2018/02/07 - 2018/02/07
3400位(同エリア5903件中)
xiaomaiさん
- xiaomaiさんTOP
- 旅行記407冊
- クチコミ483件
- Q&A回答3件
- 691,752アクセス
- フォロワー61人
小学生のときに迷子になって、現地で母親に頭を何度も打たれたという思い出のある美濃の岐阜城、それから、尾張の犬山城と名古屋城へ行ってきた。題して、「美濃尾張2018冬の陣」。
- 同行者
- 一人旅
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
栄の地下街に不二家発見。
-
懐かしくなり入店し、子供のときよく食べたパンケーキをおじさんなのに注文。
-
その後、地下鉄で名古屋城へ向かう。
-
愛知県庁と名古屋市役所は名古屋城のすぐ近くに隣り合って建っている。
-
御三家尾張徳川家、派手好みの徳川宗春の居城。
-
二ノ丸東庭園
-
ロウバイが咲いていた。
-
忍者登場。左が服部半蔵で、右が水蓮。尾張言葉で話していた。
-
忍者は定期的に現れる。
-
名古屋城にはガイドツアーがある。この日の午前のガイドツアー参加者は自分1人だけだった。
-
ガイドさんがまず案内してくれたのは那古野城跡。
今川氏親が築いた城の跡地が名古屋城二ノ丸にあった。織田信秀は1538年にこの城を奪い居城としたが、1542年ごろに古渡城を築城し、そちらに移った。後、嫡子であった信長が那古野城に居城した。
ガイドさん曰く、那古野城の奪還こそが今川が西へ軍を進めた原因であり、上洛が目的ではなかった。しかし、結果はあえなく桶狭間で信長の命をとられてしまった。 -
清正公石曳きの像。城内にある像は清正公のものが2体あるだけで、徳川氏の像は1体もないそうだ。
-
重要文化財である東南隅櫓
屋根二重、内部三階の櫓で、出窓部分に石落とし。かつては武具が納められていた。1707年に修理され、明治期に江戸城の鯱が取り付けられたことが、1952年の解体修理で明らかになった。 -
本丸を囲む堀は水がない空堀。北側は水堀になっている。
-
堀に石造りの橋をかけることも一般的にはありえない。ガイドさんが言うには、いわば攻めて来た敵を騙す目的で、橋も架け、堀に水も張らなかったらしい。「空城計」のようなものか......。
-
本丸表二の門
本瓦葺の高麗門で、内門である表一の門とともに枡形を形成していた。現存する数少ない名古屋城創建当時の建造物。 -
表二の門を入ると......
周りから矢が飛んでくる。 -
目の前に大きな石。これには何か意味でもあるのかとガイドさんに尋ねたら、この石は大したことはなく、見るべき石はこれではないと......。
-
この辺りに本丸表一の門があった。入母屋造で本瓦葺の二階建て。門扉の上に石落とし。1945年に空襲で焼失。
黄色い半纏を着ているのがガイドさん。熊本出身で長く自動車メーカーに勤務されていたようだ。名古屋城に関することだけではなく、名古屋についてもたくさん話してくださった。ガイドツアーは通常60~90分程度。この日は、120分もおつきあいくださった。豊富な知識で非常に参考になる情報をありがとうございました。 -
復元された本丸御殿。1615年に家康のより建てられたもので、昭和5年に天守とともに国宝に指定されるも、昭和20年の空襲で焼失。平成21年から復元工事が始まり、同25年に玄関と表書院が、28年から対面所と下御膳所がそれぞれ公開された。未公開の上洛殿などは今年中に公開予定。
-
襖絵は狩野派による。
-
-
総檜造で、手で触れると皮脂の影響で黒ずんでしまうため、触れることが厳禁になっている。
-
狩野派の絵師は虎も豹も見たことがなく、豹はメスの虎だと勘違いしたらしい。
-
表書院
藩主が来客や家臣との公的な謁見に用いた表書院に描かれているのはキジ。 -
鍵がかかるようになっている。
-
絵の書かれていない部分にも本来は絵があったが、どのような絵であったか確証がないため、描かれていない。
-
松の絵の前に藩主が着座。
-
武者隠し
武者隠しの後ろに藩主の控え室があったらしく、藩主が上殿に現れる際は、武者隠しの扉を利用したらしい。 -
美しい折り上げ天井
-
立派な欄間
-
釘隠し
-
納戸(控え室のようなもの)
-
藩主が身内や家臣と私的に対面したり、宴席を設けたりしたのが対面所で、次の間には、紀三井寺、玉津島神社、和歌浦天満宮など、和歌山の景色が描かれている。初代藩主義直の正室である春姫のために、故郷の和歌山を描いたようだ。
-
対面所上段の間には上賀茂神社や吉田神社など、京都が描かれた。
-
二重折り上げ小組格天井
-
下御膳所
料理の温め直しのための建造物 -
御三家筆頭の尾張徳川家。江戸城には及ばないものの、石垣の美しさは実にすばらしい。
-
「清正石」
加藤清正は天守閣の石塁の構築を命じられた。大きな石を運ぶ指示をする際、自ら音頭をとった。画像の巨石は「清正石」と呼ばれているが、この石垣は黒田長政が担当し、清正とは無関係。清正が怪力で知られていたため、このように呼ばれるようになったのではとの説明を受けた。 -
天守は徳川家が建造したが、それ以外は西国大名20家に普請を命じた。築造を命じられた大名が運んできた石に目印をつけるため、記号を刻んでいた。
-
名古屋城の天守は江戸城に次いで大規模なもの。瓦を使うとその重みに耐えられないから、薄い銅板を使用した。
-
鯱は18金製。顔が獣で体が魚。火事除けの目的がある。
-
今年5月7日から天守が公開中止となる。耐震性に問題があることに起因するようだ。現名古屋市長で生粋の名古屋っ子である河村たかし氏の家は、尾張徳川家に書物奉行として仕えた尾張藩士の家系で、多くの学者を排出したらしい。その河村氏が天守の木造化を目指し、2022年の完成を公約にして市長選挙に勝った。
-
地下1階、地上7階の天守に上る。
-
実物大の鯱
北側がオスで南側がメス。両方合わせた金の総重量は88.08kg。 -
現在の天守は1959年に再建されたもので、鉄筋コンクリート製。エレベータもある。
-
天守最上階からは四方を見渡せる。
-
2029年のリニア開通を見越し、高層ビル建築ラッシュ。
-
天守の内部にはさまざまな展示物があり、江戸期の街並が再現されていたり......
-
本丸御殿対面所があったり......
-
藩主の食事の一例が展示されていたり......
-
大好きなジオラマもある。
城見学はじっくりしたかったのだけれど、この日、東京に戻ることになっていたから、急ぎホテルへ荷物を受け取りに行き、名古屋駅へ向かった。西の丸や御深井丸へは足を踏み入れることさえなく、とても残念。でも、ガイドさんに2時間も案内してもらえたのはとてもよかった。 -
今回、東京へ帰る交通手段は、飛行機でも新幹線でもなく、バス!
-
生まれて初めて東名バスに乗車。
-
乗客者数は20~60代の16名のみ(うち女性2名)で、幸運なことに’隣には誰も座らなかった。
-
きれいなトイレも完備されている。
-
定時の13時半に出発。
-
名古屋城見学が予定よりだいぶ時間を取ってしまったため、昼食をとる時間がなくなってしまい、名古屋駅で駅弁を購入。
-
しかし、バスの中で食べている人はまったくいなく、とても静か。聞こえてくるのは、走行音と書類を見ている人が紙を捲る音のみ。その中で、音を極力立てないよう、弁当完食。でも、匂いは拡散させていたに違いない。すみませんでした......。
-
こうした田園風景をゆっくり眺められるのがバス旅の醍醐味。
-
15時6分遠州森町にて休憩。
-
バスの中では、大阪四季劇場で観たキャッツのパンフレットを見たり(芝居のはじめの方でくわ原駿さん演じるCarbuckettyと10数秒互いに見つめあったのがいい思い出になった)、今回の旅を振り返ったり、景色を眺めたりしながら、時を過ごした。
-
今回、バス移動を選択した理由の1つは、富士山を長い時間眺めたかったこと。日本人にとって、富士山はやはり特別な存在。
-
16時45分足柄にて休憩。
-
地元で獲れた魚や野菜が売っていた。
-
18時34分、東京駅日本橋口に無事到着。初めて名古屋から東京までバスで移動したけれど、思ったよりずっと快適だった。駅弁を食べたり、景色を眺めたり、旅の余韻に浸ったり......。旅らしい旅をしたような気がした。普段仕事でせわしくしているのだから、こうしたバス旅をもっとしてもよいのではないか、という考えを持った。
旅行記『美濃尾張2018冬の陣』(終)
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
66