2018/04/19 - 2018/04/19
296位(同エリア326件中)
ムッシュさん
東海道53次、No30 四日市宿(43)を抜けて石薬師宿へ
石薬師は石薬師時の門前町として開け、元和2年(1616)宿場が設けらた。
江戸方からの伊勢詣の旅人は日永の追分から参宮道に入り、京からの参詣者は関宿から別街道に入った。この為、旅人の数は少なく宿場経営は厳しかったと云います。
天保14年(1384年)の頃、石薬師宿の宿内家数は241軒、うち本陣3、旅籠15軒で宿内人口は991人でした。
【表紙フォトは、浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像】
前方に石薬師宿に向かう旅人、石薬師寺の山門が見える。秋の刈り取りを行う田。遠くの山々は鈴鹿山脈。
【東海道五十三次 石薬師 石薬師寺 広重画】
東海道はこの辺りから鈴鹿山脈を目指す。多くの旅人が手前の四日市で東海道から別れ伊勢神宮を目指すため、石薬師はどことなく寂しかったという。
石薬師寺は宿場の南端に在り参勤交代の大名達が道中の安全を祈願した。
遠景に大きく描かれた山々。そのなだらかな形と色彩が何とも美しい。その山のふもとにあるのが石薬師寺。田んぼの畔道をつきあたると石薬師寺の山門があり、その右手に宿場が広がる。田んぼでは稲刈りが終わっているので、季節は晩秋から初冬であろうか。
叙情豊かな風景である。現在の三重県鈴鹿市。
- 旅行の満足度
- 4.5
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【石薬師分岐】
杖衝坂を上ってしばらくで、四日市市を抜け、鈴鹿市に入って行きます。
最初に行くのは石薬師宿です。
右は石薬師宿への道 -
ここから鈴鹿市にはいります。街道は左側の道。
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【延命地蔵尊】 四日市市と鈴鹿市の境あたり
宿口には延命地蔵尊を安置する地蔵堂があり、江戸方口にあって旅人の道中安全を見守っています。
延命地蔵さんである。家内安全、交通安全を祈願すると霊験あらたかといわれている。江戸時代、東海道の宿場として賑わった石薬師宿の入口に旅の安全のために、誰かが建てたのであろう。
現在この付近の十六軒の方々で地蔵講を結成して、掃除や供養の奉仕がなされている。毎年八月二十四日は地蔵さんの会式である。
平成四年十月 石薬師魅力再発見委員会 〔鈴鹿市市制五十周年記念事業〕 -
【石薬師宿】
江戸方口
これよりの道は、佐々木信綱のかるた道と名付けられている。
信綱の詩歌が、36編ほど街道沿いに表示されています。
石薬師は石薬師時の門前町として開け、元和2年(1616)宿場が設けらた。
江戸方からの伊勢詣の旅人は日永の追分から参宮道に入り、京からの参詣者は関宿から別街道に入った。この為、旅人の数は少なく宿場経営は厳しかったと云います。
天保14年(1384年)の頃、石薬師宿の宿内家数は241軒、うち本陣3、旅籠15軒で宿内人口は991人でした。 -
【北町地蔵堂】
延命地蔵さんである。家内安全、交通安全を祈願すると霊験あらたかといわれている。
江戸時代、東海道の宿場として賑った石薬師宿の入口に旅の安全のために、誰かが建てた。
現在この付近の十六軒の方々で地蔵講を結成して、掃除や供花の奉仕されている。
毎年八月二十四日は地蔵さんの会式である。」 -
あるお宅の玄関脇には、石薬師宿の浮世絵を描いた壁がありました。絵心ありますね。
石薬師は石薬師寺の門前町として開けた。江戸方からの伊勢参りの旅人は四日市から参宮道をとり、上方は関から別街道を通った為、旅人の数は少なく経営は厳しかった。 -
【小澤本陣跡の館】
本陣の周囲には高い松があったので松本陣とも呼ばれました。
宿帳には浅野内匠頭や大岡越前守の名が残されています。
東海道石薬師宿は元和二年(1616)幕命によって設立され宿の名は当時有名であった石薬師寺からとった。
大名の泊る宿を本陣といい、小沢家がこれを勤めた。屋敷は現在より広かったようである。残る文書も多く、元禄の宿帳には赤穂の城主浅野内匠頭の名も見える。国学者、萱生由章(1717~75)もこの家の出である。
鈴鹿市教育委員会 -
小澤本陣跡の説明。
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『信綱かるた道』
平成17年、東海道石薬師宿の北端から南端の1.8kmの間を「信綱かるた道」と名付けた。
信綱かるたの歌とそれに添える絵をベニヤ板に焼き付け、これを梅干ざるに取り付けて歌額として、信綱かるた道に28基設置した。
平成19年、歌額を恒久的なアルミ板に取り替えるとともに、増設し36基とした。
平成27年、歌額を更に増設して信綱かるた50首すべての歌額が整備され、
信綱かるた道が完成した。
歌額の文字とこれに添える絵は、平成17年、平成19年の場合は辻善衛氏、
平成27年については渡部明美氏が担当された。 -
佐々木信綱の詩碑。36首の詩が信綱の通りに掲示されている。
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【佐々木信綱の歌碑】信綱記念館の表に石碑あり。
この歌の作詞者は、三重県鈴鹿市石薬師町出身の歌人・国文学者の佐佐木信綱。
信綱は、明治5年(1872)に生まれ、明治10年まで石薬師にいて、歌人だった父親の弘綱に歌を学び、5歳で作詞を始めたという天才少年です。東京帝国大学文学部を卒業して、明治29年(1896年)に冒頭の「夏は来ぬ」を作詞しています。
万葉集や歌学史を講じ、父親との共遍で「日本歌学全集(全12冊)」を刊行しました。
昭和12年には第1回文化勲章を受章しています。昭和38年(1963)に91歳で静岡県熱海市で没するまで生涯に1万余首を作詞したといわれます。この中には、三重県立四日市高等学校、東京・千代田区立麹町中学校、台東区立根岸小学校、筑波大学付属小学校、神奈川県の清泉女学院中学高等学校、清泉小学校などの校歌も作詞して、その名を残しています。 -
【佐々木信綱記念館、生家】
石薬師小学校を過ぎると右手に佐佐木信綱生家があります、信綱は父、弘綱の教えを受け5歳にして作歌を始めた、幼年期をこの家で過した、明治17年(1884)年に東京帝国大学文学部に進学。同23年父と共編で「日本歌学全書」を刊行。
信綱は唱歌「夏は来ぬ」の作詞で知られる歌人で国文学者。以後精力的な活動を始め、昭和12年には文化勲章を受章した。
宿内の処々には歌を記した信綱かるたが掲示されています。
生家の並びには佐佐木信綱資料館や記念館が併設されています。 -
佐々木信綱記念館にはこんな幟旗も。我らに最も知られた歌詞。”夏は来ぬ”の作詞家です。
【佐佐木信綱と卯の花の里・石薬師宿】
石薬師宿は江戸から数えて44番目の宿場である。天領であったこの地に宿駅が設置されたのは元和二年(1616)と遅く、それまでは高富村と呼ばれていた。
弘化二年(1845)の石薬師宿軒別図から職業構成をみると、人家約180軒のうち旅籠屋が約30軒、百姓は約130軒で全戸数の約七割をしめており、農村的正確の強い宿場であった。街道の中ほどの西側には小沢本陣があり、その向かいには園田家がつとめていた問屋場があった。
当資料館の隣に建つ連子格子造りの木造家屋は佐佐木信綱(1872~1963)の生家で、一家が松坂へ移住する明治十年(1877)まで、裏庭には「産湯の井戸」が今も残っている。
石薬師では、信綱作詞の唱歌「夏は来ぬ」に因んで昭和六十三年(1988)から地区を挙げて「卯の花の里づくり」に取り組んでいる。初夏になると、どこの家庭の庭先にも、また道端にも白い可憐な花が咲き、清楚な趣をそえている。 -
これは、佐々木信綱の生家。
生家前の信綱歌碑
「目とづれバ ここに家ありき 奥の間の 机のもとに 常よりし父」 -
歌詞にある”卯の花”が生垣に。
『佐佐木信綱と卯の花の里』案内板。
「石薬師宿
石薬師宿は江戸から数えて四十四番目の宿場である。 天領であったこの地に宿駅が設置されたのは、元和二年(1616)と遅く、それまでは高富村と呼ばれていた。弘化二年(1845)の石薬師宿軒別図から職業構成をみると、人家約一八○軒のうち旅籠屋が約三十軒、百姓は約一三○軒で全戸数の約七割をしめており、 農村的性格の強い宿場であった。 街道の中ほどの西側には小沢本陣がありその向かいには園田家がつとめていた問屋場があった。 当資料館の隣に建つ連子格子造りの木造家屋は佐佐木信綱(一八七二~一九六三)の生家で、一家が松阪へ移住する明治一○年(一八七七)までの幼年期をこの家で過ごした。 裏庭には「産湯の井戸」が今も残っている。
石薬師では、信綱作詞の唱歌「夏は来ぬ」に因んで昭和六三年(一九八八)から地区を挙げて「卯の花の里づくり」に取り組んでいる。 初夏になると、どこの家庭の庭先にもまた道端にも白い可憐な花が咲き清楚な趣をそえている。」 -
こちらは、佐々木信綱のお孫さんにあたる方の歌碑。
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鈴鹿川の支流。【瑠璃光橋】を渡ると右手に【高富山瑠璃光院石薬師寺】があります、本尊は弘法大師が一夜のうちに爪で彫ったと云う線刻の薬師如来です。
石薬師寺は大伽藍でしたが、戦国時代に焼失してしまい、今の本堂は寛永6年(1629年)神戸城主一柳監物直盛によって再建されたものです。 -
石薬師寺の裏口です。
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橋を渡ってすぐ、右手に●石薬師寺の裏門があった。
石薬師寺の裏口から入ります。
『瑠璃光院高富山石薬師寺』と書かれた寺標木札が右の柱に。 -
『瑠璃光院高富山石薬師寺』と書かれた寺標木札
石薬師寺は、神亀3年(726)当地で巨石が地下から出現し、これは薬師如来の出現だとしてお堂を建てたのが始まりという。
『石薬師寺』。
「江戸から百一里三十四丁七間、元和二年(1616)に宿場となった。それまでは高富村と称していた。現在は鈴鹿市石薬師町である。石薬師の地名はこの絵にある
高富山瑠璃光院石薬師寺の霊験が広く知れ渡っていたことから、村名を石薬師と改めその由来としている。
御本尊は弘法大師が一夜のうちに爪で彫ったと言われている薬師如来で、同寺の本堂は寛永六年(1629)に時の神戸城主・一柳監物直盛によって再建された。
この石薬師寺の正面の道を東へ行くと源範頼を祀る御曹子社がある。その御曹子社の前の道を南へ少し行くと右側に蒲桜がある。源範頼は、平家討伐の時、石薬師寺に戦勝祈願をし鞭にしていた桜の枝を地面に逆さにした。それが芽をふいて育ったと伝えられている。地元では「逆さ桜」と呼んでいる。」 -
【石薬師寺薬師堂】
寺名は本尊石薬師如来をまつることによる。 戦国の戦火のあと神戸城主一柳監物により、寛永6己巳年(1629)再建された。 建物の規模は桁行3間、梁間4間、寄棟造。 本瓦葺きて一間の向拝がつく。市内で最古の寺院建築。
石仏は花崗岩で像高190cm寺伝によれば、弘法大師が地面生え抜きの石に刻んだという。浅い線彫り、ほおはゆかたで、薬師仏として親しまれてきた。 平素は秘仏であるが、12月20日の 「おすす払い」 には、洗い清められる。平安後期の作。」 -
石段を下ると【石薬師寺本堂】に到着。
奈良時代の神亀年間(726年)、高僧泰澄大徳が、森の中に霊光を放つ巨石を認めて堂宇を建て、その後弘仁3年、弘法大師が薬師尊像を一夜のうちに彫刻し、開基した。
狭い境内には、、13重の塔、常夜燈、弘法大師像、芭蕉句碑などが立ち並ぶ。
真宗高田派。本尊は阿弥陀如来。佐々木家累代の菩提寺。
石薬師寺は、神亀3年(726)当地で巨石が地下から出現し、これは薬師如来の出現だとしてお堂を建てたのが始まりという。
【石薬師寺】
江戸から百一里三十四丁七間、元和二年に宿場となった。それまでは高富村と称していた。
現在は鈴鹿市石薬師町である。石薬師の地名はこの絵(上記広重の錦絵参照)にある高富山瑠璃光院石薬師寺の霊験が広く知れ渡っていたことから、村名を石薬師と改めその由来としている。
ご本尊は弘法大師が一夜のうちに爪で彫ったと言われている薬師如来で、同寺の本堂は寛永六年(1629)に時の神戸城主・一柳監物直盛によって再建された。この石薬師寺の正面の道を東へ行くと源範頼を祀る御曹子社がある。その御曹子社の前の道を南へ少し行くと右側に蒲桜がある。源範頼は、平家討伐の時、石薬師寺に戦勝祈願をし鞭にしていた桜の枝を地面に逆さにしたそれが芽をふいて育ったと伝えられている。地元では「逆さ桜」と呼んでいる。 -
【高富山 石薬師寺由来】
聖武天皇の御宇神亀年間(726)高僧泰澄大徳が森の中に霊光を放つ巨石あるを認めこれ金輪際より御出現の霊佛なりと一宇草堂を覆い置き給う。
その後弘仁3年(812)弘法大師自ら薬師尊像を彫刻し開眼供養せられしより 霊験いよいよあらたかにし時の嵯峨天皇の叡聞に達し勅願所となし寺領を寄せられ西福寺と称せられしだが天正年間(1574)の頃兵乱に会い悉く焼失した。 西より本尊は光明赫赫として灰燼の中に立たれた慶長年間(1601)神戸城主一柳監物直盛公深く霊験を感じ本堂再建され今日に及べり當地は高富の郷と称せられしを駅立の際「1616」尊號に因み石薬師駅東海道53次の内44と呼んだので高富山石薬師寺と改称せらる。名匠一立斎宏重の画に當寺の全景を以て写す寿永年間(1185)蒲の冠者源範頼ここに戦勝を祈願。
馬鞭倒に芽ざし蒲桜の名を今に留める。又西行法師・一休禅師・上島鬼貫・澤庵禅師・林羅山・深草元政・烏丸光広郷・松尾芭蕉・李渓・佐佐木信綱があり、いずれも沸徳を賛嘆し霊光に随喜し若しくは景致を賞揚している
文化財 本堂薬師堂 県指定有形文化財
本尊石仏 市指定有形文化財
「法の恵うけてや瑠璃の壺薫 李 渓」
「蝉時雨石薬師寺は広重の画に見るがごとみどり深しも 佐佐木 信綱」 -
寺の境内には鐘つき堂が建つ。
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『佐佐木信綱歌碑』
「蝉時雨 石薬師寺は 広重の 画に見るがごと みどり深しも」 -
『石薬師の蒲桜とその碑』県指定天然記念物
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(借用パンフより)
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『石薬師の蒲ザクラ』
「この桜は、ヤマザクラの一変種として植物学上からも珍しい。赤茶芽、花は一重の五弁、直径5㎝、白色から淡紅色で、開花時は見事である。
伝説によれば、寿永(1182-84)の頃、蒲冠者源範頼が平家追討のため、西へ向かう途中、石薬師寺に戦勝を祈り、 鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに挿したのが、芽を出してこの桜になったと言われている。 そのため、俗に「逆桜」とも言われている。」 -
【石薬師宿の一里塚跡】ここは、京方口(西口)
二代目エノキの傍らには「史蹟石薬師の一里塚阯碑」があります、江戸日本橋より数えて102里目です。
信長記(しんちょうき)には、天文九年(1540)冬、足利将軍が諸国に命じて四十町を一里として一里塚を築かせ、その上に松と榎を植えさせたという。〔一町は約109m〕
家忠日記には、慶長九年二月(1604)秀忠が東海道、東山道、北陸道の三道に一里塚を築かせ、一里を三十六町に改めたという。
「くたびれたやつが見つける一里塚 (江戸時代の川柳)」
平成四年十月 石薬師魅力再発見委員会 〔鈴鹿市市制五十周年記念事業〕
「石薬師の一里塚
信長記には、天文9年(1540)冬、足利将軍が諸国に命じて40町を一里として一里塚を築かせ、その上に松と榎を植えさせたという。〔一町は約109m〕
家忠日記には、慶長9年2月(1640)秀忠が東海道、東山道、北陸道の三道に一里塚を築かせ、一里を36町に改めたという。
「くたびれたやつが見つける一里塚」 (江戸時代の川柳) 」 -
東海道石薬師宿碑があります、石薬師宿の京方口(西口)です。
【石薬師(いしやくし)】
石薬師宿は江戸から数えて四十四番目の宿場である。天領であったこの地に宿駅が
設置されたのは、元和二年(1616)と遅く、それまでは高富村と呼ばれていた。
弘化二年(1845)の石薬師宿軒別図から職業構成をみると、人家約180軒のうち旅籠屋が約30軒、百姓は約130軒で全戸数の約七割をしめており、農村的正確の強い宿場であった。街道の中ほどの西側には小沢本陣があり、その向かいには園田家がつとめていた問屋場があった。
当資料館の隣に建つ連子格子造りの木造家屋は佐佐木信綱(1872~1963)の生家で、一家が松坂へ移住する明治十年(1877)まで、裏庭には「産湯の井戸」が今も残っている。
石薬師では、信綱作詞の唱歌「夏は来ぬ」に因んで昭和六十三年(1988)から地区を挙げて「卯の花の里づくり」に取り組んでいる。初夏になると、どこの家庭の庭先にも、また道端にも白い可憐な花が咲き、清楚な趣をそえている。」
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