2020/01/10 - 2020/01/10
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belleduneさん
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東京都内での七福神巡りは、かなり行ったので、どこにしようかなと思っていたら、箱根七福神を見つけ、行くことにしました。10日だったので、それほど混んでいないだろうと思っていた通り、箱根神社以外もそれほどの混み方ではありませんでした。箱根はいろんなと所を歩いてきましたが、まだまだ知らない所が多く、これからも四季折々の景色を楽しみたいと思っています。
表紙の写真は、阿字ヶ池弁財天の曾ての社跡。
- 旅行の満足度
- 4.0
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昨年の台風で被害を受けた小涌谷箱根ユネッサンの中にある山王神社。ここには福禄寿がお祀りしてあります。お天気が良いので、多くの方が来られていました。
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横の建物は、「貴賓館」で、藤田観光発祥の地と言われています。大正7年、藤田平太郎男爵の別邸として、建てられたもの。庭園は極力、落葉樹を省いた樹木が植えられています。湿気を防ぐため、1尺近くの炭を床下に敷きつけてあり、廊下には、鉄板が入っていて、頑丈な造りとなって要るそうです。窓ガラスは、僅かに歪みのある手作りのものが殆どで、懐かしい感じがあります。
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月の間、涼月の間、花の間、雪の間、桐の間などがあります。
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藤田平太郎氏(大正2年~昭和15年)は、現・藤田観光、同和鉱業などの前身である「藤田組」の社長を務め、貴族院議員、大阪工業会h粗大会長などを歴任した実業家。
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庭園
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小川間一氏の像
小川栄一氏(明治33年~昭和53年)は、藤田観光の創業者、一代で箱根小涌園、椿山荘、ホテルなどを築いたほか、東海汽船、国土開発の社長を歴任されました。1944年に倒産した藤田財閥の財務整理を行い、再建に成功しました。獅子文六の小説「箱根山」に登場する第3の男である「氏田観光」の北条一角のモデルになったとされています。この実績から、小川栄一氏は「財界のブルドーザー」の異名を取っていまます。
「箱根戦争」とは、堤康次郎氏が率いる西武グループ、安藤楢六氏が率いる小田急グループ、その背後にいる五島慶太氏の東急グループの間で繰り広げられた箱根の輸送シェアの戦いのことです。なかなか興味深い箱根山サルカニ合戦とも言われていたそうです。 -
庭園を下がって行くと、道路に出ますが、その脇辺りから温泉が湧き出ています。
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道路から登って行くと、先ほどの庭園へ。
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お参りを済ませて、正面に見えるのが、「迎賓館」です。慶応年間に宮大工によって建てられたそうです。欅、松栗などを大割にして、10年ほで乾燥したものを使用してありました。京都から宮大工を呼び、完成まで数年を要し、明治8年に完成しました。昭和29年9月に藤田観光が買い取り、解体移築に2年を費やしました。
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神奈川県愛甲郡中津村6番地に建てられていた建物。名主は中村保次。当初は茅葺き屋根でしたが、大正3年に日本で初めてイギリスから輸入した鉄板トタン(重さ1枚12kg)を使用して取り替えたそうです。養蚕を営んでいたため、中二階、本二階は、床に竹張り石手、空気の流れを良くしていました。
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道路に出て、建物裏手に温泉の汲み上げポンプがあり、時々物凄い音と共に、温泉が吹き上がっていました。
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次に訪れた「阿字ヶ池弁財天」です。
この辺りは、あしのうみと呼ばれ、寛文年間(1662年頃)東側の二方の谷に、この池の水を落とし、干拓された芦ノ湯の温泉場を開きました。大戦中、ドイツ軍部隊が駐屯していました。 -
鎌倉中期の歌人、飛鳥井雅有が弘安3年(1280)、関東に赴いた折、記した「春の深山路」の箱根越えの一説に『あしのうみのゆとて 温泉もあり いかさまにも ふしぎおほし』と書かれていました。当時は、満々と水を湛えた湖だったと思われます。
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芦ノ湯村誌(明治19年編)によると、弁天山の西麓にあり、石の小祠があったという。芦の池の弁天社と称したものが、後に阿字となり、阿字ヶ池弁天社とh奏されるようになりました。傍に石碑があり、延了元甲子天(1744)、徳川吉宗時代に再興、勧進したとあります。
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弁財天
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お参りを済ませて、振り返ったところ。昔、この辺り全体が池だったそうです。埋め立てられて、現在は左手奥にある溜池だけとなっています。
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弁財天辺りの池だった所。
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何だろうと思って近づくと、
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以前は、ここに弁財天がお祭りしてあったらしい。
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どうも最初の鳥居からまっすぐの位置にありましたから、納得。
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ため池から見た鳥居。その左手が先ほど見たところで、右手に進んで行くと現在の弁財天の社があります。このため池は、ドイツ軍が空襲に備えて、村の防火用水池として、兵士により掘られたもの。足が繁茂していたことから、葦の池と呼ばれ、後に阿字ヶ池と言われるようになったそうです。
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次は箱根神社です。ここは何回か訪れています。10日でもそれなりに人出がありました。恵比寿様がお祭りしてあります。
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横にある九頭龍神社へもお参りします。
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本殿屋根の補修跡、真新しい銅板が光っていました。
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これは「けけら木」といい、芦ノ湖の湖底木の一つだそうです。太古の昔、大地が地上から湖底に地滑りした樹木の化石です。「目代木」(計計良木)と読みます。平安、鎌倉時代、国寺の代理となって、任国へ赴いた役人の名称「目代」に因んで、名つけられました。源頼朝公が当神社に初詣りして、恒例の「二所詣」の折々、『たくましげ 箱根のみうみ けけれあれや ふた国かけて なかにたゆたふ』(けけら、とは心のこと)と詠んでいます。
この木は、昨夏の台風で芦ノ湖が荒れ、浮遊したものだそうです。芦ノ湖の五銘木の一つとなっています。万巻上人が九頭龍を調伏して繋いだ梅檀伽羅木、錫杖木、故杉、影向杉とこのけけらきです。 -
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箱根神社の中にも、七福神の社があります。
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次は、曹洞宗・興福院の布袋尊をお参りします。
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お参りが終わって、すぐ裏手が箱根旧街道とあったので、少し登ってみました。午後から雲が多くなり、すぐ近くに見える芦ノ湖も霞んで見えましたし、富士山も朝とは異なり、見えなくなってしまいました。
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街道沿いにあった陶版には、エンゲルト・ケンペルとC.M.バーニーが。
ケンペルは、オランダ通称使節の一員として、元禄4年に箱根を越え、その鬱言うしさを世界に紹介しています。またバーニーは、イギリスの貿易商で、この地に別荘を建てています。大正11年のケンペル著「日本誌」の序文を引用しています。『自然を大切にするように』と碑を建てました。 -
浄土寺・本環寺の寿老人をお参りします。
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駒形神社の毘沙門天へ
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元荒湯駒形権現社と号し、古来、関東総鎮守箱根権現と称されまし多箱根神社の社外末社(枝宮)です。駒ケ岳から駒形大神を勧請しました。
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毘沙門天は勇気授服の神で、多聞天ともいい、今日では、生きる勇気と福徳財宝を授ける神と崇敬されています。
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駒形神社
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側面
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御神木に見守られてきたのですね。
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七番目の守源寺へ
寛文元年(1661)、乗善院日蓮聖人によって建立された日蓮宗平賀本光寺末の寺院。災害で本堂を失い、昭和5年に再建されました。 -
大黒天をお参りして、七福神巡りは完了しました。
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再建された守源寺本堂
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階段下左手は旧街道一里塚があるところです。ここも以前歩いた記憶があります。
今年も健康で歩けますように!
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