2023/06/22 - 2023/06/22
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ペコちゃんさん
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狭山市民大学の「狭山の歴史講座」の第3回野外学習は「入間川地区」。
今回の行程は、8時20分に狭山市駅西口広場に集合し、福徳院 ⇒ 綿貫家墓地 ⇒ 徳林寺 ⇒ 八幡神社 ⇒ 清水八幡 ⇒ 諏訪神社 ⇒ 慈眼寺と入間川地区を巡るコースで、歩行距離は約4.5km。
鎌倉街道が走る入間川地区は、鎌倉時代以降、交通上・軍事上の重要な拠点だったことから、歴史に名を遺す武将達とゆかりのある神社・仏閣が残っており、興味深い野外学習となりました。
写真は、慈眼寺の「阿弥陀如来像」。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- その他
- 交通手段
- 徒歩
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<1>福徳院と綿貫家の墓地
駅から坂道を下って数分の所にある福徳院は、徳林寺境内の東南の高台にあり、江戸時代の豪商・綿貫家の2代目・孫兵衛が創建した寺院。
境内の左側に観音大石仏と観音堂があります。 -
福徳院を管理する徳林寺は武蔵野三十三観音霊場の17番札所で、霊場の象徴としてこの観音大石仏が2006年に建立されました。
像高は8m、基壇を含めると12mあり、総重量は164トン。 -
観音大石仏の手前にある観音堂は、2007年に竣工。
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堂内に祀られているのは・・・
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聖観世音菩薩。
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観音堂の右にある「不動堂」は、観音大石仏と同じく2006年に建て替えられました。
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堂内には、綿貫家の守り本尊である不動明王が安置されています。
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境内の右手(北側)奥に並ぶ「綿貫家墓地」・・・ここには16代に亘る綿貫家の墓石があります。
綿貫家の初代・綿貫庄左衛門は、江戸時代初期に上州綿貫村(高崎市)から入間川に移住し、地元では酒造業などを、江戸では米穀商を営み、18世紀前半には相当の財力を蓄え、江戸後期には「西の鴻池・東の綿貫」と並び称された豪商でした。 -
豪商だった綿貫家は、大名や旗本、幕府の要人相手に多額の金貸しをしていましたが、江戸幕府の終焉で貸金の回収が不可能になり、没落しました。
1867年の「卯年店卸勘定帳」によると、老中・酒井雅楽頭への貸し付け(24万5千両=857億円)を筆頭に、約1,000名の大名や旗本などに大金(約6兆円)を用立てたと記されています。 -
綿貫家14代・半平が邸宅内の稲荷社に建てた「東西の碑」・・・表裏に「西」「東」の文字が刻まれています。
綿貫家の墓所は、以前は狭山市駅前にありましたが、狭山市駅西口開発のため、平成20年にこの場所に移転されました。 -
笠付きの墓石の多くは、大乗妙典(=法華経)読誦供養塔を兼ねた綿貫家歴代当主の墓石です。
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豪商らしい立派な墓石が立ち並んでいます。
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阿弥陀如来を戴く供養塔・・・四代目当主・清兵衛が享保13年(1728)に建てたものです。
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仏教を深く信仰していた清兵衛は、百観音の霊場巡拝を行い、大勢の者と大乗妙典を読誦して仏の功徳を広く差し向けました。
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丸彫りの地蔵菩薩を戴く供養塔・・・これも四代目当主・清兵衛が享保7年(1722)に建てたものです。
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参道に祀られた右側の像は、三面八臂(はっぴ)の丸彫馬頭観音坐像。
馬頭観音は、畜生道に墜ちた人々を救う仏と言われ、江戸時代後半には馬が交通運輸や農耕作業の中心であったことから、馬の守護仏として信仰されました。 -
現当二世安楽を願って、寛保元年(1741)に建てられた丸彫馬頭観音坐像の像高は71cm。
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<2>徳林寺
創建時期は不明ですが、1333年に新田義貞が鎌倉を攻めるにあたり、この地に本陣を置き、守護仏だった聖観世音菩薩坐像を地頭・小澤氏に託し、堂塔安置したのが起源で、後に小澤主税(1506年没)が開基となって当寺が建立されたと伝えられています。 -
また、1353~62年にかけて、鎌倉公方の足利基氏が滞陣した入間川御所の地とも言われています。
1532年に曹洞宗に改宗し、入間市金子にある瑞泉院の三世・一樹存松(1533年没)により開山しました。 -
中興開基は、慶長年間( 1596~1615)に上州綿貫村からこの地に来た綿貫庄左エ門。
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本堂に上がり、住職の話を聞きます。
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左側に展示された絹本着色(絹地に彩色を施したもの)の「釈迦涅槃図」「釈迦八相図」(実物ではなく印刷物)の解説や徳林寺の歴史の他に、狭山市の地形の話、入間川地区が宿場町として栄えた話など、興味深い話を伺うことが出来ました。
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本尊は釈迦如来で、文殊・普賢の両脇仏を伴う三尊仏坐像です。
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「釈迦八相図」・・・お釈迦様の生涯の主な八つの出来事を描いた軸物で、大和絵系の絵師によって描かれ、綿貫家が1745年に奉納したものです(縦:188.5cm、横:105cm)。
八相とは、下天相・託胎相・誕生相・出家相・降魔相・成道相・初転法輪相・涅槃相の8場面ですが、この絵には7場面しか描かれておらず、もう1枚の涅槃図と合わせて八相図になるように工夫されています。 -
「釈迦涅槃図」・・・80才で涅槃に入られるお釈迦様と、周囲には弟子や諸王をはじめ、動物までもが嘆き悲しんでいる様子が描かれています(縦:177.5cm、横:104cm)。
筆者は「御絵所宗貞」で、入間川村に450石余りの知行地(領地)を持っていた旗本の小笠原家が1688年に寄進しました。(御絵所:宮中や幕府に属する絵所) -
山門を入った左側に、延命耳地蔵尊が安置されている六角堂があります。
お堂の周りには多くの穴あき石が納められていますが、これはその昔、耳の悪い人がお地蔵さんに願を掛けたところ、聞こえるようになり、「耳が通った」お礼として供えたのが始まりで、その評判を聞いて大願成就を祈る際に穴あき石を備えるようになったと伝えられています。 -
1693年に造立された地蔵尊は「安産・子育てのお地蔵さま」として今でも人々の信仰を集めています。
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徳林寺墓地の入口近くにある5基の丸彫の石仏・・・宝永6年(1709)に徳林寺第5世・法山格雲により、密教の教えである五つの智慧を5体の如来に当てはめた「五智如来」として建てられたものと思われます。
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墓苑の中央に横たわる、大きな涅槃仏。
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墓苑の一角にある武隈家の墓所・・・ここには、明治2年(1869)に明治時代で最初の横綱となった鬼面山(1826~1871)が眠っています。
鬼面山は岐阜県の貧しい農家に生まれ、9歳の時に石屋に奉公に出されて石運びをしているところを見出されて武隅部屋に入門し、幕内時代に師匠が死去したため、部屋を引き継ぎました。
現在も狭山市在住の子孫が武隈家を守っています。 -
墓誌を見ると「13代横綱・鬼面山谷五郎(明治4年7月23日・行年43才)」と刻まれています。
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右が鬼面山、左は11代横綱の不知火光右衛門。
184cm、140kgという仁王のような力量感溢れる体格でしたが、43歳で横綱になったせいか、約1年半で引退し、引退から1年も経たずに亡くなりました。
鬼面山の生涯成績は143勝24敗16分8預63休・・・連勝記録は23連勝で、優勝相当成績は7回! -
<3>八幡神社
一の鳥居から境内に続く71段の石段は、享保12年(1727)に造られたもので、下段は中国の故事「二十四孝」に因んで24段あり、上段は赤穂浪士・47士に因んで47段あります。
鳥居の右側にある社号標には「村社 八幡神社」・・・当神社は旧入間川村の総鎮守でした。 -
八幡神社の創建については過去に数度の火災により古記録を失っているため不明ですが、室町時代初期と推定され、祭神は応神天皇。
現在の拝殿は大正12年(1923)に造営されました。 -
精緻な彫刻が施された向拝。
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拝殿の左右の扉には、鳩の彫刻。
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拝殿の左側には、おみくじと絵馬がビッシリ!
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拝殿に続く本殿は、寛政8年(1796)から7年かけて享和2年(1802)に完成しました。
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同社に残る『八幡神社縁起』によると、「元弘3年(1333)に新田義貞が鎌倉幕府を攻めるため当地へ兵を進めた際、戦勝祈願に参拝した」とあり、境内には義貞が愛馬を繋いだという「駒繋の松」があります。
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根元しか残っていませんが、左側が「新田義貞 駒繋の松」。
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本殿は入母屋の流造、正面は千鳥破風の珍しい建築様式で、建物の随所に透かし彫りと浮き彫りの両技法を巧みに使い分けた、見事な彫刻が施されています。
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三方の壁を飾る洞羽目の彫刻は「琴棋書画の図」。
「琴棋書画」とは、中国の貴人の間で余技として好まれた琴・棋(囲碁・将棋)・書画のことで、この背面(南面)は弁財天の「琴」と福禄寿の笛・吉祥天の笙(しょう)。 -
西面は布袋と大黒天の「棋」。
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東面は毘沙門天と恵比寿の「書画」。
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脇障子の彫刻も見事です。
これは西側脇障子の裏表。 -
東側脇障子。
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洞羽目の下にある腰羽目の彫刻のモチーフは「唐子遊び」。
西面は「唐子の凧揚げ」「唐子の蹴鞠」。 -
南面は「唐子の漁り(すなどり)」「唐子の相撲」。
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東面は「唐子の獅子舞」「唐子の雪遊び」。
何度も初詣などで訪れた八幡神社に、こんな素晴らしい文化財があるとは知りませんでした。 -
拝殿造営の際、本殿神門の下から発見された「さわり(砂破利)の壷」・・・制作年代は室町時代と思われ、高さ:18.7cm・口径:7cm・直径:10cmの壷の中からは靭粒と金銀の泊片が検出されましたが、これは八幡神社の創建時の地鎮祭に供えた鎮物を埋蔵するのに用いた「鎮壇」と推定されます。
砂波利とは、銅に錫と鉛を加えた合金で黄白色をしており、叩くと良い音がするので「響銅」と書いて「さはり」と読ませることもあります。 -
神楽殿。
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2021年に境内に建立された、芥川賞作家・津村節子(1928~)の文学碑。
自伝的小説「星祭りの町」には、節子が祖母と姉妹3人で、母の実家がある入間川町に疎開し、戦中から戦後の約8年間を過ごしたことが生き生きと綴られています。
本書には、稲荷山や入間川の河原、八幡神社など、当時の入間川町の様子も多く描かれ、「狭山は第二のふるさと」と述べています。 -
八幡神社鹿子舞は、毎年9月中旬頃の土・日に八幡神社へ奉納されます。
起源については明らかではありませんが、江戸時代の正徳3年(1713)の古記録には、盛大に行われたと書かれています。
市内に残る獅子舞のなかで唯一「鹿子舞」と書きますが、これには次のような話が伝えられています。
明治時代の初め、同社の別当寺であった成円寺を獅子舞の一行が出発したところ、維新政府の神仏分離政策により、獅子は仏教に属するものと咎めを受けましたが、土地の者が機転をきかせて「私のところは獅子ではなく、鹿子である。鹿は神の使いである」と言って禁を免れたというもので、それ以来、鹿子舞と書くようになったとのことです。 -
<4>清水八幡
清水八幡は清水冠者・源義高(1173~1184)を祭神とする神社・・・義高は源頼朝の従弟・木曽義仲の嫡男として生まれましたが、勢力を拡大した義仲が頼朝との衝突を避けるため、1183年に和議の条件として当時11歳の義高を人質として鎌倉に送り、義高はその後、頼朝・政子の長女・大姫の婿になりました。 -
ところが頼朝は関係が悪化した義仲を討ち、更に義高も粛清する考えに至り、これを知った大姫は義高を女装させて鎌倉を脱出させ、義高は生誕地の嵐山町を目指しますが、入間川の八丁の渡しで頼朝の追っ手に捕らえられ、殺害されました。
首は鎌倉へ送られましたが、哀れんだ地元の人が残された胴体を埋葬して墓を建てたと言われています。 -
大姫は悲嘆のあまり14才で亡くなり、母・政子は義高の死を哀れんで壮麗な清水八幡宮の社殿を造営しましたが、社殿は1402年に起こった入間川の洪水で流されてしまい、その後は狭山市駅西口にあった成円寺に移されました。
明治初期に成円寺が廃寺になって現在地に移り、現在の本殿は昭和34年(1959)に再建されたものです。 -
<5>諏訪神社
当社の創建は不明ですが、信濃国・諏訪大社の祭神を約400年前に勧請したと伝えられます。
天正10年(1582)に甲斐の武田氏が滅亡した時、多くの家臣が入間川流域に移り住んだので、彼等が創建したのかも知れません。 -
「お諏訪さまのなすとっかえ」の祭事は、毎年8月の第4土・日に行われます。
この祭事は自分の畑で採れたナスを神社に奉納し、神前に供えてある別のナスをいただいて持ち帰り、持ち帰ったナスを食べると一年中病気をしないといわれるお祭りで、ナスは夏の毒消し効果があると言われたことから始まったものと思われます。 -
祭では地元住民の厄除けを祈願して、珍しいナスのお神輿を担ぎます。
<なすとっかえの伝説>
昔、諏訪神社の裏に底なし沼があり、ある日村人達がそこを通りかかると、沼から水しぶきがたち、龍神が暴れ始めました。
驚いた村人達は、持っていた鎌や鍬と一緒に、採ったばかりのナスが入った籠を投げ出して逃げ帰ります。
これを聞いた村の若者達が駆けつけたところ、空っぽになった籠が浮かんでいるだけで、沼はすでに元の静けさをとり戻していました。
その後、村人の夢枕に龍神が現れ、「私はあの沼に住む竜神だが、騒がせて悪かった。実は夏病に苦しめられていたのだが、投げられたナスを食べたところ病がすっかり治った。これからは諏訪の大神に仕え、村のために尽くすつもりだ。」と言いました。
ナスが夏病に効くことを知った村人は神前にナスを供え、代わりに龍神からナスを頂き、夏病を避けたそうな。 -
<6>慈眼(じげん)寺
曹洞宗寺院の慈眼寺・・・創建は正長元年(1428年)に草庵(阿弥陀堂)が結ばれたのが始まりで、大永年間(1521~1528)に徳林寺を開山した一樹存松が中興開山したと言われています。 -
山門手前にある三界萬霊塔(左側)と大乗妙曲回國供養塔(右側)。
三界萬霊塔は寛延3年(1750)に建てられたもので、正面には「三界萬霊等」と刻まれています。
三界とは人が生まれてから死に輪廻する領域(欲界・色界・無色界)で、三界におけるすべての精霊に対して供養することの大切さを示しています。
石塔の右面に刻まれている文字は「不許葷酒入山門」・・・禅寺の山門の脇の戒壇石に刻まれる言葉で、臭いが強いニラなどの野菜は他人を苦しめるとともに自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これを口にしたものは清浄な寺内に入ることを許さない、という意味です。 -
山門の両脇で睨みをきかせている仁王像は、平成20年に奉納されたもの。
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山門には見事な彫刻が。
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手水舎。
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本堂。
慈眼寺では平成22年(2010)に伽藍・境内の新築整備工事を行いました。 -
本堂の上には、今にも飛び出しそうな迫力満点の龍が・・・
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本堂の前に祀られた「黒こげ地蔵」・・・元禄15年(1702)に建立された地蔵菩薩です。
江戸時代に宿場町として栄えたこの地で、多くの人々の信仰を受け、そのロウソクや線香の煤と煙で黒くなったことから、「黒こげ地蔵」と呼ばれます。
また難病の若者が、供えられた線香の灰を患部に塗ったところ、たちまち完治したことから、持病や難病治療にご利益があるお地蔵さまとして「イボとり地蔵」とも呼ばれるようになりました。 -
観音堂へ。
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堂内に祀られている「阿弥陀如来像」・・・像高73cmの一木造りで、安阿弥(あんあみ)の作と伝えられ、かつてこの地にあった阿弥陀堂の本尊でした。
制作年代は鎌倉時代と推察され、狭山市内で最古の仏像です。 -
均整のとれた姿で豊かな顔立ちの仏像・・・素地に漆で麻布を張り、更にその上に漆を塗って仕上げる技法で造られています。
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鐘楼堂。
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山門を入って左側にある吉野弘の詩碑
「いのち」
いのちは 自分自身だけでは完結できないように つくられているらしい
花も めしべとおしべが揃っているだけでは不充分で 虫や風が訪れて めしべとおしべを仲立ちする
いのちは その中に欠如を抱き それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分 他者の総和
しかし たがいに欠如を満たすなどとは知りもせず 知らされもせず ばらまかれている者同士 無関心でいられる間柄
ときにうとましく思うことさえも赦されている間柄
そのように 世界がゆるやかに構成されているのは なぜ
花が咲いている
そのすぐちかくまで虻の姿をした他者が 光をまとって飛んできている
私も あるとき だれかのための虻だったろう
あなたも あるとき 私のための風だったかもしれない -
山形県酒田市生まれの吉野弘(1926~2014)は戦後の日本現代詩を牽引してきた一人。
1972~2007年に狭山市北入曽に在住し、製茶販売業「井戸端園」の茶畑の隣の宅地に居を構えた関係で茶の栽培の様子に興味を持ち、1977年に発表した詩集『北入曽』の中で、随筆「茶の花おぼえがき」を著しています。 -
今は慈眼寺の墓所の一角に眠っています。
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お墓に建てられた詩碑「草」
” 人さまざまの願いを 何度でも聞き届けて下さる地蔵の傍に 今年も種子をこぼそう ”
今回は雨の中、狭山市の中心地である入間川地区の社寺を歩き、鎌倉時代以降の歴史や文化を感じた一日でした。
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