2023/05/11 - 2023/05/11
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ペコちゃんさん
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” 色は静岡 香りは宇治よ 味は狭山で とどめさす ” と謳われる「狭山茶」の狭山市に住んで約40年・・・第2の故郷とも言える狭山市の歴史や文化について、もっと知りたいと思い、狭山市民大学の「狭山の歴史講座」を1年間受講することにしました。
全20回の講義のうち、6回は市内各地区の史跡・文化財を歩いて回る文化財めぐりで、最初は「柏原地区」です。
写真は、永代寺の「木造不動明王及び二童子立像」。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- その他
- 交通手段
- 徒歩
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埼玉県の南部に位置する狭山市は、川越・日高・飯能・入間・所沢の各市と接し、人口が148千人の町。
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菱形の形をした狭山市・・・南西(入間・飯能方面)から北東(川越方面)にかけて、街のシンボル・入間川が流れており、今回歩く柏原地区は入間川の西側に位置します。
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<1>城山砦跡
狭山市駅からバスに乗り、「柏原東」のバス停で降りて少し歩くと、住宅街の北側に小高い丘があり、そこに城山砦跡があります。
城山砦跡は、市内に唯一残る中世の城郭跡で、小田原北条氏の手に落ちた河越城を奪還するために、上杉憲政が1545年に陣を敷いた城郭で、本廓・二の廓・三の廓が設けられ、本廓の周りには空堀がめぐらされ、敵の攻撃に対処出来るようになっていました。 -
かつては空堀だったここから坂道を登って行きます。
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急坂を登ると、5分ほどで本郭跡へ着きます。
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ここが本廓・・・現在は木が生い茂って眺望がありませんが、かつては東の川越から西の入間市方面まで一望出来ました。
標高は約50mで、物見櫓的な施設があったのではないかと考えられます。 -
二の廓に祀られた稲荷社。
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二の廓を下ると西側の出入り口。
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1546年の河越夜戦で勝利し、関東の覇権を握った小田原北条氏・・・3千の兵で河越城に籠城する北条軍を、山内上杉氏・扇谷上杉氏・古河公方の8万の軍勢が包囲して半年間、北条氏康は8千の兵で小田原から出陣し、相手の油断を誘ったところで夜襲を仕掛け、敵を壊滅させました。
この時の山内上杉氏の本陣が城山砦です。 -
<2>常楽寺
文政年間(1818~1830)に創建された天台宗羽黒行人派の寺院。 -
境内に並ぶ仏像や石塔の中央にあるのが「七観音」・・・一石に七体の観音像が彫られた石仏で、天保15年(1844)に造立されたものです。
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七観音は、一番上に千手観音、右側上から馬頭観音・聖観音・准胝(じゅんてい)観音、左側の上から十一面観音・如意輪観音・楊柳(ようりゅう)観音・・・細かいところまで丁寧に彫られています。
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七観音の右側にあるこの地蔵菩薩は、宝暦7年(1757)に造立された丸彫りの半跏趺像(片足を下へ垂れたもの)で、台座の正面に延命地蔵菩薩経の侶(げ:仏を称える言葉)を詩の形にしたものが刻まれています。
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銘文は「毎日晨朝入諸定 入諸地獄令離苦 無仏世界度衆生 今世後世能引導」と刻まれ、村の人々が協力して二世安楽・極楽往生を願い、当寺の住職・典英の指導で建てたものであることが分かります。
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本堂裏の墓地は、大半が増田家の墓石・・・柏原増田家の初代・増田大水正金は、応永年間(1394~1428)に大和国・大和郡山から柏原に移住し、槍鍛治を業として1425年に亡くなりましたが、槍鍛治としての増田家は4代・125年ほど続いたと考えられます。
増田家の墓地は当初は永代寺にありましたが、幾度かの火災で永代寺が無住の時代に常楽寺へ移転しました。 -
墓地の中ほどにある「増田正金五百年記念碑」は、正金没後500年を記念して大正15年(1926)に増田家が建てたものです。
かつての柏原は、入間川から採れる砂鉄を利用して、槍鍛治や刀鍛冶・鋳物師が多く、小田原北条氏の頃は特に活躍したようです。 -
<3>長源寺
曹洞宗の寺院で、開山の時期は東国に曹洞宗の寺院が増加した17世紀初期と考えられます。 -
境内に入ると、江戸時代に建てられた月待ち供養塔・普門品読誦供養塔・地蔵菩薩の3基が左から並んでいます。
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月待供養塔・・・天保七年(1836)に造立され、正面に「二十三夜塔」と刻まれています。
【月待】月待ちの「待ち」は現在では月の出るのを待つ意味に解釈されますが、もともとは月を「祀る」と言う意味で、十三夜・十五夜など特定の月齢の夜に集まって月の出を待ち、念仏などを唱えながら月やを拝むことでした。
全国的には二十三夜待が多く、女性が集まって二十三夜講を開催し、勢至菩薩(智を表す二十三夜の本尊)を礼拝して出産や子育ての安全を祈る、主婦たちの憩いの場でもありました。
二十三夜は下弦の月で、子の刻(深夜12時)頃に顔を出すため「真夜中の月」とも呼ばれ、真夜中の月に願いをかけると叶うと言われて盛んになりましたが、正月・五月・九月の三回だけ行う地方が多かったようです。 -
右端は天保15年(1844)に建立された地蔵菩薩・・・子供を抱いています。
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<4>宮原遺跡
長源寺の北側に広がる畑にある宮原遺跡・・・この辺りからは、今でも縄文時代の土器の破片が見つかることがあります。 -
2001年の発掘調査では、縄文時代後期の竪穴式住居や多数の土器が出土しました。
これは縄文後期(約3,800年前)の土器。 -
これも宮原遺跡から出土した縄文後期(約3,500年前)の土器・・・注ぎ口が付いているため、「注口土器」と呼ばれます。
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<5>上宿の庚申塔
狭山市内には38基の庚申塔がありますが、上宿(うわじゅく)の庚申塔は、享保13年(1728)に柏原村の金子六左衛門他9名の庚申講中と常楽寺によって造立されたもので、正面には6本の手を持つ青面金剛が邪鬼を踏みつけ、その下には3匹の猿と2羽の鶏が刻まれています。 -
<6>永代寺
文治元年(1185年)に畠山重忠が創建という伝承もありますが、古記録焼失のため詳細は分かりません。
真言宗智山派の寺院で、昭和53年に本堂・庫裏が新築されました。 -
境内の入口にある像は、寛政3年(1791)に造立された霊場巡拝供養塔・・・西国三十三か所・坂東三十三か所・秩父三十四か所の百観音霊場の結願を祈念して造立されたものです。
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本堂で住職さんの話を聞きます。
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本堂は見事な襖絵や・・・
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平等院のような雲中供養菩薩像で飾られています。
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本尊は木造虚空蔵菩薩坐像。
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「木造不動明王及び二童子立像」・・・元文5年(1740)に造られた躍動感溢れる姿は美術的にも優れ、狭山市内で最高傑作の不動明王と言われます。
不動明王は玉眼入りの寄せ木造りで像高は72.2cm、二童子は41.7cm。 -
<7>白鬚神社
当神社は旧柏原村の総鎮守で、祭神は猿田彦命・・・古い記録が残っていないため創建時期は不明ですが、天正18年(1590)に鋳造された御正体(みしょうたい)が現存していることから、それ以前であると思われます。
現在の社殿は天保十四年(1843)に再建されました。 -
社殿に掲げられた「韋駄天の額」・・・絵馬の形をしたこの奉納絵は、江戸時代前期の狩野派の絵師・勝田竹翁の作で、幅179cmの大きなもの。
韋駄天は、護法神・伽藍守護神として寺院に祀られますが、魔王が仏舎利を奪って逃げた時に追いかけて取り返したという話から、足の速い者のことも韋駄天というようになりました。
この額は韋駄天が宝棒を振り上げて魔王を追いかけている彩色画です。 -
この絵馬は「子返しの図」・・・「間引き」とも言う「子返し」は口減らしをすることで、右側には産まれたばかりの我が子を「子返し」する女性が、左側にはその心の姿が「鬼女」として描かれており、絵の上には
足らぬとて まひくこころの 愚かさよ 世に子宝と いふをしらすや
罪は身に むくふとしりて 天よりそ さつけたまはる 子かえしをする
と書かれ、「子返し」を戒める内容になっています。 -
この絵馬は「陰陽和合図」・・・絵の上に「月と日の 晦日の契り なかりせは 人のたねには なにかなるへき」と書かれ、人間(中央の子供)は陰陽(月日:父母)の和合によって生まれるものであることを表現しており、子の誕生は摂理に従ったものであることを、富士信仰に結び付けて描いています。
この2つの絵馬は一対をなすもので、同時期に奉納されたのでしょう。 -
懸仏とも呼ばれる「御正体」・・・神社の御神体である鏡に仏の姿を現したもので、天正18年(1590)から慶長16年(1611)にかけて、旧柏原村の鋳物師・神田氏によって鋳造されたものです。
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柏原祇園囃子は7月15日前後の日曜日に、白髭神社境内社の八坂神社で行われる夏祭り「天王さま」で演奏されます。
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<8>西浄寺
創建は明らかでありませんが、「武蔵風土記稿」によると、延宝年間(1673~1681)の頃に白玉山西浄寺と号したとの記載があります。
当初は天台宗でしたが、高健和尚が入寺した1740年頃に真言宗となり、真言宗霊雲寺派の東京湯島・霊雲寺の末寺となっています。 -
本堂の屋根には「徳川三つ葵」紋・・・本山の霊雲寺が徳川綱吉から現寺地を得て開創したことで「徳川三つ葵」が宗紋となったことから、当寺も同じ紋です。
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四方の屋根飾りには「打ち出の小槌」紋・・・これは先代が本堂を改修した際に、本尊の大黒天に因んで飾ったそうです。
「打ち出の小槌」が飾られているのは全国的にも珍しく、恐らく西浄寺だけでしょう。 -
本堂の前にも「打ち出の小槌」。
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「ねずみの図」・・・大黒様の遣いであるねずみが、打ち出の小槌を作っている様子が描かれています。
明治初期の住職・林法泉は絵を描くことを好み、明治画壇の大家・河鍋暁斎と親交があり、暁斎が西浄寺に招かれた際に当寺の別名である甲子(きのえね)寺に因んで奉納しれたものです。
(現在は狭山市立博物館で保管) -
境内には、1754年に建てられた宝篋印陀羅尼経を納める宝篋印塔があります。
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本堂の前に咲くホウノキの花。
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<9>円光寺
平安末期(1168)の創建と伝えられる真言宗智山派の寺院です。 -
本堂内部。
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庚申供養の本尊として鋳造された「銅造聖観世音菩薩立像」・・・像高は41.5cmで、左手に未開蓮華(つぼみのハス)を持ち、右手は胸まで上げて、すべての恐れを取り除き衆生に安心を与える施無畏印を結んでいます。
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背面には「敬白大工神田 武州高麗郡柏原村 元亀三年 円光寺庚申供養」・・・この銘文から柏原の鋳物師・神田氏が鋳造し、元亀三年(1572)に庚申供養で奉納されたものであることが分かります。
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境内の右側に並ぶ石仏。
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一番手前の石像は、寛延2年(1749)に造立された「六斎念仏供養塔」・・・斎日講中の人々により建てられた半跏趺坐像の地蔵菩薩です。
「斎日」とは毎月8日・14日・15日・23日・29日・30日の6日間を指し、この日は仏教上の八斎戒を守って善事を行う精進日で、鉦鐘や太鼓を叩いて念仏を唱えました。
この供養塔は、地蔵が頬づえをつくように右手で耳を覆う姿をしているため「耳のお地蔵さま」と呼ばれ、耳の病に霊験があると言われます。(像高:95cm、台座高:83cm) -
<10>大六天と大山灯籠
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安政6年(1859)に建てられた「大六天」の石碑・・・大六天は俗に「ちらかしさま」と呼ばれ、周りを掃き清めたり片付けたりすると、祟りがあるとの伝説が残されています。
また、第六天とも書き、仏説では欲界の最上に位置する天魔で、他人の楽しみを自在に自分の楽しみに変える力を持つとされ、祟りの多い神と言われます。 -
文政13年(1830)に五穀豊穣を願って建立された「大山灯籠」・・・阿夫利神社が祀られている神奈川県の霊山・大山は雨降山(あふりさん)とも呼ばれ、雨を降らす神としての信仰が農民に受け入れられて各地に大山講が作られました。
この灯籠は、講の代表者が大山に参詣している期間中、組の者が輪番で火を灯しました。
10カ所を巡り、わが街・狭山に残る史跡・文化財の魅力の一端を知ることが出来ました。
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