2023/01/15 - 2023/01/18
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ちゃおさん
宮古は小さい島で、人口も少なく、多分、沖縄本島であったような勢力争いの戦いもなかったに違いない。この島の歴史を詳しく知る訳ではないが、今まで目を通して来た島の案内ブック、パソコン検索などにもそういった記載は見られない。昨日のカラオケで飲んだ泡盛の銘柄が「豊見親」と言っていたが、この豊見親が歴史上に残るこの島の最大の有力だったようだ。博物館の歴史展示物の中にもこの名前が散見された。宮古の人々の誇りとする歴史的人物に違いない。
「中山第一」。「中山」で思い出すのは孫文の別称が中山で、孫中山。日本では孫文の事を中山先生と呼ばれたりしていた。孫文は広州と珠海の中間辺りにある田舎町で生まれたが、そこは広州ー珠海・マカオの発展で、今は大きな町になり、今では孫文の名前を取って、中山市と呼ばれている。以前、珠海から広州までバスでその町を通過した。数年前に南京郊外にある中山廟を訪問したことがあったが、そこは小高い丘に上に立つ壮大な孫文の記念廟だった。多くの中国人が孫文を慕って参拝にやってきて、数年前に行ったときはすごい人の波だった。それ以前に30年程前、一度そこを訪問しているが、当時はガラガラの人出で、今のこの博物館のような状態だったが、30年後の中国旅行熱の高まりには圧倒された。
その中国で言う「中山」とは別の意味で、ここ沖縄、宮古島では使用されている。沖縄本島では北部、中部、南部の主に3か所で覇権を争い、大きなお城を持っていた。そんな中で南部の首里城が一番力を持ち、首里城の主、尚王家が全島を統一し、中山王と称した。沖縄で言う「中山第一」はその首里城の覇権を指している。琉球王朝の覇権は本島だけでなく、ここ宮古、石垣まで及び、この島にも石垣にも代官のような官吏が駐在していた。しかしその統治方法は間接的で、代官は陰に隠れ、表向きの統治者はこの島の有力者で、石垣で言えば宮良殿地の宮良家、ここ宮古は豊見親だった。
この大きな掛け軸は誰がどのような経緯で中国清王朝の康熙帝か雍正帝から贈られたものなのか。琉球王朝は中国の冊封を受けていて、大陸と活発に交易していた。以前寧波を旅行した折には琉球国の領事館跡も見てきた。この宮古の王政も琉球国の陰に隠れ、或いは従うように清国との交易をおこなっていたのか・・。或いは又、那覇の王朝が清国王から贈られたものを、ここ宮古王に下賜したのだろうか・・。一幅の掛け軸に様々な想像が浮かんでくる。でもまあ、学者でも無いものがあれやこれや詮索しても始らない。これ以外にも多種多様な骨董品、遺物、調度品などが展示されている。それぞれ、興味深いものだ。宝貝が殆ど見られなかったのは、琉球王国が成立した時点で、この列島は早くも貨幣経済に組み込まれたからだろう。
- 旅行の満足度
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