岡崎旅行記(ブログ) 一覧に戻る
名鉄長沢駅より、赤坂宿を抜けて、本宿(間の宿),藤川宿を経て岡崎宿へ。

東海道53次、No24 赤坂宿(36)を抜けて、藤川宿(37)、本宿(間の宿)から岡崎宿(38)へ

6いいね!

2018/01/18 - 2018/01/18

470位(同エリア752件中)

0

97

ムッシュ

ムッシュさん

名鉄長沢駅より、赤坂宿を抜けて、本宿(間の宿),藤川宿を経て岡崎宿へ。

旅行の満足度
4.5

PR

  • 赤坂宿と藤川宿の中間、間の宿に相当する【本宿(もとしゅく)】に到着です。<br />右側は国道1号線、左側が旧東海道。<br />左側へ進みます。

    赤坂宿と藤川宿の中間、間の宿に相当する【本宿(もとしゅく)】に到着です。
    右側は国道1号線、左側が旧東海道。
    左側へ進みます。

  • 本宿は、法蔵寺の門前町として発展した。ここは、豊川市と岡崎市の境でもある。

    本宿は、法蔵寺の門前町として発展した。ここは、豊川市と岡崎市の境でもある。

  • 本宿は法蔵寺の門前町として形成され、江戸時代には間の宿として発展した。<br />立場茶屋が法蔵寺前と長沢村境四ツ屋の二ヶ所にあった。

    本宿は法蔵寺の門前町として形成され、江戸時代には間の宿として発展した。
    立場茶屋が法蔵寺前と長沢村境四ツ屋の二ヶ所にあった。

  • 本宿の江戸方の入口の冠木門(かんぎもん)と常夜灯<br />【是より西 本宿村 藤川宿へ壱里】<br /> 本宿は往古より、街道とともに開けた地であり、中世以降は法蔵寺門前町を中心に町並みが形成された。<br />鎌倉街道は東海道の南、法蔵寺裏山辺りを通り鉢池から宮路山中へと続いていた。<br />近世に入り、東海道赤坂宿、藤川宿の中間に位置する間の宿としての役割を果たしたといえる。<br /> 享和二年(1802)の本宿村方明細書上帳によれば、家数百二十一軒、村内往還道十九丁、立場茶屋二か所(法蔵寺内、長沢村境四ツ谷)があり、旅人の休息の場として繁盛をきわめた。<br />  東海道中膝栗毛に「ここは麻のあみ袋、早縄などあきなふれば北八、みほとけの誓いとみえて宝蔵寺、なみあみ袋はここの名物」とある。本宿は古くから麻網(召縄)、麻袋、麻紐などの麻細工が盛んであった。また、家康が食したといわれる本宿独特の法蔵寺団子があり、その他、草鞋、ひさごなどが土地の名物として売られ、街道筋の評判となった。<br />  往還南に大宝元年(701)僧行基開創と伝えられる古刹法蔵寺がある。歴代の松平氏をはじめ、家康幼少の頃の寺として近世を通じて下馬の寺であり。往来する諸大名をはじめ旅人の参詣があとを絶たなかったという。その他、旗本柴田氏本宿陣屋、尾張藩七里役所、高札場、一里塚、常夜灯などが往還筋に設置されていた。<br />  慶応四年(1868)に柴田勝誠が新政府に提出した高取調帳には村高五百三十六石余(柴田知行所四百五十七石余、法蔵寺領七十九石余)と報告している。<br /> 明治七年(1874)額田郡誌には百三十五戸、五百五十人と記されている。<br /> ここ四ツ谷には立場茶屋があり、幕末期には旅籠屋ニ、茶屋七、当寺の記録から繁盛の様子をうかがうことができる。この地から二本の枝道が南北にわかれている。南、鉢地村道、北、衣文山道である。<br /><br /> 鉢地村道は鉢地川に沿って南へ進み、山越えして西郡(現蒲郡)へ通じるおよそ二里ほどの山道をいう。法蔵寺龍芸上人が清田の安楽寺開山のため通った頃は、けもの道であったが、近世に入り三河湾と東海道を結ぶ唯一の生活道路となり、物資の交流にかかせない道となった。また、竹島弁財天、衣文観音詣での信仰の道でもあった。慶応四年(1868)西郡松平氏が手勢を率い、東海道筋警固のため出陣した軍事道路でもあった。<br />  衣文山道は往還より北の山中を越え上衣文村に通じる山道をいう。衣文観音詣での参道として利用された。<br />      1994年9月 国道一号本宿地区東海道ルネッサンス事業委員会

    本宿の江戸方の入口の冠木門(かんぎもん)と常夜灯
    【是より西 本宿村 藤川宿へ壱里】
     本宿は往古より、街道とともに開けた地であり、中世以降は法蔵寺門前町を中心に町並みが形成された。
    鎌倉街道は東海道の南、法蔵寺裏山辺りを通り鉢池から宮路山中へと続いていた。
    近世に入り、東海道赤坂宿、藤川宿の中間に位置する間の宿としての役割を果たしたといえる。
     享和二年(1802)の本宿村方明細書上帳によれば、家数百二十一軒、村内往還道十九丁、立場茶屋二か所(法蔵寺内、長沢村境四ツ谷)があり、旅人の休息の場として繁盛をきわめた。
      東海道中膝栗毛に「ここは麻のあみ袋、早縄などあきなふれば北八、みほとけの誓いとみえて宝蔵寺、なみあみ袋はここの名物」とある。本宿は古くから麻網(召縄)、麻袋、麻紐などの麻細工が盛んであった。また、家康が食したといわれる本宿独特の法蔵寺団子があり、その他、草鞋、ひさごなどが土地の名物として売られ、街道筋の評判となった。
      往還南に大宝元年(701)僧行基開創と伝えられる古刹法蔵寺がある。歴代の松平氏をはじめ、家康幼少の頃の寺として近世を通じて下馬の寺であり。往来する諸大名をはじめ旅人の参詣があとを絶たなかったという。その他、旗本柴田氏本宿陣屋、尾張藩七里役所、高札場、一里塚、常夜灯などが往還筋に設置されていた。
      慶応四年(1868)に柴田勝誠が新政府に提出した高取調帳には村高五百三十六石余(柴田知行所四百五十七石余、法蔵寺領七十九石余)と報告している。
     明治七年(1874)額田郡誌には百三十五戸、五百五十人と記されている。
     ここ四ツ谷には立場茶屋があり、幕末期には旅籠屋ニ、茶屋七、当寺の記録から繁盛の様子をうかがうことができる。この地から二本の枝道が南北にわかれている。南、鉢地村道、北、衣文山道である。

     鉢地村道は鉢地川に沿って南へ進み、山越えして西郡(現蒲郡)へ通じるおよそ二里ほどの山道をいう。法蔵寺龍芸上人が清田の安楽寺開山のため通った頃は、けもの道であったが、近世に入り三河湾と東海道を結ぶ唯一の生活道路となり、物資の交流にかかせない道となった。また、竹島弁財天、衣文観音詣での信仰の道でもあった。慶応四年(1868)西郡松平氏が手勢を率い、東海道筋警固のため出陣した軍事道路でもあった。
      衣文山道は往還より北の山中を越え上衣文村に通じる山道をいう。衣文観音詣での参道として利用された。
          1994年9月 国道一号本宿地区東海道ルネッサンス事業委員会

  • ここは本宿の東江戸側の入り口になる。<br />道標「右国道1号 左東海道」と書いてある。

    ここは本宿の東江戸側の入り口になる。
    道標「右国道1号 左東海道」と書いてある。

  • コレより本宿(もとしゅく)の説明<br />【是より西 本宿村 藤川宿へ壱里】<br /> 本宿は往古より、街道とともに開けた地であり、中世以降は法蔵寺門前町を中心に町並みが形成された。<br />鎌倉街道は東海道の南、法蔵寺裏山辺りを通り鉢池から宮路山中へと続いていた。<br />近世に入り、東海道赤坂宿、藤川宿の中間に位置する間の宿としての役割を果たしたといえる。<br /> 享和二年(1802)の本宿村方明細書上帳によれば、家数百二十一軒、村内往還道十九丁、立場茶屋二か所(法蔵寺内、長沢村境四ツ谷)があり、旅人の休息の場として繁盛をきわめた。<br />  東海道中膝栗毛に「ここは麻のあみ袋、早縄などあきなふれば北八、みほとけの誓いとみえて宝蔵寺、なみあみ袋はここの名物」とある。本宿は古くから麻網(召縄)、麻袋、麻紐などの麻細工が盛んであった。また、家康が食したといわれる本宿独特の法蔵寺団子があり、その他、草鞋、ひさごなどが土地の名物として売られ、街道筋の評判となった。<br />  往還南に大宝元年(701)僧行基開創と伝えられる古刹法蔵寺がある。歴代の松平氏をはじめ、家康幼少の頃の寺として近世を通じて下馬の寺であり。往来する諸大名をはじめ旅人の参詣があとを絶たなかったという。その他、旗本柴田氏本宿陣屋、尾張藩七里役所、高札場、一里塚、常夜灯などが往還筋に設置されていた。<br /><br /> 慶応四年(1868)に柴田勝誠が新政府に提出した高取調帳には村高五百三十六石余(柴田知行所四百五十七石余、法蔵寺領七十九石余)と報告している。<br /> 明治七年(1874)額田郡誌には百三十五戸、五百五十人と記されている。<br /> ここ四ツ谷には立場茶屋があり、幕末期には旅籠屋ニ、茶屋七、当寺の記録から繁盛の様子をうかがうことができる。この地から二本の枝道が南北にわかれている。南、鉢地村道、北、衣文山道である。<br /><br /> 鉢地村道は鉢地川に沿って南へ進み、山越えして西郡(現蒲郡)へ通じるおよそ二里ほどの山道をいう。法蔵寺龍芸上人が清田の安楽寺開山のため通った頃は、けもの道であったが、近世に入り三河湾と東海道を結ぶ唯一の生活道路となり、物資の交流にかかせない道となった。また、竹島弁財天、衣文観音詣での信仰の道でもあった。慶応四年(1868)西郡松平氏が手勢を率い、東海道筋警固のため出陣した軍事道路でもあった。<br /> 衣文山道は往還より北の山中を越え上衣文村に通じる山道をいう。衣文観音詣での参道として利用された。<br /><br />     1994年9月 国道一号本宿地区東海道ルネッサンス事業委員会

    コレより本宿(もとしゅく)の説明
    【是より西 本宿村 藤川宿へ壱里】
     本宿は往古より、街道とともに開けた地であり、中世以降は法蔵寺門前町を中心に町並みが形成された。
    鎌倉街道は東海道の南、法蔵寺裏山辺りを通り鉢池から宮路山中へと続いていた。
    近世に入り、東海道赤坂宿、藤川宿の中間に位置する間の宿としての役割を果たしたといえる。
     享和二年(1802)の本宿村方明細書上帳によれば、家数百二十一軒、村内往還道十九丁、立場茶屋二か所(法蔵寺内、長沢村境四ツ谷)があり、旅人の休息の場として繁盛をきわめた。
      東海道中膝栗毛に「ここは麻のあみ袋、早縄などあきなふれば北八、みほとけの誓いとみえて宝蔵寺、なみあみ袋はここの名物」とある。本宿は古くから麻網(召縄)、麻袋、麻紐などの麻細工が盛んであった。また、家康が食したといわれる本宿独特の法蔵寺団子があり、その他、草鞋、ひさごなどが土地の名物として売られ、街道筋の評判となった。
      往還南に大宝元年(701)僧行基開創と伝えられる古刹法蔵寺がある。歴代の松平氏をはじめ、家康幼少の頃の寺として近世を通じて下馬の寺であり。往来する諸大名をはじめ旅人の参詣があとを絶たなかったという。その他、旗本柴田氏本宿陣屋、尾張藩七里役所、高札場、一里塚、常夜灯などが往還筋に設置されていた。

     慶応四年(1868)に柴田勝誠が新政府に提出した高取調帳には村高五百三十六石余(柴田知行所四百五十七石余、法蔵寺領七十九石余)と報告している。
     明治七年(1874)額田郡誌には百三十五戸、五百五十人と記されている。
     ここ四ツ谷には立場茶屋があり、幕末期には旅籠屋ニ、茶屋七、当寺の記録から繁盛の様子をうかがうことができる。この地から二本の枝道が南北にわかれている。南、鉢地村道、北、衣文山道である。

     鉢地村道は鉢地川に沿って南へ進み、山越えして西郡(現蒲郡)へ通じるおよそ二里ほどの山道をいう。法蔵寺龍芸上人が清田の安楽寺開山のため通った頃は、けもの道であったが、近世に入り三河湾と東海道を結ぶ唯一の生活道路となり、物資の交流にかかせない道となった。また、竹島弁財天、衣文観音詣での信仰の道でもあった。慶応四年(1868)西郡松平氏が手勢を率い、東海道筋警固のため出陣した軍事道路でもあった。
     衣文山道は往還より北の山中を越え上衣文村に通じる山道をいう。衣文観音詣での参道として利用された。

         1994年9月 国道一号本宿地区東海道ルネッサンス事業委員会

  • 【浄土宗法蔵寺】です。大宝元年(701)に僧行基が開創。<br />徳川家康公(幼少:竹千代)が手習いや漢籍などの学問に励んだと伝えられる寺です。「竹千代」と落書きの残る机や、書初めが保存されている。<br /><br />本宿に入るとすぐ左側に見えてくる。 ここは徳川家の祖である「松平家」ゆかりの寺と言われ、大宝元年(701年)僧行基によって開かれたと伝えられている。<br />奥には松平家の墓が並んでいたので、当時の大名行列はかならず下馬して参詣していったという。境内に入るとすぐに、「草紙掛松」碑があるが、これは家康が幼少の頃、この寺で手習や漢藉を受けていた時、手習の草紙をこの松にかけて乾燥していたからだという。 今ではこの松自体はすでに枯れ、新しい松が植えられている。<br /><br />

    【浄土宗法蔵寺】です。大宝元年(701)に僧行基が開創。
    徳川家康公(幼少:竹千代)が手習いや漢籍などの学問に励んだと伝えられる寺です。「竹千代」と落書きの残る机や、書初めが保存されている。

    本宿に入るとすぐ左側に見えてくる。 ここは徳川家の祖である「松平家」ゆかりの寺と言われ、大宝元年(701年)僧行基によって開かれたと伝えられている。
    奥には松平家の墓が並んでいたので、当時の大名行列はかならず下馬して参詣していったという。境内に入るとすぐに、「草紙掛松」碑があるが、これは家康が幼少の頃、この寺で手習や漢藉を受けていた時、手習の草紙をこの松にかけて乾燥していたからだという。 今ではこの松自体はすでに枯れ、新しい松が植えられている。

  • 【浄土宗法蔵寺】<br />大宝元年(701)僧行基の開創といわれ、法相宗出生寺と号したが、至徳二年(1385)京都円福寺龍芸教空上人により、浄土宗に改め法蔵寺と改称した。浄土宗三河三檀林の古刹である。松平氏初代親氏を初め、代々の松平氏の帰依深く、諸堂宇を寄進されている。また勅願所、足利義教の祈願所ともなっている。<br /><br /> 近世は家康手習いの寺として、江戸期を通じて門前下馬を与えられた。慶応四年(1868)新政府に提出した高取調帳には朱印高八十八石余(本宿村七十九石、鉢地村九石)と報告している。本堂は嘉慶二年(1388)松平親氏建立、明治十年に改築された。<br /><br />     1994年9月 国道一号本宿地区東海道ルネッサンス事業委員会<br /><br />三河三十三観音第12番礼所、本尊は阿弥陀如来です<br />境内には徳川家康の父(松平広忠墓)はじめ 松平家霊廟<br /><br />山門には『浄土宗西山深草派 檀林 大神光 二村山 法蔵寺』と

    【浄土宗法蔵寺】
    大宝元年(701)僧行基の開創といわれ、法相宗出生寺と号したが、至徳二年(1385)京都円福寺龍芸教空上人により、浄土宗に改め法蔵寺と改称した。浄土宗三河三檀林の古刹である。松平氏初代親氏を初め、代々の松平氏の帰依深く、諸堂宇を寄進されている。また勅願所、足利義教の祈願所ともなっている。

     近世は家康手習いの寺として、江戸期を通じて門前下馬を与えられた。慶応四年(1868)新政府に提出した高取調帳には朱印高八十八石余(本宿村七十九石、鉢地村九石)と報告している。本堂は嘉慶二年(1388)松平親氏建立、明治十年に改築された。

         1994年9月 国道一号本宿地区東海道ルネッサンス事業委員会

    三河三十三観音第12番礼所、本尊は阿弥陀如来です
    境内には徳川家康の父(松平広忠墓)はじめ 松平家霊廟

    山門には『浄土宗西山深草派 檀林 大神光 二村山 法蔵寺』と

  • 【法蔵寺】<br />大宝元年(701年)に行基が創建。徳川家康が幼少期に過ごした寺。<br />また、新撰組局長の近藤勇首塚があることで有名。<br />本堂裏に新選組局長近藤勇首塚があります、台石には土方歳三をはじめ十一名の隊士名が刻まれています、傍らに近藤勇胸像があり、誠の旗指物がはためいています。<br />新選組局長の近藤勇は下総流山で官軍に捕らわれ、中山道板橋の刑場で斬首となり、首級は塩漬けにされ京の三条河原に晒された、三日目の晩に同士がこれを奪取して、ここ法蔵寺に運び密かに埋葬したと云います。<br /><br />【近藤勇首塚の由来】<br />  新撰組隊長近藤勇は慶応四年(明治元年)四月二十五日三十五歳で東京都板橋の刑場の露と消えました。<br />  刑後、近親者が埋められた勇の死体を人夫に頼んで夜中ひそかに掘り出してもらい、東京都三鷹の竜源寺に埋葬しました。<br />  また勇の首は、処刑後、塩漬にして京都に送られ三条大橋の西にさらされました。それを同志が三晩目に持ち出し、勇が生前敬慕していた新京極裏寺町の称空義天大和尚に、埋葬を依頼することにしました。<br />  しかし和尚は、その半年前から三河国法蔵寺の三十九代貫主として転任されていたので法蔵寺に運ぶことにしました。この寺は山の中にあり、大木が生い茂っていて、ひそかに埋葬するには好適の地でした。<br />  しかし当時は世間をはばかって、石碑を土でおおい仏の様にして沓華していました。そしていつか石碑の存在も忘れられてしまいました。<br />  昭和三十三年総本山の記録等に基づいて調査した結果、埋葬の由来が明らかになりました。<br />  今回、石碑をおおっていた土砂を取り除き勇の胸像をたてて供養することにしたのであります。<br />                            法蔵寺 執事

    【法蔵寺】
    大宝元年(701年)に行基が創建。徳川家康が幼少期に過ごした寺。
    また、新撰組局長の近藤勇首塚があることで有名。
    本堂裏に新選組局長近藤勇首塚があります、台石には土方歳三をはじめ十一名の隊士名が刻まれています、傍らに近藤勇胸像があり、誠の旗指物がはためいています。
    新選組局長の近藤勇は下総流山で官軍に捕らわれ、中山道板橋の刑場で斬首となり、首級は塩漬けにされ京の三条河原に晒された、三日目の晩に同士がこれを奪取して、ここ法蔵寺に運び密かに埋葬したと云います。

    【近藤勇首塚の由来】
      新撰組隊長近藤勇は慶応四年(明治元年)四月二十五日三十五歳で東京都板橋の刑場の露と消えました。
      刑後、近親者が埋められた勇の死体を人夫に頼んで夜中ひそかに掘り出してもらい、東京都三鷹の竜源寺に埋葬しました。
      また勇の首は、処刑後、塩漬にして京都に送られ三条大橋の西にさらされました。それを同志が三晩目に持ち出し、勇が生前敬慕していた新京極裏寺町の称空義天大和尚に、埋葬を依頼することにしました。
      しかし和尚は、その半年前から三河国法蔵寺の三十九代貫主として転任されていたので法蔵寺に運ぶことにしました。この寺は山の中にあり、大木が生い茂っていて、ひそかに埋葬するには好適の地でした。
      しかし当時は世間をはばかって、石碑を土でおおい仏の様にして沓華していました。そしていつか石碑の存在も忘れられてしまいました。
      昭和三十三年総本山の記録等に基づいて調査した結果、埋葬の由来が明らかになりました。
      今回、石碑をおおっていた土砂を取り除き勇の胸像をたてて供養することにしたのであります。
                                法蔵寺 執事

  • 【法蔵寺 近藤勇首塚】<br />『近藤勇首塚の由来<br />  新撰組隊長近藤勇は、慶応四年(明治元年)四月二十五日三十五才で東京都板橋の刑場の露と消えました。<br />刑後、近親者が、埋められた、勇の死体を人夫に頼んで夜中ひそかに掘り出してもらい、東京都三鷹の竜源寺に埋葬しました。<br />また、勇の首は、処刑後、塩漬にして、京都に送られ三条大橋の西にさらされました。それを同士が三晩目に持出し、勇が生前敬慕していた新京極裏寺町の称空義天大和尚に、埋葬を依頼することにしました。<br />しかし、和尚は、その半年前から、三河国法蔵寺の三十九代貫主として転任されていたので法蔵寺に運ぶことにしました。この寺は山の中にあり、大木が生い茂っていて、ひそかに埋葬するのに好適の地でした。<br />しかし当時は世間をはばかって、石碑を土でおおい、無縁仏の様にして沓華していました。そしていつか石碑の存在も忘れられてしまいました。<br />昭和三十三年総本山の記録等に基づいて調査した結果埋葬の由来が明らかになりました。今回、石碑をおおっていた土砂を取り除き、勇の胸像をたてて供養することにいたしたのであります。<br />                     【法蔵寺 執事』】

    【法蔵寺 近藤勇首塚】
    『近藤勇首塚の由来
      新撰組隊長近藤勇は、慶応四年(明治元年)四月二十五日三十五才で東京都板橋の刑場の露と消えました。
    刑後、近親者が、埋められた、勇の死体を人夫に頼んで夜中ひそかに掘り出してもらい、東京都三鷹の竜源寺に埋葬しました。
    また、勇の首は、処刑後、塩漬にして、京都に送られ三条大橋の西にさらされました。それを同士が三晩目に持出し、勇が生前敬慕していた新京極裏寺町の称空義天大和尚に、埋葬を依頼することにしました。
    しかし、和尚は、その半年前から、三河国法蔵寺の三十九代貫主として転任されていたので法蔵寺に運ぶことにしました。この寺は山の中にあり、大木が生い茂っていて、ひそかに埋葬するのに好適の地でした。
    しかし当時は世間をはばかって、石碑を土でおおい、無縁仏の様にして沓華していました。そしていつか石碑の存在も忘れられてしまいました。
    昭和三十三年総本山の記録等に基づいて調査した結果埋葬の由来が明らかになりました。今回、石碑をおおっていた土砂を取り除き、勇の胸像をたてて供養することにいたしたのであります。
                         【法蔵寺 執事』】

  • 法蔵寺境内に、御草紙掛け松があります。<br />【草紙掛けの松】と呼ばれる。<br />家康公が幼少の頃、この法蔵寺で手習いをしてた時、お手植えされた松ということで親しまれてきたこの地の松である。名前は、家康が学問に励み、手習いの草紙をこの松に掛けたという謂れによる。<br /><br />【御草紙掛松(おそうしかけのまつ)】<br />  寺伝によれば家康幼少の頃、当寺にて学問手習いに励んだといわれる。この松は家康手植えともいわれ、手習いの折り草紙を掛けたことからこの名がつけられたという。<br />  家康公ゆかりの「御草紙掛松」として永く人々に親しまれてきた。<br />また、「御茶屋の松」「御腰掛の松」ともよばれた。<br />昭和五十八年惜しくも立ち枯れ、翌五十九年新たに植樹されたものである。<br />  周囲の石柵は文化十二年(1815)旗本木造清左衛門俊往の寄進である。<br />                    平成九年三月 郷土史本宿研究会

    法蔵寺境内に、御草紙掛け松があります。
    【草紙掛けの松】と呼ばれる。
    家康公が幼少の頃、この法蔵寺で手習いをしてた時、お手植えされた松ということで親しまれてきたこの地の松である。名前は、家康が学問に励み、手習いの草紙をこの松に掛けたという謂れによる。

    【御草紙掛松(おそうしかけのまつ)】
      寺伝によれば家康幼少の頃、当寺にて学問手習いに励んだといわれる。この松は家康手植えともいわれ、手習いの折り草紙を掛けたことからこの名がつけられたという。
      家康公ゆかりの「御草紙掛松」として永く人々に親しまれてきた。
    また、「御茶屋の松」「御腰掛の松」ともよばれた。
    昭和五十八年惜しくも立ち枯れ、翌五十九年新たに植樹されたものである。
      周囲の石柵は文化十二年(1815)旗本木造清左衛門俊往の寄進である。
                        平成九年三月 郷土史本宿研究会

  • 法蔵寺境内に、御草紙掛け松

    法蔵寺境内に、御草紙掛け松

  • 本宿 『法蔵寺山内 東照宮』<br />「??■?由緒?<br />寺伝 御太祖源頼義公 御父子勅命東國御下向の節富山に御参詣有<br />御子義家公(號 八幡太郎) 両度の御下向御参詣 戦勝御謝恩の為<br />難事闘戦御勝利の御甲冑御供養の御儀奉る<br /> 始祖松平親氏公 三河渡御の折御武運御勝利を御祈願 御手自ら<br />正八幡之神像を御彫刻 當寺に御宮を御建立され 義家公御甲冑と<br />御神像を御宮に御遷座奉り 松平御當家の守護神とされた<br /> 松平元康(後の家康公)岡崎ご在城の砌 所々ご出陣の節は勿論<br />平日共に御開運御祈祷を仰付の為 當寺教翁洞恵上人弟子の教山坊<br />に命じ 元康様初陣御甲冑の御木像を彫刻安置 御供養の御神体は<br />御相宮にて御遷座 臨時長日共御後裔様御治国平天下の御祈願奉る<br /> 御宮は変遷を重ね のち「東照宮」と改められ現在に至る<br />?■本殿?<br />入母屋 銅板莓 唐破風 極彩色<br />文政 三年(1820)修覆される<br />文政 四年(1821)御遷座<br />平成十一年(1999)大修覆された<br />神前寶鈴<br />「東照宮 元禄元年(1688)」の銘がある神前實鈴が現存する<br />元禄期 御宮は既にこの地に遷座していた<br />神額<br />文政十二年(1829)旗本柴田氏 本宿陣屋代官富田群蔵常業の 願いにより 神祇伯白川雅寿王の染筆である<br />?■旗本と御鏡講?<br />文化十二年(1815)旗本石川左近衛将監忠房 御宮荒廃を慨嘆 修覆基金「御鏡講」旗本有志の賛同を得て設立する<br />神前には旗本大御番組寄進の奉献石造物が数多く現存している」

    本宿 『法蔵寺山内 東照宮』
    「??■?由緒?
    寺伝 御太祖源頼義公 御父子勅命東國御下向の節富山に御参詣有
    御子義家公(號 八幡太郎) 両度の御下向御参詣 戦勝御謝恩の為
    難事闘戦御勝利の御甲冑御供養の御儀奉る
     始祖松平親氏公 三河渡御の折御武運御勝利を御祈願 御手自ら
    正八幡之神像を御彫刻 當寺に御宮を御建立され 義家公御甲冑と
    御神像を御宮に御遷座奉り 松平御當家の守護神とされた
     松平元康(後の家康公)岡崎ご在城の砌 所々ご出陣の節は勿論
    平日共に御開運御祈祷を仰付の為 當寺教翁洞恵上人弟子の教山坊
    に命じ 元康様初陣御甲冑の御木像を彫刻安置 御供養の御神体は
    御相宮にて御遷座 臨時長日共御後裔様御治国平天下の御祈願奉る
     御宮は変遷を重ね のち「東照宮」と改められ現在に至る
    ?■本殿?
    入母屋 銅板莓 唐破風 極彩色
    文政 三年(1820)修覆される
    文政 四年(1821)御遷座
    平成十一年(1999)大修覆された
    神前寶鈴
    「東照宮 元禄元年(1688)」の銘がある神前實鈴が現存する
    元禄期 御宮は既にこの地に遷座していた
    神額
    文政十二年(1829)旗本柴田氏 本宿陣屋代官富田群蔵常業の 願いにより 神祇伯白川雅寿王の染筆である
    ?■旗本と御鏡講?
    文化十二年(1815)旗本石川左近衛将監忠房 御宮荒廃を慨嘆 修覆基金「御鏡講」旗本有志の賛同を得て設立する
    神前には旗本大御番組寄進の奉献石造物が数多く現存している」

  • 【本宿陣屋跡と代官屋敷跡】<br /> 元禄十三年(1698)旗本柴田出雲守勝門(柴田勝家子孫)が知行所支配のため、本宿村に陣屋を設けた。以来明治に至るまで存続した。<br /><br /> 陣屋代官職は冨田家が世襲し、現存の居宅は文政十年(1827)の建築である。<br /><br />     郷土史本宿研究会

    【本宿陣屋跡と代官屋敷跡】
     元禄十三年(1698)旗本柴田出雲守勝門(柴田勝家子孫)が知行所支配のため、本宿村に陣屋を設けた。以来明治に至るまで存続した。

     陣屋代官職は冨田家が世襲し、現存の居宅は文政十年(1827)の建築である。

         郷土史本宿研究会

  • 旗本・柴田出雲守(勝家の子孫)の知行地。<br />陣屋代官職は冨田家が世襲した。(現冨田病院)旧代官宅は1827年の建築。ー

    旗本・柴田出雲守(勝家の子孫)の知行地。
    陣屋代官職は冨田家が世襲した。(現冨田病院)旧代官宅は1827年の建築。ー

  • 本宿村の道路原標。旧道路法の定めによる、各市町村の起点。

    本宿村の道路原標。旧道路法の定めによる、各市町村の起点。

  • 【欣浄寺(ごんじょうじ)】<br />本尊の木像地蔵菩薩坐像は欣浄寺に安置されています。<br />街道沿いの欣浄寺参道口右手の本宿町集会所の所に十王堂跡解説板があります。<br />ここに十王堂(焔魔堂)があり、村人や旅人から尊崇されていた。本尊の木像地蔵菩薩坐像は欣浄寺に安置されています。<br /><br />法蔵寺第八代融翁洞文上人が法蔵寺を真正面に眺望できる洞元山の麓に庵を結び、念仏の隠居生活を送ったのが欣浄寺の始まりです。<br />阿弥陀三尊、千手千眼観世音菩薩坐像、釈迦三尊図が祀られています。<br />本堂前の大クスノキは樹齢100年を超えます。また、寺の裏山を登ると本宿町の街並みが一望できます。<br /><br />『本堂』。<br />「ご由来<br />法蔵寺第8代融翁洞文上人は永禄5年(1579年)より18年間在住したのち、53歳で<br />天正7年(1579年)、洞元山の麓に庵を結んで隠栖しました。<br />ここは、鉢地川を隔てて法蔵時本堂が正面に展望できる閑静な場所で、念仏三昧の隠居生活には<br />絶好であったといわれます。これが欣浄寺の始まりでとのことです。<br />東海道が開かれたのち、庶民が参拝するのに不便な地であったため、享保7年(1722年)、第7代啓空序麒西堂は街道沿いの十王堂近隣の現在地に移転し、堂宇を再建しました。幕府旗本の柴田家は信仰篤く、5代にわたる位牌を当寺へ安置しています。<br />近隣の十王堂との結びつきも強く、禎空祥善上人は、弘化3年(1846年)本尊地蔵菩薩を再興し、衣香寺開山と称したそうです。戦後、本宿村公民館西分館を兼ねて本堂を再建し、十王堂が境内に移転されました。現在は十王堂は元の位置に戻っているそうです。」と

    【欣浄寺(ごんじょうじ)】
    本尊の木像地蔵菩薩坐像は欣浄寺に安置されています。
    街道沿いの欣浄寺参道口右手の本宿町集会所の所に十王堂跡解説板があります。
    ここに十王堂(焔魔堂)があり、村人や旅人から尊崇されていた。本尊の木像地蔵菩薩坐像は欣浄寺に安置されています。

    法蔵寺第八代融翁洞文上人が法蔵寺を真正面に眺望できる洞元山の麓に庵を結び、念仏の隠居生活を送ったのが欣浄寺の始まりです。
    阿弥陀三尊、千手千眼観世音菩薩坐像、釈迦三尊図が祀られています。
    本堂前の大クスノキは樹齢100年を超えます。また、寺の裏山を登ると本宿町の街並みが一望できます。

    『本堂』。
    「ご由来
    法蔵寺第8代融翁洞文上人は永禄5年(1579年)より18年間在住したのち、53歳で
    天正7年(1579年)、洞元山の麓に庵を結んで隠栖しました。
    ここは、鉢地川を隔てて法蔵時本堂が正面に展望できる閑静な場所で、念仏三昧の隠居生活には
    絶好であったといわれます。これが欣浄寺の始まりでとのことです。
    東海道が開かれたのち、庶民が参拝するのに不便な地であったため、享保7年(1722年)、第7代啓空序麒西堂は街道沿いの十王堂近隣の現在地に移転し、堂宇を再建しました。幕府旗本の柴田家は信仰篤く、5代にわたる位牌を当寺へ安置しています。
    近隣の十王堂との結びつきも強く、禎空祥善上人は、弘化3年(1846年)本尊地蔵菩薩を再興し、衣香寺開山と称したそうです。戦後、本宿村公民館西分館を兼ねて本堂を再建し、十王堂が境内に移転されました。現在は十王堂は元の位置に戻っているそうです。」と

  • 【宇都野龍碩邸跡と長屋門】<br />宇都野龍碩(うつのりゅうせき)は18c半ばに本宿で開業した医者。7代目龍碩はシーボルト門下の青木周粥に医学を学び安政年間に種痘を施した。<br /><br />本宿村医家宇津野氏は古部村(元岡崎市古部町)の出といわれ、宝暦年間(1751~63)三代立碩が当地において開業したのが始まりといわれている。<br />七代龍碩はシーボルト門人青木周弼に、医学を学んだ蘭方医として知られている。<br />安政年間、当時としては画期的ともいわれる植疱瘡(種痘)を施している。<br />                           郷土史本宿研究会<br />

    【宇都野龍碩邸跡と長屋門】
    宇都野龍碩(うつのりゅうせき)は18c半ばに本宿で開業した医者。7代目龍碩はシーボルト門下の青木周粥に医学を学び安政年間に種痘を施した。

    本宿村医家宇津野氏は古部村(元岡崎市古部町)の出といわれ、宝暦年間(1751~63)三代立碩が当地において開業したのが始まりといわれている。
    七代龍碩はシーボルト門人青木周弼に、医学を学んだ蘭方医として知られている。
    安政年間、当時としては画期的ともいわれる植疱瘡(種痘)を施している。
                               郷土史本宿研究会

  • 【宇都野龍碩(りゅうせき)邸跡で、長屋門を持つ屋敷】<br />本宿村医家宇都野家は、三代目立碩がこの地に開業。<br />本宿村医家宇津野家は宝暦年間(1751~63)三代目立碩(りっせき)がこの地で開業し、七代目龍碩はシーボルト門人青木周弼に学んだ蘭方医で安政年間(1854~60)に種痘を施行した。<br /><br />『宇都野龍硯邸跡と長屋門』<br />「本宿村医家宇都野氏は、古部村(現岡崎市古部町)の出と言われ、宝暦年間(1751-63)三代立碩が当地において開業したのが始まりといわれている。<br />七代龍碩はシーボルト門人青木周弼に医学を学んだ蘭方医として知られている。<br />安政年間、当時としては画期的な植疱瘡(種痘)を施している。

    【宇都野龍碩(りゅうせき)邸跡で、長屋門を持つ屋敷】
    本宿村医家宇都野家は、三代目立碩がこの地に開業。
    本宿村医家宇津野家は宝暦年間(1751~63)三代目立碩(りっせき)がこの地で開業し、七代目龍碩はシーボルト門人青木周弼に学んだ蘭方医で安政年間(1854~60)に種痘を施行した。

    『宇都野龍硯邸跡と長屋門』
    「本宿村医家宇都野氏は、古部村(現岡崎市古部町)の出と言われ、宝暦年間(1751-63)三代立碩が当地において開業したのが始まりといわれている。
    七代龍碩はシーボルト門人青木周弼に医学を学んだ蘭方医として知られている。
    安政年間、当時としては画期的な植疱瘡(種痘)を施している。

  • 【山中八幡宮】<br />楠の巨樹がそびえてる。山腹に鳩ケ窟という洞窟がある。1563年三河の一向一揆の折、家康が逃れて身を隠した。鳥居は家康が寄進したもの。東照宮が祀られ、家光は上洛の折には参拝に立ち寄った。<br /><br />【徳川家康と山中八幡宮】<br />竹千代の誕生<br />  天文十一年(1542)十二月二十六日、竹千代の誕生に際して本多平八郎が山中八幡宮に竹千代の武運祈願のため来社、神主竹尾安信、岡崎城の竹の間に召出され、守札の献上、御盃を頂戴、竹千代の武運長久の祈願するように仰せ付けられる。<br /><br />家康の初陣(十七才)<br />  弘治四年(1558)二月、松平元康は今川義元の命により、三河の寺部城主鈴木日向守を攻めるにあたり山中八幡宮に戦勝祈願に来社。<br />  永禄元年(1568)初陣の功により、家康に旧岡崎領のうち山中の三百貫を返された。<br />鳩ヶ窟に難を逃れる(二十二才)<br />  永禄六年(1563)の秋、三河一向一揆のとき、家康が一揆勢に追われて危機におちいった。逃げ惑い、八幡宮の森に入り、洞窟に身をかくす。一揆勢は洞窟を怪しんで調べようとした時、二羽の白鳩が穴より舞いあがったので、囲みをといて立ち去ったので、家康は危機をのがれる。<br /><br /> 慶長二年(1597)の春、家康は石川数正、酒井寿四郎に命じ、山中八幡宮の衡門を建て、社殿の造営をした。朱印の下附(六十二才)<br /><br /> 慶長八年(1603)八月、伏見城において家康は山中八幡宮神主竹尾正照に対して神領百五十石の朱印状をあたえた。<br /><br />葵御紋<br />寛永十一年(1634)家光上洛の節、山中八幡宮に参拝、東照宮合祀葵の紋の使用を許可される。<br /><br />     山中八幡宮記 八幡宮御由緒書による

    【山中八幡宮】
    楠の巨樹がそびえてる。山腹に鳩ケ窟という洞窟がある。1563年三河の一向一揆の折、家康が逃れて身を隠した。鳥居は家康が寄進したもの。東照宮が祀られ、家光は上洛の折には参拝に立ち寄った。

    【徳川家康と山中八幡宮】
    竹千代の誕生
      天文十一年(1542)十二月二十六日、竹千代の誕生に際して本多平八郎が山中八幡宮に竹千代の武運祈願のため来社、神主竹尾安信、岡崎城の竹の間に召出され、守札の献上、御盃を頂戴、竹千代の武運長久の祈願するように仰せ付けられる。

    家康の初陣(十七才)
      弘治四年(1558)二月、松平元康は今川義元の命により、三河の寺部城主鈴木日向守を攻めるにあたり山中八幡宮に戦勝祈願に来社。
      永禄元年(1568)初陣の功により、家康に旧岡崎領のうち山中の三百貫を返された。
    鳩ヶ窟に難を逃れる(二十二才)
      永禄六年(1563)の秋、三河一向一揆のとき、家康が一揆勢に追われて危機におちいった。逃げ惑い、八幡宮の森に入り、洞窟に身をかくす。一揆勢は洞窟を怪しんで調べようとした時、二羽の白鳩が穴より舞いあがったので、囲みをといて立ち去ったので、家康は危機をのがれる。

     慶長二年(1597)の春、家康は石川数正、酒井寿四郎に命じ、山中八幡宮の衡門を建て、社殿の造営をした。朱印の下附(六十二才)

     慶長八年(1603)八月、伏見城において家康は山中八幡宮神主竹尾正照に対して神領百五十石の朱印状をあたえた。

    葵御紋
    寛永十一年(1634)家光上洛の節、山中八幡宮に参拝、東照宮合祀葵の紋の使用を許可される。

         山中八幡宮記 八幡宮御由緒書による

  • 【山中八幡宮】 岡崎本堂<br />『山中八幡宮』。<br />「家康の家臣菅沼定顕が、上宮寺から糧米を強制徴収したことに端を発した三河一向一揆で、門徒に追われた家康が身を隠し、難を避けたという鳩ヶ窟があります。<br />一揆方の追手が家康のひそんでいる洞窟を探そうとすると、中から二羽の鳩が飛び立ちました。<br />「人のいる所に鳩がいるはずはない」と追手は立ち去ったといいます。<br />例年正月三日には、五穀豊穣を祈る御田植神事「デンデンガッサリ」が催されます。」デンデンガッサリの名で当宮に古くから伝わるのは、いわゆる「御田植神事」である。<br />古来旧暦正月三日の夜行われていたが、昭和初期から新暦正月三日の午後に行われるようになった。神事は、前歌・後歌・科白・所作に分かれ、稲の豊作を祈願する。最後に餅投げが行われ、この餅を食べれば夏病にかからないと言われていると。<br /><br />『拝殿』。<br />当地に山中光重という人があり、朱鳥14年(699年)9月9日、宇佐八幡大神の夢のお告げで神霊を迎え、当地に社を建てたのがはじめといわれる。<br />敷地内に「鳩ヶ窟」(はとがくつ)と呼ばれる洞窟があり、永禄6年(1563年)に起こった三河一向一揆の戦いで、徳川家康が敗れて逃げ隠れた洞窟といわれる。<br />追手の兵がこの中を探そうとしたが、洞窟から白い鳩が2羽飛び立ったので、追手の兵は「人のいる所に鳩などいるわけない」といって通り過ぎ、家康は難をまぬがれたといわれる。<br />その後、この洞窟を鳩ヶ窟といい、このことにより八幡宮の山を御身隠山(おみかくしのやま)と呼ぶようになった。慶長8年(1603年)8月26日の家康朱印状で180石を寄進された。寛永11年(1634年)8月23日に3代将軍徳川家光が上洛の際に参拝。<br /><br />『徳川家康と山中八幡宮』の関係は以下と。<br />■竹千代の誕生<br />天文十一年(1542)十二月二十六日、竹千代の誕生に際して本多平八郎が山中八幡宮に竹千代の武運祈願のため来社、神主竹尾安信、岡崎城の竹の間に召出され、守札の献上、御盃を頂戴、竹千代の武運長久の祈願するように仰せ付けられる。<br />■家康の初陣(十七才)<br />弘治四年(1558)二月、松平元康は今川義元の命により、三河の寺部城主鈴木日向守を攻めるにあたり山中八幡宮に戦勝祈願に来社。<br />永禄元年(1568)初陣の功により、家康に旧岡崎領のうち山中の三百貫を返された。<br />■鳩ヶ窟に難を逃れる(二十二才)<br />永禄六年(1563)の秋、三河一向一揆のとき、家康が一揆勢に追われて危機におちいった。逃げ惑い、八幡宮の森に入り、洞窟に身をかくす。一揆勢は洞窟を怪しんで調べようとした時、二羽の白鳩が穴より舞いあがったので、囲みをといて立ち去ったので、家康は危機をのがれる。<br />慶長二年(1597)の春、家康は石川数正、酒井寿四郎に命じ、山中八幡宮の衡門を建て、社殿の造営をした。朱印の下附(六十二才)<br />慶長八年(1603)八月、伏見城において家康は山中八幡宮神主竹尾正照に対して神領百五十石の朱印状をあたえた。<br />■葵御紋<br />寛永十一年(1634)家光上洛の節、山中八幡宮に参拝、東照宮合祀葵の紋の使用を許可される。<br />

    【山中八幡宮】 岡崎本堂
    『山中八幡宮』。
    「家康の家臣菅沼定顕が、上宮寺から糧米を強制徴収したことに端を発した三河一向一揆で、門徒に追われた家康が身を隠し、難を避けたという鳩ヶ窟があります。
    一揆方の追手が家康のひそんでいる洞窟を探そうとすると、中から二羽の鳩が飛び立ちました。
    「人のいる所に鳩がいるはずはない」と追手は立ち去ったといいます。
    例年正月三日には、五穀豊穣を祈る御田植神事「デンデンガッサリ」が催されます。」デンデンガッサリの名で当宮に古くから伝わるのは、いわゆる「御田植神事」である。
    古来旧暦正月三日の夜行われていたが、昭和初期から新暦正月三日の午後に行われるようになった。神事は、前歌・後歌・科白・所作に分かれ、稲の豊作を祈願する。最後に餅投げが行われ、この餅を食べれば夏病にかからないと言われていると。

    『拝殿』。
    当地に山中光重という人があり、朱鳥14年(699年)9月9日、宇佐八幡大神の夢のお告げで神霊を迎え、当地に社を建てたのがはじめといわれる。
    敷地内に「鳩ヶ窟」(はとがくつ)と呼ばれる洞窟があり、永禄6年(1563年)に起こった三河一向一揆の戦いで、徳川家康が敗れて逃げ隠れた洞窟といわれる。
    追手の兵がこの中を探そうとしたが、洞窟から白い鳩が2羽飛び立ったので、追手の兵は「人のいる所に鳩などいるわけない」といって通り過ぎ、家康は難をまぬがれたといわれる。
    その後、この洞窟を鳩ヶ窟といい、このことにより八幡宮の山を御身隠山(おみかくしのやま)と呼ぶようになった。慶長8年(1603年)8月26日の家康朱印状で180石を寄進された。寛永11年(1634年)8月23日に3代将軍徳川家光が上洛の際に参拝。

    『徳川家康と山中八幡宮』の関係は以下と。
    ■竹千代の誕生
    天文十一年(1542)十二月二十六日、竹千代の誕生に際して本多平八郎が山中八幡宮に竹千代の武運祈願のため来社、神主竹尾安信、岡崎城の竹の間に召出され、守札の献上、御盃を頂戴、竹千代の武運長久の祈願するように仰せ付けられる。
    ■家康の初陣(十七才)
    弘治四年(1558)二月、松平元康は今川義元の命により、三河の寺部城主鈴木日向守を攻めるにあたり山中八幡宮に戦勝祈願に来社。
    永禄元年(1568)初陣の功により、家康に旧岡崎領のうち山中の三百貫を返された。
    ■鳩ヶ窟に難を逃れる(二十二才)
    永禄六年(1563)の秋、三河一向一揆のとき、家康が一揆勢に追われて危機におちいった。逃げ惑い、八幡宮の森に入り、洞窟に身をかくす。一揆勢は洞窟を怪しんで調べようとした時、二羽の白鳩が穴より舞いあがったので、囲みをといて立ち去ったので、家康は危機をのがれる。
    慶長二年(1597)の春、家康は石川数正、酒井寿四郎に命じ、山中八幡宮の衡門を建て、社殿の造営をした。朱印の下附(六十二才)
    慶長八年(1603)八月、伏見城において家康は山中八幡宮神主竹尾正照に対して神領百五十石の朱印状をあたえた。
    ■葵御紋
    寛永十一年(1634)家光上洛の節、山中八幡宮に参拝、東照宮合祀葵の紋の使用を許可される。

  • 山中八幡宮<br />「旧山中郷の郷社であります。山中八幡宮は、創建千年以上(律令政治時代)とも云われ<br />また古墳の跡とも云われています。元来、市場町は本氏子として八幡宮の東麓に住したが、?<br />藤川宿へ加宿以来、徐々に粗縁となり現在に至っています。残念に思います。<br />そして、その証として立派な神輿、郷蔵も移築以来、市場町で管理しています。?<br />そして、三河一向一揆の際、身を隠して助かった徳川家康公由縁の神社としても有名です。」

    山中八幡宮
    「旧山中郷の郷社であります。山中八幡宮は、創建千年以上(律令政治時代)とも云われ
    また古墳の跡とも云われています。元来、市場町は本氏子として八幡宮の東麓に住したが、?
    藤川宿へ加宿以来、徐々に粗縁となり現在に至っています。残念に思います。
    そして、その証として立派な神輿、郷蔵も移築以来、市場町で管理しています。?
    そして、三河一向一揆の際、身を隠して助かった徳川家康公由縁の神社としても有名です。」

  • 藤川宿の東入口に来ました。<br /> 「棒鼻」とは、宿場の出はずれ、すなわち出入り口のことである。東にあるので「東棒鼻」と呼んでいる。<br />  藤川宿に棒鼻が再現されたのは、東海道ルネッサンス活動の機運が盛り上がった平成元年である。なぜ藤川に再現されたかというと、江戸時代の浮世絵の絵師・歌川広重が東海道五十三次の藤川・「棒鼻ノ図」に描いたからである。絵の中には、八朔(はっさく=八月一日)の御馬進献の行列がちょうど藤川の棒鼻にさしかかるところで、辺りに境界を示す傍示杭、道の両側に石垣を積んで土を盛った宿囲石垣(しゅくがこいいしがき)を描いている。<br />  最近、明治二十年ころ写された写真が見つかり、宿囲石垣が写っていたことから、その存在も認められた。<br />  とにかく、現在、藤川宿といえば「棒鼻」と言われるぐらい、藤川宿の象徴となっている。<br />                         藤川宿まちづくり研究会

    藤川宿の東入口に来ました。
     「棒鼻」とは、宿場の出はずれ、すなわち出入り口のことである。東にあるので「東棒鼻」と呼んでいる。
      藤川宿に棒鼻が再現されたのは、東海道ルネッサンス活動の機運が盛り上がった平成元年である。なぜ藤川に再現されたかというと、江戸時代の浮世絵の絵師・歌川広重が東海道五十三次の藤川・「棒鼻ノ図」に描いたからである。絵の中には、八朔(はっさく=八月一日)の御馬進献の行列がちょうど藤川の棒鼻にさしかかるところで、辺りに境界を示す傍示杭、道の両側に石垣を積んで土を盛った宿囲石垣(しゅくがこいいしがき)を描いている。
      最近、明治二十年ころ写された写真が見つかり、宿囲石垣が写っていたことから、その存在も認められた。
      とにかく、現在、藤川宿といえば「棒鼻」と言われるぐらい、藤川宿の象徴となっている。
                             藤川宿まちづくり研究会

  • 藤川旧道と国道1号線の別れ。左へ歩きます

    藤川旧道と国道1号線の別れ。左へ歩きます

  • 藤川宿の東端。江戸から37番目の宿場です。<br />広重の絵を参考に復元された東棒鼻公園です。

    藤川宿の東端。江戸から37番目の宿場です。
    広重の絵を参考に復元された東棒鼻公園です。

  • 浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像<br />【東海道五拾三次之内 藤川 棒鼻ノ図」広重画】<br />左側の人は迎えの役人。右の一行は行列。左右にある石垣が棒鼻。<br />棒鼻とは、宿場の出入り口を示す。<br />棒鼻を通過する「八朔御馬献上」の行列を描いている。<br />広重は天保三年(1832)、この一行に加わり、初めて京に上っている。<br /><br />絵の中央に立つ杭は、宿場の境を示す傍示杭で 、この棒杭が宿場の端(はな)にあったことから、ここを棒鼻と呼ぶようになった。<br />  傍示杭の左は関札、手前は高札。札を付けて西へ向かう馬は、八朔(はっさく)の お馬献上行列と思われる。お馬献上とは幕府から朝廷へ馬を差し出すことで、 八朔とは、旧8月1日のことである。<br /><br />藤川宿は、東海道の江戸品川からかぞえて37番目の三河国の宿場。宿場の出入口を棒鼻(棒端とも書く)と言い、地元の街道往還図には宿囲石垣とあります。広重の藤川宿棒鼻の版画は毎年、朝廷へ馬を献上する幕府の一行が、ここ東棒鼻に入ってくるところを描いたものです。藤川宿は、平成8年(1996年)3月、歴史上重要な幹線道路として利用され、特に重要な歴史的・文化的価値を有する道路として「歴史国道」に選定されました。

    浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像
    【東海道五拾三次之内 藤川 棒鼻ノ図」広重画】
    左側の人は迎えの役人。右の一行は行列。左右にある石垣が棒鼻。
    棒鼻とは、宿場の出入り口を示す。
    棒鼻を通過する「八朔御馬献上」の行列を描いている。
    広重は天保三年(1832)、この一行に加わり、初めて京に上っている。

    絵の中央に立つ杭は、宿場の境を示す傍示杭で 、この棒杭が宿場の端(はな)にあったことから、ここを棒鼻と呼ぶようになった。
      傍示杭の左は関札、手前は高札。札を付けて西へ向かう馬は、八朔(はっさく)の お馬献上行列と思われる。お馬献上とは幕府から朝廷へ馬を差し出すことで、 八朔とは、旧8月1日のことである。

    藤川宿は、東海道の江戸品川からかぞえて37番目の三河国の宿場。宿場の出入口を棒鼻(棒端とも書く)と言い、地元の街道往還図には宿囲石垣とあります。広重の藤川宿棒鼻の版画は毎年、朝廷へ馬を献上する幕府の一行が、ここ東棒鼻に入ってくるところを描いたものです。藤川宿は、平成8年(1996年)3月、歴史上重要な幹線道路として利用され、特に重要な歴史的・文化的価値を有する道路として「歴史国道」に選定されました。

  • 東棒鼻跡を示す。藤川宿の東入口。<br />藤川宿は中世から宿駅で、慶安元年(1648年)一村での宿経営が困難な為、舞木村市場から68戸を移住させ加宿市場村を加えました、これにより宿並は九町二十間(約1km)に及ぶ長い宿場となる。<br /><br />天保14年(1843年)頃の藤川宿の宿内家数は302軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠36軒で宿内人口は1,213人でした。

    東棒鼻跡を示す。藤川宿の東入口。
    藤川宿は中世から宿駅で、慶安元年(1648年)一村での宿経営が困難な為、舞木村市場から68戸を移住させ加宿市場村を加えました、これにより宿並は九町二十間(約1km)に及ぶ長い宿場となる。

    天保14年(1843年)頃の藤川宿の宿内家数は302軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠36軒で宿内人口は1,213人でした。

  • 東海道五拾参次之内【藤川】。広重は東棒鼻を描いた。<br />藤川宿は、東海道の江戸品川からかぞえて37番目の三河国の宿場。宿場の出入口を棒鼻(棒端とも書く)と言い、地元の街道往還図には宿囲石垣とあります。広重の藤川宿棒鼻の版画は毎年、朝廷へ馬を献上する幕府の一行が、ここ東棒鼻に入ってくるところを描いたものです。藤川宿は、平成8年(1996年)3月、歴史上重要な幹線道路として利用され、特に重要な歴史的・文化的価値を有する道路として「歴史国道」に選定されました。

    東海道五拾参次之内【藤川】。広重は東棒鼻を描いた。
    藤川宿は、東海道の江戸品川からかぞえて37番目の三河国の宿場。宿場の出入口を棒鼻(棒端とも書く)と言い、地元の街道往還図には宿囲石垣とあります。広重の藤川宿棒鼻の版画は毎年、朝廷へ馬を献上する幕府の一行が、ここ東棒鼻に入ってくるところを描いたものです。藤川宿は、平成8年(1996年)3月、歴史上重要な幹線道路として利用され、特に重要な歴史的・文化的価値を有する道路として「歴史国道」に選定されました。

  • 藤川宿マップ

    藤川宿マップ

  • 宿場町格子造り屋並み

    宿場町格子造り屋並み

  • 藤川宿の中心地<br />天保?年(1843年)の頃、藤川宿の宿内家数は302軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠36軒で宿内人口は1,213人でした。<br />

    藤川宿の中心地
    天保?年(1843年)の頃、藤川宿の宿内家数は302軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠36軒で宿内人口は1,213人でした。

  • 藤川宿高札場跡。

    藤川宿高札場跡。

  • 本陣跡。森川本陣。<br />藤川宿の本陣はもともと2軒であったが、退転(たいてん=落ちぶれること)を繰り返し、江戸時代後期には「森川久左衛門」が勤めていた。当時の森川家の規模は、「本陣 凡建坪194坪 字中町 門構・玄関付 壱軒」といい、今は四筆に分筆されていて、昔の面影はないが、北側の石垣は今でも当時の様子を残している。そもそも本陣家は、宿場町の大旅籠屋で、建物は門・玄関・上段の間を設けることができ、当主は名主・宿役人などを兼帯し、苗字帯刀を許されていた。(藤川宿まちづくり研究会)

    本陣跡。森川本陣。
    藤川宿の本陣はもともと2軒であったが、退転(たいてん=落ちぶれること)を繰り返し、江戸時代後期には「森川久左衛門」が勤めていた。当時の森川家の規模は、「本陣 凡建坪194坪 字中町 門構・玄関付 壱軒」といい、今は四筆に分筆されていて、昔の面影はないが、北側の石垣は今でも当時の様子を残している。そもそも本陣家は、宿場町の大旅籠屋で、建物は門・玄関・上段の間を設けることができ、当主は名主・宿役人などを兼帯し、苗字帯刀を許されていた。(藤川宿まちづくり研究会)

  • 【藤川脇本陣跡】<br />江戸時代後期には大西太夫が勤め、橘屋だった。遺構は藤川宿資料館になっている<br />脇本陣は、江戸時代、宿駅の本陣の予備にあてた宿舎で、大名や幕府の重臣が本陣に泊まる時は、家老や奉行の止宿にあてられたが、平常は一般の旅行者にも使用された。その経営については、本陣に継ぐ宿内有数の名望家が選ばれ、その敷地も、現在の跡地の四倍、約130坪程の敷地を有していた。<br />  現存する門は、関が原の戦いの後に藤川へ居住したといわれる大西三家のうち大西喜太夫(橘屋)のもので、一部修理も施されたが、昔日の名残をよく留めている。<br />                岡崎市教育委員会

    【藤川脇本陣跡】
    江戸時代後期には大西太夫が勤め、橘屋だった。遺構は藤川宿資料館になっている
    脇本陣は、江戸時代、宿駅の本陣の予備にあてた宿舎で、大名や幕府の重臣が本陣に泊まる時は、家老や奉行の止宿にあてられたが、平常は一般の旅行者にも使用された。その経営については、本陣に継ぐ宿内有数の名望家が選ばれ、その敷地も、現在の跡地の四倍、約130坪程の敷地を有していた。
      現存する門は、関が原の戦いの後に藤川へ居住したといわれる大西三家のうち大西喜太夫(橘屋)のもので、一部修理も施されたが、昔日の名残をよく留めている。
                    岡崎市教育委員会

  • 藤川の一里塚

    藤川の一里塚

  • 『藤川宿の一里塚』<br />「「一里塚」は、街道に一里ごとに土を盛り上げ、樹木を植えて、道しるべとした<br />塚のことである。慶長9年(1604)、江戸幕府は諸街道の整備の一つとして、江戸日本橋を起点として、一里ごとに道の両側に塚を築いて樹木を植えて目印とした。<br />樹木は普通、榎であった。<br />ところで、藤川の一里塚であるが、記録によると<br />「一、此宿より岡崎宿迄之間 壱里塚弐ヶ所 <br />  壱ヵ所 木立 左無之 右榎<br />   但、左右之塚共 藤川宿地内」<br />と記してある。このような藤川の一里塚は、当時は街道の左右に塚を作り、榎が植えてあったらしいが、天保年間(1830~)頃にはすでに南側はなくなり、北側の榎は昭和初期には枯れててなくなってしまった。」

    『藤川宿の一里塚』
    「「一里塚」は、街道に一里ごとに土を盛り上げ、樹木を植えて、道しるべとした
    塚のことである。慶長9年(1604)、江戸幕府は諸街道の整備の一つとして、江戸日本橋を起点として、一里ごとに道の両側に塚を築いて樹木を植えて目印とした。
    樹木は普通、榎であった。
    ところで、藤川の一里塚であるが、記録によると
    「一、此宿より岡崎宿迄之間 壱里塚弐ヶ所 
      壱ヵ所 木立 左無之 右榎
       但、左右之塚共 藤川宿地内」
    と記してある。このような藤川の一里塚は、当時は街道の左右に塚を作り、榎が植えてあったらしいが、天保年間(1830~)頃にはすでに南側はなくなり、北側の榎は昭和初期には枯れててなくなってしまった。」

  • 藤川宿にある人形店<br />店舗 粟生(あおう)人形店   工房 粟生人形工房<br />  住所 : 愛知県 岡崎市市場町東町1番地<br />  電話 0564-48-2155

    藤川宿にある人形店
    店舗 粟生(あおう)人形店   工房 粟生人形工房
      住所 : 愛知県 岡崎市市場町東町1番地
      電話 0564-48-2155

  • 藤川資料館。橘屋脇本陣。

    藤川資料館。橘屋脇本陣。

  • 本宿陣屋跡と代官屋敷跡<br />東海道沿いの富田業院がありますが、ここは戦国武将・柴田勝家の子孫である、柴田勝門(かつかど)が設けた本宿の陣屋跡と代官屋敷跡です。

    本宿陣屋跡と代官屋敷跡
    東海道沿いの富田業院がありますが、ここは戦国武将・柴田勝家の子孫である、柴田勝門(かつかど)が設けた本宿の陣屋跡と代官屋敷跡です。

  • 藤川の芭蕉句碑。寛政五年(1793年)西三河の俳人達が建立した<br />芭蕉は、この地を9回も通ったとのこと。<br />芭蕉句碑「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」<br />この句にちなんでむらさき麦の栽培が復活しました。

    藤川の芭蕉句碑。寛政五年(1793年)西三河の俳人達が建立した
    芭蕉は、この地を9回も通ったとのこと。
    芭蕉句碑「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」
    この句にちなんでむらさき麦の栽培が復活しました。

  • 芭蕉句説明標。<br />【芭蕉句碑】<br /> 芭蕉句碑は、江戸時代の俳人松尾芭蕉が詠んだ句を、石に刻んで建てたものである。<br />  「爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつばた  はせを」<br />碑のうらに、<br /> 「寛政五歳次葵丑冬十月  当国雪門月亭其雄并連中  以高隆山川之石再建」<br />と、建碑の書誌的事項が彫られている。<br /> この碑の高さは1.65m、幅1.07m、厚さ0.2m。花崗岩の自然石で、この近辺の芭蕉句碑では最大級といわれている。<br /> その傍らに、高さ0.9m、幅0.5mほどの自然石が立っている。これも芭蕉句碑で、この碑はもと別の所にあったが、大正初期に現在地に移された。<br />                        藤川宿まちづくり研究会

    芭蕉句説明標。
    【芭蕉句碑】
     芭蕉句碑は、江戸時代の俳人松尾芭蕉が詠んだ句を、石に刻んで建てたものである。
      「爰(ここ)も三河 むらさき麦の かきつばた  はせを」
    碑のうらに、
     「寛政五歳次葵丑冬十月  当国雪門月亭其雄并連中  以高隆山川之石再建」
    と、建碑の書誌的事項が彫られている。
     この碑の高さは1.65m、幅1.07m、厚さ0.2m。花崗岩の自然石で、この近辺の芭蕉句碑では最大級といわれている。
     その傍らに、高さ0.9m、幅0.5mほどの自然石が立っている。これも芭蕉句碑で、この碑はもと別の所にあったが、大正初期に現在地に移された。
                            藤川宿まちづくり研究会

  • 藤川の十王堂。中に以下の十王様が鎮座されている。<br /><br /> 十王	  読み方	   本地	   審理 <br /> 秦広王	 しんこうおう	不動明王	 初七日<br /> 初江王	 しょこうおう	釈迦如来	 二七日<br /> 宋帝王	 そうていおう	文殊菩薩	 三七日<br /> 五官王	 ごかんおう	普賢菩薩	 四七日<br /> 閻魔王	 えんまおう	地蔵菩薩	 五七日<br /> 変成王	 へんじょうおう	弥勒菩薩	 六七日<br /> 泰山王	 たいざんおう	薬師如来	 七七日<br /> 平等王	 びょうどうおう	観音菩薩	 百か日<br /> 都市王	 としおう	勢至菩薩	 一周忌<br /> 五道転輪王	 ごどうてんりんおう	阿弥陀如来	 三回忌<br />

    藤川の十王堂。中に以下の十王様が鎮座されている。

     十王  読み方   本地    審理
    秦広王 しんこうおう 不動明王 初七日
    初江王 しょこうおう 釈迦如来 二七日
    宋帝王 そうていおう 文殊菩薩 三七日
    五官王 ごかんおう 普賢菩薩 四七日
    閻魔王 えんまおう 地蔵菩薩 五七日
    変成王 へんじょうおう 弥勒菩薩 六七日
    泰山王 たいざんおう 薬師如来 七七日
    平等王 びょうどうおう 観音菩薩 百か日
    都市王 としおう 勢至菩薩 一周忌
    五道転輪王 ごどうてんりんおう 阿弥陀如来 三回忌

  • 藤川の十王堂。一部補修され、お化粧も出来ていた。<br />冥途で死者の罪を裁くと言われる閻魔大王を含む十人の王を祀ると伝えられる堂。創建は(宝永七年)1710年。<br /><br />【十王堂】<br />  十王堂は、十人の「王」を祀る堂で、しの「王」とは、冥土(死者のたましいの行くところ)にいて亡者の罪を裁く十人の判官をいう。<br /> 秦江王(初七日)・初江王(二十七日)・宗帝王(三十七日)・五官王(四十七日)・閻魔王(五十七日)・変成王(六十七日)・太山王(七十七日)・平等王(百か日)・都市王(一周忌)・五道転輪王(三周忌)の総称である。<br /><br /> 藤川宿の十王堂はいつごろ創建されたかは不明であるが、十王が座る台座の裏に「宝永七庚寅年七月」(1710)の記年があるので、ここの十王堂の創建はこの年であろうと推測する。<br />  また地元では、忠臣蔵で有名な神埼与五郎に言いがかりをつけた箱根の馬子・丑五郎との伝説を伝えている。<br />                      藤川宿まちづくり研究会

    藤川の十王堂。一部補修され、お化粧も出来ていた。
    冥途で死者の罪を裁くと言われる閻魔大王を含む十人の王を祀ると伝えられる堂。創建は(宝永七年)1710年。

    【十王堂】
      十王堂は、十人の「王」を祀る堂で、しの「王」とは、冥土(死者のたましいの行くところ)にいて亡者の罪を裁く十人の判官をいう。
     秦江王(初七日)・初江王(二十七日)・宗帝王(三十七日)・五官王(四十七日)・閻魔王(五十七日)・変成王(六十七日)・太山王(七十七日)・平等王(百か日)・都市王(一周忌)・五道転輪王(三周忌)の総称である。

     藤川宿の十王堂はいつごろ創建されたかは不明であるが、十王が座る台座の裏に「宝永七庚寅年七月」(1710)の記年があるので、ここの十王堂の創建はこの年であろうと推測する。
      また地元では、忠臣蔵で有名な神埼与五郎に言いがかりをつけた箱根の馬子・丑五郎との伝説を伝えている。
                          藤川宿まちづくり研究会

  • 藤川道の駅で、本日の昼食をいただいた。

    藤川道の駅で、本日の昼食をいただいた。

  • 藤川西棒鼻=藤川宿西口<br />西の入り口である。広重の師匠の浮世絵師歌川豊広の歌碑がある。

    藤川西棒鼻=藤川宿西口
    西の入り口である。広重の師匠の浮世絵師歌川豊広の歌碑がある。

  • 歌川豊広の歌碑が建っている。<br /> 藤川の 宿の棒鼻 みわたせば 杉のしるしと              うで蛸のあし

    歌川豊広の歌碑が建っている。
     藤川の 宿の棒鼻 みわたせば 杉のしるしと              うで蛸のあし

  • 【藤川の西棒鼻】<br />藤川に再現された棒鼻は、歌川広重が描いた東海道五十三次・藤川宿の浮世絵「棒花ノ図」を参考にして復元した「修景・棒鼻」である。傍示杭と宿囲石垣が、その景観を際立たせている。<br /> また、脇にある歌碑には、広重の師匠である歌川豊広の描いた浮世絵の中にある狂歌で、<br /> 「藤川のしゅくの棒はなみわたせば 杉のしるしとうで蛸のあし」<br />と書いてある。この狂歌の中で傍示杭を「杉のしるし」とし、ぶらりと下がる「うで蛸のあし」と、藤の花がぶら下がっている様子とにかけていておもしろい。<br />                    藤川宿まちづくり研究会

    【藤川の西棒鼻】
    藤川に再現された棒鼻は、歌川広重が描いた東海道五十三次・藤川宿の浮世絵「棒花ノ図」を参考にして復元した「修景・棒鼻」である。傍示杭と宿囲石垣が、その景観を際立たせている。
     また、脇にある歌碑には、広重の師匠である歌川豊広の描いた浮世絵の中にある狂歌で、
     「藤川のしゅくの棒はなみわたせば 杉のしるしとうで蛸のあし」
    と書いてある。この狂歌の中で傍示杭を「杉のしるし」とし、ぶらりと下がる「うで蛸のあし」と、藤の花がぶら下がっている様子とにかけていておもしろい。
                        藤川宿まちづくり研究会

  • 街道往還図

    街道往還図

  • 藤川の松並木の説明<br />【藤川宿と松並木】 岡崎観光文化百選 西棒鼻のすぐ先に案内板が。<br /> 浮世絵師安藤広重が描いた「東海道五十三次藤川宿」の賑わいぶりが、今も残る脇本陣、旅籠などに偲ばれます。<br /><br /> 道標、常夜灯、石仏などに目を向けながら街道筋を歩いてみると、その昔、日差しや北風をさえぎり、旅人の歩みを助けた松並木が、歴史の重みを語りかけてきます。<br />またここは、吉良道への分岐点ともなっています。

    藤川の松並木の説明
    【藤川宿と松並木】 岡崎観光文化百選 西棒鼻のすぐ先に案内板が。
     浮世絵師安藤広重が描いた「東海道五十三次藤川宿」の賑わいぶりが、今も残る脇本陣、旅籠などに偲ばれます。

     道標、常夜灯、石仏などに目を向けながら街道筋を歩いてみると、その昔、日差しや北風をさえぎり、旅人の歩みを助けた松並木が、歴史の重みを語りかけてきます。
    またここは、吉良道への分岐点ともなっています。

  • 東海道(右)と吉良街道(左)の追分。【分岐吉良道道標】が立つ。<br />三河湾に面する吉良に通じる道を示す。<br />海産物などの搬入路として重要な脇街道であった。吉良道は吉良の塩を信州に運ぶ塩の道として重要な脇往還。<br /><br />旧道をしばらく歩いて行くと、やがて名鉄の踏切が見えて来るが、踏切手前で旧道と分かれる道路の分岐点には「吉良の道標」がある。 この道標は「吉良道」を示しているもので、 吉良とはあの忠臣蔵で有名な「吉良上野介」の領地だった場所のこと。江戸時代この道を通って大名行列や、茶壺道中、海産物や塩が運び込まれてきた重要な街道であった。<br /><br />東海道は、藤川宿の西端で南西の方向に分かれて、土呂(現・岡崎市福岡町)、西尾(現・西尾市)、吉良(現・幡豆郡吉良町)方面へ出る道がある。この道を「吉良道」と呼んでいて、この分岐点に「吉良道道しるべ」が立っている。<br /> 道しるべ石は、高さ143cm、幅20cmの四角柱である。彫られている文字は、<br />(右面) 文化十一年甲戌五月吉日建<br />(正面) 西尾、平坂、土呂、吉良道 <br />(左面) 東都小石川住<br />と書いてある。<br /> とにかく、江戸時代、参勤交代の行列、助郷勤めの出役、さらには海産物の搬入ロなど重要な脇街道であった。また、伝説に、茶壷道中の行列がここを通ると雨が降るという「茶壷のなみだ雨」の話も残っている。<br />                         藤川宿まちづくり研究会

    東海道(右)と吉良街道(左)の追分。【分岐吉良道道標】が立つ。
    三河湾に面する吉良に通じる道を示す。
    海産物などの搬入路として重要な脇街道であった。吉良道は吉良の塩を信州に運ぶ塩の道として重要な脇往還。

    旧道をしばらく歩いて行くと、やがて名鉄の踏切が見えて来るが、踏切手前で旧道と分かれる道路の分岐点には「吉良の道標」がある。 この道標は「吉良道」を示しているもので、 吉良とはあの忠臣蔵で有名な「吉良上野介」の領地だった場所のこと。江戸時代この道を通って大名行列や、茶壺道中、海産物や塩が運び込まれてきた重要な街道であった。

    東海道は、藤川宿の西端で南西の方向に分かれて、土呂(現・岡崎市福岡町)、西尾(現・西尾市)、吉良(現・幡豆郡吉良町)方面へ出る道がある。この道を「吉良道」と呼んでいて、この分岐点に「吉良道道しるべ」が立っている。
     道しるべ石は、高さ143cm、幅20cmの四角柱である。彫られている文字は、
    (右面) 文化十一年甲戌五月吉日建
    (正面) 西尾、平坂、土呂、吉良道 
    (左面) 東都小石川住
    と書いてある。
     とにかく、江戸時代、参勤交代の行列、助郷勤めの出役、さらには海産物の搬入ロなど重要な脇街道であった。また、伝説に、茶壷道中の行列がここを通ると雨が降るという「茶壷のなみだ雨」の話も残っている。
                             藤川宿まちづくり研究会

  • 藤川宿を出て、名鉄の踏切を渡る。岡崎に向かいます。<br />踏切の先に見えるのが【”藤川の並木道”】<br />藤川の松並木は約90本の黒松。街道の道幅は江戸時代と変わってない。<br />道標、常夜灯、石仏などに目を向けながら街道筋を歩いてみると、その昔、日差しや北風をさえぎり、旅人の歩みを助けた松並木が、歴史の重みを語りかけてきます。またここは、吉良道への分岐点ともなっています。

    藤川宿を出て、名鉄の踏切を渡る。岡崎に向かいます。
    踏切の先に見えるのが【”藤川の並木道”】
    藤川の松並木は約90本の黒松。街道の道幅は江戸時代と変わってない。
    道標、常夜灯、石仏などに目を向けながら街道筋を歩いてみると、その昔、日差しや北風をさえぎり、旅人の歩みを助けた松並木が、歴史の重みを語りかけてきます。またここは、吉良道への分岐点ともなっています。

  • 藤川宿の京側の入口看板(西口)<br /><br />これより大平の間、松並木があります。

    藤川宿の京側の入口看板(西口)

    これより大平の間、松並木があります。

  • ここは岡崎太平郵便局です。西大平藩陣屋跡へのルート案内<br />

    ここは岡崎太平郵便局です。西大平藩陣屋跡へのルート案内

  • 「大岡越前守陣屋跡』岡崎観光きらり百選 案内板。<br />「「大岡裁き」で名高い大岡越前守が、1万石の大名となってから明治まで、<br />西大平藩主大岡家の陣屋がおかれたところです。<br />陣屋は明治維新によって廃止されましたが、藩主をしたう旧藩士や領民から、陣屋跡を保存すると同時に、旧藩主に東京から移住を願う声があがり、大岡家別邸として復元しました。」

    「大岡越前守陣屋跡』岡崎観光きらり百選 案内板。
    「「大岡裁き」で名高い大岡越前守が、1万石の大名となってから明治まで、
    西大平藩主大岡家の陣屋がおかれたところです。
    陣屋は明治維新によって廃止されましたが、藩主をしたう旧藩士や領民から、陣屋跡を保存すると同時に、旧藩主に東京から移住を願う声があがり、大岡家別邸として復元しました。」

  • 【西大平陣屋跡。入口門】 立派です。<br />大岡忠相は寛延元年(1748年)三河國西大平一万石が加増され譜代大名となり、ここに陣屋を設置した、江戸時代を通じて町奉行から大名になったのは大岡忠相だけです。

    【西大平陣屋跡。入口門】 立派です。
    大岡忠相は寛延元年(1748年)三河國西大平一万石が加増され譜代大名となり、ここに陣屋を設置した、江戸時代を通じて町奉行から大名になったのは大岡忠相だけです。

  • 【大岡越前守陣屋跡】 岡崎観光文化百選<br /> 「大岡裁き」で名高い大岡越前守が、1万石の大名となってから明治まで、西大平藩主大岡家の陣屋がおかれたところです。<br /> 陣屋は明治維新によって廃止されましたが、藩主をしたう旧藩士や領民から、陣屋跡を保存すると同時に、旧藩主に東京から移住を願う声があがり、大岡家別邸として復元しました。 <br /><br />【大岡越前守忠相公】 延宝五年(1677)~宝暦元年(1751)<br />  大岡越前守忠相(ただすけ)は、徳川八代将軍吉宗の下で江戸町奉行として仕え、享保の改革を断行する大きな原動力となりました。目安箱の設置や江戸の町火消し「いろは四十七組」の創設や小石川養生所の建設など、江戸庶民の生活向上に力を注ぎました。また問屋・仲買・小売の流通段階での株仲間組合の組織化や、金銀相場の改訂・通過改鋳による物価安定策などを打ち出し、幕府財政建て直しを図りました。寺社奉行まで昇進したのち、75歳で没し、相模国堤村(神奈川県茅ヶ崎市)の浄見寺に葬られました。<br /><br />【西大平藩陣屋】<br /> 西大平藩陣屋は、大岡越前守忠相が三河の領地を治めるために置いた陣屋です。大岡忠相は旗本でしたが、72歳の時に前将軍吉宗の口添えもあり、寛延元年(1748)閏10月1日に三河国宝飯・渥美・額田3郡内で4,080石の領地を加増され、1万石の大名となりました。西大平に陣屋が置かれたのは、東海道筋にあり、江戸との連絡に便利であること、三河の領地がもっとも多かったことが考えられます。<br /> しかし、大岡忠相が藩主であったのは、わずか3年間で、宝暦元年(1751)には亡くなっています。2代目は忠宣が継ぎ廃藩置県まで7代にわたって大岡家が領地を治め続けていきます。<br /> 大岡家は江戸に常駐する定府大名で、参勤交代がありませんでした。家臣団の大部分は江戸藩邸に住んでおり、陣屋詰めの家臣は、多い時期でも郡代1人・郡奉行1人・代官2人・手代3人・郷足軽4、5人程度でした。

    【大岡越前守陣屋跡】 岡崎観光文化百選
     「大岡裁き」で名高い大岡越前守が、1万石の大名となってから明治まで、西大平藩主大岡家の陣屋がおかれたところです。
     陣屋は明治維新によって廃止されましたが、藩主をしたう旧藩士や領民から、陣屋跡を保存すると同時に、旧藩主に東京から移住を願う声があがり、大岡家別邸として復元しました。 

    【大岡越前守忠相公】 延宝五年(1677)~宝暦元年(1751)
      大岡越前守忠相(ただすけ)は、徳川八代将軍吉宗の下で江戸町奉行として仕え、享保の改革を断行する大きな原動力となりました。目安箱の設置や江戸の町火消し「いろは四十七組」の創設や小石川養生所の建設など、江戸庶民の生活向上に力を注ぎました。また問屋・仲買・小売の流通段階での株仲間組合の組織化や、金銀相場の改訂・通過改鋳による物価安定策などを打ち出し、幕府財政建て直しを図りました。寺社奉行まで昇進したのち、75歳で没し、相模国堤村(神奈川県茅ヶ崎市)の浄見寺に葬られました。

    【西大平藩陣屋】
     西大平藩陣屋は、大岡越前守忠相が三河の領地を治めるために置いた陣屋です。大岡忠相は旗本でしたが、72歳の時に前将軍吉宗の口添えもあり、寛延元年(1748)閏10月1日に三河国宝飯・渥美・額田3郡内で4,080石の領地を加増され、1万石の大名となりました。西大平に陣屋が置かれたのは、東海道筋にあり、江戸との連絡に便利であること、三河の領地がもっとも多かったことが考えられます。
     しかし、大岡忠相が藩主であったのは、わずか3年間で、宝暦元年(1751)には亡くなっています。2代目は忠宣が継ぎ廃藩置県まで7代にわたって大岡家が領地を治め続けていきます。
     大岡家は江戸に常駐する定府大名で、参勤交代がありませんでした。家臣団の大部分は江戸藩邸に住んでおり、陣屋詰めの家臣は、多い時期でも郡代1人・郡奉行1人・代官2人・手代3人・郷足軽4、5人程度でした。

  • 【西大平藩の解説】<br />『西大平藩』案内板。<br />「西大平藩の成立は、大岡忠相が寛延元年(1748)に奏者番兼寺社奉行に就任して三河国宝飯・渥美・額田3郡内で4080石を加増され1万石の 譜代大名となり、<br />西大平に陣屋を設置したことに始まります。<br />安政元年(1772)以降は藩領の変動はなく、1万石の内訳は三河国4郡内に9千石余、上総・相模の2国2郡で1千石余となり、 大部分が三河国内に所在していました。」

    【西大平藩の解説】
    『西大平藩』案内板。
    「西大平藩の成立は、大岡忠相が寛延元年(1748)に奏者番兼寺社奉行に就任して三河国宝飯・渥美・額田3郡内で4080石を加増され1万石の 譜代大名となり、
    西大平に陣屋を設置したことに始まります。
    安政元年(1772)以降は藩領の変動はなく、1万石の内訳は三河国4郡内に9千石余、上総・相模の2国2郡で1千石余となり、 大部分が三河国内に所在していました。」

  • 『西大平藩陣屋』解説<br />「西大平藩陣屋は、大岡越前守忠相が三河の領地を治めるために置いた陣屋です。<br />大岡忠相は旗本でしたが、72歳の時に前将軍吉宗の口添えもあり、寛延元年(1748)閏10月1日に三河国宝飯・渥美・額田3郡内で4080石の領地を加増され、1万石の大名となりました。西大平に陣屋が置かれたのは、東海道筋にあり、江戸との連絡に便利であること、三河の領地がもっとも多かったことが考えられます。<br />しかし、大岡忠相が藩主であったのは、わずか3年間で、宝暦元年(1751)には<br />亡くなっています。2代目は忠宣が継ぎ廃藩置県まで7代にわたって大岡家が領地を治め続けていきます。<br />大岡家は江戸に常駐する定府大名で、参勤交代がありませんでした。家臣団の大部分は江戸藩邸に住んでおり、陣屋詰めの家臣は、多い時期でも郡代1人・郡奉行1人・代官2人・手代3人・郷足軽4、5人程度でした。」

    『西大平藩陣屋』解説
    「西大平藩陣屋は、大岡越前守忠相が三河の領地を治めるために置いた陣屋です。
    大岡忠相は旗本でしたが、72歳の時に前将軍吉宗の口添えもあり、寛延元年(1748)閏10月1日に三河国宝飯・渥美・額田3郡内で4080石の領地を加増され、1万石の大名となりました。西大平に陣屋が置かれたのは、東海道筋にあり、江戸との連絡に便利であること、三河の領地がもっとも多かったことが考えられます。
    しかし、大岡忠相が藩主であったのは、わずか3年間で、宝暦元年(1751)には
    亡くなっています。2代目は忠宣が継ぎ廃藩置県まで7代にわたって大岡家が領地を治め続けていきます。
    大岡家は江戸に常駐する定府大名で、参勤交代がありませんでした。家臣団の大部分は江戸藩邸に住んでおり、陣屋詰めの家臣は、多い時期でも郡代1人・郡奉行1人・代官2人・手代3人・郷足軽4、5人程度でした。」

  • 【大平の一里塚】江戸日本橋より80里目。<br />幕命により領主である本多重次の子、成重が築いた。<br />道路の両側に榎を植えて整備させた。この市内に残る唯一の塚です。<br /><br />東海道岡崎と藤川両宿の間にあって、これは南側の塚である。<br />塚の規模は、高さ2.4m、底部の縦7.3m、横8.5mの菱形である。塚の中央の榎は巨木となっていたが、昭和二十八年の台風で倒れ、現在は若榎が植えられている。<br />                          岡崎市教育委員会<br /><br />岡崎には大平以外にも、本宿(本宿町-里山)、藤川(藤川町-里山)矢作(宝珠庵)にありましたが、今は大平一里塚が残っているのみです。<br /><br />国指定文化財『国指定文化財 史跡 大平一里塚』案内板。<br />「 一里塚とは道の両脇に一里ごとに塚を築いて道標としたもので、制度として確立したのは、江戸幕府が慶長九(1604)年に江戸・日本橋を起点として各街道に一里塚を築造させたことによる。 大平一里塚は東海道の一里塚のうちの一つで、日本橋から八十里にあたる。東海道の一里塚は永井白元、本多光重が奉行となり、代官や領主に築造させているが、大平一里塚は領主である<br />本多重次の子成重が築いた。現在の大平一里塚は、昭和三(1928)年に道路改修の際、北側の塚は破壊され、南側だけが残ったもので、塚の大きさは高さ2.4m、底部縦7.3m、横8.5mで、中央には榎が植えられている。元は榎の巨木であったが、昭和二十年の台風で倒木したために新たに植えられたものである。このように一里塚には根張りがよく、塚の崩落を防ぐ目的で榎が植樹されていることが多い。」<br /><br />もうすぐ、岡崎宿に入ります。

    【大平の一里塚】江戸日本橋より80里目。
    幕命により領主である本多重次の子、成重が築いた。
    道路の両側に榎を植えて整備させた。この市内に残る唯一の塚です。

    東海道岡崎と藤川両宿の間にあって、これは南側の塚である。
    塚の規模は、高さ2.4m、底部の縦7.3m、横8.5mの菱形である。塚の中央の榎は巨木となっていたが、昭和二十八年の台風で倒れ、現在は若榎が植えられている。
                              岡崎市教育委員会

    岡崎には大平以外にも、本宿(本宿町-里山)、藤川(藤川町-里山)矢作(宝珠庵)にありましたが、今は大平一里塚が残っているのみです。

    国指定文化財『国指定文化財 史跡 大平一里塚』案内板。
    「 一里塚とは道の両脇に一里ごとに塚を築いて道標としたもので、制度として確立したのは、江戸幕府が慶長九(1604)年に江戸・日本橋を起点として各街道に一里塚を築造させたことによる。 大平一里塚は東海道の一里塚のうちの一つで、日本橋から八十里にあたる。東海道の一里塚は永井白元、本多光重が奉行となり、代官や領主に築造させているが、大平一里塚は領主である
    本多重次の子成重が築いた。現在の大平一里塚は、昭和三(1928)年に道路改修の際、北側の塚は破壊され、南側だけが残ったもので、塚の大きさは高さ2.4m、底部縦7.3m、横8.5mで、中央には榎が植えられている。元は榎の巨木であったが、昭和二十年の台風で倒木したために新たに植えられたものである。このように一里塚には根張りがよく、塚の崩落を防ぐ目的で榎が植樹されていることが多い。」

    もうすぐ、岡崎宿に入ります。

  • 岡崎 大平一里塚

    岡崎 大平一里塚

  • 【岡崎二十七曲がり記念碑】<br />東海道岡崎城下27曲がりの東入口にある冠木門(かぶきもん)<br />ここが岡崎城下の江戸方口。岡崎宿に到着した。<br />ここから27曲がりが始まります。岡崎城に近づけないよう路がつけられている。<br />二十七曲は、城の防衛と城下の繁栄の折衷策です。天正十八年(1590)、家康の関東移封後、入城した秀吉の臣・田中吉政が整備した。

    【岡崎二十七曲がり記念碑】
    東海道岡崎城下27曲がりの東入口にある冠木門(かぶきもん)
    ここが岡崎城下の江戸方口。岡崎宿に到着した。
    ここから27曲がりが始まります。岡崎城に近づけないよう路がつけられている。
    二十七曲は、城の防衛と城下の繁栄の折衷策です。天正十八年(1590)、家康の関東移封後、入城した秀吉の臣・田中吉政が整備した。

  • 【岡崎城下二十七曲がり碑】<br />これは、豊臣秀吉の家臣田中吉政が城下へと東海道を導き入れた事に始まった。曲がりは城下の防衛を担いましたが、その分、宿場の家並みが長くなり、商家が軒を長く連ね、繁栄にむすびついた。岡崎藩は五万石の小藩でしたが、「五万石でも岡崎様は城下まで船がつく」と謳われ、矢作川の舟運が盛んで、「賑わいは、駿府に次ぐべし」と言われた。<br /><br />「岡崎城下二十七曲り<br />江戸時代岡崎城下を通る東海道は、城郭守備のため通称二十七曲りと呼ばれる屈折の多い道となっていました。 この二十七曲りは、西は矢作橋から松葉総門を経て城下をまわり、東は龍田総門を出て伝馬町から両町、投町に至る道筋をさします。 二十七曲りの一部は戦災復興の道路整備などにより失われはしたものの、現在でもその跡をたどることができます。<br />この歴史の道とも言うべき二十七曲りを後世に残すために、城下二十七曲りの西口近くの当所に道案内の石碑を建立します。」

    【岡崎城下二十七曲がり碑】
    これは、豊臣秀吉の家臣田中吉政が城下へと東海道を導き入れた事に始まった。曲がりは城下の防衛を担いましたが、その分、宿場の家並みが長くなり、商家が軒を長く連ね、繁栄にむすびついた。岡崎藩は五万石の小藩でしたが、「五万石でも岡崎様は城下まで船がつく」と謳われ、矢作川の舟運が盛んで、「賑わいは、駿府に次ぐべし」と言われた。

    「岡崎城下二十七曲り
    江戸時代岡崎城下を通る東海道は、城郭守備のため通称二十七曲りと呼ばれる屈折の多い道となっていました。 この二十七曲りは、西は矢作橋から松葉総門を経て城下をまわり、東は龍田総門を出て伝馬町から両町、投町に至る道筋をさします。 二十七曲りの一部は戦災復興の道路整備などにより失われはしたものの、現在でもその跡をたどることができます。
    この歴史の道とも言うべき二十七曲りを後世に残すために、城下二十七曲りの西口近くの当所に道案内の石碑を建立します。」

  • 中央部が岡崎城。城の周りの黄色が旧東海道、岡崎宿27曲がりです。<br />【岡崎宿27曲がり】<br />岡崎は矢作川の水運や奥三河からの物資集積で栄えた、東海道の宿場町。町づくりの功労者は、秀吉公の家臣だった田中吉政です。<br />家康公の江戸入りの後に岡崎城城主となった吉政は、東海道を城下町に引き入れて、くねくねとした屈折の多い道筋「二十七曲り」を作りました。これは城下防衛とともに、街道筋に店舗を並べて旅人たちにとどまらせる経済効果を狙った道として作られたそうです。冠木門前から出発し、矢作橋までの約4km、途中で「岡崎城」や「八丁味噌蔵」などに寄り道して2時間の宿場歩き

    中央部が岡崎城。城の周りの黄色が旧東海道、岡崎宿27曲がりです。
    【岡崎宿27曲がり】
    岡崎は矢作川の水運や奥三河からの物資集積で栄えた、東海道の宿場町。町づくりの功労者は、秀吉公の家臣だった田中吉政です。
    家康公の江戸入りの後に岡崎城城主となった吉政は、東海道を城下町に引き入れて、くねくねとした屈折の多い道筋「二十七曲り」を作りました。これは城下防衛とともに、街道筋に店舗を並べて旅人たちにとどまらせる経済効果を狙った道として作られたそうです。冠木門前から出発し、矢作橋までの約4km、途中で「岡崎城」や「八丁味噌蔵」などに寄り道して2時間の宿場歩き

  • 【岡崎城下二十七曲り】<br />  岡崎城下を通る東海道は、その曲折の多さで知られ、通称二十七曲りと呼ばれていました。享和元年(1801)当地を見聞した大田南畝も「町数五十四町、二十七曲ありとぞ」と「改元紀行」に書いています。<br /><br /> 二十七曲りは、田中吉政が城主だった時(1590-1600)城下に東海道を導き入れたことに始まり、のち本田康重が伝馬町を慶長十四年(1609)創設して以後、道筋がほぼ決定したと思われます。このねらいは城内を防衛するためのものと言われますが、これにより岡崎の城下町は東海道筋の宿場町としても繁栄することになりました。<br /><br /> 二十七曲りの一部は、戦災復興の道路整備などにより失われはしたものの、現在でもその跡をたどることは可能です。この歴史の道とも言うべき二十七曲りを後世に伝えるために、城下二十七曲りの東口であった当所に記念碑を建て、道標とします。

    【岡崎城下二十七曲り】
      岡崎城下を通る東海道は、その曲折の多さで知られ、通称二十七曲りと呼ばれていました。享和元年(1801)当地を見聞した大田南畝も「町数五十四町、二十七曲ありとぞ」と「改元紀行」に書いています。

     二十七曲りは、田中吉政が城主だった時(1590-1600)城下に東海道を導き入れたことに始まり、のち本田康重が伝馬町を慶長十四年(1609)創設して以後、道筋がほぼ決定したと思われます。このねらいは城内を防衛するためのものと言われますが、これにより岡崎の城下町は東海道筋の宿場町としても繁栄することになりました。

     二十七曲りの一部は、戦災復興の道路整備などにより失われはしたものの、現在でもその跡をたどることは可能です。この歴史の道とも言うべき二十七曲りを後世に伝えるために、城下二十七曲りの東口であった当所に記念碑を建て、道標とします。

  • 岡崎城下二十七曲がりのスタート。標識は、いろはの”い”から始まる。<br /><br />二十七曲がりの道筋はこの二十七曲がり記念碑を左折した所から始まり、伝馬町、籠田町、連尺町、本町、材木町、下肴町、田町、板屋町、八帖町を経て矢作川を越えるまで。<br />右折して元市民病院の『岡崎げんき館』敷地角には最初の標柱と記念モニュメントが作られていた。

    岡崎城下二十七曲がりのスタート。標識は、いろはの”い”から始まる。

    二十七曲がりの道筋はこの二十七曲がり記念碑を左折した所から始まり、伝馬町、籠田町、連尺町、本町、材木町、下肴町、田町、板屋町、八帖町を経て矢作川を越えるまで。
    右折して元市民病院の『岡崎げんき館』敷地角には最初の標柱と記念モニュメントが作られていた。

  • 27曲がりの様子

    27曲がりの様子

  • 岡崎城下二十七曲がりの角地にこのような金のわらじ標示柱があります。次の角までの距離を表示してある。<br />『金のわらじ案内柱』は、いろはの『い』から始まる。ここは、「は」。これより次の若宮町角『は』まで650m。<br />交差点を左折し次の『金のわらじ案内柱』に向かって進む。<br /><br /><br />天保14年(1843年)の頃、岡崎宿の宿内家数は1,565軒、うち本陣3、脇本陣3、旅籠112軒で、宿内人口は6,494人でした。

    岡崎城下二十七曲がりの角地にこのような金のわらじ標示柱があります。次の角までの距離を表示してある。
    『金のわらじ案内柱』は、いろはの『い』から始まる。ここは、「は」。これより次の若宮町角『は』まで650m。
    交差点を左折し次の『金のわらじ案内柱』に向かって進む。


    天保14年(1843年)の頃、岡崎宿の宿内家数は1,565軒、うち本陣3、脇本陣3、旅籠112軒で、宿内人口は6,494人でした。

  • 『岡崎城下二十七曲り』。<br />「江戸時代の岡崎の町は東海道の宿駅として栄えましたが、市民病院跡地である若宮町の当所は、岡崎宿内の東端に位置する投町(なぐりちょう)と呼ばれた場所でした。東海道の往還は、当所の南で欠村から宿内に入り、この位置で西方へと大きく曲がり、宿内の中心へと進みます。その曲折点は岡崎城下二十七曲がりの一つに数えられます。<br />十九世紀初頭の記録である「享和書上げ」によると、投町には総家数一一七軒とあり、綿打商、穀商、紺屋、豆腐屋、古手屋、莨(たばこ)屋、酒屋、小間物屋、綿商などの店が軒を並べていましたが、なかでも茶屋が多くあり、茶屋で売られていたあんかけ豆腐の「あわ雪」は東海道往来する人に当宿の名物として賞翫されました。」

    『岡崎城下二十七曲り』。
    「江戸時代の岡崎の町は東海道の宿駅として栄えましたが、市民病院跡地である若宮町の当所は、岡崎宿内の東端に位置する投町(なぐりちょう)と呼ばれた場所でした。東海道の往還は、当所の南で欠村から宿内に入り、この位置で西方へと大きく曲がり、宿内の中心へと進みます。その曲折点は岡崎城下二十七曲がりの一つに数えられます。
    十九世紀初頭の記録である「享和書上げ」によると、投町には総家数一一七軒とあり、綿打商、穀商、紺屋、豆腐屋、古手屋、莨(たばこ)屋、酒屋、小間物屋、綿商などの店が軒を並べていましたが、なかでも茶屋が多くあり、茶屋で売られていたあんかけ豆腐の「あわ雪」は東海道往来する人に当宿の名物として賞翫されました。」

  • 【田中吉政】<br />1590(天正18)年、家康が出たあと岡崎城に入ったのは、秀吉配下の田中吉政(たなかよしまさ)(5万7000石)でした。田中吉政は農民出身で、宮部継潤(みやべけいじゅん)に仕えたのち豊臣秀次(秀吉の甥)の傅役(もりやく)となり秀次の宿老となりました。秀次が近江八幡城(おうみはちまんじょう)(滋賀県近江八幡市)にいた頃には、安土城下の町並みを近江八幡に移す際に町割(区画整理)を行っており、行政手腕に長けた人物です。このときの町割は江戸時代中期まで残り「久兵衛町」(久兵衛は田中吉政の仮名)と呼ばれました。<br /><br />「田中吉政<br />吉政は豊臣秀吉に名前の一字を賜るなど重用され、当時尾張の領主となった甥秀次の付家老として天正18年(1590)に岡崎に入城し、以降10年間、新しい城下町づくりを行った。<br />関東の徳川家康の西上に備え、城下町全体を堀と土塁で囲み、総曲輪と櫨門を築いて「二十七曲」と呼ばれた屈折の多い道を造った。また矢作川に橋を架け、東海道を城下町に導くことで商工業の発展を計った。寺院・神社の領地没収など厳しい対策もこうじたが、兵・農・商・工を区分し、町や交通の発展を見通した現在の岡崎の基となる都市開発を行った。」

    【田中吉政】
    1590(天正18)年、家康が出たあと岡崎城に入ったのは、秀吉配下の田中吉政(たなかよしまさ)(5万7000石)でした。田中吉政は農民出身で、宮部継潤(みやべけいじゅん)に仕えたのち豊臣秀次(秀吉の甥)の傅役(もりやく)となり秀次の宿老となりました。秀次が近江八幡城(おうみはちまんじょう)(滋賀県近江八幡市)にいた頃には、安土城下の町並みを近江八幡に移す際に町割(区画整理)を行っており、行政手腕に長けた人物です。このときの町割は江戸時代中期まで残り「久兵衛町」(久兵衛は田中吉政の仮名)と呼ばれました。

    「田中吉政
    吉政は豊臣秀吉に名前の一字を賜るなど重用され、当時尾張の領主となった甥秀次の付家老として天正18年(1590)に岡崎に入城し、以降10年間、新しい城下町づくりを行った。
    関東の徳川家康の西上に備え、城下町全体を堀と土塁で囲み、総曲輪と櫨門を築いて「二十七曲」と呼ばれた屈折の多い道を造った。また矢作川に橋を架け、東海道を城下町に導くことで商工業の発展を計った。寺院・神社の領地没収など厳しい対策もこうじたが、兵・農・商・工を区分し、町や交通の発展を見通した現在の岡崎の基となる都市開発を行った。」

  • 【竹千代像】<br />岡崎地方の特産品、”御影石”を台座に、座像を設置してある。

    【竹千代像】
    岡崎地方の特産品、”御影石”を台座に、座像を設置してある。

  • 永田屋さん。江戸時代天保14年、1812年の創業という。お肉屋さんかな。

    永田屋さん。江戸時代天保14年、1812年の創業という。お肉屋さんかな。

  • 【八丁交差点の歩道橋】<br />どこから入っても、何方へも渡れます。凄い構造です。

    【八丁交差点の歩道橋】
    どこから入っても、何方へも渡れます。凄い構造です。

  • 歩道橋の全体がわかりやすいショット

    歩道橋の全体がわかりやすいショット

  • 八丁味噌、丸久のショップいりぐち。岡崎城から西へ八丁(約870m)に位置する味噌蔵の街並み。<br /><br />【岡崎の地場産業 八丁味噌】<br /> 大豆そのものを麹化して塩と水だけを加えて熟成する豆味噌は、三河・尾張地方特有のもので、独特の風味を持ち、現在に至るまで岡崎を代表する名産です。<br /> 矢作川沿いであるという立地条件から、原料の大豆・塩などの仕入れが便利で製品の出荷にも船運が利用でき、矢作川の伏流水が醸造に良くて、また気候及び風土にも適しているといわれています。<br /> 江戸時代以来、早川家と大田家の二軒が製造販売する「八丁味噌」は特に有名となり、地元周辺のみでなく江戸にも多く積み出され、その名を高らしめました。現在も両家は「カクキュー」、「まるや」の商号で製造を続けています。<br /><br />〔歌にみる八丁味噌〕 <br />  「摺ってよし、摺らずなおよし、生でよし、煮れば極くよし、焼いて又よし」といわれる八町味噌は、三河武士・農民・町民たちの常食・兵食として親しまれ、一日も欠くことができない食品でありました。また、天正十八年(1590)徳川家康の関東移封により、三河譜代の大名、旗本によって全国的にその名が知られ需要が高まり、矢作川の舟運や江戸廻船の発達に伴い、三河木綿の運搬との相乗関係によって、伊勢・江戸を中心に販路が進展拡充しました。<br />  それが「ふるさとへ まめを知らせの 旅づとは 岡崎(八丁)味噌の なれて送る荷」という吉田松陰の詠歌となり、「今日も亦 雨かとひとりごちながら 三河味噌あぶりて喰うも」という斉藤茂吉の短歌などに記され、江戸時代以来、岡崎城下の名産として賞賛されてきた。

    八丁味噌、丸久のショップいりぐち。岡崎城から西へ八丁(約870m)に位置する味噌蔵の街並み。

    【岡崎の地場産業 八丁味噌】
     大豆そのものを麹化して塩と水だけを加えて熟成する豆味噌は、三河・尾張地方特有のもので、独特の風味を持ち、現在に至るまで岡崎を代表する名産です。
     矢作川沿いであるという立地条件から、原料の大豆・塩などの仕入れが便利で製品の出荷にも船運が利用でき、矢作川の伏流水が醸造に良くて、また気候及び風土にも適しているといわれています。
     江戸時代以来、早川家と大田家の二軒が製造販売する「八丁味噌」は特に有名となり、地元周辺のみでなく江戸にも多く積み出され、その名を高らしめました。現在も両家は「カクキュー」、「まるや」の商号で製造を続けています。

    〔歌にみる八丁味噌〕 
      「摺ってよし、摺らずなおよし、生でよし、煮れば極くよし、焼いて又よし」といわれる八町味噌は、三河武士・農民・町民たちの常食・兵食として親しまれ、一日も欠くことができない食品でありました。また、天正十八年(1590)徳川家康の関東移封により、三河譜代の大名、旗本によって全国的にその名が知られ需要が高まり、矢作川の舟運や江戸廻船の発達に伴い、三河木綿の運搬との相乗関係によって、伊勢・江戸を中心に販路が進展拡充しました。
      それが「ふるさとへ まめを知らせの 旅づとは 岡崎(八丁)味噌の なれて送る荷」という吉田松陰の詠歌となり、「今日も亦 雨かとひとりごちながら 三河味噌あぶりて喰うも」という斉藤茂吉の短歌などに記され、江戸時代以来、岡崎城下の名産として賞賛されてきた。

  • 八丁味噌の丸久さんの蔵倉庫です。立派な建物ですよね。

    八丁味噌の丸久さんの蔵倉庫です。立派な建物ですよね。

  • 女優”宮崎あおい”さんの手形。

    女優”宮崎あおい”さんの手形。

  • 八丁内の道標。

    八丁内の道標。

  • 矢作川付近

    矢作川付近

  • 岡崎城下二十七曲がりのマップ。岡崎城の周辺を、城に近づかないルートで設定されている。城下の安全上の施策のようです。岡崎公園前駅広場にて。

    岡崎城下二十七曲がりのマップ。岡崎城の周辺を、城に近づかないルートで設定されている。城下の安全上の施策のようです。岡崎公園前駅広場にて。

  • 岡崎マップ

    岡崎マップ

  • 名鉄岡崎公園前駅のホームで電車待ち。

    名鉄岡崎公園前駅のホームで電車待ち。

6いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP