2017/09/08 - 2017/09/08
198位(同エリア615件中)
名古屋のmisakoさん
- 名古屋のmisakoさんTOP
- 旅行記376冊
- クチコミ30件
- Q&A回答0件
- 392,298アクセス
- フォロワー12人
名古屋市千種区の覚王山周辺に出かけて来ました
尾張徳川家初代藩主義直公の生母お亀の方の菩提寺相応寺が含まれたコースです
相応寺で御朱印をいただきたかったのですがご不在で不明でした
尋盛寺では27代目の住職の方から印章塚の説明を伺い、印鑑の供養は奈良時代から続くとのことで驚いた次第です、10/1が印章の日、3/21が縁日とのことでした
名古屋市史跡散策路千種区覚王山・四谷めぐり
http://www.city.nagoya.jp/chikusa/page/0000016552.html
【千種区史跡散策路】覚王山・四谷めぐりのモデルコース
コース順路(コース長:約5.5キロメートル)
地下鉄覚王山駅→(コース外:旧高針街道)→(1)千体地蔵堂→(2)日泰寺→(揚輝荘)→(コース外:東山給水塔)→(3)日泰寺奉安塔→(4)尋盛寺→(5)台観寺→(6)大龍寺→(7)大林寺→(8)相応寺→(9)善篤寺→(10)正法寺・曹洞宗高等尼学林→(11)城山八幡宮・末森城址・旧昭和塾堂→(12)性高院→(13)桃巌寺→地下鉄本山駅
日泰寺 御朱印あり、縁日21日、覚王山参道春祭、夏祭、秋祭など
尋盛寺 御朱印あり
台観寺 無住の寺らしく不在のため大黒天縁日ならいただけるかも
大龍寺 御朱印不明
大林寺 御朱印あり
相応寺 御朱印不明
善篤寺 御朱印不明
正法寺 御朱印不明
城山八幡宮 御朱印あり
性高院 御朱印なし
桃巌寺 御朱印なし、ねむり弁天拝観料1,000円、無休拝観時間夏季9:00~18:00、冬季9:00~17:00
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 徒歩
-
地下鉄覚王山駅から参道付近の田代散策マップ
-
日泰寺参道入口
日本とタイの寺という意味の日泰寺
覚王は悟りを開いた王のことでお釈迦様のことです -
千体地蔵堂
-
千体地蔵堂
日泰寺山門前の参道東側に建っている。堂内には錫杖と宝珠を持つ立像と半跏の延命地蔵がある。
(名古屋市史跡散策路覚王山・四谷めぐりHPより) -
-
日泰寺参道東入り口付近には覚王山霊場や四国霊場があります、縁日は21日かな?
-
-
-
覚王山日泰寺
明治33年シャム(現タイ国)の皇帝から贈られた釈迦の遺骨を奉安するために、明治37年に建立された寺。わが国唯一の超宗派の寺院である。本堂、山門、五重の塔、鐘楼など見事な伽藍をほこっている。毎月21日の弘法縁日は善男善女で賑わう。
(名古屋市史跡散策路覚王山・四谷めぐりHPより) -
-
山門
-
五重塔
-
本堂
釈尊の遺骨を奉安するために建立されたわが国唯一の超宗派寺院。明治31(1898)年英領インドピプラーワーで釈尊の遺骨が発見され、仏教国であるタイ(当時シャム)の王室に寄贈された。その遺骨は、セイロン・ビルマにも分与されたので、当時タイ公使稲垣満次郎の斡旋で、日本仏教会十三宗五十六派が協議して、遺骨奉迎の使節団をシャムに送った。その安置寺院に名古屋は官民一致の誘致運動をおこして成功。明治37(1904)年日暹寺を建立した。本尊はシャム国王より下賜された釈迦金銅仏。本堂、山門、五重の塔、鐘楼など見事な伽藍をほこっている。境内東の二万五千坪には多くの墓・供養塔・石碑があり、名古屋の近代化の歴史を語る。
また、毎月21日の弘法縁日は善男善女で賑わう。(名古屋市史跡散策路覚王山・四谷めぐり日泰寺HPより) -
-
-
-
-
本尊釈迦如来像
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
奉安塔入口
-
-
-
高さ15メートルのガンダーラ様式の花崗岩仏塔で、仏舎利が安置されている。県指定の文化財である。
(名古屋市史跡散策路覚王山・四谷めぐりHPより) -
奥にある奉安塔は見えませんね
大正7(1917)年アジア建築に詳しい東大教授伊東忠太の設計によって完成した釈尊遺骨を納めた宝塔。三段の基壇の上に鐘を伏せた形の塔身がのるユニークな塔である。
所在地:法王町1丁目1番(名古屋市史跡散策路覚王山・四谷めぐりHPより) -
-
奉安塔交差点南西、北海道直送回転寿司・いけす料理北海亭名古屋千種店は昼はお寿司が回転しておらず、ランチが何点かありました、レディースランチ1280円
-
日泰寺奉安塔から東に少し歩くと墓地の入口に尋盛寺印章塚の案内版がありました
-
-
-
愚痴聞き地蔵
-
墓地なので、お寺が多いですね
-
-
-
-
尋盛寺(じんせいじ)
五台山尋盛寺の山門は清須越し以来のもの
文禄4(1595)年尋盛上人が清州に創建。中区の白川町を経て、現在地に移転。
印章塚がある。(名古屋市史跡散策路千種区覚王山・四谷めぐりHPより) -
山門脇から出入りが出来ます
-
本堂
-
印章塚
-
聖徳太子大化の改新に印章の制度を布かれてより明治初年太政官令により法制確立以来、国を始め法人、個人に至るまで権利と責任の信証として用いられてまいりました
尋盛寺では毎年十月一日印章の日に塚前にて供養焼納する
愛知県印章協同組合は戦後作られたそうです
明治6年10月1日、明治政府が太政官令布告で「署名と実印を押す制度」を定め、印章業界では昭和42年に印章の日を10/1と決めました(愛知県印章協同組合平成28年度印章供養祭を開催します) -
尋盛寺の境内の梅澤辰蔵像さてこの方は・・・
-
円明山台観寺は伊勢国津(三重県津市)の寒松院の末寺で、同国桑名郡大山田村にあった円明寺の裔系である天台宗の禅寺で、本尊は行基作と伝えられる阿弥陀如来です。年代は詳らかでないが、円明寺が水害で流失し、本尊のみ難を逃れた。
大正8年、名古屋の堀 栄七氏(法名 台観)が当地に本堂を建立、本尊を迎え安置奉り、円明山台観寺と称した。
(台観寺説明書きより) -
境内には大黒堂があり、武靖大黒天祀られている。武靖大黒天は甲冑に身を固め、右手に知恵袋、左手に宝棒を持った珍しいお姿である。弘仁7年816年、弘法大師が高野山に金剛峯寺を開基なされたおり、手ずからお刻みになった尊像だと伝えられている。大黒天はいうまでもなく福徳の神であるが、知恵袋を持っていらっしゃるので、知恵授けのなごや大黒さんと親しみ崇敬されています。(台観寺説明書きより)
-
-
-
圓明山台観寺(だいかんじ)
もとは三重県にあったものを大正7(1918)年この地に再建。本尊は行基作と伝えられる阿弥陀如来。境内には弘法大師作といわれる大黒天があり、春の大黒祭は賑わう。
(名古屋市史跡散策路覚王山・四谷めぐりHPより) -
福寿山大龍寺(だいりゅうじ)
黄檗宗寺院。山城宇治萬福寺の末寺。享保10(1725)年春日井郡阿原村の地蔵堂を東区新出来町二丁目北側に移す。享保13(1728)年藩主綱誠より寺地を給って造立を開始。享保15(1730)年津島天王の牛王山成就坊を引寺。享保16(1731)年萬福寺末となり寺号を大龍寺とする。安永6(1777)年五百羅漢奉安を発願し、城下の人々に勧下を始める。安永7(1778)年には江戸亀井戸村の五百羅漢を模した回遊式の羅漢堂の建立開始。安永9(1780)年に三百台體成就の開眼供養をした。本尊は建中寺の寄付による木造釈迦牟尼仏座像。文政元(1818)年より時の鐘始める。三大五百羅漢のうち東京大阪は維新後衰退するが当寺はよく保存、中に名工為隆の傑作十八羅漢がある、明治の末から当地に移転を開始し、大正7(1918)年に完了した。
通称「らかんさん」として親しまれている。建築様式は一見城郭のような唐様南蛮風のデザインになっている。
所在地:城山新町2丁目71番1号(名古屋市史跡散策路覚王山・四谷めぐり大龍寺HPより)
黄檗宗は、臨済(りんざい)宗、曹洞(そうとう)宗と並ぶ日本禅宗三派の一つ。中国明(みん)代の僧隠元隆琦(いんげんりゅうき)(1592―1673)を開祖とし、京都府宇治市にある黄檗山万福寺(まんぷくじ)を本山とする。黄檗宗は禅宗の一種で、中国明代の僧隠元隆琦を開祖とする、いんげん豆や煎茶などの生活文化を明から伝えた(コトバンクHPより) -
江戸時代中ごろ東区新出来町に建立され、明治の末ごろ現在地に移転。通称「らかんさん」として親しまれている。建築様式は一見城郭のような唐様南蛮風のデザインになっている。
(名古屋市史跡散策路覚王山・四谷めぐりHPより) -
-
-
-
大龍寺の出入口
-
曹渓山大林寺(だいりんじ)
寛永5(1628)年尾張藩祖徳川義直の家臣滝川忠征が、名古屋城築城の余材をもって中区桑名町に創建し、戦時中に現在地に移る。滝川氏の菩提寺で、境内には滝川一族の墓碑が並ぶ。(名古屋市史跡散策路覚王山・四谷めぐりHPより) -
本堂
-
滝川一族の墓碑
-
-
-
-
宝亀山相応寺(そうおうじ)
寛永20(1643)年、藩祖徳川義直が生母於亀の方(相応院)のために東区山口町に創建。昭和9年、現在地に移転。総門と本堂の額は義直の自筆である。
(名古屋市史跡散策路覚王山・四谷めぐりHPより) -
寶亀山 相應寺 (ほうきざん そうおうじ)
浄土宗(もとは天台、真言、浄土、禅、四宗兼学の准別格十七等)京都知恩院末寺
(相応寺HPより) -
-
-
-
-
-
義直公直筆の宝亀山の山門額
-
-
-
-
-
-
茶筅供養
昭和9年、自然石の岩組の上に『茶筌塚』の三字を刻んだ茶筅形の石碑建立。
遠州流家元主鑑堀田宗達宗匠の筆。開眼式には全国より茶人、雅客が参列。
日本最初の茶筅供養を執り行う。(相応寺HPより) -
-
本堂
四十二世仁譽耕雲上人のとき、開けて行く街の様子と寺院の分布等の状況を鑑み移転を計画。
昭和九年、東区山口町から現在地へ本堂、総門、山門、鐘楼等が移建された。
清水の舞台
移築後の相応寺は山水景勝の城山の地に建てられた為、京都の清水寺を模して、本堂前に清水と同じ舞台が造られた。
(戦災により現存していない)
そして京都清水寺から秘仏千手観音像の分身(現在未公開)を賜り、毎月18日に観音様の法要が執り行われ名古屋の清水寺として多くの市民が参詣されていた。
駿河御殿
寛文2年(1662)駿河より移建したと云う200坪の書院「駿河御殿」も東区から移築され、襖杉戸には狩野派による障壁画類が飾られていた。(戦災により現存していない)
(相応寺HPより) -
義直公直筆相応寺寺号の本堂額
お亀の方
家康が側室を多く召し集めだしたのは、天正の前期(三十歳過ぎてから)と、文禄・慶長(五十歳を超えてから)の頃の
二期に分かれる。「中の三人衆」とは家康が50歳から60歳にかけて寵愛を受けた側室三人衆をいう。お亀の方も「中の三人衆」の一人である。家康が伏見城に居住していた文禄3年(1594)53歳の時、給仕に出た女性があった。その身体の豊かさと美しい容姿に加えて、聡明さに家康は気に入り側室として仕えさせるようにした。その女性が当時21歳であった、お亀である。
お亀は京都石清水八幡宮の社人清水宗清の娘である。社人といっても山伏か、修験者にあたり身分の低いものであった。
家康54歳に、八男の仙千代を出生するが、慶長5年(1600)3月、仙千代は6歳にして早世してしまう。この菩提のために建立された寺院が名古屋市東区の高岳院である。
同年11月、家康59歳のとき、その生まれ変わりのように九男義直が生まれた。幼名を千千代。その後に五郎太丸と名乗る。五郎太丸という幼名は家康自らつけたもので、城壁を築く際に大石巨岩を積み重ねるが、その間に「くさび」として五郎石を用いなければならない。その意味で、この子は天下の「くさび」となってくれるだろうという切なる家康の願いでつけたといわれ、いかに可愛がっていたかがわかる。
後に義直と改名し尾張初代藩主となるのであるが、その後、尾張家では代々の世子に五郎太丸と名付けるようになった。
・・・・中略・・・・
家康が逝去したのはその翌年であった。お亀の方は髪をおろし相応院尼と称し、ここではじめて、義直とともに名古屋に移り住むことになる。・・・・
(相応寺HPより) -
-
-
-
-
-
-
善篤寺(ぜんとくじ)
もとは美濃にあり、清洲越しで中区大須に移った後、昭和13年に現在地に移る。山門は清洲越し以来のもの。境内に筆塚がある。(名古屋市史跡散策路覚王山・四谷めぐりHPより) -
-
-
-
正法寺・曹洞宗高等尼学林(しょうぼうじ・そうとうしゅうこうとうにがくりん)
昭和22年に尼僧学林がここに再建され、後に愛知専門尼僧堂、特別尼僧堂も建立され、厳しい仏門修行が続けられている。(名古屋市史跡散策路覚王山・四谷めぐりHPより) -
-
大正から昭和初期にかけて、青年会(青年団)の活動が各地で盛んとなったことから、愛知県がその教化の中心となる精神修養の場として、昭和4(1929)年3月(工期約1年)、建設された。
建築後は、男女青年団の幹部や指導者の養成が3日から10日の合宿により実施されたほか、婦人会、修養団体等の利用が相次いだ。
戦時中は、陸軍(いかり部隊)や東海軍司令部として、戦後は名古屋大学医学部基礎医学系諸教室や、愛知県教育文化研究所、千種区役所仮庁舎として利用され、現在は、愛知学院大学大学院歯学部研究棟として使用される。
(名古屋市史跡散策路覚王山・四谷めぐり旧昭和塾堂HPより) -
-
城山八幡宮・末森城址・旧昭和塾堂(しろやまはちまんぐう・すえもりじょうし・きゅうしょうわじゅくどう)
城山の森一帯には、織田信秀が築いた末森城があった。父信秀の後を継いだ信行が兄信長に滅ぼされ、この城もわずか10年ほどで廃城となった。この城址に昭和11年に建てられたのが城山八幡宮である。本殿裏手には市内最大級のアベマキの古木の連理木(1本の木が途中で2つに分かれた後再び1本にくっついている木。縁起がよいとされる)が見られる。境内の南西にひっそりと建つ古い建物は旧昭和塾堂といい、昭和3年に青年団の社会教育の場として建設されたものである。(名古屋市史跡散策路覚王山・四谷めぐりHPより) -
-
-
-
城山八幡宮
「尾張名所図絵」に永禄年間(1558年-1569年)天野伊豆守重次社殿修造の記事や、天和2(1682)年の社殿修造の棟札等があり、古くから武士の崇敬を集めていた社であった。以前は現在地より300メートル程東北の春里町二丁目南端にあったが、明治期に村内にあった浅間社・山神社・一ノ御前社・白山社を合祀し、昭和11(1936)年に現在地に遷座した。
初詣や夏の茅の輪くぐり、秋の七五三参りなどの参詣者で賑わう。
所在地:城山町2丁目88番地
(名古屋市史跡散策路覚王山・四谷めぐり城山八幡宮HPより) -
-
-
現在の境内は、織田信長の父信秀が、天文16(1547)年西三河をめぐる今川・松平勢力との争いの渦中に、古渡城から居城を移した(天文17年の説もある)末森城址で、空堀等その姿をよくとどめている。城は、信秀の死後は弟信行の居城となったが、信行が信長に謀殺されて以後は廃城となった。合祀された白山社はもと城内にあったもの。
境内は、緑ゆたかな杜で野鳥の天国、保護地域として指定もされている。社殿東南には、元名古屋商工会議所会頭であった高松定一の別邸を移築した洗心軒があり、多くの茶会等に利用されている。また、末森城二の丸跡には、昭和3(1928)年に愛知県が青年の訓育施設として建設した「昭和塾堂」があり、その塔は地域のランドマークとなっている。
(名古屋市史跡散策路覚王山・四谷めぐり末森城址址HPより) -
-
大雄山性高院
徳川家康第四子・松平忠吉(性高院殿)の菩提寺。忠吉(1580-1607)は徳川二代将軍秀忠の同母弟で、慶長5年の関ヶ原の役にて武功の誉高く、同年清洲城主となり、尾張藩開祖となる。・・・
忠吉には子が無く、家康の第九子義直が後継となり、初代名古屋城主となった
(大雄山性高院HPより) -
性高院(しょうこういん)
名古屋大学の西、鏡池通に面したマンションにある寺で、徳川家康の第四子松平忠吉の菩提寺である。境内には忠吉、天野信景、松平君山らの墓がある。寺には忠吉画像、双体地蔵石碑、梵鐘など多くの市指定文化財が所蔵されている。
(名古屋市史跡散策路覚王山・四谷めぐりHPより) -
-
-
-
-
-
-
-
桃厳寺(とうがんじ)
織田信秀の菩提寺として信行が建立した。本尊は聖観世音菩薩。守護神は弁天像である。中でも「ねむり弁天」は有名である。境内には、信秀の墓と座高10メートルの青銅製の名古屋大仏や珍しい四方竹などがある。
(名古屋市史跡散策路覚王山・四谷めぐりHPより)
紅葉の名所として知られています -
-
-
紅葉の名所として知られています
-
曹洞宗。織田信秀(信長の父)の菩提を弔うために三男信行が建立。境内に信秀供養の五輪塔が立ち、今は弁天様の寺として芸能人などの参拝者も多い。また、“ねむり弁天”を始め男女和合の寺宝が多い。高さ10mの名古屋大仏は、昭和62年に建立。
(名古屋観光コンベンションビューロー桃厳寺HPより) -
-
-
-
-
-
織田信秀の菩提寺として二男信行が建立した。本尊は聖観世音菩薩。守護神は弁天像である。中でも「ねむり弁天」は有名である。本堂には直径1メートルという日本一大きな木魚がある。境内には、信秀の墓と座高10メートルの青銅製の名古屋大仏や珍しい四方竹などがある。
所在地:四谷通2丁目16番地
(名古屋市史跡散策路覚王山・四谷めぐり桃厳寺HPより)
片手で触れるだけでも過去の悪業が消滅すると書かれた木魚、樹齢100年のクスノキから作られているそうです -
-
-
-
16歳未満の団体はご遠慮してくださいとの名古屋大仏参詣
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
名古屋のmisakoさんの関連旅行記
千種・今池(愛知) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
129