2023/10/05 - 2023/10/05
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ペコちゃんさん
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狭山市民大学の「狭山の歴史講座」の第5回校外学習は「奥富地区」。
今回の行程は、新狭山駅 ⇒ 大山道の道しるべ ⇒ 芝坂のイボ神さま ⇒ 廣福寺 ⇒ 奥富公民館(休憩) ⇒ 梅宮神社 ⇒ 瑞光寺 ⇒ 鋪石供養塔 ⇒ 西方の薬師堂と石仏群 ⇒ 生越道道標 ⇒ 新狭山駅・・・歩いた距離は約5.5㎞で約12,000歩でした。
狭山市の北東部にある奥富地区は、入間川の水を利して太古の時代より人が住んでいた場所であり、狭山市の田んぼは大半がこの地区にあります。
寺社や史跡など、昔を偲ぶコースを歩きながら学習しました。
写真は、西方の薬師堂に祀られている「木造薬師如来坐像」。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- その他
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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<1>大山道の道しるべ
この道しるべは、下奥富の旧国道と赤間川通りが合流する三差路にあり、寛政5年(1793)に造立されたものです。 -
高さ110cmの「大山道の道しるべ」は、正面には阿弥陀如来を表すキリークの種子(しゅじ)があり、その下には「南無阿弥陀仏」の名号と「下奥留村中」「願主寛善」と彫られています。
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右側面には「右 はんのふ(飯能)子ノこんけんみち(子ノ権現道)」と刻まれ・・・
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左側面には「左 大山道」と刻まれた文字塔・・・神奈川県にある大山は古代から信仰の対象で、「大山詣り」として江戸の人口が100万人の時代に、年間20万人もの参拝者が訪れたと言われています。
別名「雨降山」とも呼ばれる大山は、雨乞いや五穀豊穣の祈願だけでなく、商売繁盛にも御利益があり、また、帰りがけに江の島などの観光地に立ち寄っても江戸から5日程度でした。
旅人が迷うことなく目的地に着けるように、下奥富村の村人が協力して建てたのは、生前に善を施す(作善)ことが死後の極楽往生に繋がると考えていたためと思われます。 -
<2>芝坂のイボ神さま
ここは細田家の墓地で、通称「イボ神さま」と呼ばれる浮彫の馬頭観音は、安永8年(1779)に、この近くに住んでいた細田林右衛門により、馬の供養仏として建てられました。 -
墓地から少し下った所の道路脇に祀られた「イボ神さま」・・・多くの馬頭観音は忿怒(ふんぬ)相で怒ったような表情ですが、この三面六臂の像は大変穏やかな表情をしています。
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この馬頭観音がイボ神さまとして信仰されるようになったのは、身体中にイボが出来て困っていた人が願掛けをしたところ、たちどころにイボが取れたことからだと伝えられています。
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右側面には「によせちく志うほつぼだい也(如是畜生発菩提也)」と刻まれ、家族同様に寝起きを共にした愛馬の死を悼み、その菩提を弔うため建てられたことが分かります。
馬頭観音は六道のうちの畜生道に配され、ここに堕ちた衆生の救済に当たる仏とされていますが、頭上に馬を戴くところから馬の守護神として信仰され、地蔵菩薩に次いで馬頭観音が数多く造立されました。
これは人間社会の中で馬の果たした役割が大きかったことを物語っています。 -
<3>廣福寺
天台宗の廣福寺は、川越にある仙波中院の末寺・・・創建は永禄11年(1568)と言われていますが、過去帳に「永正甲戌仏涅槃日 天台沙門実海寂」とあるので、草創は永正11年(1514)以前に遡ると考えられます。 -
山門に続く参道には、赤い彼岸花と珍しい白の彼岸花が咲いています。
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この山門は、同寺所蔵の「表門諸入用帳面式」によると、文化元年(1804)10月29日に棟上祝儀を行ったとあるので、翌年には完成したと考えられています。
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山門と鐘楼が一体化した鐘楼門で、袴腰は漆喰白壁塗・・・白壁が美しい竜宮造りの建築様式です。
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総ケヤキ材の上層部は格天井の鐘楼で、勾欄(手すり)をめぐらし、屋根は入母屋造りの瓦葺きです。
安永3年(1774)に鋳造された梵鐘は戦時中に供出され、1961年に再鋳されました。
格天井の天井には極彩色の絵が描かれていましたが、現在は剥落し、残念ながら確認できません。 -
山門の脇に置かれた鬼瓦。
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山門をくぐると、右側に梅の木と井戸があります。
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かつて徳川3代将軍・家光が当地で鷹狩りを行った際に当寺に立寄り、当寺の井戸水で点(た)てたお茶を飲んだ時、この紅梅のあまりの美しさに感嘆の声をあげ、「この梅おろそかに致すべからず」との言葉から、ゆかりの井戸を「梅の井」、梅の木を「御詞(おことば)の梅」と呼び、寺では代々大切にしています。
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本尊の薬師如来を祀る本堂。
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本堂前の大香炉。
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鯉も気持ち良さそうに澄んだ池の中で泳いでいます。
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綺麗に手入れされた庭園。
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「幼な日の遊び お絵かきと 彼岸花」と書かれた石碑の前に咲く紅白の彼岸花。
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見事なザクロと彼岸花・・・秋を感じます。
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奥富公民館で小休止。
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入口に咲くチョウセンアサガオ・・・美しい花ですが、有毒植物です。
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公民館前にある奥富小学校・・・明治7年に廣福寺を仮校舎として設立された、伝統と歴史がある小学校です。
二宮金次郎像の左に建つ石柱には「奥富尋常高等小学校」・・・明治36年に現在の場所に校舎が完成し、大正2年に高等科を併設しました。 -
田んぼが広がる下奥富は、市内でも有数の穀倉地帯。
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田んぼで餌を啄むシラサギ。
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<4>梅宮(うめのみや)神社
当神社は、京都市右京区の桂川沿いに鎮座する梅宮大社を分祀したもので、創建は承和5年(838)と言われます。
広瀬神社と並んで市内で最も古い神社の1つで、かつては奥富のほか三ツ木・沢・田中・峰の総鎮守でした。 -
最初は狭山青陵高校の辺りにありましたが、その後、字山崎の地に移り、天文年間(1532~55)に社殿が焼失し、現在地に移転したと言われています。
2月の甘酒祭には参道に屋台が並び、大勢の人で賑わいます。 -
参道の左側に手水舎、その隣は甘酒祭で西方囃子が演じられる神楽殿。
甘酒祭は「頭屋制」という関東地方では他に見られない珍しい運営形態で、氏子を9組(1頭屋は約10軒)の祭組に分け、1年単位で祭礼を担当します。
1200年前の平安の昔よりそのまま継承して挙行されていることから、平成4年に埼玉県指定文化財・無形民俗文化財に指定されました。 -
水は出ていませんが、立派な龍です。
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甘酒祭は2月10日・11日の2日間に亘り執り行われますが、祭に用いる白酒の製造は1月初旬から仕込みを始め、2月2日からの「謡(うたい)」の練習が始まる迄に作り上げます。
かつては、頭屋の中の杜氏宅で作っていたため、温度管理が難しかったそうですが、現在は手水舎の左側にあるこの酒蔵で仕込むので、温度管理が大変楽になりました。 -
2月10日は宵宮(よいみや)で、「座揃式(ざぞろいしき)」などの神事が行われます。
慶安4年(1651)には川越藩主・松平信綱が領主として招かれたそうで、現在は領主役を務める氏子総代らを社務所に迎えて行いますが、頭屋メンバーは進行役と杜氏が出席するだけです。
11日は大祭で、夕方から拝殿で「頭渡し」の神事が行われ、次の頭屋に引き継いで酒杯を重ねます。 -
祭りは甘酒だけでなく、濁り酒(どぶろく)も振舞われますが、運転する人は ” NO "
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11日には神楽殿で「西方囃子」が賑やかに奉納されます。
西方囃子は江戸神田囃子の流れを汲む神田徳丸の流儀を持ち、江戸時代に北入曽村の入曽囃子から伝えられました。
昭和26年に後継者が絶えて一時中断していましたが、昭和51年に復活し、梅宮神社の甘酒祭や他の神社の祭事で披露されます。 -
拝殿に向かいます。
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拝殿の中央には、115.6×43.7cmのケヤキに彫った神号・・・文字には金粉に膠を混ぜて作った金泥が塗られています。
筆者は江戸時代の書の名手で儒学家の亀田鵬斎(1752~1826)で、空中に飛び回るような独特な書法です。 -
左側の壁には「桃園三傑図」・・・中国の三国時代(3世紀)の初め、蜀の皇帝・劉備玄徳、勇猛の武人として知られる関羽・張飛の三名が桃下に会して兄弟の盟を結ぶ様を描いた絵画で、作者は江戸時代後期の画家・堤等淋。
額の裏側には、「奉納者 江戸浅草田原町 境屋傳蔵・文政三年(1820)庚辰年正月吉日」と記されています。 -
青銅製で片面だけが残る、直径14cmの鰐口・・・「奉 武州入東郡奥富郷西方瀧梅宮鰐口 應永三十三年(1426)五月三日」と刻まれており、当時は入間郡の一部を入東(にっとう)郡と称していたことが分かります。
この鰐口は、かつては当社の別当寺だった梅宮寺(ばいぐうじ)のものでした。 -
<5>瑞光寺
真言宗智山派の瑞光寺の創建は、寺伝によると平安前期の大同2年(807)で、本尊の大日如来坐像は、中興開山の俊儀(しゅんぎ)上人が1700年代に荒廃した堂宇・山門を修復した折に持参したものと言われています。 -
伽藍の中で最も古い「山門」・・・元禄15年(1702)に改修された記録が残っています。
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山門を入って右側にある鐘楼。
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昭和43年に新築された本堂・・・以前の本堂は、俊儀上人が再建したものでした。
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本堂前には弘法大師像や観音像があります。
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本堂に上がって、寺の歴史や卒塔婆などについて住職さんの話を聞きます。
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内陣左側の壁には、見事な龍虎の「こて絵」・・・左官職人が左官ごてで仕上げた漆喰のレリーフです。
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額に入ったこの写真は、狭山市指定文化財の「紙本着色両界曼荼羅」・・・室町時代の作と推定され、本物(縦90.5cm、横81cm)は内陣に飾られています。
曼荼羅とは、密教の経典に基づいて主尊を中心に諸仏諸尊の集会する楼閣を模式的に示した図像で、両界曼荼羅は、大日如来の説く真理や悟りの境地を視覚的に表現した曼荼羅です。 -
よく手入れされた境内。
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本堂左側の墓地にある志村家の墓・・・上奥富村の名主だった志村家の次男・志村次郎兵衛は、堀兼新田開発の総責任者として開墾に励みました。
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<6>鋪石供養塔
赤間川が流れる上奥富地区の田んぼに建つ石塔です。 -
竿石正面には「鋪石供養塔」。
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梅宮神社の参道に、参拝者が歩きやすいように敷石を敷く工事が完成した際に建てられた敷石供養塔で、嘉永4年(1851)に造られました。
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<7>西方の薬師堂と石仏群
急坂を登ると西方自治会館の前に広場があります。 -
石段を上った所にあるのは、奥富村民の寄付により、昭和28年に創建された奥富神社・・・西南の役~太平洋戦争で戦没した奥富出身の101柱が祭神として祀られ、4月の大祭では西方囃子が奉納されます。
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奥富神社の下の広場にある「薬師堂」・・・創建年代は不明ですが、慶安元年(1648)に記された広福寺の「御改帳」によれば「堂地三畝六歩薬師堂高(光)林寺也」とあるので、慶安元年以前の創建と思われます。
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このお堂は廣福寺の所有で、「千日堂」とも呼ばれます。
扉の中央1ヵ所に、中が見られるように空けられています。 -
薬師堂に祀られた本尊の薬師如来坐像・・・制作年代や作者は不明ですが、威厳を感じる顔立ちの素晴らしい像です。
右手は全ての恐れを取り除くという施無畏印(せむいいん)を結び、左手には薬壷を持っていたようですが、今はありません。 -
自治会館の裏手には、如意輪観音半跏趺坐像や廻国供養塔などの石仏群が建っています。
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右から2番目は「廻国供養塔」・・・享保3年(1718)に往山円実(おうざんえんじつ)という僧侶(または行者)が、66ヶ所の霊場納経廻国供養の大願が成就したのを記念して、下奥富村村民の助力で建てたものです。
廻国供養とは、釈迦が亡くなってから56億7千万年後に弥勒菩薩が現れて衆生を救うまで、法華経(大乗妙典)を保存するために66ヵ所の霊場に納経して回ること。 -
その左隣は、正徳6年(1716)に造立された「如意輪観音」・・・右手で頬杖をつく姿から歯痛に効く仏様として信仰されていますが、本来は六道にあって苦しむ衆生を救う仏で、人々を苦しみから救うことを願って建てられたものです。
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<8>生越道道標
国道16号線に面して建つ生越道道標は、神仏を刻まない市内で唯一の道しるべで、建てられたのは寛政2年(1790)。
この道標を「生越道道標」と呼ぶのは、左側面に「北 下奥富並びに生越道」とあり、かつては「せごしどう」と言われていましたが、現在は「おごせどう」と言われます。
正面には「西 扇町谷一り半八王子八り」と刻まれ・・・ -
右側面には「南 三ツ木□□村□□□武蔵野道」・・・
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裏面には「東 川越一り半」と、近郷の村名や街道の主要地名と距離が刻まれています。
造立者は「陳人古道」とありますが、どのような人物かは古記録がないので不明です。
これで奥富地区の校外学習は終わりですが、知れば知るほどに第二の故郷・狭山に愛着が湧いてきます。
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