2015/04/12 - 2015/04/12
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Wind99さん
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東海道五十三次で品川宿の2番目、川崎宿を歩いてみた。
川崎駅は、たまに行く所であるが、旧東海道の道は初めて通ったので、どこも新鮮で楽しかった。
基点は、川崎駅の1つ隣の八丁畷駅とした。そこから旧東海道を上り、多摩川まで歩いた。今まで知らなかった川崎宿の歴史が分かり、当時に思いを馳せた。
また戦争時の川崎空襲で、一体は焼け野原となり歴史的建造物等はすっかりなくなっていた事や、天候不良で多摩川で足止めになると、江戸時代の助郷制度のため、借り出された人馬も農村に戻れず、疲弊していった事を知った。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 徒歩
-
京急電鉄、八丁畷駅。
今日はここを基点とする。 -
駅のすぐ横に「八丁畷の由来と人骨」の説明書きと慰霊塔があった。
八丁(870m)の畷(道が田畑の中をまっすぐのびた様)があったことに由来するという。
戦後、江戸時代の人骨が10数体出て、昭和9年に、地元と川崎市とで、それらの人々のため慰霊塔を建てた。 -
駅近くの線路沿いに、松尾芭蕉の句碑があった。
1694年(晩年)江戸に住んでいた芭蕉は、子の治郎兵衛と共に長崎へ旅立つ。芭蕉との別れを惜しむ江戸の門人の利牛、野坡、袋水は多摩川を渡り、川崎宿まで見送りにきて八丁畷の榎だんごという店で最後の別れをかわした。
この時、芭蕉が詠んだ句が「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」。
川崎でも芭蕉の句碑は多くあるが、実際に句が読まれたところにあるのは珍しい。 -
川崎宿京入口はこの辺りであった。
史跡東海道川崎宿 の案内板と、その隣に模写の関札が掲げられていた。
江戸後期、人口は770戸、3,100人あまり。
関札は、宿場に泊まる大名の名前が掲げられていた。この関札は「加藤遠江守宿」と書かれている。 -
歩く道中、数箇所にこの川崎宿の案内板があったが、旧東海道を歩かなければ、見掛けなかったため、今までこの川崎に、川崎宿の歴史がこうもあることを、ほとんどは知らなかった。
-
小土呂橋の親柱。
この通りに新川堀と呼ばれる幅5mの用水があった。
東海道と交わるこ場所は「こどろばし」と呼ばれた。昭和の頃の親柱をここに移設したl。 -
旧東海道から、仲見世通り商店街に左折するとすぐに、大黒天が祀られている善光寺関東別院がある。
ここは川崎駅東口駅前にあたり、ここだけは知っていたが、以前と違い、この大黒天のまわりは、格子に囲われ扉にも鍵が掛けられていた。
説明書きには開運 水かけ 銭洗 大黒天と書いてあったが、中には入れない状況だった。(写真は格子の扉の上から撮影) -
旧東海道に戻り、川崎信用金庫本店の角に、佐藤惣之助生誕の地の像があった。
明治〜昭和の詩人だそうだ。 生家は川崎宿の上本陣佐藤家。 -
平成16年の「旧橘樹郡役所跡記念碑」上部は擦れてよく読めない。
明治の頃、この辺りは郡役所が置かれていたが、大正13年、川崎に市制が施行された。
大正15年には郡役所は廃止された。昨年(2014)川崎市は市制90周年であった。 -
向かいのビルの窓辺に「佐藤本陣跡地」の案内板を見つけた。
これは室内にあり、ガラス越しに見るようになっており、なかなか見つけることができなかった。
川崎宿が最も栄えた頃には、京都に近い方から、上(佐藤本陣)、中(惣兵衛本陣)、下(田中本陣)の 三つの本陣があったそうだ。
佐藤本陣は、十四代将軍徳川家茂も京都に上がる旅中に宿泊したと言われている。 -
砂子交差点の現在の旧東海道。いさご通りとなっていた。
東海道川崎宿は元和9年(1623)、他の宿より遅れて宿駅となったそうだ。 -
「川崎宿と明治維新」明治5年鉄道が開通し、宿場時代は終わった。
「中の本陣」佐藤、田中本陣の中間に位置する中の本陣と呼ばれたが、江戸後期廃業した。
「助郷会所」助郷制で近隣農村より徴用された人馬は、農村の労働負担となり、窮乏を招いた。 -
民営の砂子資料館。そのためか、土日は休館で入れなかった。
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史跡東海道川崎舎 宗三寺
奥に見える本堂は改装工事中。
寺内には、かつて宿での賑わいの中で働いた飯盛り女を供養する石造物が今に残る。 -
川崎宿交流館。
2013年10月に開館した新しい4F建ての施設。
無料の休憩所、展示館だ。
ここの存在は、今回まで知らなかった。 -
河崎万年屋 奈良茶飯 の但し書き。
川崎宿交流館に当時の絵が大きく張り出されていた。
川崎宿で最も繁盛した万年屋の絵図だ。 -
展示物を見ていると、川崎ゆかりの人物欄で、知っていたのは、岡本太郎、かな子と坂本九だった。
坂本九が川崎出身とは知らなかった。
(年表を見ると30年前に、43歳の若さで日航機墜落により、事故死していた) -
この写真は前にも見た記憶があった。
明治末頃の東海道、八丁畷付近の光景。 -
歌川広重による浮世絵木版画の連作「東海道五十三次」の川崎宿の浮世絵。
多摩川を六郷渡しで川崎へ入った場面だ。 -
慶長5年(1600年)に徳川家康が六郷大橋を架けさせ、六郷大橋は千住大橋、両国橋とともに江戸の三大橋とされた。
多摩川はたびたび洪水で氾濫し、橋も流されたという。
1688年の洪水以後、橋は再建されず、かわりに六郷の渡しが設けられた。 -
田中本陣と休愚
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R409(府中街道)を渡ると、川崎稲荷社があった。
八代将軍徳川吉宗が紀州から江戸城入りの際、この稲荷社地で休息したと伝えられている。 -
六郷の渡しと旅籠街。
家康が架けた六郷大橋は洪水で流され、以後、実に200年の間、渡し舟の時代が続く。舟をおりて川崎宿に入ると、街道筋は賑かな旅籠街。なかでも万年屋とその奈良茶飯は有名だった。 -
多摩川へ到達した。
上流側を望む。 -
現在の多摩川に掛かる六郷橋。
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多摩川下流側の風景。「厄除川崎大師」の石灯籠。
また「長十郎梨のふるさと」の説明書きもあった。 -
多摩川でUターンし、第一京浜を進むと川崎市史による看板があった真福寺に寄って見た。
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門内に庚申塔があった。これは1665年に建てられた阿弥陀如来立像だ。
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さらに第一京浜を進むと稲毛神社がある。川崎で最も大きい神社だ。
御神木大銀杏の樹齢が1千年と推定される。江戸時代でも山王さまの大イチョウとして知られていた。
S61年、このイチョウの周囲に十二支のブロンズを置き、十二支めぐりを整備したという。 -
本殿。
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小土呂橋遺構。
先の小土呂橋に実際に掛かっていた石橋。
その銘文から寛保2年(1742)に製作された貴重なもの。 -
川崎は音楽の街らしい。
いつも複数のアーティストが演奏している。
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