2023/04/01 - 2023/04/02
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Rolleiguyさん
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この旅はワクワクするような期待感を持って出かける類のものではなく、
題名通り慰霊の旅なのですが、80年近く前にフィリピンで戦没した多くの
兵隊さんたちの、断ち切られた人生の一部なりとも感じ取ることが出来ればとの思いで作成しました。
愛知県の三ヶ根山(さんがねさん)には、太平洋戦争においてフィリピンで戦没した兵士を慰霊する大規模な園があり、毎年4月の第一日曜日に慰霊祭が開催されて来ました。遺族や関係者の死亡・高齢化により、52回目の今年が最後の慰霊祭になると聞き、参列するために出かけました。
三ヶ根山との関りは、陸軍軍人だった私の父が大戦中にフィリピンのミンダナオ島で終戦まで戦い、多くの戦友を失ったことから、戦後ご遺族を全国に訪れて、亡くなった人たちの最期の様子をご報告し、後にミンダナオ島に遺骨収集で数回行ったことと、三ヶ根山を慰霊の地に選び、全国から遺族が訪れる慰霊の園を作ることに関わったことなどが経緯です。
父の存命中は私の海外勤務の継続などで一緒に行く機会がありませんでしたが、父亡き後、母と2回、その後一人で1回参列しました。
場所は三河湾を見下ろす素晴らしいロケーションで、フィリピンで戦った多くの部隊の慰霊碑が建てられています。
フィリピンには70万人の将兵が送られ、戦没者は51万人を超えており、中国大陸(170万人のうち戦死者71万人)以外では最も戦死者の多かった戦場でした。父は自宅に慰霊の観音像を建立して、最も多くの戦死者を出した5月22日を慰霊の日として遺族や戦友を毎年お招きして慰霊しておりました。自宅での慰霊祭は父母亡き後も今も毎年続けていますが、三ヶ根山の慰霊祭が最後というので、これは参列しなければと思い、妹二人と一緒に行って来ました。極めて私的な慰霊の旅行ですが、戦争は想像を絶する数の人の死をもたらしたことを改めて覚えました。
東京から豊橋まで新幹線で行き、レンタカーで三ヶ根山スカイラインを走って宿泊先の三河ベイホテルへ。このホテルは昭和天皇も宿泊したことのあるホテルで、三河湾を眼下に見下ろす絶景を楽しむことが出来ます。この季節は周囲の山々に桜の花が散在し、このホテルに宿泊することだけを目的にしても来る価値があると思います。
大変個人的な旅行の記録ですが、慰霊を続けた父の思いを受け止めたいと思いました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.0
- 同行者
- その他
- 交通手段
- レンタカー 新幹線
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
慰霊の園からは三河湾、渥美半島、知多半島まで一望出来ます。
素晴らしい場所を見つけ、選んだことに感心します。 -
三ヶ根山は比島観音だけではなく、沢山の部隊の慰霊碑がありますが、比島だけはまとまっていて、ここから先が慰霊の園になっています。
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三ヶ根山の慰霊碑のそれぞれの場所を示した地図。フィリピン関係が50弱、その他の部隊が約40あります。
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太山寺の写真があまりないので、2018年の慰霊祭時のものを掲載します。
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この慰霊の園は「比島(フィリピン)観音」を建立して作られたものです。
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「比島観音建立の記」。戦車第2師団の作戦参謀をしていた河合重雄氏が、ルソン島に慰霊の旅をしたときに、日本兵の遺骨が野ざらしになっていることに衝撃を受け、
戦没者の慰霊を行う場所を探し、三ヶ根山をその地としたのだそうです。全国のフィリピン戦没者遺族に呼び掛けて、6千人を超える賛同を得、園の造営をすべて戦友が自ら行ったそうです。 -
比島観音を囲んで多くの部隊の慰霊碑が設置されています。
観音像にはフィリピンから持ち帰った鉄兜が鋳込まれ、台座の下には戦没者の遺品や分骨した遺骨が安置されています。 -
それぞれの部隊の慰霊碑は51万人の戦没者を慰霊するものです。
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由来碑があります。すぐそばの太山寺が、本堂の移築を予定していた敷地を無償で貸与してくださって慰霊の園が出来ました。
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フィリピンは山下奉文大将が率いた第14方面軍が担当した地域です。
51万人以上の戦死者を出すほど激しい戦いとなりましたが、現在の日本の国力であってもこれほどの戦力を国外に派遣することは到底出来ません。当時の日本の国力からして途方もない規模でした。因みに、現在の陸上自衛隊の隊員数は約15万人、海上自衛隊の艦船数は約130隻ですから、規模的には当時の10分の1以下でしょうが、日本にはふさわしい規模かもしれません。 -
沈没した軍艦、輸送船を示していますが、地上戦同様これだけの船を失うほどの戦いは想像を絶します。当時の日本海軍の保有艦船数は開戦時に戦艦10隻、空母11隻など全部で254隻でしたが、終戦まで残った艦船は少数でした。
紀元2600年〈1940年)の特別観艦式(多数の軍艦のパレードで、威容を誇示するもの)の艦船配置図を見たことがありますが、その圧倒的な数に驚愕しました。これほどの軍事力を当時の日本の国力で保持することなど、一時はともかく到底長期的に持ちこたえられないと思いました。今の北朝鮮がおなじことをしています。
艦船98隻、航空機527機が参加した日本海軍最後の観艦式の様子は下記のユーチューブで見ることが出来ます。
https://www.youtube.com/watch?v=4Lhm_-7joNM -
私の父が属していたのは地図の下方にあるミンダナオ島のダバオ市から北の方向にあるラサン(Lasang)という場所にあった飛行場大隊です。第14方面軍直轄第四飛行師団の大隊でしたが、飛行機がなくなり地上戦で第100師団(師団長は原田次郎中将)の担当地区に布陣して共同作戦を取ったのかどうか、父の遺品には原田師団長から授与された武功章がありました。
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ミンダナオ島。黒い線が日本軍の防御陣地で赤い線が米軍の進路。父は図の中央付近のダバオ市の上方に示されている陣地で戦いました。海軍部隊も地上戦に従事したのか、父の遺品には海軍少将から授与されたものもありました。
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陸軍だけでなく海軍、軍属、従軍看護婦、在留邦人を含めた戦没者数。厚生労働省の統計では52万人とされていますが、統計により少し違いがあります。
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敵を攪乱するための残置諜者として、1974年まで残っていた小野田寛郎少尉がいたのは、中ほどにシブヤン海と記されている場所の左にあるルバング島(表示なし)です。
(以下、ウィキペディアによる)
彼は、ミンドロ島にアメリカ軍が上陸し、ルソン島上陸も近い1944年12月、「残置諜者」及び「遊撃指揮」の任を与えられ部下たちとともに、ルバング島に着任してゲリラ活動を行ったが、フィリピンが連合軍に制圧された後もジャングルに隠れ、日本の降伏を信じることを拒んで、部下たちとゲリラ戦を継続、その過程で島民や部下たちも死亡した。
1972年に、彼の部下が地元警察に射殺されたことをきっかけに、彼の存在が知られるようになり、日本の青年鈴木紀夫の説得もあり、1974年3月、元上官の任務解除命令を受け、フィリピン軍に降伏した。日本の降伏後29年が経過していた。
(鈴木紀夫さんは雪男探しで知られた冒険家で、1986年にヒマラヤのダウラギリで遭難しました。) -
日本とフィリピンの位置関係
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フィリピン全土で戦った部隊それぞれの慰霊碑が約50建てられています。手前の「泉」とあるのは第26師団のことで、大陸で編成された師団ですが、静岡の出身者が多かったそうです。こうした郷土共通にする部隊は寄せ集めの部隊よりも結束が固かったのかもしれませんね。
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父の部隊第8飛行場大隊が戦ったミンダナオ島ラサン地区。近くで戦った他の部隊も共に慰霊。
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碑の裏面。戦死したのは19歳から28歳の若者で、年齢が上の父には一人ひとりがかけがえのない部下であり、人生の大切な存在であり、そこには私たち家族でも入り込むことの出来ないほどの強い絆がありました。自宅で毎年供養を行ったときには、ご遺族や戦友が九州や岡山、奈良、岐阜、愛知、静岡、長野などから家族に連れられて参加し、多くの方がどんなことがあっても供養には参列すると言っておられたと聞きました。
ここに記された歌に亡くなった人たちへの労りと愛を感じます。 -
この慰霊碑の虎兵団は、第19師団の別名であり、朝鮮の会寧で編成され、会寧は加藤清正が虎を退治したと伝えられることから名づけられたそうです。
そこに属していたのが歩兵75連隊です。私の父も会寧にいた時に属したことがあり、戦後「75会」という名前で戦友会を続けました。75連隊は昭和19年12月にフィリピンに派遣されましたが、帰還出来たひとは少数でした。 -
今回の慰霊祭には、父が催していた自宅での慰霊祭にも欠かさず参列された虎兵団の方のご子息が水戸から来られて、式で追悼の言葉を述べられました。お父上は私にもとても懐かしい方です。
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フィリピンには多大の被害をもたらした戦争であり、日本軍への恨みは戦後長く続いたそうですが、恩讐を越えて両国の友情と平和を願っての碑です。
1953年にフィリピンのキリノ大統領は下記の言葉を述べて、戦犯として捕らえられていた105人に恩赦を与えました。「私は日本人に妻と三人の子ども、そしてさらに五人の親族を殺された者として彼らを特赦する最後の一人となるだろう。私は自分の子孫や国民に、我々の友となり、我が国に長く恩恵をもたらすであろう日本人に憎悪の念を残さないために、この措置を講じたのである」。日比谷公園にはキリノ大統領を顕彰する碑が建てられています。 -
戦車第2師団は、この地を慰霊の園と決めた最初の部隊です。その後フィリピンで戦った全ての部隊の合同の慰霊の地となりました。碑の裏面には、戦車第2師団の武功に対して第14方面軍(フィリピン全土)司令官であった山下奉文大将からの感状が彫られていました。
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この碑の南十字会はミンダナオ島で戦った幸5742部隊の戦友会。
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慰霊祭が始まりました。ご住職は比島観音の場を無償で貸与してくださった太山寺のご住職です。奉賛会の役員の方に献花の役を仰せつかり、妹と一緒に献花しました。
慰霊祭の様子は下記ユーチューブで見ることが出来ます。
https://www.youtube.com/watch?v=IBU8UvFHEjQ -
私、妹2人、比島観音奉賛会の役員の方。今は役員数が5-6名になり、会の維持も
大変ななか、毎月1度慰霊の園のお掃除をしてくださっているとのこと。すぐ近くにお住まいではないのに、お歳も80歳を超えているのに、本当に感謝です。
役員には慰霊で150回近くフィリピンを訪れた方もおられたと聞きました。 -
縁の部隊戦没者に捧げたお花。私と弟、妹たち2人でそれぞれ。近くにはNHKの著名なアナウンサーOさんの戦死されたご親族への献花がありました。
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慰霊祭では参列者一同で歌いました。「里の秋」は1945年12月24日、ラジオ番組『外地引揚同胞激励の午后』の中で、引揚援護局のあいさつの後、川田正子の新曲として全国に向けて放送された。放送直後から多くの反響があり、翌年に始まったラジオ番組『復員だより』の曲として使われた。1番ではふるさとの秋を母親と過ごす様子、2番では出征中の父親を夜空の下で思う様子、3番では父親の無事な復員(ここでの椰子の島、船という言葉から父親は南方軍麾下の部隊にいることが窺える)を願う母子の思いを表現している。
2003年にNPO「日本童謡の会」が全国約5800人のアンケートに基づき発表した「好きな童謡」で第10位に選ばれた。(ウィキペディアより抜粋)。
川田正子の音源が下記にあります。
https://www.youtube.com/watch?v=KmXEmcvpqTY
「故郷」は1914年に尋常小学校唱歌として選定されたもので、従軍した兵士たちが小学生のときに歌ったものであり、戦地で故郷を偲んで広く歌われた。
今回の慰霊祭ではこの2曲を参列者が皆歌い、涙する人も見られました。 -
太山寺。関係者がいずれいなくなった時には、太山寺が供養を続けて下さることになっていると聞きました。有難いことです。
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お寺の境内に咲き誇る桜の花。
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今回の旅は三河湾を見下ろす絶景の地にある三河ベイホテルに宿泊。
部屋からの眺望。 -
三河湾を見下ろした概念図
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桜は盛りを過ぎていましたが、まだそれなりに奇麗でした。
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慰霊祭は今回が最後とのことでしたが、来年以降も可能な限り非公式な慰霊をおこないたいとの奉賛会の役員からお聞きしましたので、出来ればまたこの地を訪問したいと思います。私的な慰霊旅行記をご覧いただき有難うございました。
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この旅行記へのコメント (2)
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- ふわっくまさん 2023/04/23 19:35:08
- 慰霊の園
- Rolleiguyさん、こんばんは。
妹様お二人と、お父様のご遺志を偲んで慰霊に出かけられたのですね。
ご宿泊された三河ベイホテルからの桜が綺麗で、きっとお父様に皆様の真心が伝わっているような気がしました。
戦争の悲惨さを忘れず、とても立派な行いでいらっしゃると改めて感じた次第です。
ふわっくま
- Rolleiguyさん からの返信 2023/04/24 09:11:38
- RE: 慰霊の園
- ふわっくまさん、こんにちは。
いつも活動的なふわっくまさんに比べると、出かけることが少ないこの頃の
私には旅行記を作る機会がなかなか参りません。
三ヶ根山はそうしたなかでの旅行となりました。
今の日本の表面的な平和でも戦争よりはよほどましだと思います。
父の時代の日本人は本当に個人の人生を翻弄されたのだと
思います。
平和の有難さは失ってみないと分からないのかもしれませんね。
コロナがどうなるのか、今年は海外に行けるのかなと少し期待しています。
どうぞお元気で。
Rolleiguy
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