2023/09/14 - 2023/09/14
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ペコちゃんさん
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狭山市民大学の「狭山の歴史講座」の第4回校外学習は「堀兼地区」。
今回の行程は、新狭山駅から新狭山ハイツ行のバスに乗り、その後は徒歩で光英寺 ⇒ 堀兼の新田開発 ⇒ 上赤坂の弁財天 ⇒ 上赤坂公園(休憩)⇒ 堀兼神社 ⇒ 権現橋の石仏群 ⇒ 下新田の石仏群 ⇒ 現地解散・・・猛暑日の中、歩いた距離は約9㎞で約13,000歩・・・堪えました。
太古の時代から人々が住み着いた入間川沿いの柏原地区などと違って、堀兼地区はかつてはススキが生い茂る広大な原野でしたが、慶安2年(1649)から始まった新田開発により、現在は青々とした野菜畑が広がっています。
そして開拓民の暮らし振りが偲ばれる多くの史跡や文化財も残されており、興味深い地区でした。
写真は初詣でよく訪れる堀兼神社。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- その他
- 交通手段
- 高速・路線バス 私鉄 徒歩
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<1>「光英寺」
創建時期は古記録が残っていないので不明ですが、本堂裏にある当寺の開山・法印覚運の墓碑銘には元禄7年(1694)没とあり、過去帳の最も古い年号に万治元年 (1658)の記録があります。
境内入口にある山門は、東京・護国寺の裏門を移したと伝えられます。 -
山門を入った所に祀られた観音像。
光英寺の宗派は真言宗(豊山派)で、正式名称は堀兼山山王院光英寺。
江戸時代の記録によると、堀兼地区には4つの寺がありましたが、明治時代に他の寺は廃寺となって、光英寺だけが現存しています。 -
立派な宝篋印塔。
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右側の石塔は、「南無阿弥陀仏」の名号を2億万回唱えた記念に、享保12年(1727)に造立された「念仏弐億万遍供養塔」。
江戸時代にはお堂や当番の家に集まり、車座になって大きな数珠を操りながら念仏を唱え、極楽往生や現世利益を願う念仏講が各地にありました。
長い年月をかけて2億万回を達成し、記念に建てた堀兼村の供養塔には「惣人数九百十一人」と刻まれています。 -
2001年に建てられた本堂。
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<2>堀兼の新田開発
天正18年(1590)に徳川家康が江戸に入国すると、それを契機に年貢の増収を目的に、広大な原野であった武蔵野の新田開発が着手されました。
堀兼の新田開発もその一環として、慶安2年(1649)から川越藩の政策で行われ、縦長の短冊型の区画が今も整然と当時の名残を留めています。 -
ススキが生い茂る原野だったこの地域に新田開発を命じたのは、川越藩主・松平信綱(1596~1662)。
開発総責任者として上奥富村の名主の次男だった志村次郎兵衛を選任し、開発予定地には近隣の村々から家督を継げない次男・三男が次々に入植し、本格的に開墾されていきました。 -
入植者に与えられた土地は、間口が約20間(約36m)・奥行き約460間(830m)の長方形の土地で、畑の真ん中に耕作道を通し、面積は1戸当たり約3町歩(3ha)と広大・・・防風林に囲まれた屋敷、次に畑地、一手奥にクヌギやコナラなどの雑木を植え、落ち葉は堆肥に、小枝は薪に利用しました。
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今はお茶と共に狭山名物となっている里芋の栽培が盛んですが、当時は麦・粟・稗・蕎麦・山芋・ニラなどが栽培されていました。
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当時の耕作道を進みます。
入植から10年余り経った寛文元年(1661)に土地面積を測り、畑の等級や生産高を決める検地が行われましたが、検地帳によると当時の入植者は62人でした。 -
丸い川石が目立つ畑・・・今から2万年以上の昔、この辺りを流れていた古多摩川の名残です。
立川断層の活動により武蔵野平野が隆起して台地になったことで、それまで東青梅から東北方向に流れていた古多摩川が流路を遮られ、東南方向に流れるようになったのが現在の多摩川です。 -
古多摩川の旧河道を流れる名残河川の不老川(ふろうがわ・としとらずがわ)・・・狭山市を東西に流れ、堀兼地区から川越市の南部(川越市砂)で新河岸川に合流します。
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畑の中にある右の丸い建物は、昭和39年に造られた堀兼浄水場・・・水源は県営水道からの受水と5本の深井戸で、浄水処理後、ポンプで堀兼地区へ配水しており、災害時に水道が使えなくなった時にも緊急貯水槽として活躍します。
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<3>上赤坂の弁財天
旧堀金村と上赤坂村の村境に弁財天と庚申塔が並んで鎮座しています。 -
弁財天は古くから水の神様として信仰されてきました。
不老川沿いの一帯は普段は水が乏しかったのですが、大雨になると一面水浸しになり、村人は水で苦労したことが多かったことから水の恵みを受けたく弁財天の石塔を建てたのでしょう。 -
元禄13年(1700)に建てられた上赤坂の弁財天・・・頭に鳥居を戴き、右手に宝剣(現在は欠けてない)、左手に宝珠を持ち、お馴染みの琵琶は持っていません。
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台座の左側には波の上を走る帆掛舟が刻まれています。
雑木林から得られる堆肥だけでは不十分だったため、新河岸川の水運で江戸から運ばれた大量の下肥や灰で農業経営の安定化を図ったので、宝船に見立てて舟を描いたのかもしれません。
帆掛舟の下には「これより中山はんのふ(飯能) 中の道大目(青梅) 左ハ武蔵野所沢」と刻まれ、道しるべを兼ねていました。 -
弁財天の隣にある庚申塔・・・上赤坂の村民13名によって元文5年(1740)に建てられ、一面六臂で本手は合掌、他の四手は三叉矛・法輪・弓・矢を持ち、邪鬼を踏みつけ、その下に三猿が刻まれています。
ここは村境だったので、疫病が村に入るのを防ぐために建てたと伝わります。 -
「上赤坂公園」で休憩。
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サッカーグラウンドの周りには、遊歩道も整備されています。
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<4>堀兼神社
創建は社伝によると、日本武尊が東征の折、水がなくて苦しむ住民を救うために富士山を拝んで井戸を掘り、やっと水を得ることが出来た際に祀ったとありますが、この地は新田開発されるまで人が住んだ形跡がないことから、開発が始まった慶安三年(1650)頃に、入植者の延命と子孫繁栄を願って創建されたと思われます。
扁額が架かる一の鳥居は2009年に改築されました。 -
堀兼神社の扁額・・・堀兼神社の本宮である冨士浅間神社の宮司の謹書が基になっています。
当初は浅間宮と呼ばれていましたが、明治4年(1871)に神仏分離令の関係で浅間神社と改名し、その後近郷の神社を合祀して明治42年(1909)に堀兼神社と改められました。 -
鳥居の横に建つ舗石供養塔・・・富士講の供養塔で嘉永元年(1848)の建立。
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龍の手水。
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境内の中央に建つ朱塗りの門は、狭山市内で唯一の随身門・・・創建時期は不詳ですが、万延元年(1860年)に神像を塗替えたとする記録があるので、江戸時代後期には存在していたようです。
建物は桁行6.85m、梁行4.12mの八脚門で、屋根は大正14年に銅板葺に改修されました。 -
随身(ずいじん)とは、平安時代以降、貴族の外出時に警護のために武装して警護にあたった近衛府の舎人で、神を守る者として安置されており、随神とも書かれます。
右側は左大神の奇磐間戸命(くしいわまどのかみ)。 -
左側が矢大神の豊磐間戸命(とよいわまどのかみ)。
(現在は修復中のため、写真は以前に撮ったもの) -
随身門を抜けると、社殿に上がる石段。
社殿が建っているこの小高い丘は富士塚です。 -
左右に一対の狛犬。
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拝殿。
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拝殿の前は広くありませんが、初詣の時期にはここで氏子の皆さんが絵馬や破魔矢、お守りなどを並べて賑やかです。
これは今年の元旦の風景。 -
境内の右側にある神楽殿。
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神楽殿では元旦祭に堀上囃子が奉納されます。
先ずは獅子に頭を噛んでもらって「邪気払い」を・・・これで今年の厄除けはOK。 -
堀上囃子は、昭和59年に「堀兼地区にも囃子連を作りたい」と三芳町上富囃子連から習得して結成された囃子連で、春・夏・秋の祭礼にも奉納されます。
太鼓・鉦・笛などの音色に合わせ、コミカルな「おかめ」「ひょっとこ」の踊りや「獅子」が演じられます。 -
コロナ禍の中で、久し振りに演じられた今年の堀上囃子・・・最後は「祈願 疫病退散」の垂れ幕で、めでたくお開き。
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御神木の大ケヤキ。
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こちらも御神木・・・根元に大きな洞(うろ)があります。
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境内の右手にある石仏群・・・ここに3基の庚申塔があります。
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右端の庚申塔は、小沢平左衛門尉ほか10人の庚申信仰の同信者により、寛文9年(1669)に建てられたもので、三猿が刻まれています。
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天保4年(1833)の馬頭観音文字塔。
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中央の文字塔は、安永10年(1781)に建てられた庚申塔で、自然石に「庚申碑」と刻まれています。
文字塔としては市内で最も古いもので、建てた人は銘文に彫られていないので分かりません。 -
嘉永7年(1854)に堀兼村の農民19人によって建てられた出羽三山供養塔。
古くから霊山として信仰された出羽三山(山形県の月山・羽黒山・湯殿山)・・・中でも農民の崇拝が篤かったのは湯殿山。
湯殿山神社のご神体である巨岩から噴き出る霊湯が、五穀豊穣に霊験あらたかとされたためで、石塔の真ん中に「湯殿山」と刻まれています。
その下に刻まれた「百番供養塔」・・・出羽三山だけでなく、百か所の観音霊場の巡拝を達成した記念に建てられたことが分かります。 -
左端の庚申塔は、右端の庚申塔から8年後の延宝5年(1677)に建てられ、同じように三猿が彫られています。
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境内の左奥にある「堀兼井」の石碑・・・天保13年(1842)に堀兼村名主の宮沢氏が建てたもので、公家だった清原宣明(1790~1863)の漢詩が刻まれています。
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日本武尊が東征の折に掘ったと伝わる「堀兼之井」。
清少納言は『枕草子』の中で
『井はほりかねの井。走井は逢坂なるがをかしき。山の井。さしも浅きためしになりはじめけん。』
と記し、天下の第1位の井戸に「ほりかねの井」を選んでいます。 -
しかし、武蔵野には数多くの「堀兼井」と称されるものがあったと推定され、堀兼神社境内にある「堀兼の井」が古くから言われている「堀兼の井」かどうかは分かりませんが、江戸時代から史跡として知られた場所であったことは石碑からも想定されます。
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石の欄干を巡らした直径7.2m、深さ1.9mの井戸の中央には石組みの井桁がありますが、現在は大部分が埋まっていて、かつてどのような姿であったかは不明です。
『くみて知る 人もありなん 自ずから 堀兼の井の 底のこころを』(西行法師:山家集) -
9月中旬なのに、あちこちで向日葵が咲いています。
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不老川に架かる権現橋。
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<5>権現橋の石仏群
権現橋のたもとに並ぶ4体の石仏・・・右から地蔵菩薩・子の大権現・馬頭観音・月待供養塔で、石仏を囲む台石はかつて権現橋に使われていた石柱です。
この場所は、旧鎌倉街道の枝道(堀兼道)と江戸時代に産業道路として栄えた新河岸街道と合流する道との交差点であり、多くの人々が行き交いました。 -
享保4年(1719)に造立された高さ174cmの地蔵菩薩・・・地蔵菩薩は極楽往生に力を貸してくれる仏であるところから、多くの人々に及ぶようにと人通りの多いこの交差点に造立したものと思われます。
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「子大権現」と刻まれた供養塔・・・権現橋の名前の由来となった文字塔で、文政5年(1822)に堀兼村の人々により建てられました。
飯能市吾野の山中にある「子ノ権現(天龍寺)」は、足の病に霊験あらたかであると伝えられ、足腰守護の神仏として信仰されたことから、交通上重要なこの交差点に子ノ大権現を勧請したものと言われています。 -
元文5年(1740)に造立された「馬頭観音」・・・馬頭観音が数多く造立されたのは18世紀半ば以降で、物資の輸送や農耕に馬が盛んに利用され始めた結果、馬の供養塔が増えたものと考えられますが、この馬頭観音は銘文から先祖や諸々の霊を供養し、二世安楽を願って造立したものです。
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元禄2年(1689)に造立された「月待供養塔」・・・堀兼村の名主と16名の名前が刻まれています。
正面の浮彫像は月待供養の本尊の勢至菩薩で、月待とは十三夜・十五夜・二十三夜などに月の出を待って拝むことで共同飲食の場でもありました。
裏面には入間郡・高麗郡にまたがる120ヶ村の村名が刻まれており、この各村々は交通安全を願って造立に協力したものと言われています。 -
向日葵畑を見ながら頑張って歩きます。
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<6>下新田の石仏群
向かって右が普門品(ふもんぼん)読誦(どくじゅ)供養塔、左が馬頭観音供養塔。 -
明治3年(1870)に造立された普門品読誦供養塔・・・正面に「普門品供養」台座には「講中」と刻まれているように、観世音菩薩普門品(観音経)を一定回数唱えた記念に、観音経の信者が建てたことが分かります。
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この供養塔の台座の右側面には「右 扇町屋(入間市)」・・・
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左側面には「左 三ヶ島八王子道」と刻まれ、道しるべも兼ねています。
もとはこの先の交差点(堀兼上)の付近にありましたが、道路の拡張工事に伴い、現在の場所に移転されました。 -
天保9年(1838)造立の馬頭観音供養塔・・・この供養塔も道しるべを兼ねており、「右 新かし(河岸) 左 川こへ(越)」と刻まれ、もとは下新田バス停付近の三叉路に立っていたものです。
今回の校外学習はこれで終わりですが、約4時間の猛暑の中、皆さん、よく頑張りました。
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