2015/04/26 - 2015/04/26
345位(同エリア522件中)
ひま人さん
平安時代、京都市下鴨神社の荘園として栄えた歴史から「安芸の小京都」と呼ばれる竹原。とくに上市・下市には、江戸時代後期に製塩そして酒造業で栄えたお屋敷や由緒あるお寺と町並みが今もそのまま保存され、落ち着いた静けさと時代を超えた雰囲気が訪れる者の心を和ませてくれます。最近は「マッサン」で脚光を浴びましたが、頼山陽の祖父・頼惟清(ただすが)が紺屋を営んでいた家も残っており、その旧家は竹原の町家の代表的な作りです。頼家の先祖は小早川家の家臣で、三原に住んでいましたが、惟清の曽祖父総兵衛の時に竹原に移り住んで海運業と農業を営み、代々、子供たちに学問をさせ、長男春水(頼山陽の父)は広島藩儒となり、幕府の昌平黌で講義するなど高名な学者として知られます。
今回は、そんな歴史に育まれたしっとりした街並みを歩きながら、頼山陽とマッサン(竹鶴政孝)の原点を触れました。
写真は、西方寺・普明閣です。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 3.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 観光バス JRローカル 私鉄 自家用車 徒歩
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竹原の町並み。重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
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竹鶴酒造。江戸中期の万治年間(1660年代)「小笹屋(おざさや)」の屋号で製塩業を営み、冬場に余剰の労働力を流用して享保18年(1733年)に酒造業を始めました。家の竹藪に鶴が営巣した事を「古来松に鶴と聞くも、竹に鶴は瑞兆なり」と喜び、その後「小笹屋竹鶴」と写したのが始まりで、銘柄・姓として用いました。
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竹鶴酒造。ニッカウイスキー創業者、竹鶴政孝の生家として知られ、建物は2014年9月から放送を開始した政孝をモデルとしたNHK連続テレビ小説「マッサン」に登場する「亀山酒造」のロケ地となりました。
この連ドラの人気で、竹鶴酒造の清酒は売り切れ状態で、次の仕込まで待たねばなりません。 -
竹原市重要文化財 松阪邸。
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松阪邸。入母屋造り、平入り、間口七間の木造つし二階建ての主家の裏側に、平行にもう一棟、本瓦葺のたてものとその二棟を直角の角屋でつないだ、表屋造りとなっています。天地区は江戸末期(1820年頃)のものを明治12年(1879年)に全面的な改造を行い、現在の形となりました。「てり・むくり」をもった波うつような独特の大屋根、その下のうぐいす色の漆喰、大壁造り、塗り込めの窓額つき菱格子の出窓、ゆるやかにカーブした本瓦葺の下屋、彫をもった出格子、与力格子など、華やかな建築意匠です。座敷は全体が数寄屋風の意匠で統一されています。
初代は延宝2年(1674年)広島から移住、沢田屋と称して塩田の必需品である薪問屋・石炭問屋を業とし、塩田経営、廻船業、醸造業と多角経営を行うかたわら、下市庄屋、割庄屋、竹原塩浜庄屋、竹原町長などつとめるとともに文化活動を行いました。 -
西方寺本堂。入母屋造り、一重、平入、本瓦葺き、前面と側面前方を吹き抜けとし、側柱には太い敷桁を載せるだけの簡単な構造をしており、江戸中期のこの地方の仏堂の典型的形式をもつ貴重な建築で、須弥檀は禅宗様式となっています。
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普明閣。西方寺本堂横の高台に位置する普明閣は、宝暦8年(1758年)の建築で、西方寺の地に妙法寺があった頃のご本尊、木造十一面観世音立像(県重要文化財)を祀っています。
方三間宝形造り、本瓦葺きの二重屋根の舞台造りとなっていて、京都清水寺を模して建立されました。建立年代としては新しいものですが、特異な屋根形式と優れた細部意匠を持っています。町のどこからでも望むことが出来、竹原の景観の中心となる重要な建築で、竹原を訪れる人は大概はここに上られるようです。 -
春風館。頼山陽の叔父、頼春風の家です。春風(1753〜1825)は大阪で医学と儒学を学び、安永2年(1773年)帰郷して医業を開業しました。安永末年(1780年)には塩田経営に乗り出し、天明元年(1781年)には春風館を建築。春風は家業のかたわら、学問にも力を入れて町の子弟の教育にあたり、寛永5年(1793年)には「竹原書院」の設立に努力し、竹原の文化の向上に尽力しました。
春風館の建物は、天明元年建築のものが安政元年(1854年)に焼失、安政2年(1855年)再建されました。長屋門と玄関構えをもつ武家屋敷風の建物だけが土間を持っており、奥に祠堂として茶室を持つ数寄屋風の意匠に統一され、茶人不二庵の設計と伝えられています。国重要文化財、内部は非公開。 -
復古館。頼春風の養子である小園が、春風館の西側に隣接して「兼屋」と称した建物で、安政6年(1859年)に三男の三郎を分家、独立させました。これが復古館の主屋の建物で、春風館と同じく、茶人不二庵の設計によるものと伝えられる木造切妻造二階建、本瓦葺の数寄屋建築です。
国重要文化財、内部は非公開。 -
光本邸。江戸時代に建てられた「復古館」の離れ座敷で、後年光本家が居住し、後に竹原市に寄贈された建物です。光本邸内の土蔵を改装して造られた「今井政之 陶芸の館」では、瀬戸内海の魚、草花や生き物などモチーフにした作品が展示されています。文化活動の場として又、観光客の休息の場としても活用されています。
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県史跡 頼惟清(らいただすが)旧宅石碑。
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頼惟清旧宅。日本外史の著者として知られる頼山陽の祖父、惟清が紺屋を営んでいた家です。建物は間口4間、奥行7.5間の入母屋、塗り込め造りの主屋と南側に直角に棟を出した離れ座敷があります。建築は安永4年(1775年)頃と考えられており、竹原の町屋の代表的なものです。この建物は、頼一門の発祥の地として、また江戸中期の遺構がよく残っており県史跡として指定されています。
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頼山陽銅像。頼山陽(1781〜1832)儒学者。安永9年12月27日、大阪江戸堀で生まれ、広島で育ち竹原の文化を吸収し、最後は京都で亡くなりました。「日本外史」「日本正記」などの書を著し、幕末の志士に多くの影響を与えました。また、漢詩文「川中島」「天草洋泊」など書画にも通じ、日本全国の学者との交流も図っていました。
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頼山陽「川中島」の詩碑。
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頼山陽「川中島」詩碑。
”不識庵機山を撃つの図に題す
鞭声粛粛夜河を過る
暁に見る千兵の大牙を擁するを
遺恨十年一剣を磨き
流星光底長蛇を逸す”
不識庵は越後の上杉謙信、機山は武田信玄でともにその法号です。
「川中島」の合戦は、頼山陽の「日本外史」によれば、天文23年2回、弘治2年3月、8月、永禄4年の5回にわたって行われた。
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