2016/05/07 - 2016/05/07
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2016、GW 山陰 歴史とロマンの旅からの帰路、岐阜から名古屋にかけて、戦国時代の史跡巡ってみた。
特に桶狭間の戦いで、信長の進んだルートを追いたかった。
岐阜城−小牧山城−妙延寺−蛇池神社−御所屋敷跡−荒子観音寺−天満天神宮(荒子城址)−誓願寺−成海神社−善照寺砦−大高城跡−鷲津砦跡−丸根砦跡−桶狭間古戦場伝説地−高徳院−長福寺−桶狭間古戦場公園
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 自家用車
-
斉藤道三墳
岐阜市に入った。
長良川の長良橋のふもとの歴史公園にその石碑があった。
斉藤道三は、長良川の戦いで最後を遂げた為、その場所であろう。 -
岐阜城を麓から見る急峻な山の頂上の天守は、とても高く感じる。
標高329m。
一瞬、山の水蒸気が流れ、天守の姿が見えた瞬間。
司馬遼太郎の国取物語の影響で、以前は何度も通った山だ。 -
この長良橋のたもとは、有名な長良川鳥飼の乗船所がある。
観覧船から眺める慣行鳥飼は、5/11〜10/15の期間なので、これからである。
そしてここに、江戸時代から150年続く、老舗旅館の十八楼があった。
十八楼の名は、あの松尾芭蕉が名付けたと言う。 -
十八楼のある通りは格子戸のある古い街並みが今も残り、「川原町」という。
-
織田信長居館跡
岐阜城公園に来た。
建物には金箔瓦が葺かれていて、建物から川を渡る橋が掛けられていた。 -
H25の発掘調査で、広大な庭園があり、中央に大きいな池があり、東側に切り立った岩盤から、2つの滝が流れ落ちていた。
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小牧山城
南下し、愛知県に入った。
織田信長が、美濃国斎藤氏攻略のために清洲から移り、築城した城。
小牧・長久手の戦いでは、家康が本陣を置き、勝利することができた。 -
天守閣近くの石垣
近年の調査で安土城より早く本格的な石垣を設けたと言われる。 -
妙延寺
津島市に行く。道に迷いながら、清正公草紙掛松を見に来た。
加藤清正公が幼少期を過ごし、境内の松の木によく習字の半紙をこの松の木に掛けて干していたといわれる。 -
蛇池神社 (名古屋市西区)
『信長公記』では「あまが池」となっているエピソード。
ある時この池のほとりで大蛇が目撃された。村人の噂を聞いた若き日の織田信長は、周辺の村人達に池の水を全て汲み出すように命令し、大蛇を探したものの見つけることが出来なかったという。→徹底した合理主義と言われる。 -
御所屋敷(ごしょやしき)跡
名古屋市昭和区にある。豊臣秀吉の母、大政所が住んでいたと言われていて、ここで秀吉を産んだとも言う。 -
荒子観音寺 (名古屋市中川区)
荒子の観音さんとしても親しまれていて、尾張四観音のひとつ。
左奥には、市内最古(1536年)の多宝塔が見える。 -
天満天神宮(荒子城址)
荒子観音寺から徒歩5分くらい。
前田利家が居住した荒子城址に建立。 -
前田利家卿誕生之遺址
荒子城は、堀に囲まれたおよそ東西68メートル南北50メートルの小規模な館のような城で、利家も永禄12年(1569)荒子城主となったという。 -
誓願寺 源頼朝誕生地
熱田神宮と通りをはさんだ向かいにあった。
信長は清洲城を飛び出て、熱田神宮で戦勝祈願をして、南西の今川軍に向かった。
その勝利後、戦勝を記念し、熱田神宮に寄進した築地塀(信長塀)がある。
昨年熱田神宮に詣でた際に、駅前の観光マップを見てこの頼朝の誕生地を知ったので、来てみた。
源頼朝の母(由良御前)が身ごもって熱田の実家に帰り、この別邸で頼朝を生んだといわれ、この隣には、頼朝の助命を嘆願した池禅尼の「池殿屋敷」があったと伝えられている。 -
成海神社(鳴海城跡)
永禄二(1559)年、今川方の猛将岡部元信が守った鳴海城。 -
丹下町常夜灯
鳴海宿の西に1792年に建てられた。 -
善照寺砦
先の鳴海城の備えとして、信長が築いた砦で、桶狭間に今川義元を奇襲する前に、信長はここに兵を集結させた。 -
善照寺砦は、高台にあり、周囲を見渡せる。
今は砦公園となっていた。 -
少し離れた場所に、成海神社の天津社があった。
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階段を上り中に入ると、鳴海城址の立て札があった。
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東海道 鳴海宿高札場(復元)
東海道五十三次の40番目の宿。
現存する高札を復元してあった。 -
大高城跡
この辺りは起伏が激しく、戦の時は、まさしく高台を制する必要があったろう。 -
大高城の高台
桶狭間の戦いでは、まさに梅雨の時期とは言え、午後より急な雷雨で視界が遮断されたことが勝敗を分けた。 -
高台は広い草地になっていた。
また桶狭間の戦いでは、篭城か野戦か事前に決しておらず、清洲城から信長が突撃したことで、急襲となったように思えていたが、この大高城を囲むように、信長は次に見に行く鷲津砦や丸根砦を築いているので、始めから野戦だったことが良く分かった。
しかも両砦は、今川軍が進んでくると思われるルートとこの大高城の間に作っている!何故か?結果は案の定両砦の部隊は全滅している。 -
鷲津砦跡
大高城の北東700mの丘に、大高城の今川勢を牽制するために信長が築いた。
桶狭間の戦いの初戦では、飯尾定宗らが立てこもったが、全滅させられた。 -
丸根砦跡
ここも大高城牽制のため、東800mの丘に築かれた。
桶狭間の初戦では、若き徳川家康がここを攻めて、守りの佐久間盛重らは全滅させられた。 -
小さな階段を上り、奥に進むと、S28年建立の「史跡 丸根砦跡」の石碑があった。
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桶狭間古戦場伝説地
先の善照寺砦に全軍を集結させた信長は、名古屋短期大学構内にある、今で言う信長坂を駆け上がり、この伝説の地に駆け下り、今川軍を急襲したのではなかろうか。 -
高徳院
桶狭間古戦場伝説地の前には、高徳院がある。
階段を上り高徳院に入る。 -
今川義元公本陣跡
境内の広い敷地には、今川義元公本陣跡があり、やはりこの地に休憩していたのだろう。(地元の人達からの戦勝祝い品で休憩していたと言われる) -
今川義元公本陣跡から、1km弱南西に向かったところに長福寺がある。
ここで、勝利した信長は、今川方の首実検を行ったという。 -
首検証之跡
境内に石碑があった。
義元の茶坊主・林阿弥が ここで今川方の武将の首検証をしたと言われている。 -
長福寺の弁天池
江戸時代の資料には、血刀濯ぎの池と記されている。
桶狭間の戦いで血のついた刀が濯がれた場所と考えられる。 -
戦評の松
長福寺からやや南に行った道路沿いにあった。
今川軍の瀬名氏俊隊は、この大松の下で軍議を開いたといわれる。
大松は今は3代目だと言う。 -
桶狭間古戦場公園
最後の訪問地に来た。先の義元本陣跡から1.2km。 -
今川義元戦死之地
この公園内に石碑があった。この地で無念にも首を取られたのだろう。 -
近世の曙
さらに両雄の像が並んで建てられていた。確かに近世の扉を開いた両雄だ。
信長は今川軍の強烈な圧力を受け、天下布武の構想を持ったように思われる。
左、槍持ちの信長。
右、弓持ちの義元。 -
今回の桶狭間の戦いのルートを廻ってみて、特に高低差と距離を実感できたことから、本だけでは理解できなかったことや、軍馬も息遣いも感じられたように思い、非常に満足することが出来た。
明日は岡崎から廻ろうと思ったが、何故か帰路の高速道路の渋滞が無かった為、一路東進し帰宅した。
岡崎〜静岡の東海道の旅はいずれ行こうと思う。
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