2016/01/11 - 2016/01/11
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Wind99さん
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東海道五十三次で、江戸日本橋から4番目の宿場、程ヶ谷(保土ヶ谷)宿を散歩してきた。
品川から川崎、神奈川、程ヶ谷となる。その次は戸塚宿だ。
現在のJR保土谷駅周辺であるが、相鉄線天王町駅から、JR東戸塚まで約6kmを散歩してきた。
所々に旧東海道の案内板があり、わずかに国道1号になっていた道もあったが、旧道として当時の面影を残していると思われる場所もあり、江戸時代に想いを馳せることができた。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- JRローカル 私鉄 徒歩
-
出発は、天王町駅近くの橘樹神社から。
祭神は日本武尊、弟橘媛の二神である。
かつて牛頭天王社と称し、当地名天王町の由来ともなった神社で、文治2年(1186)に、京都祇園八坂神社を勧請して創建したといわれる。 -
境内には、歴史を感じさせる3つの力石と石盥盤(いしだらいばん)」というのがあった。
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その石盥盤をよく見ると、「天王社へ江戸より石盥盤寄進せらる 延宝6年霜月」とあり、調べると1678年11月で、約340年前の彫りであった。
第4代将軍徳川家綱の江戸初期の頃だ。 -
さらに奥には、青面金剛や神田不動尊の提灯があるお地蔵様があった。
青面(しょうめん)金剛(中央)は、寛文九年(1669年)2月とあり、先の石盥盤より古い。 -
帷子橋(かたびらばし)
安藤広重の浮世絵 「東海道五拾三次之内 保土ヶ谷 新町橋」は帷子橋を描いていた。
現在のこの川と橋の位置は違っており、実際には、すぐ近くの天王町駅前公園辺りと言われる。 -
その天王町駅前に来た。旧帷子橋跡の説明看板と記念のモニュメントがあった。
歴史の道 旧東海道の看板は、この先、要所にあり道案内に役立った。 -
ここは江戸日本橋より八里であった。
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駅前広場は、国道1号(旧東海道)に面していた。
この先は、しばらく直線が続く。 -
この辺りから、寺院ラッシュになった。
香象院(こうぞういん)
宿場で最大の寺子屋があった。その後、明治6年に保土ヶ谷小学校の分校になった。 -
参道の初めの狛犬ならぬ大きな釜が置いてあり、途中に大きな延命地蔵があった。
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見光寺(けんこうじ)
江戸時代初期に開山され、保土ヶ谷に住んでいた茂平(もへい)夫妻が建てた。 -
天徳院(てんとくいん)
開山は安土桃山時代。本尊は運慶作といわれる地蔵菩薩座像。 -
大蓮寺
日蓮上人が泊まった家を法華堂に改修したのが寺の始まり。 -
階段を上がり、本堂前に来ると、家康の側室おまんの方お手植えのざくろの木があった。
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遍照寺(へんじょうじ)
本尊の薬師如来像は横浜市指定文化財。
念仏百万遍の供養塔があった。 -
JR保土ヶ谷駅近くに来ると、保土ヶ谷宿場通りののぼりが目に入ってきた。
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問屋場跡(といやばあと)
幕府の公用旅行者や大名などのために荷物運搬、書状などの通信、宿泊手配などを担っていたのが問屋場。
問屋を筆頭に、年寄、帳付、馬指などの宿役人が詰めていた。 -
商店街のシャッター
安藤広重の浮世絵 「東海道五拾三次之内 保土ヶ谷 新町橋」。 -
古い料理屋に見える店舗の前に高札場跡。
幕府や領主の法令を書き記した木の札を掲示した。
宿場の高札場では、人馬の駄賃や宿代なども記していた。 -
金沢横町道標
この旧東海道から、金沢・浦賀往還(金沢道)への分岐となる。
道標として四基が建立され、現在残っていた。
唯一右のが、圓海山之道と読めた。調べてみると円海山は標高153mの小さな山で、現在は特に何も無い山であった。 -
東海道本線の踏切を渡っていく。
たまにお世話になる成田エクスプレス(Narita Express= N'EX)が通った。
突き当たりはT字路で、右に曲がって進む。T字路で再び国道1号に出る。 -
そのT字路辺りが、程ヶ谷宿本陣跡だ。
慶長6年(1601年)、東海道の伝馬制度を定めた徳川家康より「伝馬朱印状」が「ほとかや」(程ヶ谷)宛に出され程ヶ谷宿が成立したとある。
本陣は代々苅部家が勤めていたが、明治3年(I870年)に軽部姓に改称したとあり、廻りを見ると表札は軽部であった。 -
少し離れて脇本陣跡があった。
現在は消防署の敷地。 -
唯一旅籠の面影を残す本金子屋跡。
中は、日本庭園(非公開) があり、大正天皇がお忍びで旅をされたときに休まれたといわれている石などがあると案内が書かれていた。 -
道に沿って進むと小さな盛り土と小さな松並木があった。
一里塚跡と東海道の松並木の跡だった。 -
そこには当時の絵図があり、集落の様子が描かれていた。
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外川神社
今井川の仙人橋を渡ると、江戸時代の出羽三山講の流れで、明治に外川神社と改名した神社があった。 -
先のT字路から約1.5km進むと再びT字路で今度は左に曲がる。
そこに2つの庚申塔があったが、何も説明書きも無かった。
この後もいくつか道沿いに、庚申塔があった。 -
歴石の道の看板を見て、いよいよ権太坂に差し掛かった。
旧東海道を東京から西へ向かう際、最初の急勾配として知られ、権太坂、焼餅坂、品濃坂と坂道が続き、旅の難所であったという。 -
しばらく坂を上る。
箱根駅伝はここを通らず、近くの国道1号を通る。 -
横浜横須賀有料道路の上を道が通っていた。
遠く横浜のランドマークタワーが見えた。
江戸時代は場所によって海がきれいに見えたという。 -
高校前に来ると、登り坂が一段落した。
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看板に北斎の富嶽三十六景の保土ヶ谷図があった。
今日は曇っていて富士山が見えない。 -
さらに道を進む。武相国境の木に来た。
ここは武蔵国と相模国の境に当たる。 -
この境目には、境木地蔵尊があった。
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境木地蔵は、地蔵菩薩を祀る仏堂であるが、手水にもかわいらしい地蔵さんが居られた。
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この権太坂頂上あたりは、、江戸時代は茶屋が多く大変賑わったという。
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境木立場跡
立場茶屋、宿場と宿場の間に、馬子や人足の休息のためなどに設けられたのが立場。 -
投げ込み塚碑
少し道を戻って、投げ込み塚碑に来た。
この権太坂は今より急勾配で、行き倒れた人も多く、それらの人馬を投げ込んだ穴があったという。 -
近くの中学校の裏へまわり竹藪の細い路地を下る。
萩原代官屋敷(萩原道場跡)の門を見に来た。
中は公開されていない。
萩原家は代々、代官としてこの地に屋敷を構えていた(。特に幕末の当主は真心影流の免許皆伝でここに道場も構えた。
入門者は225名を数える。訪れた剣客で有名なのは天然理心流の近藤勇の名が記されているという。 -
今度は焼餅坂に出た。振り返ると坂の上は、境木地蔵尊になる。
この辺りが坂を下りきった場所でまた登り坂になる。 -
焼餅坂の境木地蔵尊と反対側方面で、これから坂を登って行くところだ。
坂を上がりきった所に、品濃一里塚があった。(画面中央に木々が高く突き出ている所) -
上の画像のすぐ左の竹藪には庚申塔が1つあった。
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道の右側に品濃一里塚の看板と、品濃一里塚公園入り口の矢印があった。
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矢印に進むと、ぐるっと回った高台に木々が生い茂っていて、一里塚があった盛り土と分かる。
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道に戻ると、反対側も大きく盛り土になっていて、ここは珍しく両側の一里塚跡が残されている貴重な場所であった。(神奈川県史跡)
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西に向かう、 品濃一里塚の風景
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道の左側の一里塚へは、ぐるっと回っていくことができた。
こちらも公園になっていて、盛り土の上で子供たちが遊んでいた。 -
品濃一里塚公園内にも庚申塔があった。
程ヶ谷宿散歩はここまでで、900m先のJR東戸塚駅まで歩き、帰路に就いた。
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