朝、親戚宅の前でタクシーを拾う。
「駅まで行くのにタクシーに乗るんだ?」
私の家では考えられない。
基本的に我が家では、交通手段は市電、贅沢しても市電より10円高いバス、まず、タクシーは乗せてもらえないし、外食は地元の百貨店の大衆食堂だった。
後に知ったところでは、親父の職業は相場師って程大袈裟ではないもの、相場を張って生計を立てていて、年によっては、それだけで家が買えるほどの年収があったらしいが、「子供のうちから贅沢はさせない」という親父の方針があったようで、その恩恵を分かりやすい形で私が得ることは無かった。
子供の私は家の事情を知る由もなく、「我が家は貧乏、中目黒の親戚はお金持ち」とずっと信じていた。
中目黒駅近くからタクシーに乗ると叔父は、「浜松町駅に行って」と言う。
当時は京浜急行も羽田空港には直結されていなかったので、浜松町からのモノレールが唯一の鉄道アクセスだった。浜松町駅までは結構距離がある。恵比寿か渋谷で山手線に乗るのではなく、何度もメーターが上がるところを直接タクシーで行くとは、やはりお金持ちだ。
我が家なら「中目黒まで徒歩⇒東横線か地下鉄で渋谷か恵比寿⇒山手線で浜松町⇒モノレールに乗る」これで疑う余地は無い。
運転手が、「旅行ですか、どちらまで?」と訊くと、叔父は、「うん、ちょっと沖縄まで。」と言う。
沖縄が「ちょっと」か…と驚いていると、もう一つ驚きの言葉が。
「あ、やっぱり浜松町やめて、直接空港に行ってくれる。そこから高速入って。」
子供心に、「そんなのって有りですか? タクシーで羽田空港? そして、ちょっと沖縄?」
裕福さの巨大な壁に大いに驚いた。
羽田空港はもちろんビッグバードができる前の旧ターミナル。空港で手荷物を預けると、JALのB747に乗って沖縄の那覇空港に向けて飛び立った。
窓側には従兄弟が座り、飛び入り参加でしかもおそらく本当より安い料金で参加させてもらっている私は遠慮がちに、ちょっと外が見えにくい席。(通路側だったか3人席の真ん中だったか…)
それでも、那覇空港に着陸直前に、遠い小さな窓の向こうに、今までに見たことが無い、空のように明るく透明感のある青い海が見えた。
初めて見る南国の海、南国の青に、胸が躍った。
滑走路に着陸して減速が終わると、飛行機は誘導路へとUターンする形でゆっくり進む。
すると、機外に見える緑の丘の上に、今まで見たことの無い先の尖った物体が並んでいることに気が付いた。
ロケットのような形をしている。ミサイルだ、ミサイルが空に向け突き立っている。
ナイキ-Jミサイル、剥き出しのミサイルが並んでいる空港に旅行で来るなんて・・・、なんていう所に来てしまったんだと正直思った。
飛行機が駐機場に停まり機外に一歩踏み出すと、恐怖を感じるほどの熱気が私を包み込んだ。
そして空港ターミナルビルに辿り着くと、建物の中は強烈にクーラーが効いていて、涼しいを通り越して寒い。
外は猛暑、そして、中は極寒。
どんなに省エネが叫ばれてもここだけは譲れない、昔も今も変わらない沖縄スタイルだ。
那覇空港に到着すると、離島行きの南西航空が発着する第2ターミナルに行かなくてはならない。
着いた第1ターミナルを出て100m程度だろうか、外を歩く。
空港前の駐車場には椰子の木、太陽の光は東京の比じゃなく眩しい。
そして、痛いほど強烈な日差しが、ほとんど真上から射しているようだ。
外を歩くことたった1~2分、熔けるか干からびるか…とにかく炎天下から逃れたい、と思った頃に、冷蔵庫のように寒い第2ターミナルに辿り着いた。
搭乗手続きを済ませると、出発ゲートから飛行機へはバスで移動した。
さっき羽田からの飛行機を降りてから、暑い屋外、寒い第1ターミナルビル、炎天下の屋外、寒い第2ターミナルビル、そして暑い屋外と、日本刀の焼入れのように高温低温を交互に繰り返して、南西航空のB737-200に乗り込んだ。
沖縄の乗り物だ、機内はさぞ寒いだろうと期待していたら、意外にも暑かった。
そして、シートポケットに見つけたものは、なんと、団扇(うちわ)!!
まさか、南国の飛行機は冷房無しで、この団扇で扇ぎながら目的地に行け…というのか?
席についてシートベルトを締めると、無知ゆえに恐ろしい想像に頭が支配されてしまった。
この機はもう少しすると離陸する。すると飛行機はこの暑い沖縄の地上よりも、もっと少し太陽に近付く。
ここよりもさらに強い太陽に照らされて、機内は今よりもっと暑くなる。
科学に詳しい同級生が言っていたなぁ、山に登ると気温は下がって涼しくなるけど、もっと上空へ行くと熱圏というのが有ってとてつもなく熱いとか・・・?(←俺はもうちょっと勉強しろ!)
この機内の100人以上の乗客は、宮古島に到着するまで、手にした団扇で扇いで自分自身の生命維持を図らなくてはいけないの…か。
一昨年、南紀白浜から名古屋(小牧)で、生まれて初めて飛行機に乗って、これが2度目の空旅だった私は、意味不明の妄想で震え上がっていたけど、飛行機が動くと意外と空調は効いて、上空に上がっても暑くなることは無くむしろ涼しくなった。
あの団扇は、南西航空の洒落だったのか、それとも、旧型のB737は、地上駐機中は冷房が効かなかったのか、今となっては確かめる術もない。
羽田から那覇は通路側だったのだが、この宮古便は窓側の席に座らせてもらえた。
那覇空港を離陸すると、さっき那覇に着くときに従兄弟の後ろから遠慮がちに見ていた、透明に輝く水色の海が目の前いっぱいに広がった。
初めて見た不思議な海の色。何故か海の底は青白く輝いている。湘南でも三浦でもこんな色は見たことが無い。
これは、白砂に覆われた浅い海底が強い太陽光を反射している色だということを当時は知らなかった。
輝く水色の中に刷毛で描いたような線状の黒い模様は何だろうか? 初めて見たけど、美しい。
これが、珊瑚礁だと当時は知らなかった。
飛行機が高度を上げるに従って、輝く海は後方に飛び去り、眼下には青い大海原が広がった。
暫くは、大きな入道雲を見ながらの洋上飛行。
その後、飛行機が高度を下げると、窓から斜め前方遠くに、宮古島の島影が見えてきた。
そして着陸直前、眼下の景色に息を呑んだ。
さっき那覇で見た海よりも、もっと密度が濃く、もっと美しい海。
私は、沖縄の離着陸時にだけ見えるこの景色に、すっかり魅了されてしまった。
その余韻に浸っていると、地面が急速に足元に迫って、間もなく猛烈な勢いで滑走路が前から後ろへと流れ始めた。そして、ガクンというショックと共に着地。
窓に張り付き一生懸命に外を見ていた私は、「宮古島に着いた!」という興奮が急速に膨らんできたのだが、目の前の予想外の光景に、いきなりその興奮が破裂した。
そして、目が点になった。
私の視界の斜め下方向には、B737のエンジンがあるのだが、そのエンジンの外殻が、バカッと開いて後ろにずれた。そのバカッと開いた大きな部品は、そのまま地面に落ちるのではないかと思ったのだが、エンジンから完全に後ろに飛び出した状態で引っかかって止まった。
そして、猛烈なエンジン音。
「エンジンが壊れた?」
次は爆発するのではないかと、思い切り肝を冷やしたのだが、そのまま飛行機は減速しながら滑走路を進み、停止してUターン、のろのろと宮古空港のエプロンに入っていった。
実はこれがB737-200のリバース(逆噴射)だったのだが、初めて至近距離で見たら、きっと誰もが「エンジンが壊れた!」とショックを受けるはずだ。それほど派手なリバースだ。
2010年現在、国内ではこのタイプのリバース(通称=ギロチンリバース)は、MD-81でしか見ることができない。それ以外は全て、エンジンの外殻が後方にスライドするタイプになっている。
ちなみに、MD-81はリア・エンジン・タイプの飛行機なので、客室からエンジン後部を見ることは出来ない。
なので、客室からこの派手なリバースを至近に見ることができる飛行機は、残念ながらもう日本には無い。
飛行機が停止すると、タラップ車が横付けされ駐機場(エプロン)へと飛行機を降りる。
目の前に、カラフルで、花のような笠のような、不思議な格好をした空港ターミナルビルが建っている。
宮古空港旧ターミナルビル、通称=花笠空港。
これが、琉球舞踊で使う琉球花笠をモチーフしたものだという事を後で聞いた。
預けた荷物を受け取ると、空港からタクシーに乗った。
迷わずタクシーに乗り込むところが潔く、また羨ましい。
我が家の家族旅行は、路線バスの時間を調べるところから行動が始まるというのに…。
タクシーは東平安名岬に向かった。宮古島南東部にある細長く切り立った岬だ。
今はきれいなコンクリート舗装の道が続くこの岬も、当時は車が走ると白砂が舞う未舗装路だった。
また、今は灯台の手前300~400mくらいの位置に駐車場があって、その先には入れないように車止めがしてあり、岬の先端に行くにはそこから炎天下を歩かなくてはならないが、この当時は確か灯台の下が駐車場だったと記憶している。
高い断崖絶壁は伊豆の石廊崎と同等の迫力、しかし、海中に点在する沢山の巨岩、所々に見える白い砂浜、そして珊瑚礁、これらは、それまで私が旅行をしたことのある本州のどの場所でも、見ることはもちろん、想像することも出来ない景観だった。
観光を終えてホテルに行く前に、海水浴場でタクシーを降ろしてもらった。
宮古島の中心街である平良の、ほんの少しはずれにあるパイナガマビーチだ。
初めて泳ぐ沖縄の海、というよりは、神奈川県に住んでいながら、湘南も三浦も逗子も有るのに、海で泳いだことが無かったので私にとっては初めての海水浴だ。
海に入って息を呑んだ。(水は飲んでない)
潜れば簡単に手が届く浅い海底を埋め尽くす『枝珊瑚』、熱帯魚も泳いでいる。
海の色は青空のように明るい水色だった。
宮古島での宿泊ホテルは、平良市(現宮古市)中心にある「ホテルニュー丸勝」。
この頃は宮古島東急リゾートがオープンする5年前で、リゾートホテルというものは宮古島には無かった。
今となっては格安ツアー御用達になっているこのホテルだが、当時の宮古島で最もハイグレードなシティホテルだったと言っても、皆、「にわかには信じられない…」という顔をする。
ハイグレードである証拠に、このときコンサートで宮古島に来ていたサックスプレイヤーのナベサダこと渡辺貞夫氏は、このホテルに泊まっていた。
ロビーでスタッフと打ち合わせをしているナベサダを見て驚いたが、私が泊まっている部屋からドアを出たとき、隣のドアが同時に開いてナベサダが出てきたときは、もっと驚いた。なんと、隣の部屋に宿泊していた。
宮古島の夕飯も衝撃的だった。
叔父は、「沖縄と言ったらステーキとロブスターだろう」と言って、大きな海老とステーキを注文した。
この旅行に出発する前、米軍勤務でアメリカ慣れしている父親から、ステーキを食べるときのテーブルマナーのレクチャーは受けていた。しかし、ロブスターについては何も聞いていなかった。
大きな海老が半身カットされ、ホワイトソースがかけられてオーブンで焼かれている。
海老の殻から身を切り出して食べるのに本当に四苦八苦した。
次の日は砂山ビーチで泳いだ。
砂山ビーチは、浜へのアクセスがとてもハードな海水浴場だ。
まず、タクシーで砂山ビーチ入口に降ろしてもらう、または、砂山ビーチ入口の駐車場にレンタカーを置く。
そして、荷物を持って砂丘を登る。これが、本当にキツイ。
電気ストーブのような日差しで肩や背中をローストされながら、熱々に焼けた熱い砂の坂道を登っていく。
距離も標高差もたいしたことないのだが、砂に足が潜って意外と進まない。
頂上に辿り着くと、目の前には美しい珊瑚礁の海が広がっている。
そして、いま登ってきた高さの2倍くらいの下り坂が待っている。
砂に足を取られながらも軽快に駆け下りるが、途中で時々「帰りはこの高さを登るのか…」と憂鬱な気持ちが脳裏を過ぎる。
浜辺に下りると、宮古島の観光パンフレットで見慣れた、岩のアーチが見えてくる。
海の中は、昨日のパイナガマビーチと比べるとさらに、「桁違い」と言って良いほど美しかった。
水底を覆う真っ白な砂が、真上から降り注ぐ強い太陽光線を反射して、海は青く透明に輝いている。
枝珊瑚だけでない、大きなテープル珊瑚が沢山ある。
隣り合うテーブル珊瑚の袖同士がくっついて、下が青い水のトンネルになっている。
ダイビングの経験者だろうか、そのトンネルを素潜りでくぐって行く人が居る。
熱帯魚の数と種類も昨日の比ではない。花畑のようなカラフルな海を、生まれて初めて見た。
この日は昨日と同じホテルに泊まり、翌日はもう一度パイナガマビーチで遊んだ後、夕方の飛行機で宮古島を後にして、次の宿泊地である那覇に向かった。
那覇での宿泊は、首里の高台にある沖縄都ホテル。
このホテルの最上階は円形の展望レストランになっていて、那覇の夜景を見ながら食事ができる。
このとき、Tボーンステーキというものを初めて食べた。
肉の中央にT字型に骨があって、食べなれた和食では考えられない、なんともエキゾチックな料理だと思った。
サーロインステーキの食べ方は父親に教えられていたが、Tボーンは想定外。もちろん食べるのに苦労した。
翌日は午後の飛行機までの数時間、国際通りで買い物をした。
当時は米軍流れ品の野戦服やヘルメット、ライフルの弾や薬きょう、中身を抜いた手りゅう弾や砲弾なんてものもお土産として売っていて、従兄弟達は大盛り上がりだったが、私は武器にはそれほど興味が無かった。
それよりも、牧志公設市場の魚屋と肉屋があまりに強烈な印象だった。
魚屋にはどう見ても熱帯魚と思える魚が並び、エビは私が日本最大種と思っていた伊勢エビよりもはるかに大きく色も青や黄色が入って熱帯風。(ニシキエビを初めて見た!)
イカは見慣れた三角の耳が無く、ぼてぼてっとして巨大な姿。
そして、肉屋は、豚の頭が切り株のような俎板にドーンと乗っている。
色も迫力も強烈過ぎて、頭がクラクラした。
そんなこんなの沖縄3泊4日が終わり、私たち5人は那覇空港からJALのDC-10に乗り羽田に向かった。
(1979 宮古島)
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