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世界中に数ある世界遺産の中でも、巡礼路そのものが世界遺産に登録されており、その旅路の途中にもいくつかの世界遺産が存在する「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」をゆっくり歩いたり、時々はバスを使ってサボったりしながら、フランスのサン・ジャン・ピエ・ド・ポーからピレネーを越えて約750kmを旅しました。

サンティアゴ巡礼の旅

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2013/05/14 - 2013/07/15

56位(同エリア184件中)

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18

eisukeさん

世界中に数ある世界遺産の中でも、巡礼路そのものが世界遺産に登録されており、その旅路の途中にもいくつかの世界遺産が存在する「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」をゆっくり歩いたり、時々はバスを使ってサボったりしながら、フランスのサン・ジャン・ピエ・ド・ポーからピレネーを越えて約750kmを旅しました。

旅行の満足度
4.5
観光
5.0
同行者
一人旅
交通手段
高速・路線バス 徒歩
航空会社
エールフランス
旅行の手配内容
個別手配
  •  今回の旅の経由地のパリでは、日本から到着した翌日予行練習を兼ねて、パリ市内を歩くことにしました。<br /> 宿泊しているホテルから朝の9時頃メトロに乗り「パリ発祥の地」とも称される、シテ島まで行きました。<br /><br /> ここを起点に、ルーヴル美術館、オペラ座、マドレーヌ寺院など。そしてセーヌ川の左岸に渡ってサンジェルマン、カルチェラタンなど、各施設の中を見学するにではなく、ただ気の向くまま5時間程歩きました。<br /> ノートルダム大聖堂は、今年が建物着工から850年に当たるらしく、大きな仮設の観客席?を正面にバーンと造り、その右手にはグルメの国フランスらしく、やはり仮設の「食の祭典」の施設があり、多くの人達が買い物をしたり試食をしたりして賑わっていました。<br /><br /> もちろん大聖堂入場のための長い列も何時もの様にありました。<br /> パリ市内は、ただ歩いているだけでも見るもの全てが独特の雰囲気を持っているようです。特に女性たちに人気があるのは、私にも実感できます。<br /> 歩き始めてから5時間が過ぎた頃、お腹も空いてきたし、それ以上にかなり疲れが出てきましたので、カフェでいっぷくしてメトロでホテルまで帰りました。<br /><br /> リュックを担がないで、なおかつ平地だけなのに、5時間ぐらいで疲れているようでは、これから先が思いやられるというか不安です。<br /> とにかく明日にはTGVとローカル線を乗り継いで、サンティアゴ巡礼の出発地フランス南部のピレネー山脈の麓にあるサン・ジャン・ピエ・ド・ポーまで参ります。<br /><br />写真は、ノートルダム大聖堂です。

     今回の旅の経由地のパリでは、日本から到着した翌日予行練習を兼ねて、パリ市内を歩くことにしました。
     宿泊しているホテルから朝の9時頃メトロに乗り「パリ発祥の地」とも称される、シテ島まで行きました。

     ここを起点に、ルーヴル美術館、オペラ座、マドレーヌ寺院など。そしてセーヌ川の左岸に渡ってサンジェルマン、カルチェラタンなど、各施設の中を見学するにではなく、ただ気の向くまま5時間程歩きました。
     ノートルダム大聖堂は、今年が建物着工から850年に当たるらしく、大きな仮設の観客席?を正面にバーンと造り、その右手にはグルメの国フランスらしく、やはり仮設の「食の祭典」の施設があり、多くの人達が買い物をしたり試食をしたりして賑わっていました。

     もちろん大聖堂入場のための長い列も何時もの様にありました。
     パリ市内は、ただ歩いているだけでも見るもの全てが独特の雰囲気を持っているようです。特に女性たちに人気があるのは、私にも実感できます。
     歩き始めてから5時間が過ぎた頃、お腹も空いてきたし、それ以上にかなり疲れが出てきましたので、カフェでいっぷくしてメトロでホテルまで帰りました。

     リュックを担がないで、なおかつ平地だけなのに、5時間ぐらいで疲れているようでは、これから先が思いやられるというか不安です。
     とにかく明日にはTGVとローカル線を乗り継いで、サンティアゴ巡礼の出発地フランス南部のピレネー山脈の麓にあるサン・ジャン・ピエ・ド・ポーまで参ります。

    写真は、ノートルダム大聖堂です。

  •  フランス南部のピレネー山麓にあるサン・ジャン・ピエ・ド・ポーを出発地とするサンティアゴ巡礼の第一歩が、巡礼最大の難所ピレネー越えであり、ルートは二つあります。<br /><br /> その一つが、彼のナポレオンも通った(残念ながらもちろん巡礼ではなく)といわれ、標高1410mのレオポエデール峠を越えて行く、昔から数多くの巡礼が歩いたメインルートです。<br /><br /> もう一方のルートは、標高1040mのイバニェタ峠を越えて行く、国道を主体とした比較的標高差の少ないルートです。<br /><br /> 現在でも多くの人達が、中世以来のナポレオン道を歩き、1日でピレネーを越えて行きます。<br /> 私もやはりナポレオン道を行くつもりですが、1日では歩き通せずに野垂れ死に(此処では遭難と言う方が合いそうですが)する確率が高いと思いますので、このナポレオン道の途中にある唯一の宿を事前にインターネットで予約してありますので、2日間掛けて越える予定をたてました。<br /> パリからサン・ジャンに着いて、その日泊まる宿に荷物を置いてから、巡礼のパスポートともいえるクレデンシャルという巡礼スタンプ手帳の様なものに出発地のスタンプを押してもらう事と、巡礼に関する情報を得るため、巡礼事務所に行きました。<br /> 係の人からスタンプを押してもらい、資料を頂いたところ、「今年はナポレオン道に雪が多く残っていて危険なので、国道ルートを行くように。もしナポレオン道を行く場合は、必ずグループで歩き、決して単独で歩かないように。」と、言われてしまいました。<br /> さあ困りました。ナポレオン道は是非歩きたい。だけど途中の宿で一泊しても、その先が雪で危険な訳だし、もしグループに入ったとしても、そのペースに合わせて歩ける自信はありませんし、単独行動になってしまったら、もしかして新聞に「日本人の愚かな老人が警告を無視しピレネーに死す」等と書かれては日本の恥になるし。<br /> どうしようか、ああでもない、こうでもないと、今後暫く?入る事のないであろうホテルの部屋のバスタブに浸かりながら考えました。<br /> 結局私は、憧れていたナポレオン道を諦めて、中間地点オリソンでの一泊をやめ、サンジャンで泊まっているホテルで、翌朝タクシーを呼んでもらい、国道ルートの中間地点まで送ってもらい、その日の内にピレネーを越えることにしまして、メールでオリソンの宿にキャンセルを入れました。<br /> 巡礼初日から予定の変更です。しかしこの先は全て予約はしてありませんし、その時の状況で考えながら対処していきましょうか。<br /><br />写真は、サン・ジャン・ピエ・ド・ポー駅を降りた巡礼者達です。

     フランス南部のピレネー山麓にあるサン・ジャン・ピエ・ド・ポーを出発地とするサンティアゴ巡礼の第一歩が、巡礼最大の難所ピレネー越えであり、ルートは二つあります。

     その一つが、彼のナポレオンも通った(残念ながらもちろん巡礼ではなく)といわれ、標高1410mのレオポエデール峠を越えて行く、昔から数多くの巡礼が歩いたメインルートです。

     もう一方のルートは、標高1040mのイバニェタ峠を越えて行く、国道を主体とした比較的標高差の少ないルートです。

     現在でも多くの人達が、中世以来のナポレオン道を歩き、1日でピレネーを越えて行きます。
     私もやはりナポレオン道を行くつもりですが、1日では歩き通せずに野垂れ死に(此処では遭難と言う方が合いそうですが)する確率が高いと思いますので、このナポレオン道の途中にある唯一の宿を事前にインターネットで予約してありますので、2日間掛けて越える予定をたてました。
     パリからサン・ジャンに着いて、その日泊まる宿に荷物を置いてから、巡礼のパスポートともいえるクレデンシャルという巡礼スタンプ手帳の様なものに出発地のスタンプを押してもらう事と、巡礼に関する情報を得るため、巡礼事務所に行きました。
     係の人からスタンプを押してもらい、資料を頂いたところ、「今年はナポレオン道に雪が多く残っていて危険なので、国道ルートを行くように。もしナポレオン道を行く場合は、必ずグループで歩き、決して単独で歩かないように。」と、言われてしまいました。
     さあ困りました。ナポレオン道は是非歩きたい。だけど途中の宿で一泊しても、その先が雪で危険な訳だし、もしグループに入ったとしても、そのペースに合わせて歩ける自信はありませんし、単独行動になってしまったら、もしかして新聞に「日本人の愚かな老人が警告を無視しピレネーに死す」等と書かれては日本の恥になるし。
     どうしようか、ああでもない、こうでもないと、今後暫く?入る事のないであろうホテルの部屋のバスタブに浸かりながら考えました。
     結局私は、憧れていたナポレオン道を諦めて、中間地点オリソンでの一泊をやめ、サンジャンで泊まっているホテルで、翌朝タクシーを呼んでもらい、国道ルートの中間地点まで送ってもらい、その日の内にピレネーを越えることにしまして、メールでオリソンの宿にキャンセルを入れました。
     巡礼初日から予定の変更です。しかしこの先は全て予約はしてありませんし、その時の状況で考えながら対処していきましょうか。

    写真は、サン・ジャン・ピエ・ド・ポー駅を降りた巡礼者達です。

  •  朝8時頃目を醒まして窓の外を見ると、雪が降っていました。<br /><br /> オスタルの前の道を巡礼者達が、<br /><br />降りしきる雪の中を黙々と歩いています。<br /> ここはブルゲーテ。フランスのサンジャンからピレネーを越えてたどり着いたスペインの始めての宿泊地です。<br /><br /> 宿泊しているのは、<br /><br />ヘミングウェイが鱒釣りのために滞在した、古い造りの小じんまりしたオスタルブルゲーテです。<br /><br /> ヘミングウェイが泊まった部屋は、ツインルームでバス、トイレの付いてない部屋だったそうですが、現在もヘミングウェイの写真が飾られています。<br /><br /> 残念ながら、その部屋は泊まれませんでした。<br /> フランスのサンジャンを出発し、サンティアゴへの道の第一歩?は、昨日の朝ホテルでタクシーを呼んでもらい、国道ルートの中間地点まで行き、そこから歩き始めました。<br /><br /> このルートは、前半(かなりの部分タクシーでずるをしましたが)は、国道を歩き後半に山道に入り、「ローランの歌」で有名な、ローランが戦死を遂げたイバニェタ峠(1040m・標高差800m)を越えて、スペインロンセスバージェス至る道です。<br /><br /> ナポレオン道に比べて比較的楽だと言われてますが、とんでもない。<br /><br /> 国道は峠から降りて来る車がかなりのスピードですぐ脇を通り抜けて行き、かなり危険ですし、景色は単調の上冷たい北風が、牙を剥き出したようにビュンビュン吹きさらし、帽子が吹き飛ばされないように、鍔をしっかり持って前屈みになって歩かなければなりません。<br /><br /> 国道はやっぱり車が通る為の道であって、人間が歩くには向いていないと実感しました。<br /> さて山道に入ったのですが、北風は木々に遮られておとなしくなり、景色も羊を見かけたり川の激流が見られたり変化もあり楽しいのですが・・・・・。<br /><br /> 肝心の道は泥道が多くなり、さらに登り降り繰り返しです。<br /><br /> 急な登りになると、ガリ股歩きで小刻みに登り、急な下りになるとキンちゃん歩き(斜め歩き)をして、足の爪先をいたわり、平地になると並み歩きを繰り返し繰り返し喘ぎながら、少しずつ峠に近づいて来ました。<br /><br /> イバニェタ峠に着いた頃から雨が降りだし、100円ショップで買ったポンチョ(なぜ100円ショップかと言いますと、基本的にリュックの重さを体重の10分の1の6?にするためペラペラでも軽いことが必要だったにです)を被り、ロンセスバージェスまでの下りを歩きました。<br /><br /> ロンセスバージェスに着き、巡礼宿でスタンプをもらいましたが、そこでは先に着いた人達が薪ストーブを囲んで、冷えた体を暖めながら食事を取っていました。<br /><br /> 私は、此処で泊まるのではなく約3km先のブルゲーテまで行くことにしていました。<br /> 実は、巡礼者の多くはアルベルゲとかレフーヒオと呼ばれる巡礼宿に泊まります。<br /><br /> 巡礼宿の宿泊料金は寄付又は低料金ですが、部屋はドミトリー形式で一部屋に沢山のベッドが並んでおり、寝具はないため持参の寝袋が必要になり、なおかつ宿泊は一泊だけと決められており、閉門時間は夜11時、翌朝9時迄には宿を出されてしまいます。<br /> 今回の旅についても、私は巡礼の道を歩きながら、通過する村や町でゆっくり休息したり、町の散策などを楽しみたいもにですから、最初から巡礼宿に泊まるつもりはなく、オスタルやペンションなど低料金の宿を利用するつもりで寝袋は持参せず、非常時に備えて、これも100円ショップで買ったエマージェンシーシーツのみを持って来ています。<br /> と言う訳で、オスタルブルゲーテに到着し、休息と散策をするため二泊することにしました。<br /><br /> その一泊した翌朝、雪が降っていたのです。<br /><br /> 多分ロンセスバージェスに宿泊した巡礼者達が雪の中を歩いています。<br /><br /> 暖かい部屋から巡礼者達を見ていて、何か申し訳ないような気がしましたが、明日には私も雨であれ雪であれ、次の目的地パンプローナまで途中スビリという村に一泊しながら歩き続けます。<br /><br />写真は、ブルゲーテのオスタルの部屋から見た雪の中を歩く巡礼者です。

     朝8時頃目を醒まして窓の外を見ると、雪が降っていました。

     オスタルの前の道を巡礼者達が、

    降りしきる雪の中を黙々と歩いています。
     ここはブルゲーテ。フランスのサンジャンからピレネーを越えてたどり着いたスペインの始めての宿泊地です。

     宿泊しているのは、

    ヘミングウェイが鱒釣りのために滞在した、古い造りの小じんまりしたオスタルブルゲーテです。

     ヘミングウェイが泊まった部屋は、ツインルームでバス、トイレの付いてない部屋だったそうですが、現在もヘミングウェイの写真が飾られています。

     残念ながら、その部屋は泊まれませんでした。
     フランスのサンジャンを出発し、サンティアゴへの道の第一歩?は、昨日の朝ホテルでタクシーを呼んでもらい、国道ルートの中間地点まで行き、そこから歩き始めました。

     このルートは、前半(かなりの部分タクシーでずるをしましたが)は、国道を歩き後半に山道に入り、「ローランの歌」で有名な、ローランが戦死を遂げたイバニェタ峠(1040m・標高差800m)を越えて、スペインロンセスバージェス至る道です。

     ナポレオン道に比べて比較的楽だと言われてますが、とんでもない。

     国道は峠から降りて来る車がかなりのスピードですぐ脇を通り抜けて行き、かなり危険ですし、景色は単調の上冷たい北風が、牙を剥き出したようにビュンビュン吹きさらし、帽子が吹き飛ばされないように、鍔をしっかり持って前屈みになって歩かなければなりません。

     国道はやっぱり車が通る為の道であって、人間が歩くには向いていないと実感しました。
     さて山道に入ったのですが、北風は木々に遮られておとなしくなり、景色も羊を見かけたり川の激流が見られたり変化もあり楽しいのですが・・・・・。

     肝心の道は泥道が多くなり、さらに登り降り繰り返しです。

     急な登りになると、ガリ股歩きで小刻みに登り、急な下りになるとキンちゃん歩き(斜め歩き)をして、足の爪先をいたわり、平地になると並み歩きを繰り返し繰り返し喘ぎながら、少しずつ峠に近づいて来ました。

     イバニェタ峠に着いた頃から雨が降りだし、100円ショップで買ったポンチョ(なぜ100円ショップかと言いますと、基本的にリュックの重さを体重の10分の1の6?にするためペラペラでも軽いことが必要だったにです)を被り、ロンセスバージェスまでの下りを歩きました。

     ロンセスバージェスに着き、巡礼宿でスタンプをもらいましたが、そこでは先に着いた人達が薪ストーブを囲んで、冷えた体を暖めながら食事を取っていました。

     私は、此処で泊まるのではなく約3km先のブルゲーテまで行くことにしていました。
     実は、巡礼者の多くはアルベルゲとかレフーヒオと呼ばれる巡礼宿に泊まります。

     巡礼宿の宿泊料金は寄付又は低料金ですが、部屋はドミトリー形式で一部屋に沢山のベッドが並んでおり、寝具はないため持参の寝袋が必要になり、なおかつ宿泊は一泊だけと決められており、閉門時間は夜11時、翌朝9時迄には宿を出されてしまいます。
     今回の旅についても、私は巡礼の道を歩きながら、通過する村や町でゆっくり休息したり、町の散策などを楽しみたいもにですから、最初から巡礼宿に泊まるつもりはなく、オスタルやペンションなど低料金の宿を利用するつもりで寝袋は持参せず、非常時に備えて、これも100円ショップで買ったエマージェンシーシーツのみを持って来ています。
     と言う訳で、オスタルブルゲーテに到着し、休息と散策をするため二泊することにしました。

     その一泊した翌朝、雪が降っていたのです。

     多分ロンセスバージェスに宿泊した巡礼者達が雪の中を歩いています。

     暖かい部屋から巡礼者達を見ていて、何か申し訳ないような気がしましたが、明日には私も雨であれ雪であれ、次の目的地パンプローナまで途中スビリという村に一泊しながら歩き続けます。

    写真は、ブルゲーテのオスタルの部屋から見た雪の中を歩く巡礼者です。

  •  ブルゲーテを朝7時30分頃次の目的地スビリ村まで約19?を目指して、小雨降るなか歩き始めました。<br /><br /> 2日休憩を取っていたので、かなりのアップダウンは在るものの、初日のピレネー越えに比べて楽に思えて、途中それほど休まずに約5時間掛けてスビリ村に着きました。<br /> 先ずは宿探しです。看板にWi-Fiのマークのあるペンションがありましたので、尋ねてみると丁度一部屋空いているとのことで、早速チェックインしました。<br /><br /> とにかく歩き疲れた体をベッドの上に投げ出して休憩。<br /><br /> 暫し休んだ後昼食は近くのバールで生ビールとボカディージョ(ハムとチーズを挟んだサンドイッチ)で軽く済まし、宿に戻って、スペインの習慣に従ってシエスタを取りましょう。<br /> スペイン人の一般的な一日の食事は、朝食はカフェとチュロス(揚げドーナツみたいなもの)など軽く済まし、昼食がメインで、例えばレストランのメヌーと言う昼定食では、第一皿(前菜)は、サラダ、スープ、パスタ等。第二皿は(メイン)は、羊や豚や鳥等の肉類、魚類等。デザートは、アイスクリームやヨーグルト等。それぞれから一品づつ選びます。<br /><br /> これにパンはお代わりありで、ワインもボトル半分位か一本分位が付きます。<br /><br /> これだけお昼に食べるからでしょうか、夜はバールでタパスとかピンチョスという小皿料理をツマミに、ワインやビールを楽しんでいるようです。<br /> シエスタも取ったし、体調も整えていざ夜のバールへ。<br /><br /> 時間は9時頃です。バールでは地元と思われる人達がカウンターやテーブルでワインやビールを飲みながら、ワイワイガヤガヤ楽しそうにお喋りしています。<br /><br /> その奥の一隅には、巡礼者と見られる人達が何十人もそれぞれのテーブルを囲み食事をしていました。<br /><br /> 私もカウンターの女性に、メヌーペレグリーノ(巡礼者用の定食)と言いますと、少し待てと言われました。<br /><br /> カウンターに座って待つこと15分ぐらい。すると奥にいた人達が、ある人はワイングラスを持ちながら、ある人はワインボトルを片手に席を立ち始めました。<br /><br /> 巡礼者達の一団が終わったのでしょうか、やっと呼ばれて他の4〜5人の人達と席に着いてみると、巡礼用の夜の定食も昼定食と変わらず、コースになっており、やはり私一人のテーブルにもワインボトルが一本デーンと置かれました。<br /><br /> 値段は一般の昼定食より安くなっており、これで10ユーロですから流石に巡礼者は宿にしても食事にしても優遇されているのでしょうね。<br /><br /> お腹も一杯になりワインも適量?飲みましたので、シャワーを浴びて明日のパンプローナ行きに備えて、早々と休みましょうか。<br /><br />写真は、休息する巡礼者達です。

     ブルゲーテを朝7時30分頃次の目的地スビリ村まで約19?を目指して、小雨降るなか歩き始めました。

     2日休憩を取っていたので、かなりのアップダウンは在るものの、初日のピレネー越えに比べて楽に思えて、途中それほど休まずに約5時間掛けてスビリ村に着きました。
     先ずは宿探しです。看板にWi-Fiのマークのあるペンションがありましたので、尋ねてみると丁度一部屋空いているとのことで、早速チェックインしました。

     とにかく歩き疲れた体をベッドの上に投げ出して休憩。

     暫し休んだ後昼食は近くのバールで生ビールとボカディージョ(ハムとチーズを挟んだサンドイッチ)で軽く済まし、宿に戻って、スペインの習慣に従ってシエスタを取りましょう。
     スペイン人の一般的な一日の食事は、朝食はカフェとチュロス(揚げドーナツみたいなもの)など軽く済まし、昼食がメインで、例えばレストランのメヌーと言う昼定食では、第一皿(前菜)は、サラダ、スープ、パスタ等。第二皿は(メイン)は、羊や豚や鳥等の肉類、魚類等。デザートは、アイスクリームやヨーグルト等。それぞれから一品づつ選びます。

     これにパンはお代わりありで、ワインもボトル半分位か一本分位が付きます。

     これだけお昼に食べるからでしょうか、夜はバールでタパスとかピンチョスという小皿料理をツマミに、ワインやビールを楽しんでいるようです。
     シエスタも取ったし、体調も整えていざ夜のバールへ。

     時間は9時頃です。バールでは地元と思われる人達がカウンターやテーブルでワインやビールを飲みながら、ワイワイガヤガヤ楽しそうにお喋りしています。

     その奥の一隅には、巡礼者と見られる人達が何十人もそれぞれのテーブルを囲み食事をしていました。

     私もカウンターの女性に、メヌーペレグリーノ(巡礼者用の定食)と言いますと、少し待てと言われました。

     カウンターに座って待つこと15分ぐらい。すると奥にいた人達が、ある人はワイングラスを持ちながら、ある人はワインボトルを片手に席を立ち始めました。

     巡礼者達の一団が終わったのでしょうか、やっと呼ばれて他の4〜5人の人達と席に着いてみると、巡礼用の夜の定食も昼定食と変わらず、コースになっており、やはり私一人のテーブルにもワインボトルが一本デーンと置かれました。

     値段は一般の昼定食より安くなっており、これで10ユーロですから流石に巡礼者は宿にしても食事にしても優遇されているのでしょうね。

     お腹も一杯になりワインも適量?飲みましたので、シャワーを浴びて明日のパンプローナ行きに備えて、早々と休みましょうか。

    写真は、休息する巡礼者達です。

  • ヘミングウェイの「陽はまた昇る」で、サン・フェルミン祭の牛追いが有名なったパンプローナの町迄は、前日に引き続き約21?を途中の人気のない静まり返った田舎の小さな村々を通り過ぎながら、6時間かけて午後1時頃にたどり着きました。<br /> パンプローナは巡礼路初めての大都会です。早速地元の人にインフォメーションの場所を聞き、インフォメーションで町の地図と安くてきれいなオスタルやペンションのある場所を地図に印をしてもらいました。<br /><br /> 最初に訪ねたオスタルは満員でしたので、通りを歩いていると建物の二階部分に「HABITACION」(アビタシオン・部屋)とだけ書いてある看板があり、その下の入口を開けるとすぐ階段となっていましたので、上がって行くと踊り場にドアがあり、開けて見るとそこはレストランになっています。<br /><br /> 客は居ませんでしたがカウンターに男の人がいましたので、何かおかしいとは思いながら「部屋はありますか」と聞いたところ、レストランの上に部屋があると言うことでしたので、2泊分をお願いしました。<br /><br /> そう言えばスペインの宿には、上はパラドールという昔の城や修道院等を改築した国営ホテルに始まって、オテル、オスタル、ペンション、フォンダ(木賃金宿)等、名前もランクも沢山在りますが、私はもちろんオスタル以下の宿がほとんどです。<br /> パンプローナ1日目は、疲れを取るため、バールでカフェとボカディージョの昼食を取った後は宿でゆっくり休みました。<br /><br /> そして夜は、昨夜のメヌーペレグリーノが重たかったのでバールで軽い食事と思い、宿に近いバールに入ったのですが、縦に細長い店内には左側にカウンターがあり、その上には小皿料理が沢山並んでいます。<br /><br /> 私はまず赤ワインと目の前にある料理の内、見た目に美味しそうな物とタコを煮た物?の皿を頼み、カウンター前の小さな二人掛けのテーブルに座りました。<br /><br /> タコ料理は温めてくれ、籠に入ったパンと一緒にテーブルに置いてくれました。<br /><br /> 料理はどちらも美味しく、パンも表面は硬くパリッとして中はもちっとしてなかなかお腹のたしになります。<br /><br /> さて次に何にしようかと考えているとカウンターの後ろに、置いてある料理だけではなく、色々な料理が書いてありましたので、その中からイカフライと赤ワインの追加を頼みました。<br /><br /> 暫くすると奥の厨房から料理人が出てきて、揚げたてのイカフライをカウンターの上に置きました。<br /><br /> カウンターの人が合図をしてくれたので、今度は私がカウンターから料理を取り、テーブルで食べました。<br /><br /> 結局料理は小皿料理3品でしたが、パンも4切れほど食べ、お腹もくちくなりましたのでそろそろ帰るかと。<br /><br /> その前に少し曇ってきた眼鏡をテーブルにある紙ナプキンで拭き始めたところ、カウンターの人がこちらに来るように合図らしきものをするので、眼鏡を持ったままでカウンターに行くと、何も言わずニッコリ笑いながら、何かスプレーを私の眼鏡にかけてくれました。そして自分の眼鏡にもスプレーしてナプキンで拭いていました。<br /><br /> 眼鏡の洗浄液のようでしたので、私も同じようにナプキンで拭きました。<br /><br /> このような気さくで何気ない親切はなかなか気持ちの良いものですね。<br /><br /> 勘定は自己申告制です。私はワイン2杯、タコとイカフライは言えたのですが、もう一品が何と言ってよいか分からず、「プラスワン」と言ったところ、料理を覚えていたのか分かりませんが、勘定書をくれました。8.80ユーロでした。<br /> パンプローナ1日目は、2日続けて20?近く歩いた(他の巡礼者では当たり前)ので、宿に帰ってさっさと寝ることにしましょうか。<br /><br />写真は、黙々と歩く巡礼者達です。

    ヘミングウェイの「陽はまた昇る」で、サン・フェルミン祭の牛追いが有名なったパンプローナの町迄は、前日に引き続き約21?を途中の人気のない静まり返った田舎の小さな村々を通り過ぎながら、6時間かけて午後1時頃にたどり着きました。
     パンプローナは巡礼路初めての大都会です。早速地元の人にインフォメーションの場所を聞き、インフォメーションで町の地図と安くてきれいなオスタルやペンションのある場所を地図に印をしてもらいました。

     最初に訪ねたオスタルは満員でしたので、通りを歩いていると建物の二階部分に「HABITACION」(アビタシオン・部屋)とだけ書いてある看板があり、その下の入口を開けるとすぐ階段となっていましたので、上がって行くと踊り場にドアがあり、開けて見るとそこはレストランになっています。

     客は居ませんでしたがカウンターに男の人がいましたので、何かおかしいとは思いながら「部屋はありますか」と聞いたところ、レストランの上に部屋があると言うことでしたので、2泊分をお願いしました。

     そう言えばスペインの宿には、上はパラドールという昔の城や修道院等を改築した国営ホテルに始まって、オテル、オスタル、ペンション、フォンダ(木賃金宿)等、名前もランクも沢山在りますが、私はもちろんオスタル以下の宿がほとんどです。
     パンプローナ1日目は、疲れを取るため、バールでカフェとボカディージョの昼食を取った後は宿でゆっくり休みました。

     そして夜は、昨夜のメヌーペレグリーノが重たかったのでバールで軽い食事と思い、宿に近いバールに入ったのですが、縦に細長い店内には左側にカウンターがあり、その上には小皿料理が沢山並んでいます。

     私はまず赤ワインと目の前にある料理の内、見た目に美味しそうな物とタコを煮た物?の皿を頼み、カウンター前の小さな二人掛けのテーブルに座りました。

     タコ料理は温めてくれ、籠に入ったパンと一緒にテーブルに置いてくれました。

     料理はどちらも美味しく、パンも表面は硬くパリッとして中はもちっとしてなかなかお腹のたしになります。

     さて次に何にしようかと考えているとカウンターの後ろに、置いてある料理だけではなく、色々な料理が書いてありましたので、その中からイカフライと赤ワインの追加を頼みました。

     暫くすると奥の厨房から料理人が出てきて、揚げたてのイカフライをカウンターの上に置きました。

     カウンターの人が合図をしてくれたので、今度は私がカウンターから料理を取り、テーブルで食べました。

     結局料理は小皿料理3品でしたが、パンも4切れほど食べ、お腹もくちくなりましたのでそろそろ帰るかと。

     その前に少し曇ってきた眼鏡をテーブルにある紙ナプキンで拭き始めたところ、カウンターの人がこちらに来るように合図らしきものをするので、眼鏡を持ったままでカウンターに行くと、何も言わずニッコリ笑いながら、何かスプレーを私の眼鏡にかけてくれました。そして自分の眼鏡にもスプレーしてナプキンで拭いていました。

     眼鏡の洗浄液のようでしたので、私も同じようにナプキンで拭きました。

     このような気さくで何気ない親切はなかなか気持ちの良いものですね。

     勘定は自己申告制です。私はワイン2杯、タコとイカフライは言えたのですが、もう一品が何と言ってよいか分からず、「プラスワン」と言ったところ、料理を覚えていたのか分かりませんが、勘定書をくれました。8.80ユーロでした。
     パンプローナ1日目は、2日続けて20?近く歩いた(他の巡礼者では当たり前)ので、宿に帰ってさっさと寝ることにしましょうか。

    写真は、黙々と歩く巡礼者達です。

  •  2日目のパンプローナは朝寝坊をして、お昼近くに大きな広場に行きました。<br /><br /> スペインに限らずヨーロッパの町、特に旧市街には大体中心に協会や広場が必ずと言っていいほどあります。<br /><br /> また広場にはベンチがあり、大勢の人々がゆっくり休んでいたりします。<br /><br /> 特に私のような年金生活?か分かりませんが、圧倒的に時間的に余裕のある高齢者の姿がみられますし、中には車椅子で付き添いの人と一緒に日向ぼっこをしている方もいました。<br /><br /> 私も広場のベンチに座ってのんびりとマンウォッチングを楽しんでいました。<br /> そろそろお昼も過ぎましたので、昼食でも食べようかと広場の一隅にある、やはりヘミングウェイが毎朝朝食を食べていたというイルーニャというカフェに入りましたが、平日の昼間だというのに多くの人で混みあっていました。<br /> 私はボカディージョとビールを頼んで昼食としましたが、他の殆どの人達はコーヒーかビール、中にはワイン等をツマミも食べずに楽しそうにお喋りをしています。<br /><br /> そうなんです。ベンチでもカフェでも二人以上人が集まれば、大きな声でお喋りが止まらないのです。<br /><br /> 私が食事をしている間にもお喋りの声がカフェ中に渦巻いていました。<br /><br /> 私の食事が終わろうとする午後1時半頃になると、お喋りの渦は多くの人達と一緒にさーっと退いていきました。<br /><br /> するとウエイターが空いたテーブルにクロスを敷いてナイフとフォークをセッティングし始めました。<br /><br /> これからが本格的な昼食のための準備をしているようです。<br /><br /> 2時頃になると、あれほど広場にいた人達がいなくなってしまい、カフェやレストラン等を除いて、その他のお店は一斉にシャッターを閉めていました。<br /><br /> 皆さん家に帰って昼食を取り、その後悪名?高いシェスタ(お昼寝)ということで、午後4時半頃まで、町から人が消えてしまいます。<br /><br /> 信じられないくらい徹底しています。<br /><br /> シェスタの習慣が残っているスペイン、ポルトガル、ギリシャ、イタリア等が経済的に苦しんでいるのは、シェスタのせいばかりではないと思いますが・・・・。<br /> とにかく、私も人気のない街を歩いても仕方がないので宿に帰って、郷に入っては郷に従えということで昼寝を決め込みましょう。<br /><br />写真は、カフェ・イルーニャです。

     2日目のパンプローナは朝寝坊をして、お昼近くに大きな広場に行きました。

     スペインに限らずヨーロッパの町、特に旧市街には大体中心に協会や広場が必ずと言っていいほどあります。

     また広場にはベンチがあり、大勢の人々がゆっくり休んでいたりします。

     特に私のような年金生活?か分かりませんが、圧倒的に時間的に余裕のある高齢者の姿がみられますし、中には車椅子で付き添いの人と一緒に日向ぼっこをしている方もいました。

     私も広場のベンチに座ってのんびりとマンウォッチングを楽しんでいました。
     そろそろお昼も過ぎましたので、昼食でも食べようかと広場の一隅にある、やはりヘミングウェイが毎朝朝食を食べていたというイルーニャというカフェに入りましたが、平日の昼間だというのに多くの人で混みあっていました。
     私はボカディージョとビールを頼んで昼食としましたが、他の殆どの人達はコーヒーかビール、中にはワイン等をツマミも食べずに楽しそうにお喋りをしています。

     そうなんです。ベンチでもカフェでも二人以上人が集まれば、大きな声でお喋りが止まらないのです。

     私が食事をしている間にもお喋りの声がカフェ中に渦巻いていました。

     私の食事が終わろうとする午後1時半頃になると、お喋りの渦は多くの人達と一緒にさーっと退いていきました。

     するとウエイターが空いたテーブルにクロスを敷いてナイフとフォークをセッティングし始めました。

     これからが本格的な昼食のための準備をしているようです。

     2時頃になると、あれほど広場にいた人達がいなくなってしまい、カフェやレストラン等を除いて、その他のお店は一斉にシャッターを閉めていました。

     皆さん家に帰って昼食を取り、その後悪名?高いシェスタ(お昼寝)ということで、午後4時半頃まで、町から人が消えてしまいます。

     信じられないくらい徹底しています。

     シェスタの習慣が残っているスペイン、ポルトガル、ギリシャ、イタリア等が経済的に苦しんでいるのは、シェスタのせいばかりではないと思いますが・・・・。
     とにかく、私も人気のない街を歩いても仕方がないので宿に帰って、郷に入っては郷に従えということで昼寝を決め込みましょう。

    写真は、カフェ・イルーニャです。

  •  さて今日はヘミングウェイのパンプローナとさよならをして、バスで約25?をショートカットして、その昔11世紀頃当時としては群雄割拠の時代、敵の侵入を防ぐ役目として川に橋を掛けないのは欠かせないものでしたが、時のナバーラ王妃が私財をなげうって巡礼者のために石造りの橋を造ってくれた、その名も「プエンテ・ラ・レイナ」(王妃の橋)が健在する町まで行くことにしました。<br /><br /> <br /><br />パンプローナのバスステーションには、10時発のバスが既に30分前にはありましたが、ドアは閉まっており、発車10分前になり運転手がやって来て、ドアを開けて、乗客の行先をチェックしながら、荷物をバスの横腹に積むように言って、定刻に出発しました。<br /> 乗客には巡礼者も結構乗っており、また30分後にプエンテ・ラ・レイナに着いて降りる乗客と入れ違いに乗り込んで来る巡礼者もかなりいました。<br /><br /> やはり全行程を歩き通すのは、なかなか困難なのではないかと、仲間がいる安心感もありました。<br /><br /> それにしても約25?を途中乗客の乗り降りもしながら、たかが30分で来てしまうとは。歩きでは6時間以上もかからというのに。<br /><br /> まあ、気を取り直して、今日はバスで距離を稼いだものですから、12?位先のロルカと言う村で宿泊をしようと思い歩き始めました。<br /><br /> ところがロルカに着いたところ、2時を回っていましたので、シェスタでしょうか村に人が見当たりません。<br /><br /> 仕方なしに予定を切り替え、これから先10?以上ある次の目的地エスティージャまで行ってしまえと、半ば自棄になりながら歩き続け、結局エスティージャに午後4時半頃、6時間かかって到着です。<br /> この時間はシェスタも終わり街に人も出ていましたし、こじんまりしたインフォメーションでオスタルの場所も聞け宿泊できました。やはりここで2泊します。<br /> 翌日木曜日でしたが、街の広場に朝から青空市場が立ち始めました。<br /><br /> 一つの広場には食料品関係の市場になり、少し離れれた広場には日用品関係の市場が立っていました。<br /><br /> やはり食料品関係の市場はかなりの人で賑わっていました。<br /> 私はぶらぶら歩きながら市場の中を覗いていたりしていましたが、広場の一角で中学生?位の生徒達が何かノートを拡げて地面に車座になって座っています。<br /><br /> 側のベンチには、多分先生と思われる女性が居て、何か指示を与えているようでした。<br /> 私はスマートフォンを構えて、少し離れたところから生徒達の写真を撮っていたところ、生徒達が気が付いたようで、どうもこっちへ来いというようなジェスチャーをします。<br /><br /> 私はそこで、彼らの側に行って今撮った写真を皆に見せました。<br /><br /> 因みに私のスマートフォンは、サムソンのギャラクシーノート2という画面が5インチ位大きく、ポケットに容れて持ち運べる限界位の大きさなのです。<br /><br /> <br /><br /> 彼等は皆一様に、自分達の写真を見て喜んでいるようでしたので、私は更に何枚か写真を撮り彼等に見せたところ、一人の生徒が、どうも一緒に写真を撮るようにと言っているようでしたので、彼にスマートフォンを渡し彼等の中に入って写真を撮ってもらいました。<br /><br /> その写真をまた彼等に見せると、口々に「ベリーグッド」とか「ムイビエン」とか英語とスペイン語ごちゃ混ぜで、言葉が返って来ました。<br /> ベンチに座っている先生は、このような光景を見ても特に注意をするでもなく、何も言わずに楽しそうにこちらを見ているだけでした。<br /><br /> この辺が日本とは大違いなのかなと思いながら、生徒達の楽しそうな声を後にサヨナラをしました。<br /><br />写真は、車座になって課外授業中の生徒達です。

     さて今日はヘミングウェイのパンプローナとさよならをして、バスで約25?をショートカットして、その昔11世紀頃当時としては群雄割拠の時代、敵の侵入を防ぐ役目として川に橋を掛けないのは欠かせないものでしたが、時のナバーラ王妃が私財をなげうって巡礼者のために石造りの橋を造ってくれた、その名も「プエンテ・ラ・レイナ」(王妃の橋)が健在する町まで行くことにしました。

     

    パンプローナのバスステーションには、10時発のバスが既に30分前にはありましたが、ドアは閉まっており、発車10分前になり運転手がやって来て、ドアを開けて、乗客の行先をチェックしながら、荷物をバスの横腹に積むように言って、定刻に出発しました。
     乗客には巡礼者も結構乗っており、また30分後にプエンテ・ラ・レイナに着いて降りる乗客と入れ違いに乗り込んで来る巡礼者もかなりいました。

     やはり全行程を歩き通すのは、なかなか困難なのではないかと、仲間がいる安心感もありました。

     それにしても約25?を途中乗客の乗り降りもしながら、たかが30分で来てしまうとは。歩きでは6時間以上もかからというのに。

     まあ、気を取り直して、今日はバスで距離を稼いだものですから、12?位先のロルカと言う村で宿泊をしようと思い歩き始めました。

     ところがロルカに着いたところ、2時を回っていましたので、シェスタでしょうか村に人が見当たりません。

     仕方なしに予定を切り替え、これから先10?以上ある次の目的地エスティージャまで行ってしまえと、半ば自棄になりながら歩き続け、結局エスティージャに午後4時半頃、6時間かかって到着です。
     この時間はシェスタも終わり街に人も出ていましたし、こじんまりしたインフォメーションでオスタルの場所も聞け宿泊できました。やはりここで2泊します。
     翌日木曜日でしたが、街の広場に朝から青空市場が立ち始めました。

     一つの広場には食料品関係の市場になり、少し離れれた広場には日用品関係の市場が立っていました。

     やはり食料品関係の市場はかなりの人で賑わっていました。
     私はぶらぶら歩きながら市場の中を覗いていたりしていましたが、広場の一角で中学生?位の生徒達が何かノートを拡げて地面に車座になって座っています。

     側のベンチには、多分先生と思われる女性が居て、何か指示を与えているようでした。
     私はスマートフォンを構えて、少し離れたところから生徒達の写真を撮っていたところ、生徒達が気が付いたようで、どうもこっちへ来いというようなジェスチャーをします。

     私はそこで、彼らの側に行って今撮った写真を皆に見せました。

     因みに私のスマートフォンは、サムソンのギャラクシーノート2という画面が5インチ位大きく、ポケットに容れて持ち運べる限界位の大きさなのです。

     

     彼等は皆一様に、自分達の写真を見て喜んでいるようでしたので、私は更に何枚か写真を撮り彼等に見せたところ、一人の生徒が、どうも一緒に写真を撮るようにと言っているようでしたので、彼にスマートフォンを渡し彼等の中に入って写真を撮ってもらいました。

     その写真をまた彼等に見せると、口々に「ベリーグッド」とか「ムイビエン」とか英語とスペイン語ごちゃ混ぜで、言葉が返って来ました。
     ベンチに座っている先生は、このような光景を見ても特に注意をするでもなく、何も言わずに楽しそうにこちらを見ているだけでした。

     この辺が日本とは大違いなのかなと思いながら、生徒達の楽しそうな声を後にサヨナラをしました。

    写真は、車座になって課外授業中の生徒達です。

  •  ビアーナという名前は何処かで聞いたような微かな記憶があったのですが。<br /><br /> それを思い出させてくれたのが、今回参考書として持参している唯一の「サンティアゴに行こう!歩いて楽しむスペイン」(著者 中谷光月子)という本でした。<br /><br /> この本に「チェーザレ・ボルジアの墓が、ビアーナのサンタ・マリーア教会にある。」と紹介されていたのです。<br /> 私はかなり前になりますが、塩野七生の「ローマ人の物語」や「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」等の小説を読んでおりました。<br /><br /> 確かな記憶ではないのですが、チェーザレ・ボルジアはローマ教皇アレッサンドロ6世?の息子で、教皇の権力を背景に政治や軍事の面で頭角を現し、その政治的手段が冷酷でありながら卓越したものであった事から、マキャベッリの「君主論」のモデルになったとされています。<br /><br /> 15世紀、まさにルネッサンスの時代でありイタリアンでは、フィレンツェ、ミラノ、ベネチア、ローマ等国内はもとより、フランス等との抗争もあった時代にイタリア統一の野望を持った、歴史上では悪名高い人物とされているようです。<br />私はお墓は当然教会の中にあると思っていたのですが、驚いた事に中ではなく、教会正面入口の外にあるのです。<br /><br /> 私は教会の中の人達が歩く所に埋め込まれているお墓は何度か見たことはありますが、教会正面入口の外にあるお墓は初めてです。<br /><br /> チェーザレの悪名のため教会の中に入れてもらえないのかは分かりませんが、何か不思議な感じを受けました。<br /> 教会の前でそのような勝手な事を考えていると、教会のすぐ脇の広場で男の人が何か音響装置をセッティングしていますので、何かあるのかなと思っていると、目の前の通りを大人が引くアコーディオンに合わせて、民族衣装を着た大勢の子供たちとその後を大人たちが行進して行きました。<br /><br /> しばらくすると、その一団が教会横の広場に戻って来ました。<br /><br /> そして音楽に合わせて、子供たちが踊り始めました。<br /><br /> 子供たちは幼稚園位から中学生位まででしょうか、ほとんどが女の子で中に2〜3人男の子が恥ずかしそうに踊っています。 順番に各々のグループになって、代わる代わる民族舞踏でしょうか、あるグループは棒を叩き合って踊ったり、あるグループは手に手に籠のようなものを持って踊ったり、幾つかの様々な躍りを踊った最後には、子供たち全員が手を繋いで何重もの輪になってぐるぐる回って広場から去って行きました。<br /> 周りには、先程一緒に行進していた人達も含めて、地元の人達が沢山集まって見学していました。<br /><br /> 観客の中には巡礼者達はいません。<br /><br /> 巡礼者達は、教会や教会前のチェーザレのお墓にも興味を示さず、子供たちの踊りもちょっと立ち止まっても、また直ぐに歩き出します。<br /><br /> 誰かの話しに「サンティアゴ巡礼は、ただひたすらサンティアゴ・デ・コンポステーラに向かって歩き続ける事だ」と、いうような事を聞いた事がありますが。<br /> 目の前に、歴史的な建造物や、今見ているような民族的な文化等を楽しまないのはもったいない気がするのは、無宗教者の勝手な言い分なのでしょうか。<br /><br /> とにかく私は、行く先々で、その土地の歴史や文化や地元の人達の生活を感じる事が出来ればと思いながら、この過酷?な旅を、楽しい旅として続けて行きたいものです。<br />追伸:もちろん、その土地土地での美味しい飲み物や食べ物も楽しみたいです。<br /><br />写真は、民族舞踊でしょうか、手に籠のような物を持って踊る子供達です。

     ビアーナという名前は何処かで聞いたような微かな記憶があったのですが。

     それを思い出させてくれたのが、今回参考書として持参している唯一の「サンティアゴに行こう!歩いて楽しむスペイン」(著者 中谷光月子)という本でした。

     この本に「チェーザレ・ボルジアの墓が、ビアーナのサンタ・マリーア教会にある。」と紹介されていたのです。
     私はかなり前になりますが、塩野七生の「ローマ人の物語」や「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」等の小説を読んでおりました。

     確かな記憶ではないのですが、チェーザレ・ボルジアはローマ教皇アレッサンドロ6世?の息子で、教皇の権力を背景に政治や軍事の面で頭角を現し、その政治的手段が冷酷でありながら卓越したものであった事から、マキャベッリの「君主論」のモデルになったとされています。

     15世紀、まさにルネッサンスの時代でありイタリアンでは、フィレンツェ、ミラノ、ベネチア、ローマ等国内はもとより、フランス等との抗争もあった時代にイタリア統一の野望を持った、歴史上では悪名高い人物とされているようです。
    私はお墓は当然教会の中にあると思っていたのですが、驚いた事に中ではなく、教会正面入口の外にあるのです。

     私は教会の中の人達が歩く所に埋め込まれているお墓は何度か見たことはありますが、教会正面入口の外にあるお墓は初めてです。

     チェーザレの悪名のため教会の中に入れてもらえないのかは分かりませんが、何か不思議な感じを受けました。
     教会の前でそのような勝手な事を考えていると、教会のすぐ脇の広場で男の人が何か音響装置をセッティングしていますので、何かあるのかなと思っていると、目の前の通りを大人が引くアコーディオンに合わせて、民族衣装を着た大勢の子供たちとその後を大人たちが行進して行きました。

     しばらくすると、その一団が教会横の広場に戻って来ました。

     そして音楽に合わせて、子供たちが踊り始めました。

     子供たちは幼稚園位から中学生位まででしょうか、ほとんどが女の子で中に2〜3人男の子が恥ずかしそうに踊っています。 順番に各々のグループになって、代わる代わる民族舞踏でしょうか、あるグループは棒を叩き合って踊ったり、あるグループは手に手に籠のようなものを持って踊ったり、幾つかの様々な躍りを踊った最後には、子供たち全員が手を繋いで何重もの輪になってぐるぐる回って広場から去って行きました。
     周りには、先程一緒に行進していた人達も含めて、地元の人達が沢山集まって見学していました。

     観客の中には巡礼者達はいません。

     巡礼者達は、教会や教会前のチェーザレのお墓にも興味を示さず、子供たちの踊りもちょっと立ち止まっても、また直ぐに歩き出します。

     誰かの話しに「サンティアゴ巡礼は、ただひたすらサンティアゴ・デ・コンポステーラに向かって歩き続ける事だ」と、いうような事を聞いた事がありますが。
     目の前に、歴史的な建造物や、今見ているような民族的な文化等を楽しまないのはもったいない気がするのは、無宗教者の勝手な言い分なのでしょうか。

     とにかく私は、行く先々で、その土地の歴史や文化や地元の人達の生活を感じる事が出来ればと思いながら、この過酷?な旅を、楽しい旅として続けて行きたいものです。
    追伸:もちろん、その土地土地での美味しい飲み物や食べ物も楽しみたいです。

    写真は、民族舞踊でしょうか、手に籠のような物を持って踊る子供達です。

  •  今日はサント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダまで21?の道のりです。<br /><br /> 前の晩に泊まったナヘラを7時45分に出発。<br /><br /> 今日は曇り空で気温も低く、長い登坂や葡萄畑を歩きます。途中に村は二つしかないので、忘れずに朝食を取らなければ。<br /><br /> 二つ目の村でコーヒーとトーストで朝食タイム。<br /><br /> 巡礼者はあまり見かけませんが、巡礼者のほとんどは二人連れが多く、一人はその半分位でしょうか。<br /><br /> 中には洗濯物をリュックに吊るして歩いている人達もいました。<br /> 周りは見渡す限り葡萄畑で日陰のない長い坂道。歩き始めて4時間を過ぎた頃、丘を越えた所で、遠くに目的地のサント・ドミンゴの町がやっと見えて来ました。<br /><br /> さあ、後少しと思った途端、雨が激しく降り始めました。<br /><br /> ポンチョを被りたいものの、雨を避けてリュックを置く場所もないし、もう見えてる町までこのまま行ってしまえと歩き続けたのですが、雨は益々激しく、町は蜃気楼のようになかなか近づけず、結局小一時間もかかってやっと町の入り口にたどり着きました。<br /><br /> すると今の今まで散々巡礼者達(特にポンチョも被らずずぶ濡れになっていた私)を嘲笑うかの様に、雨がピタッとやんで陽が差し始めました。<br /><br /> しかし時既に遅く、私は全身頭の先からつま先まで、特にカーゴパンツはビショ濡れでポケットの中まで雨が染み込んでいるようです。<br /><br /> とにかく町の中心までたどり着き、案内板に従ってインフォメーションオフィスを探しましたが、何処にもそれらしい所がありません。<br /><br /> 通りすがりの地元の人に聞いてみたのですが、よく知らないようです。<br /><br /> 考えてみれば地元の人でも、自分達の生活に関係がなければ、観光のための施設など必要はないのでしょうね。<br /> 仕方なしに、カテドラルの入場券を売っている店がありましたので、チケットを買うついでにインフォメーションオフィスの場所を聞きましたら、オフィスは今はなくて、この店で代わりをしていると言うことでしたので、市街地図とペンション等のリストを貰いました。<br /> リストで見当を付けた場所に行くと、そこはやはりバールでした。カウンターの人に部屋を尋ねると、そこがペンションのレセプションも兼ねていて、ツインルーム、シャワー付きの部屋を2泊お願いしました。<br /><br /> 部屋は一度バールを出て、同じ建物の右側の2番目の入り口から入った2階だということで、部屋の番号と鍵が三つ付いた物を渡してくれました。<br /><br /> 一つ目は、まず建物入り口の鍵、二つ目は2階のペンションの鍵、三つ目が自分の部屋の鍵となります。<br /><br /> 滞在中は外出時も鍵をレセプションに預けるのではなく、自分で持って外出しますし、チェックアウトする時は、鍵は部屋に残したままにします。<br /><br /> ということで、ペンションやオスタルの支払いは、このペンションの例の様に、ほとんど前払い方式が多いです。<br /><br /> 私は、自分の家の鍵とコンパスをキーホルダーに付けていますので、そこに追加でジャラジャラ鍵をぶら下げて外出です。<br /><br /> ずぶ濡れになった私としては、丁度日射しが強くなりましたので、オープンカフェでズボンや上着を乾かしながら、スパゲッティと赤ワインで昼食を取りました。<br /><br />写真は、洗濯物をリュックに着けて歩く巡礼者達です。

     今日はサント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダまで21?の道のりです。

     前の晩に泊まったナヘラを7時45分に出発。

     今日は曇り空で気温も低く、長い登坂や葡萄畑を歩きます。途中に村は二つしかないので、忘れずに朝食を取らなければ。

     二つ目の村でコーヒーとトーストで朝食タイム。

     巡礼者はあまり見かけませんが、巡礼者のほとんどは二人連れが多く、一人はその半分位でしょうか。

     中には洗濯物をリュックに吊るして歩いている人達もいました。
     周りは見渡す限り葡萄畑で日陰のない長い坂道。歩き始めて4時間を過ぎた頃、丘を越えた所で、遠くに目的地のサント・ドミンゴの町がやっと見えて来ました。

     さあ、後少しと思った途端、雨が激しく降り始めました。

     ポンチョを被りたいものの、雨を避けてリュックを置く場所もないし、もう見えてる町までこのまま行ってしまえと歩き続けたのですが、雨は益々激しく、町は蜃気楼のようになかなか近づけず、結局小一時間もかかってやっと町の入り口にたどり着きました。

     すると今の今まで散々巡礼者達(特にポンチョも被らずずぶ濡れになっていた私)を嘲笑うかの様に、雨がピタッとやんで陽が差し始めました。

     しかし時既に遅く、私は全身頭の先からつま先まで、特にカーゴパンツはビショ濡れでポケットの中まで雨が染み込んでいるようです。

     とにかく町の中心までたどり着き、案内板に従ってインフォメーションオフィスを探しましたが、何処にもそれらしい所がありません。

     通りすがりの地元の人に聞いてみたのですが、よく知らないようです。

     考えてみれば地元の人でも、自分達の生活に関係がなければ、観光のための施設など必要はないのでしょうね。
     仕方なしに、カテドラルの入場券を売っている店がありましたので、チケットを買うついでにインフォメーションオフィスの場所を聞きましたら、オフィスは今はなくて、この店で代わりをしていると言うことでしたので、市街地図とペンション等のリストを貰いました。
     リストで見当を付けた場所に行くと、そこはやはりバールでした。カウンターの人に部屋を尋ねると、そこがペンションのレセプションも兼ねていて、ツインルーム、シャワー付きの部屋を2泊お願いしました。

     部屋は一度バールを出て、同じ建物の右側の2番目の入り口から入った2階だということで、部屋の番号と鍵が三つ付いた物を渡してくれました。

     一つ目は、まず建物入り口の鍵、二つ目は2階のペンションの鍵、三つ目が自分の部屋の鍵となります。

     滞在中は外出時も鍵をレセプションに預けるのではなく、自分で持って外出しますし、チェックアウトする時は、鍵は部屋に残したままにします。

     ということで、ペンションやオスタルの支払いは、このペンションの例の様に、ほとんど前払い方式が多いです。

     私は、自分の家の鍵とコンパスをキーホルダーに付けていますので、そこに追加でジャラジャラ鍵をぶら下げて外出です。

     ずぶ濡れになった私としては、丁度日射しが強くなりましたので、オープンカフェでズボンや上着を乾かしながら、スパゲッティと赤ワインで昼食を取りました。

    写真は、洗濯物をリュックに着けて歩く巡礼者達です。

  •  今日は、ベロラードという村から世界遺産になっているカテドラルのあるブルゴスまで、歩けば2日間の行程をバスで一気に行ってしまうつもりでした。<br /><br /> 昨夜宿泊したペンションで朝食を取り、9時30分発のブルゴス行きのバスに乗るため9時過ぎにチェックアウトしてバス停に向かいました。<br /><br /> バス停と言っても別に表示があるわけでもなく、ただ宿の主人から教わった場所でバスを待ちます。<br /><br /> 既に2〜3人程の巡礼者がリュックを背負ったまま、不安そうな顔で待っています。<br /><br /> その内巡礼者も徐々に増え、15〜6人が9時30分発のブルゴス行きを待っていますが、30分を過ぎてもバスはまだ来ません。<br /> 私は何気なく待っていた側の肉屋のウインドウに貼ってあるポスターを見ると、そこには中世の十字軍の兵士や貴族等の仮装をした人達が写っており、今日の6月1日と2日フェスティバルと書いてありました。<br /><br /> そういえば、昨日この村に入った時、教会前の広場に無人のテントや干し草を四角に固めた物が置かれていました。<br /><br /> その時は朝市か何かかなと、気にも留めていませんでしたし、宿の主人も私が翌朝早く発つ巡礼者と思ったのかも分かりませんが、フェスティバルについては何も言っていませんでした。<br /><br /> でも、ポスターを見る限り何か中世の絵物語でも見れるのではないかと、どんなフェスティバルなのだろうと、是非とも観たくなりましたので、バスに乗るのは止めて、今日、明日とこのままフェスティバルを観ようと、宿にとって帰りました。<br /> 宿のチャイムを鳴らしたので、出てきた主人は私を見て「サプライズ!」と一言。<br /><br /> フェスティバルのため後2泊出来ないかと言いましたら、主人は喜んでO.K.と即答して宿に置いてあったプログラムを渡してくれました。<br /><br /> それによると、本日11時45分から開演とありましたので、宿で一休みして11時30分頃広場に行きましたら、既に大勢の観客で広場が埋め尽くされていました。<br /><br /> そして時間通り、まず主催者(当局のお偉いさんでしょうか)が、御多分に漏れず長々と開催の挨拶をします。<br /><br /> それがやっと終わると、司会者が次々に中世の歴史上の人物の名前を読み上げます。すると、それらしき人物に扮した役者か地元の人達が順番に登場し、教会前の舞台に勢揃いします。<br /><br /> そしてその中の国王と思われる人物が、何か宣言書のようなものを読み上げ、それが終わると教会の脇から、仮装をした子供から大人達がぞろぞろ出てきて、太鼓やら笛やら踊りやら、また馬に乗った騎士やら、ポスターにも載っていた十字軍の兵士達が長剣を何本も交差させて台のようなものを作り、その上に一人の兵士を乗せるなど、中世の絵物語のような光景が繰り広げられました。<br /><br /> 出演者は一部のプロを除いて、地元の子供から大人たちまで村人達だと思われますし、観客もほとんどが村人のようで、正に村一体となってフェスティバルを盛り上げているようでした。<br /> そのような舞台が終わりますと、国王様や大司教様や貴族や淑女の方々も、現在の村人と一緒になって、ビールやワイン片手にお喋りをしたり、中には女王様がテントでチョコレート等を売っていたりしています。<br /><br /> 初日の土曜日は夜遅くまで、延々と広場でのテント(バール、ソーセージ、陶器、アクセサリー、花等々)巡り、またお喋りなどで賑わっていました。<br /> 2日目の日曜日は、舞台は無いものの、地元の伝統的な産業の紹介や、特に子供たちが参加する陶器作り、鍛冶の実演、昔のゲーム等、大人達がワインやビールとお喋りに夢中なのに、子供たちは元気一杯に干し草の上を飛び回っていたりして楽しんでいました。<br /> とにかく、子供から大人まで、舞台に出た人も見物している人も誰彼なく楽しんでいるいる様子は、見ている私も嬉しくなってきます。<br /><br /><br />写真は、中世の絵物語のようなイベントです。

     今日は、ベロラードという村から世界遺産になっているカテドラルのあるブルゴスまで、歩けば2日間の行程をバスで一気に行ってしまうつもりでした。

     昨夜宿泊したペンションで朝食を取り、9時30分発のブルゴス行きのバスに乗るため9時過ぎにチェックアウトしてバス停に向かいました。

     バス停と言っても別に表示があるわけでもなく、ただ宿の主人から教わった場所でバスを待ちます。

     既に2〜3人程の巡礼者がリュックを背負ったまま、不安そうな顔で待っています。

     その内巡礼者も徐々に増え、15〜6人が9時30分発のブルゴス行きを待っていますが、30分を過ぎてもバスはまだ来ません。
     私は何気なく待っていた側の肉屋のウインドウに貼ってあるポスターを見ると、そこには中世の十字軍の兵士や貴族等の仮装をした人達が写っており、今日の6月1日と2日フェスティバルと書いてありました。

     そういえば、昨日この村に入った時、教会前の広場に無人のテントや干し草を四角に固めた物が置かれていました。

     その時は朝市か何かかなと、気にも留めていませんでしたし、宿の主人も私が翌朝早く発つ巡礼者と思ったのかも分かりませんが、フェスティバルについては何も言っていませんでした。

     でも、ポスターを見る限り何か中世の絵物語でも見れるのではないかと、どんなフェスティバルなのだろうと、是非とも観たくなりましたので、バスに乗るのは止めて、今日、明日とこのままフェスティバルを観ようと、宿にとって帰りました。
     宿のチャイムを鳴らしたので、出てきた主人は私を見て「サプライズ!」と一言。

     フェスティバルのため後2泊出来ないかと言いましたら、主人は喜んでO.K.と即答して宿に置いてあったプログラムを渡してくれました。

     それによると、本日11時45分から開演とありましたので、宿で一休みして11時30分頃広場に行きましたら、既に大勢の観客で広場が埋め尽くされていました。

     そして時間通り、まず主催者(当局のお偉いさんでしょうか)が、御多分に漏れず長々と開催の挨拶をします。

     それがやっと終わると、司会者が次々に中世の歴史上の人物の名前を読み上げます。すると、それらしき人物に扮した役者か地元の人達が順番に登場し、教会前の舞台に勢揃いします。

     そしてその中の国王と思われる人物が、何か宣言書のようなものを読み上げ、それが終わると教会の脇から、仮装をした子供から大人達がぞろぞろ出てきて、太鼓やら笛やら踊りやら、また馬に乗った騎士やら、ポスターにも載っていた十字軍の兵士達が長剣を何本も交差させて台のようなものを作り、その上に一人の兵士を乗せるなど、中世の絵物語のような光景が繰り広げられました。

     出演者は一部のプロを除いて、地元の子供から大人たちまで村人達だと思われますし、観客もほとんどが村人のようで、正に村一体となってフェスティバルを盛り上げているようでした。
     そのような舞台が終わりますと、国王様や大司教様や貴族や淑女の方々も、現在の村人と一緒になって、ビールやワイン片手にお喋りをしたり、中には女王様がテントでチョコレート等を売っていたりしています。

     初日の土曜日は夜遅くまで、延々と広場でのテント(バール、ソーセージ、陶器、アクセサリー、花等々)巡り、またお喋りなどで賑わっていました。
     2日目の日曜日は、舞台は無いものの、地元の伝統的な産業の紹介や、特に子供たちが参加する陶器作り、鍛冶の実演、昔のゲーム等、大人達がワインやビールとお喋りに夢中なのに、子供たちは元気一杯に干し草の上を飛び回っていたりして楽しんでいました。
     とにかく、子供から大人まで、舞台に出た人も見物している人も誰彼なく楽しんでいるいる様子は、見ている私も嬉しくなってきます。


    写真は、中世の絵物語のようなイベントです。

  •  実は今回の旅については、何分長い期間を歩く旅という初めての経験ですので、持参する衣料や携帯品には今まで以上に念を入れ、万全を期したつもりでしたが。<br /><br /> やっぱり抜けたと言いますか、二つのミスを犯してしまいました。<br /> 一つ目は、普段使用していない旅行用の小型電気シェーバーの電池が切れてしまったこと。<br /> 二つ目は、もっと重大なミスをしていたのです。<br /><br /> 私は5月中旬から7月中旬までの日程を考え、どちらかと言うと初夏から真夏のイメージを持っていましたので、防寒と言えるのはポケットに入るぐらい薄いジャンパーと雨を避けるポンチョ位しか持って行きませんでした。<br /> しかし、前にご報告したように、ピレネーは大量の残雪のため予定していたナポレオン道を行けなかったことや、ブルゲーテ(BURGUETE)で雪が降ったことなど、今年はどうも例年にない寒さで、地元の人も5年振りの異常気象だと言っていました。<br /><br /> <br /><br /> 本当に真冬並の寒さです。到底手持ちのTシャツ(3枚)と長袖シャツ1枚それにジャンパーを重ねて着ても寒くてたまりません。<br /><br /> <br /><br /> この二つのミスを救ってくれたのが中国人の経営する何でも屋さんなのです。<br /> まず一つ目の電池については、パリに到着した翌日の朝髭を剃ろうと電気シェーバーのスイッチを入れたところ、微かな音を残してピタッと止まってしまいました。<br /><br /> 早速私は予行練習の町歩きの時、JCBプラザに寄ってパリで一番大きい電気専門店を教わって行ってみましたが、電池類の品揃えは充分なのですが、私の電気シェーバーに合う電池は見つかりませんでした。<br /> さて、どうしょうかと考えましたが。待てよ丁度2ヵ月間日本を離れるのだから、日本にでは女房が許してくれない髭を伸ばす良いチャンスだから、このまま髭を伸ばしてみようかと思いました。<br /><br /> しかし、この企ては3日ほど髭を伸ばした顔を鏡で見た瞬間に、はかなく挫折をしたのです。<br /><br /> 鏡に映った顔は、ただでさえみすぼらしい顔がごま塩状態の無精髭を生やした間違いなくホームレスそのものの顔で、どう見てもヘミングウェイのような立派な髭にはなる訳がありません。<br /><br /> 仕方なしに普段使うことのない使い捨てのカミソリをパンプローナ(PAMPLONA)のデパートで買いました。<br /> 一つ目のミスは、何とか次善の策で凌げましたが、問題は防寒対策です。<br /><br /> 防寒のための衣料等は、所詮旅の途中で必要がなくなる上に荷物になりますので、破棄してもいいような安い物を探してエステージャ(ESTELLA)と言う街で探し歩きましたが、どの店も結構価格が高く手頃な物がありません。<br /><br /> 探し疲れて、街外れまで来たところ、中国語とスペイン語で店の名前が書かれているお店がありましたので、何気なく入りましたら、ニーハオと店員に言われました。<br /><br /> 店の中は衣料品からオモチャや家庭用品等、万屋の感じです。<br /><br /> うろうろしながら品物を見ていると、ありました。手頃なフリースと手袋を見つけレジに持って行きましたら、レジの横に電池が置いてありましたので、まさかと思いながら見てみると、パナソニック製で日本の物とは少し違っている気がしましたが、形と大きさが同じ様な電池がありましたので、駄目元で合わせて購入しました。<br /><br /> これが大正解。鳴りを潜めていたシェーバーが勢いよく回ったのです。<br /><br /> そう言えば、6日前の街で安い折傘を見つけたのも中国人経営のお店でした。<br /><br /> このようなスペインの田舎とも呼べる街に、日本人経営のお店は見当たりませんでしたが、中国人経営のお店が2店も見つかるとは、恐るべし中国商人。そして大いに助かりました。<br /> <br /><br />写真は、中国人経営の何でも屋です。<br />

     実は今回の旅については、何分長い期間を歩く旅という初めての経験ですので、持参する衣料や携帯品には今まで以上に念を入れ、万全を期したつもりでしたが。

     やっぱり抜けたと言いますか、二つのミスを犯してしまいました。
     一つ目は、普段使用していない旅行用の小型電気シェーバーの電池が切れてしまったこと。
     二つ目は、もっと重大なミスをしていたのです。

     私は5月中旬から7月中旬までの日程を考え、どちらかと言うと初夏から真夏のイメージを持っていましたので、防寒と言えるのはポケットに入るぐらい薄いジャンパーと雨を避けるポンチョ位しか持って行きませんでした。
     しかし、前にご報告したように、ピレネーは大量の残雪のため予定していたナポレオン道を行けなかったことや、ブルゲーテ(BURGUETE)で雪が降ったことなど、今年はどうも例年にない寒さで、地元の人も5年振りの異常気象だと言っていました。

     

     本当に真冬並の寒さです。到底手持ちのTシャツ(3枚)と長袖シャツ1枚それにジャンパーを重ねて着ても寒くてたまりません。

     

     この二つのミスを救ってくれたのが中国人の経営する何でも屋さんなのです。
     まず一つ目の電池については、パリに到着した翌日の朝髭を剃ろうと電気シェーバーのスイッチを入れたところ、微かな音を残してピタッと止まってしまいました。

     早速私は予行練習の町歩きの時、JCBプラザに寄ってパリで一番大きい電気専門店を教わって行ってみましたが、電池類の品揃えは充分なのですが、私の電気シェーバーに合う電池は見つかりませんでした。
     さて、どうしょうかと考えましたが。待てよ丁度2ヵ月間日本を離れるのだから、日本にでは女房が許してくれない髭を伸ばす良いチャンスだから、このまま髭を伸ばしてみようかと思いました。

     しかし、この企ては3日ほど髭を伸ばした顔を鏡で見た瞬間に、はかなく挫折をしたのです。

     鏡に映った顔は、ただでさえみすぼらしい顔がごま塩状態の無精髭を生やした間違いなくホームレスそのものの顔で、どう見てもヘミングウェイのような立派な髭にはなる訳がありません。

     仕方なしに普段使うことのない使い捨てのカミソリをパンプローナ(PAMPLONA)のデパートで買いました。
     一つ目のミスは、何とか次善の策で凌げましたが、問題は防寒対策です。

     防寒のための衣料等は、所詮旅の途中で必要がなくなる上に荷物になりますので、破棄してもいいような安い物を探してエステージャ(ESTELLA)と言う街で探し歩きましたが、どの店も結構価格が高く手頃な物がありません。

     探し疲れて、街外れまで来たところ、中国語とスペイン語で店の名前が書かれているお店がありましたので、何気なく入りましたら、ニーハオと店員に言われました。

     店の中は衣料品からオモチャや家庭用品等、万屋の感じです。

     うろうろしながら品物を見ていると、ありました。手頃なフリースと手袋を見つけレジに持って行きましたら、レジの横に電池が置いてありましたので、まさかと思いながら見てみると、パナソニック製で日本の物とは少し違っている気がしましたが、形と大きさが同じ様な電池がありましたので、駄目元で合わせて購入しました。

     これが大正解。鳴りを潜めていたシェーバーが勢いよく回ったのです。

     そう言えば、6日前の街で安い折傘を見つけたのも中国人経営のお店でした。

     このようなスペインの田舎とも呼べる街に、日本人経営のお店は見当たりませんでしたが、中国人経営のお店が2店も見つかるとは、恐るべし中国商人。そして大いに助かりました。
     

    写真は、中国人経営の何でも屋です。

  •  5月17日にフランスのサン・ジャン・ピエ・ドゥ・ポー(St.jean-pied-de-port)を出発してから、途中サボリながらも21日目となりました。<br /><br /> 今日は、カストロヘリス(Castrojeriz)からフローミスタ(Fromista)まで約26?と、今までの平均20?に比べ少々長い距離になりますが、いざ出発といきますか。<br /><br /> まずは朝食をオスタルで取っていたところ、テレビで天気予報をやっていましたが、たまたま居合わせた地元の人がテレビを見ながら私に語りかけるように「今年の冬は長く、寒くそして雨が多かった。今日も雨のようだ。」と言っていました。<br /><br /> 私は、前回サント・ドミンゴ(Santo Domingo)の手前で激しい雨に会いずぶ濡れになった反省から、ポンチョをジャンパーのポケットに入れ、また防寒対策として前に中国人経営の店で買ったフリースを着込んで完全防備で、朝食後8時頃出発しました。<br />カストロヘリスの村はこの時間人影は見えません。昨夜食事を取ったバールも閉まっており、昨夜は満員と表示が出ていたオスタルも空室ありと看板が出ています。宿泊人は既に出発してしまっているようです。<br /><br /> 東西に細長い村を抜け、平野を少し歩いていると、前方に長々と峠に登って行く道が見えます。<br /><br /> 歩いても歩いても峠はまだまだ先に逃げて行くような、ウンザリするほどの坂を汗をかきかき、やっとの思いで峠の頂上までたどり着きました。<br /><br /> 丁度頂上に屋根のついた休憩所がありましたので、寒さ対策で着こんでいたフリースを脱ぎ、身軽になって下りを降りきって、また平野を歩き続けます。<br /><br /> 360度人家も見えず、ただ畑と自生した雑草だけが拡がるカステージャの大地です。<br /><br /> 天気予報とは裏腹に、時々太陽が顔を出します。朝の太陽に照らし出された西に向かって長く伸びる自分の影に引っ張られるように、無言で一歩一歩前に進みます。<br /><br /> 巡礼者は皆早立ちなのでしょう、ほとんど会いませんが、時々遠くに見えたり、逆に抜かれて行きます。<br /><br /> ほとんどの巡礼者は、抜いたりするときに「ブエン カミーノ」(buen camino-良い巡礼を)と声を掛け合いますが、疲れて来ると「オーラ」(hola-ヤア位の軽い挨拶)と簡単に短くなっていきます。<br /><br /> 元気なのは自転車組です。後ろの方から話声が聞こえてきます。そして「シャーッツ」と車輪の音が聞こえてきて、「ブエン カミーノ」と元気に声を掛けてきます。答えは短く「オーラ」だけ。<br /><br /> 自転車の人達は、歩きの人達に比べて3〜4人のグループが多いようです。<br /><br /> 後で聞いたところ、自転車は故障等のトラブルがあった時の仲間の必要なのでグループが多いのではないかということでした。<br /><br /> もちろん単独行動の強者もいますが。<br /><br /> 単独での歩きは、本当に目の前の道を見つめ、ただ黙々と歩き続けます。<br /><br /> 最初の頃は、足元に虫等を見つけてますと、踏まないように避けていたものですが、この頃になると、虫等も避けようとせず、ただ歩きやすい場所に脚を踏み出すだけです。<br /> 歩き始めてかれこれ5時間、雲の様子が少し変わってきました。薄い灰色の雲なら雨の心配は少ないのですが。<br /><br /> そろそろ黒い雲が頭上にやって来そうです。<br /><br /> 目的地まで後4?程、18世紀に造られた運河に沿った道に入った所、川面にポツリポツリと雨が輪を書き始めました。<br /><br /> そらやって来たぞと、かねて用意のポンチョをジャンパーから取り出し、おもむろに頭からスッポリ被ったか被らないうちに、雨脚が速いどころか急にどしゃ降りに、同時に風も吹き始めました。それどころか、雷が鳴り出したのです。<br /><br /> 激しい雨に強風そして雷、最悪のパターンの三拍子揃い踏みの状態が、それでも20分位続いた後は、雨も小止みになり、雷の音は強風と共に遠くに遠ざかりながら鳴り続けています。<br /><br /> ポンチョのお陰でリュックと上衣はそれほど濡れずに済みましたが、やはりカーゴパンツはずぶ濡れです。<br /><br /> それでも運河を渡り、フローミスタに着き、メニューついたオステルのインターフォンを押し部屋があるか聞いたところ、<br /><br />「少し待って」という返事が返ってきました。<br /><br /> しばらくすると中から中年の男女が出て来ましたので、宿の人かと思って話し掛けましたが、どうも宿泊客だったようで、<br /><br />中には入れないと言っているようで、外出して行きました。<br /><br /> しばらくそのまま入り口の外で待っていると、道路から女性が来て、私に話し掛け、ドアを開けてくれました。<br /><br /> やはりオスタルは、少し離れたレストランの経営らしく、此処でもまた入り口の鍵と部屋の鍵を貰い、歩き始めてから6時間後ようやく今日の宿を確保出来ました。<br /><br />写真は、サンティアゴのある西に向かって伸びる人影です。

     5月17日にフランスのサン・ジャン・ピエ・ドゥ・ポー(St.jean-pied-de-port)を出発してから、途中サボリながらも21日目となりました。

     今日は、カストロヘリス(Castrojeriz)からフローミスタ(Fromista)まで約26?と、今までの平均20?に比べ少々長い距離になりますが、いざ出発といきますか。

     まずは朝食をオスタルで取っていたところ、テレビで天気予報をやっていましたが、たまたま居合わせた地元の人がテレビを見ながら私に語りかけるように「今年の冬は長く、寒くそして雨が多かった。今日も雨のようだ。」と言っていました。

     私は、前回サント・ドミンゴ(Santo Domingo)の手前で激しい雨に会いずぶ濡れになった反省から、ポンチョをジャンパーのポケットに入れ、また防寒対策として前に中国人経営の店で買ったフリースを着込んで完全防備で、朝食後8時頃出発しました。
    カストロヘリスの村はこの時間人影は見えません。昨夜食事を取ったバールも閉まっており、昨夜は満員と表示が出ていたオスタルも空室ありと看板が出ています。宿泊人は既に出発してしまっているようです。

     東西に細長い村を抜け、平野を少し歩いていると、前方に長々と峠に登って行く道が見えます。

     歩いても歩いても峠はまだまだ先に逃げて行くような、ウンザリするほどの坂を汗をかきかき、やっとの思いで峠の頂上までたどり着きました。

     丁度頂上に屋根のついた休憩所がありましたので、寒さ対策で着こんでいたフリースを脱ぎ、身軽になって下りを降りきって、また平野を歩き続けます。

     360度人家も見えず、ただ畑と自生した雑草だけが拡がるカステージャの大地です。

     天気予報とは裏腹に、時々太陽が顔を出します。朝の太陽に照らし出された西に向かって長く伸びる自分の影に引っ張られるように、無言で一歩一歩前に進みます。

     巡礼者は皆早立ちなのでしょう、ほとんど会いませんが、時々遠くに見えたり、逆に抜かれて行きます。

     ほとんどの巡礼者は、抜いたりするときに「ブエン カミーノ」(buen camino-良い巡礼を)と声を掛け合いますが、疲れて来ると「オーラ」(hola-ヤア位の軽い挨拶)と簡単に短くなっていきます。

     元気なのは自転車組です。後ろの方から話声が聞こえてきます。そして「シャーッツ」と車輪の音が聞こえてきて、「ブエン カミーノ」と元気に声を掛けてきます。答えは短く「オーラ」だけ。

     自転車の人達は、歩きの人達に比べて3〜4人のグループが多いようです。

     後で聞いたところ、自転車は故障等のトラブルがあった時の仲間の必要なのでグループが多いのではないかということでした。

     もちろん単独行動の強者もいますが。

     単独での歩きは、本当に目の前の道を見つめ、ただ黙々と歩き続けます。

     最初の頃は、足元に虫等を見つけてますと、踏まないように避けていたものですが、この頃になると、虫等も避けようとせず、ただ歩きやすい場所に脚を踏み出すだけです。
     歩き始めてかれこれ5時間、雲の様子が少し変わってきました。薄い灰色の雲なら雨の心配は少ないのですが。

     そろそろ黒い雲が頭上にやって来そうです。

     目的地まで後4?程、18世紀に造られた運河に沿った道に入った所、川面にポツリポツリと雨が輪を書き始めました。

     そらやって来たぞと、かねて用意のポンチョをジャンパーから取り出し、おもむろに頭からスッポリ被ったか被らないうちに、雨脚が速いどころか急にどしゃ降りに、同時に風も吹き始めました。それどころか、雷が鳴り出したのです。

     激しい雨に強風そして雷、最悪のパターンの三拍子揃い踏みの状態が、それでも20分位続いた後は、雨も小止みになり、雷の音は強風と共に遠くに遠ざかりながら鳴り続けています。

     ポンチョのお陰でリュックと上衣はそれほど濡れずに済みましたが、やはりカーゴパンツはずぶ濡れです。

     それでも運河を渡り、フローミスタに着き、メニューついたオステルのインターフォンを押し部屋があるか聞いたところ、

    「少し待って」という返事が返ってきました。

     しばらくすると中から中年の男女が出て来ましたので、宿の人かと思って話し掛けましたが、どうも宿泊客だったようで、

    中には入れないと言っているようで、外出して行きました。

     しばらくそのまま入り口の外で待っていると、道路から女性が来て、私に話し掛け、ドアを開けてくれました。

     やはりオスタルは、少し離れたレストランの経営らしく、此処でもまた入り口の鍵と部屋の鍵を貰い、歩き始めてから6時間後ようやく今日の宿を確保出来ました。

    写真は、サンティアゴのある西に向かって伸びる人影です。

  •  雷雨の洗礼を受けた翌日は、朝7時30分に宿を出て、天候には恵まれたものの、昨日同様カスティージャ独特の何も無い大地を、時には国道の脇に巡礼の為のセンダ(SENDA)と呼ばれる単調な巡礼路をただひたすら歩き続けました。<br /><br /> 歩き続けて5時間後、次の宿泊地カリオーン・デ・ロス・コンデス(CARRION DE LOS CONDES)に到着しました。<br /><br /> ペンションは、シャワー・トイレは共同ですが、セミダブルのベッドで一泊15ユーロという格安でした。<br /> 荷物を部屋に置いて、昼食をバールで軽く取った後、巡礼宿を兼ねているサンタマリア教会の前の広場のベンチで休んでいる日本人らしき男性がいましたので、声を掛けた所予想違わず日本人でした。<br /><br /> 結構日本人らしいと思っても、意外と韓国の人が多いのです。韓国人は比較的クリスチャンが日本より多い為かも知れませんが、多く見かけます。<br /> 久しぶりに日本語で会話ができる愉しさに時間を忘れて話し合いました。<br /><br /> 彼は赤木さんと言って、年齢も私の2歳若い65歳です。<br /><br /> 年齢が近いこともあって、自ずから話題も共通していましたし、何より私にとって巡礼に関する情報を教えて貰えるのが嬉しかったです。<br /> 赤木さんは旅立つ前に、日本カミーノサンティアゴ友の会という団体が主催する1日カミーノ体験会等で、巡礼経験者から具体的な情報を得たり、山歩き等も数回に渡って経験してきたそうです。<br /><br /> 彼は、基本的にはアルベルゲに宿泊して、1日20?を目処に歩き続けてサンティアゴまで行く綿密な計画を立てていました。<br /> 私といえば、持参している資料は前に報告した通り、「サンティアゴ巡礼へ行こう!」という本だけですし、その本には資料的には1から34の行程で通過する村の名前と距離、それと親子で歩いた旅日記と一部観光名所(私にはこちらが重要ですが)等が<br /><br />記載されていますが、地図はありません。<br /> 私はホタテ貝の目印と矢印を頼りに歩いて来たのですが、赤木さんは行程の地図だけでなくアルベルゲの位置や収容人数やペンション等の情報も載っている外国製の資料を持参していました。<br /> 初めて会った日は、午後7時からサンタマリア教会で修道女?による讃美歌が聴けるという情報を彼が持っていましたので、それを聴いてから一緒に夕食を採ることにしました。<br /> コンサートは、初めに神父さんがお話をされたのですが、何と英語でお話をされて、それを女性がスペイン語に通訳をしているのです。<br /><br /> コンサートはギターの男性の伴奏で、修道女にはどう見ても見えない女性が美しい声で讃美歌や少しポピュラー?な歌を唄っていました。<br /><br /> どうもこのコンサートは地元の人達のものではなく、あくまで巡礼者を対象としたもののようでした。<br /> 夕食は、アルベルゲに宿泊しているもう一人の日本人を加えて3人で、久しぶりに日本語が飛び交う(と言っても、我々日本人は外国人のように大声で喋り捲る訳ではなく控えめに)、楽しい食事となりました。<br /> その後も、赤木さんはほぼ予定通りに歩き続けているようで、私がズルをしてショートカットをしたり、宿泊を延長したりしながらも、これ以降何度も不思議と一緒になるのですが、その話はまた後日ご報告致します。<br /><br /><br />写真は、国道脇のセンダです。

     雷雨の洗礼を受けた翌日は、朝7時30分に宿を出て、天候には恵まれたものの、昨日同様カスティージャ独特の何も無い大地を、時には国道の脇に巡礼の為のセンダ(SENDA)と呼ばれる単調な巡礼路をただひたすら歩き続けました。

     歩き続けて5時間後、次の宿泊地カリオーン・デ・ロス・コンデス(CARRION DE LOS CONDES)に到着しました。

     ペンションは、シャワー・トイレは共同ですが、セミダブルのベッドで一泊15ユーロという格安でした。
     荷物を部屋に置いて、昼食をバールで軽く取った後、巡礼宿を兼ねているサンタマリア教会の前の広場のベンチで休んでいる日本人らしき男性がいましたので、声を掛けた所予想違わず日本人でした。

     結構日本人らしいと思っても、意外と韓国の人が多いのです。韓国人は比較的クリスチャンが日本より多い為かも知れませんが、多く見かけます。
     久しぶりに日本語で会話ができる愉しさに時間を忘れて話し合いました。

     彼は赤木さんと言って、年齢も私の2歳若い65歳です。

     年齢が近いこともあって、自ずから話題も共通していましたし、何より私にとって巡礼に関する情報を教えて貰えるのが嬉しかったです。
     赤木さんは旅立つ前に、日本カミーノサンティアゴ友の会という団体が主催する1日カミーノ体験会等で、巡礼経験者から具体的な情報を得たり、山歩き等も数回に渡って経験してきたそうです。

     彼は、基本的にはアルベルゲに宿泊して、1日20?を目処に歩き続けてサンティアゴまで行く綿密な計画を立てていました。
     私といえば、持参している資料は前に報告した通り、「サンティアゴ巡礼へ行こう!」という本だけですし、その本には資料的には1から34の行程で通過する村の名前と距離、それと親子で歩いた旅日記と一部観光名所(私にはこちらが重要ですが)等が

    記載されていますが、地図はありません。
     私はホタテ貝の目印と矢印を頼りに歩いて来たのですが、赤木さんは行程の地図だけでなくアルベルゲの位置や収容人数やペンション等の情報も載っている外国製の資料を持参していました。
     初めて会った日は、午後7時からサンタマリア教会で修道女?による讃美歌が聴けるという情報を彼が持っていましたので、それを聴いてから一緒に夕食を採ることにしました。
     コンサートは、初めに神父さんがお話をされたのですが、何と英語でお話をされて、それを女性がスペイン語に通訳をしているのです。

     コンサートはギターの男性の伴奏で、修道女にはどう見ても見えない女性が美しい声で讃美歌や少しポピュラー?な歌を唄っていました。

     どうもこのコンサートは地元の人達のものではなく、あくまで巡礼者を対象としたもののようでした。
     夕食は、アルベルゲに宿泊しているもう一人の日本人を加えて3人で、久しぶりに日本語が飛び交う(と言っても、我々日本人は外国人のように大声で喋り捲る訳ではなく控えめに)、楽しい食事となりました。
     その後も、赤木さんはほぼ予定通りに歩き続けているようで、私がズルをしてショートカットをしたり、宿泊を延長したりしながらも、これ以降何度も不思議と一緒になるのですが、その話はまた後日ご報告致します。


    写真は、国道脇のセンダです。

  •  カリオン・ロス・コンデスで赤木さんと初めて会ってから2日後サアグン(SAHAGUN)という町に入った所、道路の両脇に柵を巡らしてあります。<br /><br /> 一体何だろうと思いながら、丁度アルベルゲの向かい側にあるオスタルに宿泊をしようと思い、宿の人に柵のことを聞いたところ、明日から5日間闘牛のお祭りがあり、明日の午後7時半頃からパンプローナで有名な牛が街中を走り抜ける、牛追いがあるとの事でしたので、またまた予定を変更して明日の夜もこちらに宿泊することにしました。<br /> 夕食を取った後、どこの街でもあるその街で一番大きいマヨール(Mayor)広場でのんびりしていましたら、一昨日夕食を一緒に取った赤木さんとばったり会いました。<br /><br /> 彼は私が宿泊している目の前のアルベルゲに入っていて、やはり牛追いの話は聞いており、興味を持っていて是非見たいと言うことでしたので、明日アルベルゲをチェックアウトした後、私の泊まっているオスタルに宿泊したらどうかということになりました。<br /><br /> 赤木さんにとっては初めてのオスタル経験ですので、丁度良い機会なので一緒に泊まろう(もちろん部屋は別ですが)と話がまとまりました。<br /> 翌日の午後7時頃宿泊しているオスタルの目の前の広場に沢山の人達が集まっています。<br /><br /> 皆各々鮮やかな色の違ったユニフォームを着ています。多分サアグンの街の各地区の人達だと思いますが、楽隊を先頭にグループ毎に子供や乳母車を押した女性など老いも若きも皆一様に楽しそうにパレードして行きます。<br /><br /> パレードは広場から牛追いのため囲われた道をマヨール広場まで行進して、また逆に戻って来て、闘牛場へと向かって行きました。<br /><br /> 一群が全員去って行った後に、いよいよ牛追いが始まります。<br /><br /> 私がスマフォを構えて今か今かと待っている場所は、曲がり角近くですので遠くまで見通せません。<br /><br /> 突然十数人の若者が角から走って来たと思ったら、そのすぐ後を凄い勢いで6頭の牛が突進して来ました。<br /><br /> そして、まるで柵の外側からスマフォを構えているこちらに向かって来るような迫力です。<br /><br /> その凄い迫力で思わずシャッターを切り損ねてしまったようです。<br /> 牛はそのまま闘牛場まで行ったようです。見物人達がぞろぞろと闘牛場に向かって行きます。<br />私は赤木さんと一緒に闘牛場に行きますと、闘牛場ではパレードをしていた人達や見物客で一杯で、グランドでは若者たちが牛に素手で向かっています。<br /><br /> 牛の突進をギリギリで避ける人、牛に追いかけられて闘牛場の囲いに逃げる人等、各々の地区の人達が応援しているのでしょう、若者たちが勇気を見せる絶好の機会でもあり、また若い女性にアピールするチャンスでもあるのではないでしょうか。<br /><br /> 若い女性達が黄色い?声で応援しています。<br /> 今日は若者たちと牛の追いかけごっこみたいですが、最終日には実際のマタドールによる闘牛が行われるそうです。<br /><br /> 私達は、まだ日射しの明るい9時半頃例のメヌー・ペレグリーノで食事を採りました。<br /><br />写真は、牛追いで疾走する牛達です。

     カリオン・ロス・コンデスで赤木さんと初めて会ってから2日後サアグン(SAHAGUN)という町に入った所、道路の両脇に柵を巡らしてあります。

     一体何だろうと思いながら、丁度アルベルゲの向かい側にあるオスタルに宿泊をしようと思い、宿の人に柵のことを聞いたところ、明日から5日間闘牛のお祭りがあり、明日の午後7時半頃からパンプローナで有名な牛が街中を走り抜ける、牛追いがあるとの事でしたので、またまた予定を変更して明日の夜もこちらに宿泊することにしました。
     夕食を取った後、どこの街でもあるその街で一番大きいマヨール(Mayor)広場でのんびりしていましたら、一昨日夕食を一緒に取った赤木さんとばったり会いました。

     彼は私が宿泊している目の前のアルベルゲに入っていて、やはり牛追いの話は聞いており、興味を持っていて是非見たいと言うことでしたので、明日アルベルゲをチェックアウトした後、私の泊まっているオスタルに宿泊したらどうかということになりました。

     赤木さんにとっては初めてのオスタル経験ですので、丁度良い機会なので一緒に泊まろう(もちろん部屋は別ですが)と話がまとまりました。
     翌日の午後7時頃宿泊しているオスタルの目の前の広場に沢山の人達が集まっています。

     皆各々鮮やかな色の違ったユニフォームを着ています。多分サアグンの街の各地区の人達だと思いますが、楽隊を先頭にグループ毎に子供や乳母車を押した女性など老いも若きも皆一様に楽しそうにパレードして行きます。

     パレードは広場から牛追いのため囲われた道をマヨール広場まで行進して、また逆に戻って来て、闘牛場へと向かって行きました。

     一群が全員去って行った後に、いよいよ牛追いが始まります。

     私がスマフォを構えて今か今かと待っている場所は、曲がり角近くですので遠くまで見通せません。

     突然十数人の若者が角から走って来たと思ったら、そのすぐ後を凄い勢いで6頭の牛が突進して来ました。

     そして、まるで柵の外側からスマフォを構えているこちらに向かって来るような迫力です。

     その凄い迫力で思わずシャッターを切り損ねてしまったようです。
     牛はそのまま闘牛場まで行ったようです。見物人達がぞろぞろと闘牛場に向かって行きます。
    私は赤木さんと一緒に闘牛場に行きますと、闘牛場ではパレードをしていた人達や見物客で一杯で、グランドでは若者たちが牛に素手で向かっています。

     牛の突進をギリギリで避ける人、牛に追いかけられて闘牛場の囲いに逃げる人等、各々の地区の人達が応援しているのでしょう、若者たちが勇気を見せる絶好の機会でもあり、また若い女性にアピールするチャンスでもあるのではないでしょうか。

     若い女性達が黄色い?声で応援しています。
     今日は若者たちと牛の追いかけごっこみたいですが、最終日には実際のマタドールによる闘牛が行われるそうです。

     私達は、まだ日射しの明るい9時半頃例のメヌー・ペレグリーノで食事を採りました。

    写真は、牛追いで疾走する牛達です。

  •  サアグンで「牛追い」を赤木さんと楽しみ、また別々に歩き始めて2日後マンシージャ・デ・ラス・ムーラス(MANSILLA DE LAS  MULAS)という村に、11時45分頃到着。<br /><br /> ペンションかオスタルを捜そうと巡礼道の矢印に従って歩いていましたら、巡礼宿のオープンを待っている巡礼者達が、リュックサックを並べて順番待ちをしていました。<br /><br /> その中に赤木さんがいましたので、リュックを背負ったまま立ち話をしていたところ、順番待ちの最後尾にいた人が、私も巡礼宿に泊まると思ったのでしょう、リュックを早く俺の後ろに置けと言っています。<br /><br /> 私はその言葉に一瞬迷いましたが、赤木さんにも再会できたし、もう6月も中旬だし寒さも緩んできたことだし、いざとなればエマージェンシーシートもあることだし、巡礼宿の経験もまた良いかなと思い、リュックを最後尾の後ろに置き宿のオープンを待つことにしました。<br /> 巡礼宿が少し早めに12時半頃オープンすると、皆順番に巡礼手帳(クレデンシアル)を受付の人に渡し、各々自由に部屋とベッドを確保します。<br /><br /> ただ、ほとんどの巡礼宿では、受付の人が一人づつクレデンシアルを確認し、ベッドも指定されることが多いようです。<br /><br /> 私もとりあえず、赤木さんともう一人の日本人の人がいる部屋(2段ベッド3台の6人部屋)に入り、順番が早かったため、日本人3人が各々下段のベッドを確保できました。<br /><br /> やはり2段ベッドの上段と下段では、使い勝手の良い下段に人気があり、ここでは早い者勝ちで下段から埋まって行きます。<br /> <br /><br />ベッドが決まって荷物をほどき、しばらくしてから受付に行き宿泊料(5ユーロ)と引き換えにクレデンシャルを返してもらいます。<br /><br /> その後は早速シャワーと洗濯です。シャワーは、もちろん仕切りはありますが男女共用ですし、脱衣場等は在りませんので衣服は、各自持参した袋に入れてシャワー室内に吊り下げるようになっています。<br /><br /> 私も万一の時の用意にナイロンの袋とS字フックを用意してありましたので、何とか初めてのシャワーも周りを気にしながら気忙しく早々と済ませました。<br /><br /> 洗濯もTシャツや下着などを洗って共同の干場に干します。ここももちろん共用ですので、女性の下着なども在って目のやり場に困るぐらいです。<br /> 巡礼宿での仕事(シャワー、洗濯)が終わった人達は皆各々に、同宿の人達と歓談(ほとんどの巡礼者同士は国が違っている場合は共通語が英語になります)をしたり、食事に出たり、読書をしたりと各自自由に過ごしています。<br /><br /> <br /><br /> しばらくすると我々3人の部屋に、日本人女性2人が顔を出しました。<br /><br /> 先程到着したのでベッドを探しているところのようです。その2人は赤木さんとやはり日本サンティアゴ友の会の参加者でお互いに良く知っている間柄でした。<br /><br /> 偶然の再会でしたが、結局彼女達も他の女性だけの部屋を探したようですが、到着が遅く、男性と一緒の部屋しかないため、同じことなら、日本人の知り合いのいる我々男性3人の部屋の上段のベッドにすることにしたようでした。<br /><br /> たまたまですが、一部屋に5人もの日本人が固まったことが珍しいのか、宿の係りの人(オスピタレイロと言って、ボランティアとして期間を決めて働き、期間が終わると他のボランティアと交代する人達)からは、「ジャパニーズルーム」と呼ばれていました。<br /> 我々日本人グループ?は各自が外食や女性達は自炊などを済ませて、思い思いに過ごし、そろそろ消灯の時間です。<br /><br /> 皆さんは持参の寝袋を拡げて寝る準備をしています。<br /><br /> 私は用意してあったエマージェンシーシートを拡げてみたのですが、アルミニュウム独特の「カシャカシャ」とする音がうるさいのです。<br /><br /> これでは寝返りをする度に深夜でも音がうるさいと思うと、誰もいない山中で生き延びるために使う場合とは状況が違う(当たり前ですが)わけで、この狭い部屋で使えば他の人の迷惑になりますので、エマージェンシーシートを使うのは諦めました。<br /><br /> 幸いこの巡礼宿には毛布がありましたので、それを使用することにしました。<br /> <br /><br /> ただやはり巡礼宿は部屋でのプライバシーがありませんし、オープン(大体午後1時頃)や門限(午後10時頃)など制約が多いものですので、私にとってはやはり最低でもシャワー、トイレは共同でも部屋は個室の安宿が目安となりますが、今後も状況に応じて対応して行くつもりです。<br /><br /><br />写真は、巡礼宿で寛ぐ巡礼者達です。

     サアグンで「牛追い」を赤木さんと楽しみ、また別々に歩き始めて2日後マンシージャ・デ・ラス・ムーラス(MANSILLA DE LAS MULAS)という村に、11時45分頃到着。

     ペンションかオスタルを捜そうと巡礼道の矢印に従って歩いていましたら、巡礼宿のオープンを待っている巡礼者達が、リュックサックを並べて順番待ちをしていました。

     その中に赤木さんがいましたので、リュックを背負ったまま立ち話をしていたところ、順番待ちの最後尾にいた人が、私も巡礼宿に泊まると思ったのでしょう、リュックを早く俺の後ろに置けと言っています。

     私はその言葉に一瞬迷いましたが、赤木さんにも再会できたし、もう6月も中旬だし寒さも緩んできたことだし、いざとなればエマージェンシーシートもあることだし、巡礼宿の経験もまた良いかなと思い、リュックを最後尾の後ろに置き宿のオープンを待つことにしました。
     巡礼宿が少し早めに12時半頃オープンすると、皆順番に巡礼手帳(クレデンシアル)を受付の人に渡し、各々自由に部屋とベッドを確保します。

     ただ、ほとんどの巡礼宿では、受付の人が一人づつクレデンシアルを確認し、ベッドも指定されることが多いようです。

     私もとりあえず、赤木さんともう一人の日本人の人がいる部屋(2段ベッド3台の6人部屋)に入り、順番が早かったため、日本人3人が各々下段のベッドを確保できました。

     やはり2段ベッドの上段と下段では、使い勝手の良い下段に人気があり、ここでは早い者勝ちで下段から埋まって行きます。
     

    ベッドが決まって荷物をほどき、しばらくしてから受付に行き宿泊料(5ユーロ)と引き換えにクレデンシャルを返してもらいます。

     その後は早速シャワーと洗濯です。シャワーは、もちろん仕切りはありますが男女共用ですし、脱衣場等は在りませんので衣服は、各自持参した袋に入れてシャワー室内に吊り下げるようになっています。

     私も万一の時の用意にナイロンの袋とS字フックを用意してありましたので、何とか初めてのシャワーも周りを気にしながら気忙しく早々と済ませました。

     洗濯もTシャツや下着などを洗って共同の干場に干します。ここももちろん共用ですので、女性の下着なども在って目のやり場に困るぐらいです。
     巡礼宿での仕事(シャワー、洗濯)が終わった人達は皆各々に、同宿の人達と歓談(ほとんどの巡礼者同士は国が違っている場合は共通語が英語になります)をしたり、食事に出たり、読書をしたりと各自自由に過ごしています。

     

     しばらくすると我々3人の部屋に、日本人女性2人が顔を出しました。

     先程到着したのでベッドを探しているところのようです。その2人は赤木さんとやはり日本サンティアゴ友の会の参加者でお互いに良く知っている間柄でした。

     偶然の再会でしたが、結局彼女達も他の女性だけの部屋を探したようですが、到着が遅く、男性と一緒の部屋しかないため、同じことなら、日本人の知り合いのいる我々男性3人の部屋の上段のベッドにすることにしたようでした。

     たまたまですが、一部屋に5人もの日本人が固まったことが珍しいのか、宿の係りの人(オスピタレイロと言って、ボランティアとして期間を決めて働き、期間が終わると他のボランティアと交代する人達)からは、「ジャパニーズルーム」と呼ばれていました。
     我々日本人グループ?は各自が外食や女性達は自炊などを済ませて、思い思いに過ごし、そろそろ消灯の時間です。

     皆さんは持参の寝袋を拡げて寝る準備をしています。

     私は用意してあったエマージェンシーシートを拡げてみたのですが、アルミニュウム独特の「カシャカシャ」とする音がうるさいのです。

     これでは寝返りをする度に深夜でも音がうるさいと思うと、誰もいない山中で生き延びるために使う場合とは状況が違う(当たり前ですが)わけで、この狭い部屋で使えば他の人の迷惑になりますので、エマージェンシーシートを使うのは諦めました。

     幸いこの巡礼宿には毛布がありましたので、それを使用することにしました。
     

     ただやはり巡礼宿は部屋でのプライバシーがありませんし、オープン(大体午後1時頃)や門限(午後10時頃)など制約が多いものですので、私にとってはやはり最低でもシャワー、トイレは共同でも部屋は個室の安宿が目安となりますが、今後も状況に応じて対応して行くつもりです。


    写真は、巡礼宿で寛ぐ巡礼者達です。

  • サンティアゴまで約183?(全行程の24%)のビジャフランカ・デル・ビエルソ(VILLAFRANCA DEL BIERZO)の街で、私はそれまで何日か偶然一緒になった赤木さんと別れ、世界遺産となっている「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」から大きく外れ、世界遺産の城壁の街ルーゴ(LUGO)までバスで移動します。<br /> バスの時刻はビジャフランカのオスタルのWi-Fiを使ってスマートフォンで調べましたので、オスタルでバスの停留所とチケット販売所を教わって行ったのですが、そこは街の中心から少し離れたレストランの前でした。<br /><br /> レストランの人にチケットをどこで買うのか聞いたところ、ここでは売っていなくて市街地のマヨール広場近くのタバコ屋で売っているとのことでした。<br /><br /> またまた来た道を戻ってタバコ屋を探しチケットを頼みましたら、タバコ屋のおじさんがパソコンでA4の用紙に時間、料金それに座席まで記載されたチケットを打ち出してくれました。<br /><br /> ヨーロッパの街ではよくタバコ屋とかキオスクという街角の店でバスなどの切符を売っていることが多いのですが、パソコンで打ち出されたチケットは初めてでした。<br /> 思わぬ小さな街でデジタル化?が進んでいるかと思えば、大きな都会の鉄道駅でも自動販売機では当日分しか買えず、翌日以降の切符は混雑する窓口でしか買えないところもあります。<br /><br /> 特にスペインでは地方によって、言葉が違うように各々独自の文化があるようです。<br /> ルーゴには午後2時前に着きましたが、バスステーションのインフォメーションには市街地図しかありません。<br /><br /> 仕方なしに城壁の中の旧市街地のインフォメーションに行きましたが、2時を5分過ぎてしまったため、扉が閉められてしまっています。<br /><br /> 城壁内を歩いてみたのですがオスタルやペンションは見当たりません。<br /><br /> そこでカフェで一服することにして、年配の男性のウエイターのいるカフェでオスタルかペンションのある場所を聞いたのですが、場所と名前と値段まで教えてくれました。<br /><br /> 私はバスステーションからすぐ城壁内に入ってしまったため、気が付かなかったのですが城壁外にはいくつかのオステルなどがありました。<br /> ローマ時代の城壁が部分的に残っている街はヨーロッパ各地にかなりありますが、完全な形で街全体を囲んでいるのは、ここルーゴしかなく保存状態も良好で、欠けることなく街を360度取り囲んでいます。<br /><br /> 高さは10メートルから15メートル、長さは2.5?の規模になります。<br /> 街の正面にはローマ時代の人物の銅像がありますし、広場ではローマ時代の砦?らしき物を造り、中ではローマ時代の武器や兜等を展示してあり、外には大掛かりな投石機や水車を再現した物があり、多くの人達がローマ時代の軍人に扮しております。<br /> 彼等が投石機を移動させ始めました。<br /><br /> 何がおきるかと観客も皆投石機の周りに集まって来ました。<br /><br /> すると彼らはおもむろに投石機のネジ?を巻き始めました。そして「ガターン」と投石機が音を上げたと思ったら、投石機からバラバラと何かが飛んで来ます。<br /><br /> 子供たちが夢中になってそれを拾っています。よく見るとそれはキャラメルなのです。<br /><br /> なかなか面白いアイディアで大人も子供たちも皆楽しそうでした。<br /><br /> <br /><br /> 城壁にも登って一周したのですが、幅も広く歩き易く、散歩する人やジョギングする人もいて、格好の散歩コースになっているようです。<br /><br /> 城壁から街を見ると広場や教会を中心に古い佇まいが良く遺されているのが手に取るように分かります。<br /><br /> またローマ時代の街の規模の一例が分かり、とても興味深い経験でした。<br /> ルーゴで2日過ごした後は、またバスで一気にサリア(SARRIA)という街まで行きます。<br /><br /> サリアからは、サンティアゴ・デ・コンポステーラまで110?は、必ず一日に二ヵ所のスタンプを巡礼手帳に貰わなければ、巡礼をしたという巡礼証明書(COMPOSTELANO)を貰えません。<br /><br /> サリアから先は、ガリシア地方の名もないバスも通らないような小さな村々を巡りますので、今までのようにズルは出来ません。<br /><br /> <br /> 気を入れ直して、サリアから最後の巡礼路を歩くことにします。<br /><br />写真は、ローマ時代の投石機の実演です。<br />

    サンティアゴまで約183?(全行程の24%)のビジャフランカ・デル・ビエルソ(VILLAFRANCA DEL BIERZO)の街で、私はそれまで何日か偶然一緒になった赤木さんと別れ、世界遺産となっている「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」から大きく外れ、世界遺産の城壁の街ルーゴ(LUGO)までバスで移動します。
     バスの時刻はビジャフランカのオスタルのWi-Fiを使ってスマートフォンで調べましたので、オスタルでバスの停留所とチケット販売所を教わって行ったのですが、そこは街の中心から少し離れたレストランの前でした。

     レストランの人にチケットをどこで買うのか聞いたところ、ここでは売っていなくて市街地のマヨール広場近くのタバコ屋で売っているとのことでした。

     またまた来た道を戻ってタバコ屋を探しチケットを頼みましたら、タバコ屋のおじさんがパソコンでA4の用紙に時間、料金それに座席まで記載されたチケットを打ち出してくれました。

     ヨーロッパの街ではよくタバコ屋とかキオスクという街角の店でバスなどの切符を売っていることが多いのですが、パソコンで打ち出されたチケットは初めてでした。
     思わぬ小さな街でデジタル化?が進んでいるかと思えば、大きな都会の鉄道駅でも自動販売機では当日分しか買えず、翌日以降の切符は混雑する窓口でしか買えないところもあります。

     特にスペインでは地方によって、言葉が違うように各々独自の文化があるようです。
     ルーゴには午後2時前に着きましたが、バスステーションのインフォメーションには市街地図しかありません。

     仕方なしに城壁の中の旧市街地のインフォメーションに行きましたが、2時を5分過ぎてしまったため、扉が閉められてしまっています。

     城壁内を歩いてみたのですがオスタルやペンションは見当たりません。

     そこでカフェで一服することにして、年配の男性のウエイターのいるカフェでオスタルかペンションのある場所を聞いたのですが、場所と名前と値段まで教えてくれました。

     私はバスステーションからすぐ城壁内に入ってしまったため、気が付かなかったのですが城壁外にはいくつかのオステルなどがありました。
     ローマ時代の城壁が部分的に残っている街はヨーロッパ各地にかなりありますが、完全な形で街全体を囲んでいるのは、ここルーゴしかなく保存状態も良好で、欠けることなく街を360度取り囲んでいます。

     高さは10メートルから15メートル、長さは2.5?の規模になります。
     街の正面にはローマ時代の人物の銅像がありますし、広場ではローマ時代の砦?らしき物を造り、中ではローマ時代の武器や兜等を展示してあり、外には大掛かりな投石機や水車を再現した物があり、多くの人達がローマ時代の軍人に扮しております。
     彼等が投石機を移動させ始めました。

     何がおきるかと観客も皆投石機の周りに集まって来ました。

     すると彼らはおもむろに投石機のネジ?を巻き始めました。そして「ガターン」と投石機が音を上げたと思ったら、投石機からバラバラと何かが飛んで来ます。

     子供たちが夢中になってそれを拾っています。よく見るとそれはキャラメルなのです。

     なかなか面白いアイディアで大人も子供たちも皆楽しそうでした。

     

     城壁にも登って一周したのですが、幅も広く歩き易く、散歩する人やジョギングする人もいて、格好の散歩コースになっているようです。

     城壁から街を見ると広場や教会を中心に古い佇まいが良く遺されているのが手に取るように分かります。

     またローマ時代の街の規模の一例が分かり、とても興味深い経験でした。
     ルーゴで2日過ごした後は、またバスで一気にサリア(SARRIA)という街まで行きます。

     サリアからは、サンティアゴ・デ・コンポステーラまで110?は、必ず一日に二ヵ所のスタンプを巡礼手帳に貰わなければ、巡礼をしたという巡礼証明書(COMPOSTELANO)を貰えません。

     サリアから先は、ガリシア地方の名もないバスも通らないような小さな村々を巡りますので、今までのようにズルは出来ません。

     
     気を入れ直して、サリアから最後の巡礼路を歩くことにします。

    写真は、ローマ時代の投石機の実演です。

  •  城壁の街ルーゴからサリアにバスで着いた日は、翌日からのズルのできない歩きに備えて、先ずは休息ということで、オスタルに昼過ぎに入り夜は例のメヌーペレグリーノで準備万端?。<br /><br /> 明日は早立ちの予定ですので早めに就眠しました。<br /> サリアもサンティアゴも含まれるガリシア地方は、昔住んでいたケルト人の伝統が色濃く残っており、ケルト時代から使われている食物をネズミの侵入から防ぎ、湿気からも守っている、オーレオ(HORREO)という日本の校倉造と同じような高床式倉庫もありますし、気候も緑が多くなり森林などもあり、日本人にはどこか馴染みがあるような感じがします。<br /> とにかく、サンティアゴには六日目の正午(巡礼者のためのミサ)までにカテドラルに辿り着くことを目標に、ただ一目散に歩け歩け。<br /><br /> サリアからの一日目、ダムを建設するために村の教会ごと丘の上に引っ越しをしたポルトマリン(PORTOMARIN)というところまで24.7?を5時間20分かけてたどり着きペンションに宿泊しました。<br /> 二日目は、起伏のある25?を6時間45分かけてパラスデルレイ(PALAS DEL REY)という村に着きまして、夕食を前に三度程一緒に食事をした吉田さんという方と会いましたのでご一緒することになりました。<br /> 三日目は、距離は15?と短いのですが、ガリシア名物のタコ料理で有名な店があるということですので、B級グルメ?の私としては是非食べたい。その村はメリデ(MELIDE)と言います。<br /><br /> メリデに着いてまず、宿よりも先に目指す有名店に飛び込み、プルポ・ア・フェイラ(PULUPO A FEIRA・タコのパプリカがけ)を生ビールと一緒にかけ込みました。<br /><br /> 目の前の調理場では、料理人の叔母さんが大きなタコを大きな鍋に入れて、頃合いを見て鍋から一匹づつ取り出しては、大きな鋏でチョキチョキタコを切り、丸い木のお皿に乗っけ、水分を切った後パプリカと岩塩をかけ最後にオリーブオイルを掛けて出来上がり。<br /><br /> それだけの料理なのですが、その茹で具合といい軟らかさといい、ビールでもワインでもつまみにはもってこいの物でした。<br /> さてお腹も満足したので、オスタルでも探そうかと歩き始めましたら、赤木さんが外人と立ち話をしていました。私が声を掛けると、話が終わったらしく外人が別れて行きました。<br /><br /> 赤木さんもメリデで泊まると言うことで、丁度目の前の巡礼宿の看板に(NEW)とあり見るからに綺麗そうでしたので、ここに私も泊まることにしました。<br /><br /> <br /><br /> 次の四日目のサルセーダ(SALCEDA)という村には個室もあるこじんまりした巡礼宿一軒しかありません。<br /><br /> 私は最後のツインの部屋が取れましたが、かなり遅くなってから、ドミトリーも満員でツインの部屋に一人だけの宿泊者は私だけだったようで、後から来た人の相部屋を頼まれました。<br /><br /> 男の人はドイツ人で、かなり遅く着いたということはかなり遠距離を歩いて来たのか、疲れているのでしょう直ぐにベッドに入って寝てしまいました。<br /><br /> ここでも赤木さんはドミトリーに泊まっていましたので、夕食を一緒にとりました。<br /> 五日目は、いよいよサンティアゴまでの最後の宿泊地ラバコージャ(LAVACOLLA)まで22?を頑張ります。<br /><br /> サルセーダを7時30分に出発して12時に到着しました。<br /><br /> ここでも赤木さんと会えましたので、今日は二人でオスタルに泊まり。<br /><br /> 明日最後の歩きは、距離も10?と短いので二人一緒にサンティアゴまで行こうということになりました。<br /><br /> さあ、明日はサンティアゴ・デ・コンポステーラだ。<br /><br />写真は、タコを大鍋に入れて料理する女性です。

     城壁の街ルーゴからサリアにバスで着いた日は、翌日からのズルのできない歩きに備えて、先ずは休息ということで、オスタルに昼過ぎに入り夜は例のメヌーペレグリーノで準備万端?。

     明日は早立ちの予定ですので早めに就眠しました。
     サリアもサンティアゴも含まれるガリシア地方は、昔住んでいたケルト人の伝統が色濃く残っており、ケルト時代から使われている食物をネズミの侵入から防ぎ、湿気からも守っている、オーレオ(HORREO)という日本の校倉造と同じような高床式倉庫もありますし、気候も緑が多くなり森林などもあり、日本人にはどこか馴染みがあるような感じがします。
     とにかく、サンティアゴには六日目の正午(巡礼者のためのミサ)までにカテドラルに辿り着くことを目標に、ただ一目散に歩け歩け。

     サリアからの一日目、ダムを建設するために村の教会ごと丘の上に引っ越しをしたポルトマリン(PORTOMARIN)というところまで24.7?を5時間20分かけてたどり着きペンションに宿泊しました。
     二日目は、起伏のある25?を6時間45分かけてパラスデルレイ(PALAS DEL REY)という村に着きまして、夕食を前に三度程一緒に食事をした吉田さんという方と会いましたのでご一緒することになりました。
     三日目は、距離は15?と短いのですが、ガリシア名物のタコ料理で有名な店があるということですので、B級グルメ?の私としては是非食べたい。その村はメリデ(MELIDE)と言います。

     メリデに着いてまず、宿よりも先に目指す有名店に飛び込み、プルポ・ア・フェイラ(PULUPO A FEIRA・タコのパプリカがけ)を生ビールと一緒にかけ込みました。

     目の前の調理場では、料理人の叔母さんが大きなタコを大きな鍋に入れて、頃合いを見て鍋から一匹づつ取り出しては、大きな鋏でチョキチョキタコを切り、丸い木のお皿に乗っけ、水分を切った後パプリカと岩塩をかけ最後にオリーブオイルを掛けて出来上がり。

     それだけの料理なのですが、その茹で具合といい軟らかさといい、ビールでもワインでもつまみにはもってこいの物でした。
     さてお腹も満足したので、オスタルでも探そうかと歩き始めましたら、赤木さんが外人と立ち話をしていました。私が声を掛けると、話が終わったらしく外人が別れて行きました。

     赤木さんもメリデで泊まると言うことで、丁度目の前の巡礼宿の看板に(NEW)とあり見るからに綺麗そうでしたので、ここに私も泊まることにしました。

     

     次の四日目のサルセーダ(SALCEDA)という村には個室もあるこじんまりした巡礼宿一軒しかありません。

     私は最後のツインの部屋が取れましたが、かなり遅くなってから、ドミトリーも満員でツインの部屋に一人だけの宿泊者は私だけだったようで、後から来た人の相部屋を頼まれました。

     男の人はドイツ人で、かなり遅く着いたということはかなり遠距離を歩いて来たのか、疲れているのでしょう直ぐにベッドに入って寝てしまいました。

     ここでも赤木さんはドミトリーに泊まっていましたので、夕食を一緒にとりました。
     五日目は、いよいよサンティアゴまでの最後の宿泊地ラバコージャ(LAVACOLLA)まで22?を頑張ります。

     サルセーダを7時30分に出発して12時に到着しました。

     ここでも赤木さんと会えましたので、今日は二人でオスタルに泊まり。

     明日最後の歩きは、距離も10?と短いので二人一緒にサンティアゴまで行こうということになりました。

     さあ、明日はサンティアゴ・デ・コンポステーラだ。

    写真は、タコを大鍋に入れて料理する女性です。

  •  さあ、サンティアゴだと意気込んでラバコージャを7時に出発したものの、赤木さんも私も外国人のように、特に話をしながら歩く訳でもなく、途中休憩も取らず2時間半後の9時30分にはあっけなく二人揃ってカテドラルの前にいました。<br /> 周りでは、巡礼仲間と再会をした外国人の巡礼者達が、お互いの無事到着と巡礼を成し遂げた喜びを、熱い抱擁を交わすなど体一杯に現わしています。<br /> ふと巡礼者達の脇を見ると、何度か会った日本人女性二人組(山田さんと鈴木さん)が、中に巡礼証明書を容れた丸い筒を手に、満面の笑みで二人で話をしていました。<br /><br /> 我々に気が付いて、お互いに再会とサンティアゴ到着を喜び合いましたが、外人のように熱い抱擁をするでもなく、ただ立ち話をして別れました。<br /> 巡礼事務所には、既にかなりの人達が証明書を貰うために並んでいます。<br /><br /> 順番が来て係りの人から、提出した巡礼手帳を見ながら、2〜3質問をされた後に無事証明書を発行して貰いました。<br /><br /> 巡礼者は獲得した巡礼証明書を如何にも大事そうに、それを容れる筒を1ユーロ出して入れて貰っています。<br /><br /> 私は筒を買うか迷いましたが、証明書を発行してくれたお礼?として、やはり筒に入れて貰いました。<br /> 巡礼事務所を出ると、またバッタリ吉田さんと会いました。彼は一日前に到着して、オスタルに泊まり今日チェックアウトをするということでしたので、彼の宿泊しているオスタルに一緒に行きました。<br /><br /> そこで私と赤木さんは各々2泊を予約しました。<br /><br /> 取り敢えずチエックインには時間が早いものですから、リュックをオスタルに預け、カテドラルに再度向かいました。<br /> カテドラルでは午前中でしたが、今日は日曜日でしたので、巡礼者のためのミサではなく、地元の人達のためのミサが始まっていました。<br /><br /> 正面の入口の前には巡礼者達が大勢いましたが、警備の人に入れさせて貰えません。<br /><br /> 私達はカテドラルに付随している記念品売場に入り、ぶらぶら商品を見ながら奥に行くと扉がありましたので、開けてみるとそこはカテドラル内でしたので、そのまま内に入り、地元の人達(中にはやはり巡礼者達もかなりいましたが)に混じってミサを聴いていました。<br /><br /> このミサはかなり大掛かりのもので、聖歌隊が讃美歌を歌い、パイプオルガンの音、神父様の説教の声などがカテドラル内にこだましています。<br /><br /> そしてミサの最後に、昔巡礼者達の臭いを消すために焚かれた大香枦(BOTAFUMEIRO)が天井高く振り上げられてミサは終わりました。<br /> 私達は午後の巡礼者達のためのミサには出ずに、一度オスタルに戻り、預けてあったリュックを部屋に運び、荷をほどいた後、またサンティアゴの街を歩いてみました。<br /><br /> <br /><br /> 午後の巡礼者のためのミサが終わったのでしょう、巡礼者達がカテドラルから出てきて、皆思い思いに、広場に座ってカテドラルを見ている人や、街歩きに向かう人など様々です。<br /> 巡礼という非日常を送った人達は、また各々の日常生活に戻って行くといわれていますが、私は、この巡礼という行為も含めて、今現在を生きていること全てが日常のことだと思っています。<br /><br /> もちろん、この巡礼という行為を続けた日常は終わりますが、また新たな日常が始まります。<br /> 今目の前にあるカテドラルは、宇宙へ抜けるように碧い碧い空に、くっきりと浮かび上がっています。<br /> この空を見た時に私は、何か今回の巡礼の旅の意味は、この抜けるような碧い空を幸運にも見ることが出来たということで充分ではないかという気がして、カテドラル前の広場に座って飽かず眺めていました。<br /><br />写真は、旅の目的地のサンティアゴ大聖堂です。

     さあ、サンティアゴだと意気込んでラバコージャを7時に出発したものの、赤木さんも私も外国人のように、特に話をしながら歩く訳でもなく、途中休憩も取らず2時間半後の9時30分にはあっけなく二人揃ってカテドラルの前にいました。
     周りでは、巡礼仲間と再会をした外国人の巡礼者達が、お互いの無事到着と巡礼を成し遂げた喜びを、熱い抱擁を交わすなど体一杯に現わしています。
     ふと巡礼者達の脇を見ると、何度か会った日本人女性二人組(山田さんと鈴木さん)が、中に巡礼証明書を容れた丸い筒を手に、満面の笑みで二人で話をしていました。

     我々に気が付いて、お互いに再会とサンティアゴ到着を喜び合いましたが、外人のように熱い抱擁をするでもなく、ただ立ち話をして別れました。
     巡礼事務所には、既にかなりの人達が証明書を貰うために並んでいます。

     順番が来て係りの人から、提出した巡礼手帳を見ながら、2〜3質問をされた後に無事証明書を発行して貰いました。

     巡礼者は獲得した巡礼証明書を如何にも大事そうに、それを容れる筒を1ユーロ出して入れて貰っています。

     私は筒を買うか迷いましたが、証明書を発行してくれたお礼?として、やはり筒に入れて貰いました。
     巡礼事務所を出ると、またバッタリ吉田さんと会いました。彼は一日前に到着して、オスタルに泊まり今日チェックアウトをするということでしたので、彼の宿泊しているオスタルに一緒に行きました。

     そこで私と赤木さんは各々2泊を予約しました。

     取り敢えずチエックインには時間が早いものですから、リュックをオスタルに預け、カテドラルに再度向かいました。
     カテドラルでは午前中でしたが、今日は日曜日でしたので、巡礼者のためのミサではなく、地元の人達のためのミサが始まっていました。

     正面の入口の前には巡礼者達が大勢いましたが、警備の人に入れさせて貰えません。

     私達はカテドラルに付随している記念品売場に入り、ぶらぶら商品を見ながら奥に行くと扉がありましたので、開けてみるとそこはカテドラル内でしたので、そのまま内に入り、地元の人達(中にはやはり巡礼者達もかなりいましたが)に混じってミサを聴いていました。

     このミサはかなり大掛かりのもので、聖歌隊が讃美歌を歌い、パイプオルガンの音、神父様の説教の声などがカテドラル内にこだましています。

     そしてミサの最後に、昔巡礼者達の臭いを消すために焚かれた大香枦(BOTAFUMEIRO)が天井高く振り上げられてミサは終わりました。
     私達は午後の巡礼者達のためのミサには出ずに、一度オスタルに戻り、預けてあったリュックを部屋に運び、荷をほどいた後、またサンティアゴの街を歩いてみました。

     

     午後の巡礼者のためのミサが終わったのでしょう、巡礼者達がカテドラルから出てきて、皆思い思いに、広場に座ってカテドラルを見ている人や、街歩きに向かう人など様々です。
     巡礼という非日常を送った人達は、また各々の日常生活に戻って行くといわれていますが、私は、この巡礼という行為も含めて、今現在を生きていること全てが日常のことだと思っています。

     もちろん、この巡礼という行為を続けた日常は終わりますが、また新たな日常が始まります。
     今目の前にあるカテドラルは、宇宙へ抜けるように碧い碧い空に、くっきりと浮かび上がっています。
     この空を見た時に私は、何か今回の巡礼の旅の意味は、この抜けるような碧い空を幸運にも見ることが出来たということで充分ではないかという気がして、カテドラル前の広場に座って飽かず眺めていました。

    写真は、旅の目的地のサンティアゴ大聖堂です。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • 万歩計さん 2018/01/04 00:51:42
    続きです
    すみません、間違って途中で投稿のボタンを押してしまいました。
    質問の続きです。
    ①お勧めのハイライトコースは
     日程の関係で歩くのは12日くらいと考えています。お勧めの場所はどのあたりでしょうか?
     現在考えているのはカスティージャのメセタ台地(Hontanas~Carrion de los Condes 65km)、フォンセバドン峠、鉄の十字架あたり(Astorga~Pon ferrada 55km)、ガリシアのケルト文化の跡(O Cebreiro ~Sarria 45km)です。巡礼証明書取得にはこだわっていませんし、起点と終点はすでに旅行で訪れています。
    ②荷物
     寝袋を持っていかれなかったようですが絶対必要なものは何でしょうか。持っていかれたリュックはどれくらいの大きさでしたか。
    ③宿
     寝袋がないとアルベルゲは無理でしょうか。その場合安いペンションはアルベルゲの近くですぐ見つかるでしょうか。いくらくらいでしょうか。
    ③その他
     WiFi、クレジットカード、キャッシュ交換機は使えるでしょうか

    これからもお尋ねしたいことが出てきたらよろしくお願いします。
  • 万歩計さん 2018/01/04 00:27:56
    ぴったりの旅行記に出会いました
    eisukeさん

     はじめまして。万歩計と申します。
     スペイン巡礼の道を歩こうとかねがね思っておりました。年齢的にも今年あたりがラストチャンスかなと思い昨年から「聖地巡礼ー日本カミーノ・デ・サンチャゴ友の会編」で計画を練る一方、4トラ旅行記をチェックしているうちにeisukeさんの旅行記に出会い、まさに小生の考えているケースに非常に近いと思い、挨拶がてら書き込ませていただきました。
     近いというのは
    ①年齢
     今年67歳になる年金生活者です。旅行されたのが67歳の時のようですね。
    ②旅行時期
     小生は5月の連休明けから
    ③バス等の利用
     ハイライトコースのみを歩いて途中は適当にバス等を使う。土地の風習やできれば祭りなども出会い、途中で世界遺産等の観光もしたい。
    ④荷物は少なく
     なるべく身軽で歩きたい
    ⑤その他
     旅行の時くらいひげを伸ばしたい(家ではカミサンが許してくれません(笑))

    まだ、ざっと読ませていただいただけですがとりあえず以下の点をご教示いただければ幸いです。
    ①お勧めのハイライトコースは?
     日程の関係で歩くのはせいぜい12日間程度と考えています。現在はめs

eisukeさんのトラベラーページ

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