2019/02/12 - 2019/02/12
339位(同エリア1891件中)
愛吉さん
昨年(2018)は大山街道を歩きました。
今年(2019)は同じメンバーで日光街道を歩きます。
日光街道は江戸五街道の一つ、江戸日本橋から日光東照宮迄、21宿140KMの道中です。
私達もスタートはお江戸日本橋から、途中江戸の風情を探しながら、旧街道を辿ります。
初日の今日は、午前10時に日本橋を出発、日光街道(奥州街道)を東照宮に向い歩き始めます、終点は北千住。
それでは行程に従いアップします。
尚今回は以前に写した写真も一部使用しています。
表紙の写真は、日本橋の上に掲げられた表札額。
15代将軍徳川慶喜公の揮毫です。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- JRローカル
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
出発は江戸時代と同じ日本橋から。
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現在の日本橋を横から見るとこんな感じ。
上を高速道が通り、押し潰されそう。
2020年オリンピック後に高速道を地下に移す計画があります。 -
日本橋の親柱。
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橋の袂にある日本国道路元標のレプリカ。
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同上
現物は橋の中央にあります。 -
袂には日本橋魚河岸跡碑
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解説板
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東海道寄りの角には旧白木屋跡、名水白木屋の井戸碑があります。
江戸時代には日本橋を代表する名店、浮世絵にも登場します。 -
中山道、日光街道側の袂には三越が店を構えます。
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三越の向かいには、江戸から続く山喜の鰹節屋。
山喜の鰹節、お使い物には無くてはならないものでした。 -
通りの奥に赤い鳥居が見えます、平成26年10月に蘇った福徳神社です。
江戸時代には日本橋界隈の鎮守として栄え、社地も広く、将軍のお成りもあったそうです。
一時絶えていましたが、この度蘇りました。 -
本殿、ビルの谷間になります。
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神社に向って新しい商店街が造られました。
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日本橋から五百米程進むと、中山道と日光街道が別れます。
右に曲がると日光街道、その曲がり角にあるのが石町時の鐘跡、現在十思公園に移設されています。 -
続いて長崎屋跡、オランダ商館長が江戸参府の折宿泊した場所、解説板をお読みください。
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通りにはこんな暖簾を出す店もあります。
覗くとブラシ屋さんでした、江戸から続くのでしょうか。 -
伝馬町に入って来ました。
江戸時代牢獄と処刑場があった場所です。
奥に見える白いお寺が跡地に建つ大安楽寺、中央に延命地蔵、手前の茶色の建物が弁天堂になります。 -
跡地中央に建つ延命地蔵、片足を組んでいます。
250年の江戸時代を通じ、ここから死出の旅路に旅立った人は2万数千人と云われます。
南無阿弥陀仏、合掌。
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処刑場跡を示す石碑が建っています。
後ろの建物は弁天堂、表のガラス戸を覗くと。 -
八本の腕を持つ弁天様が鎮座します。
余りにも亡者が多く、2本の手では足りないのでしょう。 -
向かいは十思公園、ここも牢獄跡、今は幼稚園児の遊び場です。
石町の時の鐘が移築されています。 -
片隅には吉田松陰の顕彰碑。
松陰はここで処刑され、小塚原に捨てられました。
辞世の句が彫られています。
身はたとえ、武蔵の野辺に朽ちるとも 留めおかまし大和魂 -
浅草橋を渡ります。
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浅草見付跡。
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隅田川の畔、蔵前を通過中。
幕府の米倉が並んでいた場所です。 -
駒形に到着。
丁度12時、江戸名物駒形どじょうを食べましょう。 -
どじょう鍋。
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駒形橋際に建つ駒形堂、浅草寺発祥の地になります。
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浅草に到着、雷門です。
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浅草寺境内には入らず、街道に沿って松屋の脇を進みます。
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江戸六地蔵の一つ、日光街道出口を固める東禅寺の地蔵像。
日光街道を歩く旅人の一人として道中の無事を祈願しましょう。 -
泪橋に到着、江戸時代小塚原に引かれる罪人が、現世と涙の別れをした処。
今はドヤ街として名を馳せます。 -
案内板です。
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小塚原刑場跡に到着。
日光街道はこの刑場脇を通ります。
獄門台もありました。
草原の一本道、旅人は小走りで通り抜けました。 -
首切り地蔵。
この地蔵の前で首を切られた人は、江戸時代を通じ二万数千人を数えます。 -
続いて隣の回向院。
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刑場跡地は史跡エリアになって居ます。
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安政の大獄で刑死した人達の墓所です。
正面は吉田松陰の墓。 -
吉田松陰墓に合掌。
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橋本佐内墓にも合掌。
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刑死した四悪党の墓
左から鼠小僧治郎吉、片岡直次郎、高橋お伝、腕の喜三郎。 -
観臓腑分碑
1771年(明和8年)3月4日、杉田玄白、前野良沢等が此処で罪人の腑分けを見学、後に解体新書を翻訳しました。 -
ちょっと寄り道、南千住駅前の芭蕉翁銅像。
奥の細道はここ千住から始まります、それを記念しての銅像です。
従いここから日光迄の道中、芭蕉と曽良が同行します。 -
街道に戻ると街道脇にスサノウ神社があります。
795年から続く由緒ある神社。 -
本殿、立派ですね。
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本殿の横、緋傘の元に文政5年建立の芭蕉碑があります。
近寄ると奥の細道、千住の一節が彫られていました。
行く春や鳥啼き魚の目に泪
下部には芭蕉翁の像が彫られています。
又手前には杖と菅傘、水の流れは大川、掛かる橋は千住大橋に例えたとあります。 -
又境内には寛文13年(1673)銘記の庚申塔があり文化財に指定されています。
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千住大橋に到着しました。
1594年、家康により隅田川に初めて掛けられた橋、大橋の表札がその歴史を語っています。
尚現在は足立区と荒川区の区境となります。 -
こちら側は荒川区、橋の袂にはこの様な小公園が。
奥に記念碑が見えます。 -
記念碑に近寄ると。
「おくのほそ道矢立初の碑」とあります。
芭蕉は深川採茶庵を船で出発、ここ千住で陸に上がり歩き始めます。
そしてここにも千住の一節と最初の句、行く春や鳥鳴き魚の目に泪、が彫られていました。 -
橋下の河原には「千住大橋際御上り場」の標識。
江戸時代裕福な方や高貴な方々は、ここまで船で来たようです。
芭蕉も船で来ました。 -
堤防の壁には、おくのほそ道旅立ちの地と書かれています。
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大橋を渡り足立区に入ります。
こちら側にも奥の細道スタート記念碑があり、矢立初めの芭蕉像が立ちます。 -
奥の細道ここよりすの石碑もあります。
芭蕉が隅田川の右岸か左岸かどちら側に上陸したかは、定かでありません。
足立区の主張
奥州に旅立つのだから、奥州側に上陸するのが当然。
荒川区の主張
正式の船着場は江戸側にあった、ここで船を降り橋を渡った。
貴方はどちらの説をとりますか。 -
北千住の街に入って来ました。
日本橋から約8K、日光街道最初の宿場になります。
宿場よりも岡場所として栄えました。 -
本陣跡碑。
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本日はここ迄、電車で帰途に付きます・
終
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